その蛙の置物は夢をみる 第一話
あらすじ
305号室に置かれた蛙の置物。いつからそこにあったのか、誰が持ってきたものなのか知る者はいない。次々に305号室を訪れては去っていく人々の願いや思いを感じる度に蛙は夢を見る。その夢が引き起こす出来事とは__。
「あれは何ですか?」
キャリーケースから寝巻きやタオルを出しながら、彼女は私を指差して言った。彼女の傍には白い服を着た小柄な女性が立っていた。この3階病棟を長年支えているベテランの看護師だ。島田と呼ばれている。
「あれは」勢いよくカーテンを開けたからなのか眩しそうに目を細めながら島田は言った。
「蛙の置物です。いつからあったのかわからないんですけど、ずっとこの部屋にあるそうです。ここでは305号室の守神ならぬ守蛙と言われています。気になるなら片付けますけど、どうしますか?」
彼女は少し考えた後「そのままでいいです。」と言った。島田は「何かあったらナースコールで呼んでくださいね。」と朗らかに言うと部屋を出て行った。
彼女はベッドの上に置いた寝巻きを見つめながらため息をついた。それが思いの外長いため息だったので私は少し驚いた。
305号室は個室で日当たりが良い。病院の中庭に面していて春になると満開の桜が見えると評判の部屋だ。「入院しているのにお花見が出来るのね。」と涙を浮かべた人もいたっけ。
島田がカーテンを開けていった大きな窓から中庭の桜の木が見えた。寒い日が続いていたせいなのか、花は咲いておらずうらさびしい印象だ。彼女はしばらく窓の外を見ていた。私はそんな彼女を床頭台の片隅から見つめていた。
ふと空気が揺らいだ気がした。
気がつくと彼女が目の前に立っていた。私をそっと掌にのせるとしげしげと見つめた。
「守神にしては随分と小さいのね。」
今の時代において見た目に対しての言及は抗議すべき事かもしれないが、彼女の言い方に悪意を感じなかったので不問とする事にした。
「梓ちゃん。来たよ。」
空が紅く染まり出した頃に305号室に表れた人物は彼女のもとに駆け寄ると堰を切ったように泣き出した。梓というのが彼女の名前のようだ。梓と同じように背が高く梓よりふくよかなその人物は梓の細い体を抱きしめながら何度も言った。
「胸をとるなんて可哀想に。私が代わってあげられればいいのに。」
梓は困ったような顔をしながら激しく上下する大きな背中を優しくさすっていた。
「私は大丈夫だから。お母さん、泣かないで。」
「だって、梓ぁ。まだ30代なのに。乳がんだなんて。」母親の眼は真っ赤だ。
「胸を切る事になるけど小さいうちに見つける事が出来たから温存でいけるって井上先生言ってたでしょ?お母さんは大袈裟だよ。」
梓は母親の背中をトントンと軽く叩いてから両肩を持つとゆっくり体から引き離した。母親はまじまじと娘の顔を見つめた。
「梓ちゃんは強いね。お母さんだったら耐えられないよ。」
母親が去った後の305号室には再び静寂が訪れた。梓は寝巻きでベッドに寝転びながら本を開いていた。空が暗くなり一番星が見えるようになった頃、ようやく私は気がついた。梓が見ていた本は1頁もめくられていなかった。
夕食後少し経ってから別の看護師が訪れた。
「看護師の古賀です。高本さん、明日の流れを説明しますね。」
古賀は一枚の紙を見せながらすらすらと説明していった。手術は明日の午前中に始まるそうだ。
「何か心配な事はありますか?」
古賀の問いに梓は首を横に振った。古賀は微笑むと「何かあったらいつでも言ってくださいね。」と言って部屋を出ていった。新人の頃から見ているが古賀も看護師らしくなってきたなと私は思った。
「明日か。」
ベッドの上に仰向けになった梓がボソッと呟いた。そして長い長いため息をついた。
私は彼女のため息が気になって梓に視線を向けた。空中をさまよっていた梓の視線が私の視線を捉えた気がして私はドキッとした。梓は私に目を向けて言った。
「ねえ、蛙。私って可哀想なのかな?」
私は何と言っていいのかわからなかったので困った顔をしてみた。しかし、彼女から見たら私は蛙の置物でしかないので伝わったとは思えなかった。梓は私の返答が無いことを気にする事なく話を続けた。
「私は乳がんを早期発見出来た幸運な人間だと思っているんだけど皆は私を可哀想な人にしたいみたい。」
そして再び長いため息をついた。
「がんになったら前向きな気持ちで手術に臨んではいけないのかな。」
一筋の涙が彼女の頬をつたって白いシーツに染みていった。そのまま彼女は目を閉じると黙ってしまった。
私は彼女の心を重くしているものが取り払われればいいのにと願った。白い光に包まれて私は眠りについた。
目が覚めた時梓は既に起きていた。顔を洗い終えた梓は憑き物が落ちたように晴れやかな顔をしていた。
「早く手術の時間にならないかな。」
昨日のため息が嘘のように、口調は明るく口角が上がっている。梓は私を見て微笑んだ。
「昨日蛙に言ったら気持ちがスッキリしたよ。本当に305号室の守蛙なのかもね。全部うまくいく気がしてきた。」
聞こえてくる鼻歌に私も晴れやかな気持ちになった。
雲行きが怪しくなったのは、再びあの人物が現れてからだった。
「間に合ってよかったー。」
慌ただしく305号室に駆け込んできたのは梓の母親だった。気温が高かったからだろうか、母親は胸元が大きく開いたシャツを着て薄い上着を羽織っていた。梓は手術着に着替えてベッドに横になっていた。母親は点滴の管が入った梓の手を両手で包み込むと「きっと大丈夫よ。」と微笑んだ。
梓は「早く手術してスッキリしたい。」と微笑んだ。
母親は驚いた顔をして「怖くないの?」と言った。
梓は「何で?」と問いかけた。
「だって体にメスが入るのよ。」
「メスが入らないとがんを切除できないでしょ。手術を受ける人は皆怖く思わないといけないの?」心なしか梓の声が強くなった気がした。
「そういうわけじゃないけど。でも、そう思うのが普通でしょ。」
梓が何かを言いかけた時医師が入ってきた。
「予定通り進んでいるのでもう少しで呼ばれると思います。」
梓が口を開く前に母親が話し始めた。
「井上先生。今日はよろしくお願いします。」
母親は井上先生に駆け寄ると頭を下げた。満面の笑みで自分の胸を軽く叩きながら言った。
「こんなおばさんの胸ならいくらでもとっちゃっていいと思うんですよ。でも、この子はまだ若いですし嫁入り前なのに胸に傷が出来るなんて可哀想で。代われるなら代わってあげたいくらい母親としては辛いんです。先生、今から手術なのはわかっているんですが、切らずに治す方法はないんでしょうか。」
井上先生は呆気にとられた顔をした。先生が答える前に母親の後方から声が飛んできた。
「まだそんな事言ってるの?私は切ってほしいと思っているんだから余計な事言わないで。若くて嫁入り前だと何が可哀想なの?」
母親はおろおろしながら言った。
「だって傷物になっちゃうじゃないの。結婚できなかったらどうするの。」
梓の整えられた両眉が吊り上がった。
「そんな事で私の価値は変わらないわ。むしろ胸に傷がある位で結婚を渋るような男なんてこっちからお断りだよ。」
梓は強張った肩の力を抜くと井上先生に視線をずらして言った。
「先生。傷の大きさは気にしないので悪いものを取り切ってください。よろしくお願いします。」
井上先生は梓に目を合わせると「頑張りますね。」と答えた。そして母親に「ちょっとこちらでお話ししましょう。」と言うと母親を連れて部屋を出ていった。
部屋に1人残された梓はしばらく両手を握りしめていた。私は彼女が心配でじっと見つめていた。ブルブルと梓の肩が震えだした。泣いているのだろうか、と私は更に心配になったが、聞こえてきたのは嗚咽ではなく乾いた笑い声だった。
「結婚できなくなるかもしれないから可哀想って。何それ。」
そして長い長いため息をついた後で私を見て言った。
「ねえ,蛙。お母さんは自虐風に言ってたけど、本当は自分の大きな胸を自慢に思っているのよ。じゃなかったら、あんなに胸元が開いた服着ないでしょ。」
梓は今にも涙が溢れそうな両目をギュッと閉じて吐き捨てるように言った。
「あの服は胸の形がきれいに見えるからお気に入りなんだって。ここぞという時に着るんだって。そんな服を娘が乳がんの手術を受ける日に着てくるってどういう神経してるんだろうって思っちゃうよね。」
「代われるものなら代わりたいんだってさ。代わる気なんて無いくせに。」
私は、ただただ梓を見ていた。彼女が母親の言動で傷ついているのが痛い程伝わってきた。好意的に考えれば梓の母親はたまたま手に取った服を着ただけで深い意味などなかった可能性もあるが、あれ程娘の心配をして娘の為に泣くような母親なら手術の日にそんな服を選ばないだろう、と思ってしまうのだ。
梓はそこに違和感を覚えて母親の真意を推測して傷ついたのだ。
私は梓に寄り添いたいと思った。そして母親との間に溝ができそうな現状を心配した。母親は無神経ではあるが、母親なりに梓を思っている事に嘘は無いと思う。
家族は大事だ。支え合う事が出来るから。
私にもそんな家族がいたような気がする。蛙の置物なのに何故かそう思う。
私は梓の傷ついた気持ちが癒える事、こじれてしまった梓と母親の関係が修復される事を願った。
強く強く願った。
すると周囲がぼやけて白く輝きだした。眩しいほどの白い光に包まれて私の意識は薄れていった。遠くの方で「高本さん。手術室に行きますよ。」と梓を迎えに来た看護師の島田の声が聞こえた気がした。
白い光の中で私は夢を見ていた。無事に手術を終えた梓と母親が微笑みながら満開の桜の下で手を取り合っている。2人の周りを沢山の蛙達が囲んでいる。蛙達が次々に桜の花びらをすくって投げて、落ちてきた桜の花びらをまたすくって投げるので、舞い踊る無数の桜の花びらに包まれた2人の姿は段々見えなくなっていった。
「同じだね。同じだね。これでもう大丈夫だね。」蛙達の合唱が聞こえる。
それを聞いて私は安心した。2人の為に桜の花を咲かせなければ、と思いながら私は深い眠りに落ちていった。
第二話
第三話
第四話
第五話
最終話
