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言の葉ノ架け橋【第9話】

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希生とウメ子の場合(後編)


コージさん家族は玄関にあがるとまず、サチばあちゃんの仏壇にお線香をあげたいと言ってくれた。笑顔の遺影の前で長く手を合わせてもらっている間に冷たい麦茶といただいたお土産を卓袱台に並べる。「オイシソーネー」と食欲全開のヨウちゃんが、めずらしく縁側の中まで入ってきた。

「おもたせですみません。他に何もなくて」
「どうぞお構いなく」
居間の卓袱台を囲んで、よそよそしい会話が始まる。

小路口こうじぐちさんの長女で遠方にお嫁に行った佐藤千鶴さんと、お孫さんの琴羽ことはちゃんは小学校4年生。琴羽ちゃんは玄関に入った時も小さく頭を下げただけで、まだ一言も言葉を発しない。そんなに私が怖かっただろうか。申し訳ない。
だけど私がウメ子やヨウちゃんを紹介するとウメ子に近寄り、無言で頭や体を撫ではじめた。

千鶴さんは、コージさんが病気になったときに同居の準備を整えて暫く一緒に生活した。けれど、コージさんは住み慣れた土地がいい言って、新しくできた有料老人ホームを終の棲家と決めて戻って来た。

「『青葉の家』は、家族と一緒なら外出できるんです。歩けるうちにどうしてもウメ子ちゃんに会いたいって、毎日電話をかけてくるものですから、根負けしまして」
千鶴さんは苦笑いをしながら説明する。
「どうせなら父と娘と三人で思い出を作ろうと思って、急きょ仕事を二週間も休み取って飛んできたんです。今日、父の調子がすこぶる良かったので、連絡もなしに伺って申し訳ないと思いつつ」
「二週間ですか」
こんな時期に小学校も長く休むということだろうか。少し驚くと、琴羽ちゃんは急に俯き、お母さんも少し気まずそうな顔をした。
ああ、そうか。しまった。
「いいですね。楽しそう。リフレッシュ休暇は大事です。仕事も学校も。私なんか二年以上休んじゃったんですよ。ふふ」
フォローするように言うと、千鶴さんはほっとしたように微笑んだ。

「ずっとウメ子のことが心残りで」
コージさんは麦茶のコップを掴んだまま呟いた。ずっと心残り、という割にはウメ子を離れた位置から眺めるだけで、近づこうとしない。

ウメ子がコージさんと暮らしていた期間は長くはない。離れてからも三年ほど経っている。ウメ子は記憶にあるのだろうか。気にしているみたいだけど特に大きな反応を示さない。

「父が病気になって、門馬さんにウメ子ちゃんを押し付けたんだと思うんです。あの時の父は、犬は知らないとか、飼っていないとか要領を得なくて。あの。ちょっと、認知症で。今更ですけど、ご迷惑をおかけしたと私も謝りたくて」
「いえ、祖母は喜んでウメ子を迎えましたから。私も、ウメ子がいて本当に良か――」

クゥゥゥン とウメ子の声が私の言葉に小さく重なった。

私も祖母も、ウメ子の存在にはとても癒された。今さらウメ子がいない生活は考えられない。
だけど、ウメ子のほうはどうだろう。うちに来てよかったと思っているかどうかは分からない。疲れ果ててしまったウメ子は今、何て言ったんだろうか。
私は目を伏せた。

「実は、入院したころの父は酷く怒りっぽくて。温厚な父だったのに、ちょっと狂暴というか。認知症なのか、男性の更年期なのか、別の病気の薬のせいか、よく分からないのですが。それで、ウメ子ちゃんのことがよく分からなくなって叩いてしまったかもしれないって。父は後からとても気に病んでいたみたいで」

コージさんはしょんぼりしながら、ウメ子を盗み見るように上目遣いで見ている。

「ただでさえ辛い思いをしてきたウメ子に、もう辛い思いをさせたくなかった。だからサッチャンに託した」
コージさんがボソリと呟く。
「一度植え付けてしまった恐怖は簡単には回復できん。今も、これ以上近づいたらきっとウメ子は怖がる」

コージさんの切なそうな顔を見る限り、本心ではウメ子を撫でて抱きしめたいに違いない。

クゥゥゥン クゥゥゥン

ウメ子が甘えるように鳴いた。シッポが左右に大きく振れ始めている。コージさんの言葉に反応しているのだろうか。
ただ人懐っこいというウメ子の性格によるものかもしれないけれど、少なくとも怖がっている様子はない。ここで和解出来たら、コージさんもこれから気に病むことはないだろうと思い、私は断言した。
「小路口さん。ウメ子は怖がらないと思います。だって恩人ですよ。助け出して、たくさん愛してくれたことに感謝しているに違いありません」

コージさんは戸惑いながら私に尋ねる。
「撫でても、いいですか」
「もちろん。お願いします」
私が笑顔で答えると、コージさんは正座の姿勢のまま、両手で下半身を引き摺るように縁側に少しずつ擦り寄る。

少し近づくごとに、コージさんを見つめるウメ子のシッポが大きく早く揺れ動く。そして口を横に広げ、ハァハァと舌を出して呼吸を荒げ始めた。
やっぱりウメ子は喜んでいる。待っている。
コージさんは、その顔を見て堪らずに両手を伸ばす。
「ウメ子、ああ、可愛いウメ子」
ここ数日、覇気のなかったウメ子が急にシッポをぶんぶん振り回して立ち上がった。自らコージさんに近づく。
「ウメ子」
コージさんの手の届く範囲にウメ子が入ると、コージさんはウメ子の顔や頭を、優しく優しく撫でまわす。
「すまなかった。すまなかった、ウメ子。死ぬまで大事にすると誓ったのに」

ウメ子のシッポと激しい呼吸は止まらない。コージさんに身を委ね、全身を優しく撫でられながら、まんまるの瞳に溢れんばかりの涙をためている。コージさんの瞳から大粒の涙が零れると同時に、ウメ子の両方の瞳からもポロポロと涙が流れ落ちる。

犬は悲しい時も涙を流したりはしない。涙を流すのは目にゴミが入った時や、目の病気のとき。
だけど今回ばかりは違う気がする。
ウメ子は感情を高ぶらせ、涙を流してコージさんとの再会を喜んでいる。そしてフゴフゴフゴと鼻を鳴らす。
「私もずっと会いたかった」というように。

ヨウちゃんが翼を羽ばたかせ「大好きよーォ」と声を震わせる。ヨウちゃんも感動しているのだろうか。
琴羽ちゃんも目に涙を浮かべてその様子を見守っていた。

コージさんは鼻を啜って言った。
「なかなか会いたいと言い出せなかったが、この前、ウメ子にそっくりな犬を見たんだ。そうしたら、どうしても会いたくなってしまって」
この前、そっくりな犬を見た?
「もしかして、それ、ウメ子じゃないですか?」
私が美羽さんと『青葉の家』に行った時のことを説明すると、コージさんは目を剥いて驚き、また愛おしそうにウメ子を撫でる。
「あの日は病院帰りで、疲れて朦朧としていた。夢だったかとすら思っていた。そうか夢じゃなかったのか」

「でもあの時、小路口さんはウメ子のことを『コウメ』って呼びましたよね。だから私、悪徳ブリーダーと勘違いしてしまって……」
「コウメ?」
コージさんは眉間に皺をよせて考え込んだ。
「ああ。そうか。保護した時はコウメだったな。あの時に初めてパグという犬を見て。なんて可愛いんだと、コウメちゃんの虜になった」

最初に可愛いと思ったときの衝撃が強く、その名前が印象に残っていたのだろうか。認知症で名前が混乱してしまったのかもしれない。
「ああ。会えてよかったよ」
コージさんは頭を低く下げ、ウメ子を正面から見つめる。

「でもウメ子、私は全部忘れたい」
「え?」
私は驚いてコージさんを見た。
「きっと今日のこと、私はまたすぐ忘れてしまう。そしてまた、昔ウメ子にしてしまった強い後悔を思い出すのが、耐えられないんだ」
「そんな……」
「ウメ子も辛かったこと全部忘れてくれ。今はキイ先生がいるから幸せだな。お互い全部忘れてサヨウナラだ」
そう言って、コージさんはウメ子の頭部を強めに撫でる。
ウメ子の体毛の一本一本がふわりふわりと宙を舞い出し、窓から外に流れ出る。ふたりが紡いできた記憶のひとつひとつを、すべて消し去ってしまうように。

「あっ、やめてください!」

私は声を荒げてウメ子のもとに寄り、コージさんの手を払いのけてウメ子を抱え上げる。
「ウメ子に力を使わせないで。これ以上、寿命を縮ませたくない!」
もう、同じことはさせたくない。もう、ゆっくりさせてあげたい。いくらそれがコージさんの願いでも。

私の必死の叫びに、コージさんも、千鶴さんも、琴羽ちゃんも、びっくりした目を向けた。
そして、丸い目のヨウちゃんも、肝心のウメ子も、きょとんとした顔で私を見ている。

ほんの一瞬の静寂。
そしてヨウちゃんが、突然ド太い声で「信ジルカ、信ジナイカハ……」と、どこかで聞いたフレーズを喋った。

「はーっはっはっは」
コージさんは、火がついたように笑い出した。

え?
「ははは。もしかしてキイ先生、あれか。あれだな。ウメ子が誰かの日を食べて忘れさせてくれるという話か? あははは」
コージさんの笑いにつられたのか、千鶴さんが「ぷっ」と吹き出した。
え?
「いやだ。門馬さん。寿命が縮まるとか。うふふふふ」
え?
千鶴さんが口元を隠し、やぁねぇといいながら膝をパチパチ叩く。コージさんは、さらにお腹をかかえて笑いだす。おとなしかった琴羽ちゃんまで下を向いて肩を揺らす。
え?
ウメ子を強く抱きしめながら、その光景を茫然と眺める。
「サッチャンの言っていた通り、ほんとに素直でいい子だ」
コージさんはそう言いながら、堪えきれないように笑い続ける。

「え、だって。コージ……グチさんも知ってますよね? サチばあちゃんは小路口さんが言っていたって」
「そうそう。そうだ」
コージさんは、いったん笑いを落ち着かせてから説明してくれた。
「すぐそこに、私とサッチャンの母校があって。中学生のころ、よく野良犬が来ていてね。野良犬先生と名をつけて飼い始めたんです」
「野良犬?」
「そう。野良犬に石を投げる人もいてね。みんなに可愛がってもらおうと思って嘘の噂を流したんです。野良犬先生を撫でれば願いが叶うって。赤点とったことも、廊下に立たされたことも、全部なかったことにしてくれるぞって。コッソリ話していたら何故か余計に広まったな。あはは」
「噂……」
千鶴さんも笑いながら頷く。
「何年経っても、誰かがコッソリ話して引き継がれたみたいね。あの学校で飼われる動物は不思議な力を持っているって。この辺の都市伝説みたいなものですよ。私も子供の頃、何か嫌なことがあるとすぐ野良犬先生の頭をガシガシ撫でたわ。今は野良犬なんていませんけど」

私は堪らず真っ赤になって下を向いた。
あれ。おかしいな。サチばあちゃんに言われたからって、なぜ信じてしまったんだろう。たしかに。まともな大人の考えることではない。あれ?

「あの中学校は、今は別の施設が建ってるみたいじゃけど」
「そうですね。さっき通ったけど『かけはし』という看板だったわね」

二人の会話を聞いて、なるほど合点がいく。動物など飼っていなかった『かけはし』に、昨年とつぜん犬がやってきたものだから。子供のころ噂を信じた人たちが少々ざわついたのかもしれない。
ああ、でも。恥ずかしい。

「キイ先生は、何か願いを叶えてもらったりしたのかな。忘れることができたのですか?」
コージさんが優しい声で尋ねる。
「願いというか。大切なことを忘れているような……」
「忘れて、いるような、いないような? まだお若いのに」
「いえ。後悔したことが、すっぽり抜けています。本当に」
なぜか必死に弁解する羽目になっている。
「学校の先生だったころの話かな? そういやサッチャンは、いつもキイ先生のことを心配していた」
「私のことを?」
「そう。遠くから見守ることしかできないと言うものだから、そんなことはない、キイ先生に言葉をかけ続けるといい、とサッチャンに言ったもんです」

言葉をかけ続けるように。コージさんがサチばあちゃんに言い続けてくれた。
「心配している。大好き。なんでもいい。言葉の限りを尽くしたほうがいいと。近くに居ないなら、せめて言葉で心を繋げようと。サッチャンの言葉で少しずつ傷が癒えると、私は信じていました」

そういえばサチばあちゃんは、たくさんの手紙を送ってくれた。私のことが大切だ。大好きだ。一緒に泣いて叫ぼう。休みたいだけ休もう。愛しているよ、と。
その言葉に甘えてここに来た時には、もうコージさんはいなかったけれど。

――自分を取り戻すまでゆっくりしようねぇ。休むことと、放棄して逃げることとは違うよぉ。充分に休んで力を蓄えよう。ばあちゃんがそばにいるから。大丈夫だから。

「昔のことなら、徐々に忘れてしまうものでしょう?」
千鶴さんが私に優しく尋ねた。
「昔の記憶はたしかに薄れています。でも、気になっているのは、ほんの数カ月前の出来事なんです。他の人のためにウメ子の力を使わせておいて、自分にその記憶がなくて。私はきっと、ウメ子を無理に働かせたという私の日を、ウメ子に食べてもらったんです」

ウメ子に不思議な力がある前提で話していると少し恥ずかしいけれど。でも、みんな真剣に耳を傾けてくれていた。

「ウメ子ちゃんの力を使ったことを覚えてないなら、その力は使っていないんじゃないですか?」
千鶴さんが真顔で言った。
「え?」
「うん。やってないことは記憶にない。当たり前だ」
コージさんが賛同すると、琴羽ちゃんも軽く頷いている。
「ソウダ、ソウダァーネッ」
ヨウチャンまでもが同意する。

ウメ子の力を使って、いない……?

「人の記憶なんていい加減なもんです。私が言うんだから間違いない。誰かのためにウメ子が食べて消したわけではなく、その人たちは自分で立ち直ったんだ。もしかしてキイ先生は、その人たちが立ち直れるように、一生懸命、言葉の限りでも尽くしたんじゃないですか」

そう、だったんだろうか。一生懸命説得しようとしたのは間違いない。

「あ、いや、でも。ウメ子が年をとってしまって。それって寿命を縮めているんじゃ」
コージさんは不思議そうな顔でウメ子を見つめる。
「ウメ子はもう、随分なおばあちゃんだよ」
「でも、まだ十歳くらいですよね。保護されたときが六歳で……」
「六歳? うーん。その位の年の犬もいたが、この子は一番年寄りで引き取り手が見つからなかった。十歳は超えていたな。人間で言ったら何歳だ?」

ということは、今は十五歳くらいということ?
それなら老けていて当然だ。むしろ、ご飯も食べて排泄もできて、健康なほうかもしれない。

フガフガフガ グルルル フガフガフガ

忘れてしまった記憶は、緊張しすぎていたのかもしれない。でも、必死に自分の思いを言葉にして、きちんと相手に伝わったのだと、そう思ってもいいのだろうか。

グルルル、フガフガフガ ブゴブゴブフン

「ウメ子先生が何か言ってますよ」
コージさんの声で、みんながウメ子を見つめた。ヨウちゃんがトコトコと歩いて琴羽ちゃんの膝を嘴でトンと叩く。

ずっと黙っていた琴羽ちゃんが、突然、口を開いた。
「 ” キイ先生は、自分の力で頑張ってたよ ” って」
「え?」
朝の、小鳥のさえずりのような透き通った声だった。
そんな純粋な声に、自分が認められたようで。やっと一人前になれたようで。胸の奥にずっと停滞していた空気が、すぅっと抜けて飛んでいくように感じた。

「なに、琴羽。ウメ子先生の言葉が分かるの?」
千鶴さんが驚いたように言うと、琴羽ちゃんは恥ずかしそうに小首を傾げ、「んー。なんとなく」と小さく呟いた。


 

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