いつか、巡礼の地で(6)
2013年 6月~7月
直央 長野、そして巡礼の地へ
成し遂げた。ついに―。
特選の通知を受けた瞬間、一点に集結していた神経が解けるように一気に力が抜けていった。数年前、葉月のもとを訪れ、天日展で入選することを夢見てきた。その夢を、ついに叶えたのだ。
向かい合う老画家は、ずれた眼鏡の位置を直した。雨の止んだひんやりとした外気が縁側から居間まで流れ込む。秋の個展を終えたら高松に戻ることを告げると、葉月は寂しげな表情を浮かべた。
「君がいなくなるのは寂しいなぁ。このまま京都にいればいい。サークルの仲間たちもそう言うだろう。」
「嬉しいですけど、いつかは故郷に戻るつもりでしたから。それに、母もその方が喜ぶので。」
「お母さんとの関係は修復できたのかい?」
「まだ、完全にではありませんけどね。前に腹を割って話ができたんです。」
特選を果たし、長らく連絡を取っていなかった母から電話があった。彼女は泣いて喜んでいた。そして、小さな声で打ち明けた。
いつの頃から息子との向き合い方がわからなくなってしまったと。父とは違い、母は世間一般的な進路を選び、幸せな人生を歩んでほしかったのだと言った。
父が亡くなり、美大への進学を叶えることができず、深い喪失と責任を感じながら、望んでいた進路に心の奥底では安堵していた。次第にそれを口実にし、本心で絵を辞めることを望んでいた。描く姿を見せまいと振る舞う息子が、本当にその光を失っても蓋をし続けてきたと話した。
直央、ごめんなさい、母は震える声で何度も言った。その言葉に、胸の内に残されていた礫が跡形もなく消えていった。俺は息を深く吸い込んでから、ごめん、と呟いた。未熟で身勝手だった自分をどうか許してほしい、そして高松に戻ったら必ず連絡すると、そう伝えた。
「そうかい。母親と言っても同じ人だ。人は誰しも独善的で、それでいて脆い。」
「本当にそうですね。」
「個展のテーマはどうするんだい?」
「四国で遍路をしながら、風景を描いていこうと思ってるんです。」
「それはいい。この機会に旅に出るのもいいだろう。それなら、少し遠いが、軽井沢にいる谷崎祐一君に会ってくるといい。彼は藝大時代からの旧友なんだが、君のことを話したら、興味を持っていたよ。」
「信州に魅せられて移り住んだと言っていた方ですか?」
「そう。悠々自適に暮らしていることだろう。きっと喜ぶよ。」
「それは是非お会いしたいです。」
「うむ、伝えておこう。」
「先生、改めて今までありがとうございました。感謝してもしきれません。」
「なに、気が早いな。まだしばらくはいるだろう。それにしても、君の作ってくれる美味しい食事がいただけなくなるのは残念だね。」
そう言いながら、葉月は寂しさを隠すように明るく言った。つられて寂しさが込み上げながら、俺も笑い返した。
高原教会を過ぎ、別荘が並ぶ林道を走った。葉月から聞いていた住所を確認しながら進み、緑色の屋根をした洋風の平屋の前に車を停めた。家から一人の老人が顔を出し、頭を下げた。小さな体を杖で支え、白髪を後ろに流し、ふさふさとした白い眉の下でつぶらな瞳を覗かせている。その姿は仙人のようだった。
暖炉の前には赤を基調としたペルシャ絨毯が敷かれ、ソファに腰を下ろす谷崎の背後には巨大なキャンバスが飾られていた。朝焼けに包まれた砂漠を歩く一頭のラクダが、オアシスの遺跡を目指している。静かな祈りのような絵画に思わず見入っていると、谷崎は微笑んだ。
「トルファンの朝焼けだよ。ここの景色は素晴らしい。いつか君も行くといい。」
「シルクロードですね。」
「わたしがテーマとする芸術の中核は異国の旅路にある。」
「素晴らしいです。感動いたしました。」
「ありがとう。高山君のことはかねがね葉月から聞いておったよ。天日展、特選おめでとう。」
「ありがとうございます。突然来て申し訳ありません。」
「いや、いいんだよ。一人で時間を持て余しているだけだからね。最近は体調も優れなくて制作も思うように進まない。こうして若い方と話ができて嬉しい限りだ。」
「それは良かったです。」
ティーカップに注がれた紅茶を啜り、谷崎はゆったりと話しはじめた。
「それにしても、葉月が弟子を取ったと聞いたときは驚いたな。彼は弟子を取らないで有名だったからね。」
「はい、わたしもそう聞いていたんですが、無理を言ったんです。そしたら受け入れてくださった。本当に感謝しています。」
「君の人柄と才能が葉月に響いたんだろうね。」
「そんなことはありません。でも、あの時、受け入れてもらえなかったら今頃どうなっていたか、わかりません。」
持っていたティーカップに視線を落とし、呟いた。
「君も苦労したんだね。今日はここの自然のなかでゆっくりと過ごすといい。うちに泊まっていきなさい。」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます。」
頭を下げると、谷崎は食卓に置いてあった年代物のワインボトルを手に取り、一杯やろうと言って子供のような笑顔を見せた。
翌日、谷崎の家を後にし、県道を抜けていった。車を走らせながら、ふと、このまま佐久方面に行けば八ヶ岳があることを思い出した。その先に行くと山梨県に入る。
絵梨はどうしているだろうか。
数年前のおぼろげな記憶の輪郭が脳裏に浮かぶ。連絡が絶えたのはその頃だった。ふとしたとき絵梨のことを考えることがあった。それに連絡することも考えたが、恋人と幸せに過ごしているか、あるいは結婚して家庭を持っていてもおかしくない。そう思うと気が引けた。
幸せであるなら、たとえ自分のことを忘れてしまったとしても別に構わない。
心の中でそう思いながら、車を走らせ、長野自動車道を目指した。
神戸で一泊し、明石海峡大橋を超えていった。のどかに広がる田畑から洒落れたカフェが並ぶ海沿いに抜けた。久しぶりに目にする、雲間から差し込む光に揺れる瀬戸内の海に懐かしさを感じた。しばらく進むと小豆島が浮かんでいるのが見えた。
淡路島から鳴門海峡を越え、徳島に入った。海は遠のき、再び深緑の山々が伸びる道を走った。
発心の道場―。悟りを開こうと心を起こし、大師が開かれた長い修行はここからはじまる。
板野で高速を降り、霊山寺へと到着した。車のトランクからキャンバスや顔彩の入ったリュックを取り出し、境内へと足を踏み入れた。
参拝を済まし、階段を下った先の木陰に立ち、蝉の鳴き声とともに本堂から漏れる灯篭の光を見つめた。それから、椅子とイーゼルを出し、キャンバスを立てる。ここで数日かけて制作を行った。
山岳に位置する難所は高くなるに連れて険しさを増し、斜面に連立する木々に覆われた道幅は狭まっていった。
発心の道場は半ばに差し掛かり、山上にある焼山寺に到着した。車から出ると清涼な空気に包まれ、標高差の温度に腕をさすった。巨大な杉に囲われた参道に入り、後ろを振り返った。そこには清々しい青空の下に四国山脈の山々が広がっている。思わずため息が漏れた。参拝を済ませてから近くで見渡せる場所に行き、スケッチブックを広げてペンを走らせた。
阿波に入り二週間ほどが経過し、薬王寺の厄坂を描き終えた。画材をリュックに素早く仕舞い込んでいく。この時間に出れば午後過ぎには土佐の室戸岬に着くだろう。そう考えながら宿に停めたままの車に戻り、エンジンをかけた。
一時間ほど海沿いを南下し、室戸岬へと到着した。海沿いに停めた車を降りると潮の香りが鼻をついた。照りつける夏の日差しを浴び、寄せては返す波の光に目を細める。
携帯が鳴っていることに気がつき、リュックの中から取り出すと河西悠の名前が表示されていた。電話に出ると柔らかい声が聞こえてきた。
「直央君、久しぶり。」
「久しぶりやな、河西君。」
「急に電話してごめん。今、四国にいるんだよね。直接言いたかったんだけど特選おめでとう。」
「ありがとう。」
「秋の個展を最後に高松に戻るんだってね。すごく残念だよ。」
河西は寂しそうに呟いた。GIONの主宰者である彼の個展に偶然足を運んだことで、芸術家の仲間たちに恵まれた。彼との出会いは大きな影響を与え、人脈が広がり、美術関係者との繋がりもできた。時にのまれそうな孤独を、精神が凌駕したのはそんな彼らの存在があったからこそだ。
「俺こそ直接言えなくてごめん。でも、戻ってからも京都で活動していきたいと思っとる。もしよかったら、これからもGIONのメンバーでいてもええかな?」
「当然だよ。これからも一緒に活動していこう。でも、きっと直央君はこれから忙しくなる。制作しながらでたいへんだと思うけど、今回の旅で気分転換するといい。」
「そうやな。また、京都に戻ったら連絡するよ。」
気を付けてね、と言って電話が切れた。画面に視線を戻すと何件かメールを受信していることに気がつき、確認していく。そのなかの一件に目をとめた。大柴絵梨の名前で受信されている。慌ててそれを開き、目を大きくした。
直央君 久しぶりです。この間、天日展に行ったら偶然、直央君の絵を見ました。夢を叶えたんだね、本当におめでとう。美術の泉も見て、昔、屋島でお遍路さんの話をしたことを思い出しました。わたしもいま四国にいます。
会いたい、一目でもいいから直央君に会いたい―。
