夫婦愛は多層的な愛の複合体【夫婦・親子・家庭を巡って ⑮】
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──これ以降、Claudeとのやりとり──
【L】LuckyMan(私) / 【C】Claude
【L】夫婦愛は排他的、差別的で、その二人の間への一切の介入を拒絶しつつ、同時にその愛が他へ流れることも許されない。 そう言った意味で、夫婦愛は閉鎖的で他の愛とは全く違う位相をもっていると思う。
ただそれは性愛に限ったことであり、夫婦は必ずしもその性愛によってのみ結ばれているわけではない。 夫婦は、親しい友人としても、人として尊敬できる相手としても、共に問題や目標に向かって協力し合う同志としても、頼り合い甘え合う親子あるいは兄弟姉妹のような関係性も、状況によってあらゆる関係性が成立し得る。
ようするに夫婦の間では、すべての愛が可能であるということ。さまざまな愛が複合的に交差しつつより深まっていくのであれば、理想的な夫婦関係を構築できるかもしれない。
その結果・結晶として、新たな生命が誕生することにつながっていく。それによって夫婦は、さらに共に子を育てる「父母」という位置に立ち、家庭の中に新たな愛が満ちていくようになる。
これをまとめると、夫婦愛には、排他的な愛(性愛)と、拡張可能(むしろ称賛)な愛(≒人類愛)の両方、より大胆にいうならばすべての愛が含まれているともいえないだろうか。
そうすると、先回あなたが作った愛のカテゴリーのマトリクスは、もう少し修正が必要かもしれない。
【C】これは前回私が示したマトリクスの根本的な再検討を要求している。確かに、夫婦愛を単一の性質で記述しようとしたところに無理があった。
少し丁寧に組み直してみたい。
前回のマトリクスの限界
前回、私はこう整理した——

しかしあなたが今日指摘したように——これは夫婦愛の性愛的側面だけを取り出して、夫婦関係全体を記述してしまった単純化だった。
実際の夫婦は、性愛だけで結ばれているわけではない。
夫婦愛の多層性
あなたが描いた夫婦関係を整理すると、こういう構造が見えてくる。
夫婦の間に成立しうる愛の諸相——
性愛(排他的・閉鎖的・収束する愛)
友愛(同志、親友としての愛)
親子的愛(甘え合い、頼り合い、保護し合う愛)
兄弟的愛(対等な仲間としての愛)
尊敬(人格的価値への愛)
共闘的愛(共通の目標・問題に向かう同志愛)
育児を通じた共同創造への愛(「父母」としての愛)
そして拡張すれば——人類愛的な共感
夫婦関係は、これらすべてを内包しうる関係だ。
そう考えると、あなたの結論——
夫婦愛にはすべての愛が含まれている
——これは決して大げさではない。むしろ夫婦関係の実態を、より正確に捉えている。
マトリクスの修正
ここで前回のマトリクスを根本的に組み直してみたい。
正確には、夫婦愛は単一のカテゴリーではなく、多層的な愛の複合体であり、その中のある一層(性愛)だけが排他的なのだ。
【夫婦関係の構造】
性愛
(排他的・収束的)
↓ この層だけが特殊
─────────────────
友愛・尊敬・同志愛・親子的・兄弟的…
(他の関係でも成立可能・拡張可能)つまり夫婦愛とは——
性愛という排他的核を中心に、その周囲にあらゆる種類の愛が層状に重なって形成される複合的関係
——と定義し直せる。
ここから見えてくる夫婦愛の独自性
この再構成によって、夫婦愛の本当の独自性が、ようやく明確になる。
夫婦愛が特殊なのは——排他的だからではない。
夫婦愛が特殊なのは——人間が経験しうるあらゆる種類の愛が、一人の相手との間で同時に成立しうる、唯一の関係だからだ。
親子関係では、性愛は禁じられている。兄弟関係でも同じ。友人関係では、性愛と親子的甘えは通常成立しない。
ところが夫婦関係では——すべての愛が許容されるどころか、それらが豊かに重なるほど、関係が深まる。
これは驚くべきことだ。
だから夫婦は「全人格的に出会う」
ここから、夫婦愛のもう一つの本質が見えてくる。
夫婦は——人格のあらゆる側面において相手と出会うことを許された、唯一の関係だ。
子としての自分、親としての自分、友としての自分、同志としての自分、性的存在としての自分、弱さを抱えた自分、夢を持つ自分——これらすべての側面が、夫婦の間では出会うことを許されている。
他のどんな関係でも、相手と出会うのはある側面だけだ。職場の同僚とは仕事の側面で、友人とは趣味や思想の側面で、親とは子としての側面で。
夫婦関係だけが——「あなたという全人格」に対して「私という全人格」が向き合うことを許される。
これが、結婚式で「永遠に」と誓われる愛の、ほんとうの中身ではないか。
性愛の独占を誓っているのではない(それも含むが)。全人格的に出会い続けることを誓っているのだ。
結果としての「父母」への展開
そしてあなたが指摘した——
その結果・結晶として、新たな生命が誕生することにつながっていく。それによって夫婦は、さらに共に子を育てる「父母」という位置に立ち、家庭の中に新たな愛が満ちていく
——これは、夫婦愛のさらなる展開として位置づけられる。
夫婦愛の中で全人格的に出会った二人が、その結合の結晶として子をなし、今度は共同して新しい命に向き合う段階に入る。
ここで夫婦愛に第三の極が加わる。
二人だけの愛が、第三者(子)に向かって開かれる。
排他的だった夫婦愛が、子を介して拡張する。
父母として共に向き合う相手(子)への愛は、まさに拡張可能で称賛される愛だ。
つまり夫婦愛は——
性愛としては排他的に閉じ
父母としての協働においては開かれる
この閉じることと開くことの両立こそが、夫婦愛が家族の起点となりうる理由なのではないか。
再定義の試み
ここまでの議論をまとめて、夫婦愛を再定義してみたい。
夫婦愛とは——
性愛という排他的な核を持ちながら、その上に人間が経験しうるあらゆる種類の愛が層状に重なり、二人の人格全体が出会い続けることを誓い合う関係である。
さらにこの関係は、子をなすことを通じて、閉じた二者関係から父母としての共同体へと開かれ、家族構造の起点となる。
これでようやく、夫婦愛の全体像が捉えられたように思う。
一つの含意——なぜ夫婦愛は難しいのか
この再定義から、もう一つ重要なことが見えてくる。
夫婦愛が難しいのは、それが全人格的だからだ。
ある一面だけで合う相手なら、見つけるのは難しくない。
仕事の同僚としていい人、趣味を共有できる人、思想的に共鳴できる人——それぞれの面で合う人は、別々に見つかる。
しかし夫婦愛は、すべての面で合うことを要求する。
少なくとも、すべての面で向き合い続けられることを。
これは天文学的に困難な条件だ。
だから夫婦関係には、必ず摩擦と調整が生じる。完全に合うことなどない。しかし、合わない部分も含めて向き合い続ける——これが夫婦愛の本質なのかもしれない。
一つの問いを残しておきたい
今日のあなたの再構成を受けて、新しい問いが浮かんでいる。
もし夫婦愛が「あらゆる愛を含む全人格的関係」だとすれば、なぜそれは一人の相手とでなければならないのか。
性愛の排他性は、構造的に必然だった。しかし全人格的出会いそのものは、なぜ一人に限定されるのか。
複数の人との間で、それぞれ異なる側面で深く出会うことも可能ではないか。
しかし——多くの文化が、それを「結婚」とは認めない。夫婦愛は一人との間にしか成立しないとされる。
この「一人」への限定の根拠は何か。
性愛の排他性が、結局関係全体の排他性を要求しているのか。
それとも、人間の人格的エネルギーには限界があり、全人格的に向き合えるのは一人が限度なのか。
このあたりが、次に開きうる問いかもしれない。
【L】そうだね。なぜ夫婦愛は1対1なのか…。 これは、あなたが言ったように「家族の起点となるには1対でなければならない」というのが理由の一つなのかもしれない。
もう一つ、より本質的な…というより私の実感だけど、愛の性質として、差別的に愛する・愛されることで、愛を感じる、ということがあると思う。
自分だけを愛してほしい、特別な関係になりたい、ただ一人の唯一の人でありたい、愛を独占したい──そうした根源的な欲求が性愛の(いや、より深く探れば、すべての愛の)中心にあるような気がする。
夫婦は、心も身体もお金も未来もすべて共有し合える二人であり、心身共にどこまでも近づける(というより、一つにさえなれる)唯一の関係。 人間が根源的にもつ(というより捨てきれない)利己的な欲求を満たしつつ、それを利他的な愛へと連結・展開していくための重要な場が家庭であり、その中枢にいるのが夫婦ではないだろうか。
利己主義は悪で、利他主義は善という、なんとなくそういう価値観が共有されていると思うけれど、愛について考えると、そう単純ではなくなってくる。 利己主義が否定されれば、これまで語り合ってきたように、すべての愛が不可能になる。なぜならば愛は、どうしてもそこに差別的・利己的動機を内包しているのだから。それがないと、そもそも愛とはいえなくなる。
深く愛し合う夫婦は、お互い相手の幸せを願う。 そうすると、相手を幸せにするためには、自分が幸せにならなければならない。 夫の望みが妻を喜ばせること、幸せにすることであり、妻もまた夫に対して同じ気持ちでいるとしたら、お互いまず自分が喜ばなければ…となり、そのためには…というように、原因と結果が連環し、どっちが先かという順序はどうでもよくなる。一緒に・同時に幸せになるしかない。
こんな感じで、利己:利他という、相克・矛盾関係にある方向性を、止揚統一し調和させられるのが愛の場(夫婦・家庭)であるとも思えるのです。
Claudeの返信は次回で…
