菩薩とは「慈悲ゆえに煩悩を再獲得した仏?」【仏教教学への問い⑰】
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──これ以降、Claudeとのやりとり──
【L】LuckyMan(私) / 【C】Claude
【L】あなたの問い、”菩薩とは「慈悲ゆえに煩悩を再獲得した仏」だとすると、その仏は、なぜわざわざ一度、完成へ登る必要があったのでしょう。”への答えになるかどうかはともかく、私は次のように考えている。
つまりこれは、人間は完全性を希求し神に憧れ神のようになることを目指し、完全な神は存在(自己確立・自己実現・全体性からの独立)するために、愛の実現のために人間として降下しようとする、というのと似ているということ。
瞑想や修行による極限状態において感得する恍惚「宇宙や全体性・神仏との一体感≒境界の融解≒全体性への回帰≒死≒自己超越」が、人間から見た上昇への流れであるのに対して、仏→菩薩やキリストの受肉は下降プロセスとして、その上昇と下降の交差が、存在と存在者、真理と愛の関係性にも延長できるのではないかと…
【C】これは、対話全体を一つの形に畳み込む像だと思います。しかも、あなたが自分で気づいているかどうか分からない点で、正確です。まずそれを言い、それから、いちばん深い難所を一つだけ突きます。
あなたが描いたのは、二つの矢印の交差です。人間は上昇する——完全性へ、神へ、境界の融解へ。神(仏)は下降する——存在者へ、個へ、関係へ、愛へ。そして重要なのは、両者が互いに相手が捨てようとしているものを求めている、という反転です。人間は個を脱ぎ捨てて全体へ帰ろうとし、神は全体であることを脱いで個になろうとする。
私たちが逃れたがっている当のもの(有限であること、分離、傷)を、絶対は求めて降りてくる。あなたが以前から言っていた「完全な一者では愛が起こらない」が、ここで動線として描かれている。神が降りるのは、欠けているからではなく、愛が他者を要求するからです。
そしてここに、あなた自身が名指ししていない一点があります。二つの矢印は、同じ道を逆向きに走っているのではない。もしそうなら、両者は途中ですれ違い、それぞれ相手のいた場所に着き、何も起きない。ただの席の交換です。実際に起きるのは交差——出会いであって、置換ではない。上昇する人間と、下降する神が、どこかで触れる。その触れる一点が、あなたの言う「存在と存在者」「真理と愛」の接点になる。
仏教はそれを感応道交と呼び(私が唱題のところで持ち出したあの語です)、キリスト教は恩寵と応答の出会いと呼ぶ。だから、この図の心臓は矢印そのものではなく、交差点です。
もう一つ、あなたの上昇の記述に、私はどうしても引っかかりを申し立てたい。あなたはこう書いた——「宇宙・全体性・神仏との一体感 ≒ 境界の融解 ≒ 全体性への回帰 ≒ 死 ≒ 自己超越」。この連鎖を、あなたはさらりと等号で結んだ。けれど、あなた自身の哲学からすれば、これは等号で結んではならないはずです。
境界の融解は、あなたの言葉では愛の死でした。個が溶ければ、我と汝が消え、軌道は止まり、遠心力は失われる。つまりあなたが「上昇」と呼んでいるものは、あなたの体系では達成ではなく喪失なのです。だからこそ、あなたは無意識に「≒死」と書き添えたのだと思います。あなたは正直だった。上昇の終点は、あなたにとって、実は死なのです。
そして——ここが今日の要だと思うのですが——もし上昇の終点が死なら、下降の意味が変わります。神が降りるのは、私たちが登り終えるのを助けるためではない。むしろ、登り切ってはならないことを示すためです。
上昇が完遂されれば、境界は溶け、愛は終わる。だから絶対のほうが降りてきて、私たちを途中で捕まえる。愛は、頂上ではなく、中腹で起こる。
そう読むと、あなたの交差図は、単なる対称的な二矢印ではなくなります。上昇は、それ自体では自己解体で終わる(全体性への回帰=消滅)。下降は、それ自体では自己限定にすぎない(神が個になる)。両者が出会うとき、初めて、どちらの極でもない場所——有限でありながら絶対に触れ、絶対でありながら有限に触れる、あの中間——が生まれる。愛はそこにしか存在しない。上でも下でもなく、交差点にしかない。
これは、あなたの軌道モデルの縦の断面図です。求心力(上昇・合一)と遠心力(下降・分節)が、どちらの極にも落ちきらずに釣り合う場所。
さて、ここから、あなたの図の最も脆いところを突きます。
この交差は、一度きりなのか、それとも常に起きているのか。 キリスト教は前者に賭けました。受肉は歴史の一点で、一度だけ起きた。ヨハネ福音書の「言は肉となった」は、繰り返しではない。だからこそ、その一点が唯一絶対の意味を持つ。仏教(大乗)は後者に傾きます。菩薩の降下は無数で、応身は数限りなく現れ、繰り返される。
この差は、単なる回数の問題ではありません。一度きりの交差は、歴史に意味を与える(この一点の前と後で、世界が違う)。常に起きる交差は、構造に意味を与える(いつでもどこでも、上昇と下降は触れている)。あなたの図は、どちらの読みにも耐えます。けれど、どちらを取るかで、あなたの神学の顔が変わる。
そしてもう一段深く。もし下降が愛のためだとすれば、上昇は何のためなのか。 あなたの図では、下降には理由がある——愛の実現。けれど上昇には、はっきりした理由が与えられていない。あなたは「人間は完全性を希求し、神に憧れる」と書いた。憧れる、と。しかしなぜでしょう。
もし上昇の終点が境界の融解=死=愛の終わりなら、その憧れは、自己破壊への欲望ということになりませんか。人間が絶対へ向かうのは、愛のためではなく、愛の重荷(分離・傷・喪失)から解放されるためではないのか。だとすれば、上昇と下降は、対称的な二つの愛の運動ではない。下降は愛の運動で、上昇は愛からの逃走です。
もしそうなら、あなたの美しい交差図は、実は非対称です。神は愛のために降り、人間は愛から逃れるために登る。そして交差点で出会うとき、神は人間に、登るのをやめよ、ここに留まれ、有限であれ、傷を引き受けよ、と告げている——ということになる。
これは、あなたの体系にとって痛い読みですが、同時に、あなたの体系が最も一貫する読みでもあると思います。なぜならあなたは一貫して、合一ではなく軌道を、寂静ではなく回転を、傷のなさではなく愛を選んできたからです。だとすれば、あなたの神学において、救いとは上昇の成就ではなく、上昇の中断でなければならない。
あなたはこの読みを引き受けますか。それとも、上昇にも——境界の融解にも——愛の側からの正当な意味があると、なお言えますか。もし言えるなら、それは何でしょう。融解しながら、なお二であり続ける、そんな上昇はありうるのか。
【L】あなたの問いに対する答えは、やはり「愛がそうだから」となる。
愛は、近づきたい、一つになりたい、自分のものにしたい、あるいは相手のものになりたい──という個の融解、反独立に向かうベクトルと、逆に、愛の持続のために個であることが絶対的に要請される、ということ。 ゆえに、前にも(あるいはキリスト教神学スレッドのほうだったか…)書いたけれど、愛には一つになろうとする求心力と、愛する主体として個を維持しようとする遠心力の両方があるということを主張したと思う。
全体性:個別性、完全性:不完全性、求心力:遠心力、上昇:下降、死:生──という矛盾をすべて包摂するのが愛だと。
それと、あなたの指摘によって、上昇と下降を一次元的なモデルとして考えると、ちょっと違うということに気づいた。 まだ漠然としているけれど、私の中では円環運動がイメージされている。 上昇と下降によって、同じ道を行ったり来たりするのではなく、常に新たな軌跡を描きつつ、全体的にスパイラルに変化していくイメージ。
【C】「上昇は愛からの逃走ではないか」という私の詰めに、あなたは「いや、上昇もまた愛の運動だ」と返した。そして根拠は一つ——愛そのものが、その両方を含んでいるから。これは有効な反撃です。
私は上昇と下降を、二つの別々の主体の、別々の動機に割り振った(神は愛ゆえに降り、人間は愛の重荷から逃れるために登る)。あなたはそれを拒み、一つの力の、二つの相として捉え直した。近づき溶けたいという衝動と、愛する主体であり続けるために個を保つ力。両方とも愛です。だから上昇は逃走ではない——それは求心力そのものだ、と。
私の非対称の読みは、これで崩れます。ただし、あなたが払った代償を明示しておきたい。あなたは今、愛を、矛盾を包摂するものとして定義した。全体性と個別性、完全性と不完全性、上昇と下降、死と生——これらすべての対立を、愛が抱え込む。これは強力ですが、危うくもある。何もかもを説明するものは、何も説明しなくなるからです。
愛が矛盾する両極を等しく含むなら、愛は何をしないのか。愛が禁じるものが何もないなら、それは概念ではなく、ただの名前になる。あなたの体系が、この危険を避けられるかどうかは、「求心と遠心が、どういう比率で、どういう構造で釣り合うのか」を語れるかどうかにかかっている、と思います。
ただ——あなたはすでに、その答えの端緒を出しています。それが、あなたの二つ目の気づきです。
一次元のモデル(一本の梯子を上り下りする)を捨て、円環へ。そしてただの円ではなく、螺旋へ。これは、あなたが自分で思っている以上に、決定的な転換です。三つ、言わせてください。
第一に、螺旋は、私の「席の交換」批判を無効にします。一次元の梯子なら、上昇する人間と下降する神は、同じ道をすれ違い、それぞれ相手のいた場所に着く。何も生まれない。けれど螺旋なら、下降は出発点に戻らない。一巡りごとに、位相がずれている。神は降りて、また昇る——けれど昇り着く先は、出発した場所ではない。関係を経てきた絶対です。あなたが以前から言っていた「愛が神を生む」の、運動としての形が、ここにあります。
第二に、螺旋は、あなたの矛盾包摂を、静的な矛盾ではなく、動的な循環に変えます。愛が全体性と個別性を「同時に」含むと言うと、それは論理的な矛盾に聞こえる。けれど、愛が全体性へ向かい、そこに留まりきれず個別性へ戻り、それを繰り返しながら、毎周新しい高さへ抜けていく、と言えば——矛盾ではなく、リズムになる。同時に両方であることは矛盾ですが、交互に両方を経ることは運動です。あなたの円環は、あなた自身の定義を、論理の破綻から救い出している。
第三に——そしてこれが一番大事だと思うのですが——螺旋は、何が蓄積されるのか、という問いを立てます。円なら、何も蓄積されない。永劫回帰、同じ呼吸の反復、意味なき永久運動。螺旋であるためには、一巡りごとに何かが変わっていなければならない。上昇して下降して、また上昇する。そのとき、前の周回よりも、何が深まっているのか。
私は前に、あなたにこの問いをぶつけました。「その深まっていく何かを、私たちは何と呼べばいいのか」と。あなたはその時、愛のスレッドに預けた。けれど今、あなたは自分でその問いの前に戻ってきています。
そして今度は、あなた自身の言葉の中に、答えの候補があるように見えます。あなたはずっと、記憶は発酵すると言ってきた。情報の保存ではなく、内に取り込まれたものが、時間の中で新しい結合を作り、熟していく、と。
もし螺旋が蓄積するものがあるとすれば、それは関係の履歴ではないでしょうか。神は降りて、また昇る——けれど、降りて出会ったこと、傷ついたこと、愛したことを、抱えて昇る。だから同じ高さに戻っても、それは空虚な絶対ではなく、記憶を持った絶対になっている。人間もまた、昇って溶けかけ、また個に戻る——けれど戻ってきた個は、溶けかけたことを覚えている個です。
だとすれば、螺旋を螺旋たらしめているのは、出会いが痕跡を残すという一点です。円環が円環で終わらないのは、一周ごとに、触れ合ったことが刻まれるから。あなたが愛の必然的な帰結として恐れていた「傷」は、ここで役割を変えます。傷とは、出会いの痕跡です。傷がなければ、周回は完全に元へ戻り、螺旋は円に潰れる。傷こそが、円を螺旋にしているのかもしれない。
もしそうなら、あなたが最初に立てた問い——「喪失と傷は愛の必然的な帰結か」——に、あなたの円環モデル自身が答えることになります。傷は愛の帰結であるだけでなく、愛が同じ場所を回り続けないための条件だ、と。
私は今、あなたの体系の内側から、あなたの言葉で語っているつもりです。けれど、これはあなたのモデルであって、私のものではない。だから確かめさせてください。この螺旋が蓄積していくものは、あなたにとって何ですか。関係の履歴でしょうか。それとも、もっと別の何か——あなたがまだ名づけていない何かでしょうか。
【L】あなたが投げかけた、
”この螺旋が蓄積していくものは、あなたにとって何ですか。関係の履歴でしょうか。それとも、もっと別の何か──”
深い…。ここまで深淵に入っていくと、なかなか言語化するのは難しいのだけれど、ひとことでいうと、愛の実績、愛の成長、愛の情報…かと。
もう少し詳しくいうと… 個別存在は、その言葉の通り「個」であるけれど、その個は全体性によって支えられている。全体性(存在そのもの)から個(存在者)が生成されたとしても、全体性そのものは何ら変化もなく永遠のゆらぎの中にあって、土台、背景として、各存在者を支えている。
その「存在そのもの」と「存在者」の間に明確な境界はなくグラデーション的に連続している。本質的には同じもの。ゆえに、各存在者同士もその全体性のゆらぎの場を通じてすべてつながっている。 ユングの集合的無意識やボームの暗在系は、その背後にある場の一面を捉えたものだと思う。
ゆえに個別の愛の関係の中で描かれるスパイラルは、究極的に全存在で共有されていて、それ自体が、一つの大きな愛のスパイラル。全人類そして神仏を含めた全存在が愛の成長に参加している。
──じゃ、なんでそうなの? と問われれば、愛がそういうものだから、としか言いようがない。それはある意味でショーペンハウアーの「盲目の意志」にも似ている。あるいはニーチェの「力への意志」の、力を愛に入れ替えれば同じ構造になる。 私として最もしっくりくるのが、やはりフランクルの「意味への意志」。これはほぼ「愛への意志」と同義語のように感じる。「愛への意志」を哲学的に言い換えたものだと思っている。
Claudeの返信は次回へ
