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森 鷗外
(もり おうがい、文久2年1月19日[1]1862年2月17日[2][注釈 1]〉 - 大正11年〈1922年7月9日)は、日本明治大正期の小説家評論家翻訳家教育者陸軍軍医軍医総監陸軍中将相当)、官僚高等官一等)。位階勲等従二位勲一等功三級医学博士文学博士。本名は 森 林太郎(もり りんたろう)。

引用元:森鷗外 - Wikipedia


勲一等旭日大綬章(現・旭日大綬章)正章と大綬
引用元:勲一等旭日大綬章 - Wikipedia🌟
勲一等旭日大綬章(現・旭日大綬章)副章
引用元:勲一等旭日大綬章 - Wikipedia🌟
勲一等旭日大綬章の略綬
引用元:勲一等旭日大綬章 - Wikipedia🌟


1908年、森鷗外(文京区立森鷗外記念館🌟 所蔵)


 
 同一の事物を是とも非とも見るべきは果していかなる境界なるか。答へていはく。是もなく非もなき境界なり。絶對の境界なり。
 大宗教家と大哲學者とのごとき自在の 辨證ヂヤレクチツク 🌟をなさむとするものは、大抵絶對の地位にありて言ふ。( 聖教量しやうげうりやう🌟、「スペクラチオン」🌟

引用元:青空文庫作成ファイル
柵草紙の山房論文』森鴎外 より



「スペクラチオン」🌟 AI による概要

聖教量における Speculation (スペクラチオン)は、単なる推測や憶測ではなく、聖なるもの、神聖なものを深く考察し、瞑想することを意味します。日本語では「聖なる思弁」や「神的な考察」と訳されることがあります。これは、古代ローマの言葉が起源であり、もともとラテン語の specio (見る)から来ています。ローマ軍の偵察兵(speculatores)が監視塔(specula)から遠くを見張ったように、ここから「ある主題を深く考察する」という意味が生まれました。

特に宗教的な文脈では、この「スペクラチオン」は 以下のような意味合いで用いられます。

神聖なものの直接的な反映: 人間の心や意志の中に、神聖なものが直接的に反映されるという考え方です。

深遠な瞑想と黙想: 5世紀のローマの神秘思想家ボエティウスは、これを「神の心について深く敬虔な黙想をすること」として用いました。

ドグマ(教義)と懐疑の間を探求: 聖典を注意深く読み込み、難しい問いを立て、想像力を働かせることで、教義と懐疑の間にある空間を探求する実践を指すこともあります。

つまり、「聖教量(スペクラチオン)」は、神学的な真理を理性や瞑想を通して深く探究する、高度で敬虔な知的活動であると言えます。これは、単に聖書に書かれていることだけにとどまらず、聖なるものの深遠な意味を理解しようとする思索のプロセスです。

出典::Google Gemini へのプロンプトに対する回答
(2025年9月20日参照)



📖 初めに読むこと【noteに投稿する私の記事等の著作物の閲覧・引用及び利用・実践等の注意事項】(2023年5月25日更新)



 森鴎外の文学は 反自然主義文学 の流れを高踏派こうとうはと呼ばれたり、芸術至上主義などと評価されている。国木田独歩、島崎藤村、田山花袋、島村抱月、正宗白鳥、徳田秋声、岩野泡鳴 などの文学作品の台頭により ❝ 自然主義にあらずんば文学にあらず ❞ と言われた時代(自然主義文学の最盛期)にあって、1910年(明治43年)、鴎外は 短編小説『さかずき』を上梓じょうしする。

 この史実は 今日こんにち 学術的に広く知られているが、ここから先の内容は エビデンスに基づいたものではなく、西山の頭の中の幻想に過ぎない。いずれを彷徨さまよっても、こちらでも、あちらでも、神秘ヨーガ芸術主義 の  宣揚advertisement の お役目を果たして成長中の 西山である。今後も 恣意しいてきな投稿であるむねをご承知下さり、YOGA と芸術全般の記事を好きスキ🌟などで応援の上、お読み頂ければ幸いである。🥰

 さて、そこで 西山は またしても なに荒唐無稽こうとうむけいな 憶測のいきを出ないたとえ話を、性懲しょうこりもなく らかそうとしているのか? 

  ───  はい、正解です! 👨🏻‍🏫

 と云うことで、

 まずは この短編小説『杯』の背景にたたずむ 歴史的 複合現実Mixed Reality🌟 をていきたい。
 
 



以下、上は
森鴎外『杯』からの引用文
✒️ ❝『杯』に登場するアイテム ❞

下は
千億祥也の聖別解説
📚 ❝ 現実に出現するアイテム ❞


✒️温泉宿から皷が滝へ登って行く途中に、清冽な泉が湧き出ている。

📚文芸界の時間と空間

✒️先を争うて泉の傍に寄る。七人である。

📚日本の自然主義文学を代表する七名の作家

✒️年は皆 十一二位に見える。

📚『杯』の発表は
日本の自然主義文学が始まって
十一二年位の時期

✒️誰が連れて
温泉宿には来ているのだろう。

📚温泉好きの田山花袋のことか?

✒️真赤なリボンの幾つかが燃える。

📚日本の自然主義文学の代表的作品の台頭

✒️娘の一人が口に銜んでいる丹波酸漿を
膨らませて出して、
泉の真中に投げた。
凸面をなして、盛り上げたようになっている水の上に投げた。
酸漿は二三度くるくると廻って、
井桁の外へ流れ落ちた。

📚日本の自然主義文学がもたらす退廃的局面

 ✒️手ん手に懐を捜って 杯を取り出した。
 青白い光が七本の手から流れる。

📚日本の自然主義文学作品の出版活動

✒️皆 銀の杯である。大きな銀の杯である。

📚日本の自然主義文学の作風

✒️日が丁度一ぱいに差して来て、

📚日本の自然主義文学の人気が過熱する

✒️七つの杯は いよいよ耀く。

📚日本の自然主義文学が脚光を浴びる

✒️七条の銀の蛇が泉を繞って奔る。

📚日本の自然主義文学が読者に支持される

✒️銀の杯はお揃で、
どれにも二字の銘がある。
それは自然の二字である。
妙な字体で書いてある。
何か拠があって書いたものか。
それとも独創の文字か。

📚日本の自然主義文学の特徴

✒️かわるがわる泉を汲んで飲む。

📚日本の自然主義文学の作家が収益を得る

✒️濃い紅の唇を尖らせ、

📚接吻キスの象徴か?

✒️桃色の頬を膨らませて飲むのである。

📚受胎する女体の象徴か?

✒️木立のところどころで、
じいじいという声がする。

📚人間社会の求愛活動

✒️蝉が声を試みるのである。

📚性生活の営みか?
(本来は
無上YOGAアヌッタラ・ヨーガ の実践)

✒️白い雲が散ってしまって、

📚射精して
(本来は 
甘露アムリタ が降下して)

✒️日盛りになったら、

📚煩悩が燃えれば
(本来は
地輪クンダリーニ が燃えれば)

✒️山をゆする声になるのであろう。

📚からだふるえてエクスタシーの声を
(本来は 意成身マノーマヤ・カーヤ
肉体から離脱する
音を聴く)

✒️この時 只一人坂道を登って来て、
七人の娘の背後に立っている娘がある。

📚森鴎外自身か?

✒️第八の娘である。
背は七人の娘より高い。

📚『明治東京恋伽』🌟では、
森鴎外の身長は176cm

✒️十四五になっているのであろう。

📚鴎外が評壇の先頭に立った年から十四五年

✒️黄金色の髪を黒いリボンで結んでいる。

📚ディアンドル🌟か?
(あるいは
コアフ🌟か?)

✒️永遠の驚を以て自然を覗いている。

📚日本の自然主義文学の最盛期の時流を観る

✒️唇だけが ほのかに赤い。

📚日本の高踏派文学の特徴

✒️小さい杯である。

📚日本の高踏派文学の作風

✒️どこの陶器か。
火の坑から流れ出た熔巌の冷めたような
色をしている。

📚日本の高踏派文学の由来か?

✒️第八の娘は、藍染の湯帷子の
袖と袖との間をわけて、
井桁の傍に進み寄った。

📚日本の反自然主義文学の文壇へのデビュー

✒️七人の娘は、この時 始て
この平和の破壊者のあるのを知った。

📚日本の反自然主義文学作品に対する
自然主義文学の作家たちの違和感

✒️そして その琥珀色の手に持っている、
黒ずんだ、小さい杯を見た。
思い掛けない事である。

📚日本の反自然主義文学作品の出版活動

✒️七つの濃い紅の唇は
開いたままでことばがない。

📚日本の反自然主義文学作品に対する
自然主義文学の作家たちの思案

✒️蝉は じいじいと鳴いている。
やや 久しい間、
只 蝉の声がするばかりであった。

📚文芸界の動向に無関係な
人間社会の求愛活動

✒️一人の娘が ようようの事で こう云った。
「お前さんも飲むの」

📚日本の自然主義文学の作家たちによる
反自然主義文学の活動確認

✒️「まあ、変にくすんだ色だこと」
「これでも瀬戸物でしょうか」
「石じゃあないの」
「火事場の灰の中から
拾って来たような物なのね」

📚日本の高踏派は
人間社会の劫火の意味を問い、
真理を発見する文学

✒️「墓の中から掘り出したようだわ」

📚日本の高踏派は死の練習Meletē Thanatou
死に対しての精神的な修養)の文学

✒️七つの喉から銀の鈴を振るような
笑声が出た。

📚世俗離れの作風に対しての高踏派への批判

✒️第八の娘は両臂を自然の重みで垂れて、
サントオレアの花のような目は
只 じいっとくうを見ている。

📚サントオレアは ドイツの国の花🌟
フランスの国花としても扱われている)🌟
没理想の重みを背負いながらも
「邪悪な目」から身を守って実相をている

✒️一人の娘が又こう云った。
「馬鹿に小さいのね」

📚小さいのは ❝少欲知足❞ 🌟の象徴

✒️今一人が云った。
「そうね。こんな物じゃあ
飲まれはしないわ」

📚今一人は
「充分に欲望を満たせない」と言う

✒️今一人が云った。
「あたいのを借そうかしら」

📚今一人が
自我エゴの叶え方を教えようか」と言う

✒️愍の声である。

📚可哀想だから…

✒️第八の娘の、今まで結んでいた唇が、
この時 始て開かれた。
“MON. VERRE. N'EST. PAS. GRAND. MAIS. JE. BOIS. DANS. MON. VERRE”

📚アルフレッド・ド・ミュッセ🌟の
詩劇 “La Coupe et les lèvres”🌟 
からの
引用か?🌟

✒️沈んだ、しかも鋭い声であった。

📚忍耐を完成する誓いの声🌟

✒️七人の娘は可哀らしい、
黒い瞳で顔を見合った。

📚七人の娘は意味を理解出来ない

✒️言語が通ぜないのである。

📚べつ🌟を与えられたのである

✒️言語は通ぜないでも好い。

📚YOGAの真理の実践が
理解されなくても好い

✒️第八の娘の態度は
第八の娘の意志を表白して、
誤解すべき余地を留めない。

📚正しくYOGAを実践する取り組みに
聖なる誓いが叶わない道理は
ありえない

✒️一人の娘は銀の杯を引っ込めた。
自然の銘のある、耀く銀の、
大きな杯を引っ込めた。

📚一人の娘は
自我の叶え方を教えるのをめた

✒️今一人の娘は黒い杯を返した。
火の坑から湧き出た
熔巌の冷めたような色をした、
黒ずんだ、小さい杯を返した。

📚今一人の娘は
 ❝少欲知足❞ の実践を容認した

✒️第八の娘は徐かに数滴の泉を汲んで、
ほのかに赤い唇を潤した。

📚第八の娘は
人生を ❝少欲知足❞ に留めて、
愛の実践こそが
人間を救うと信じた




 加えて、次に貼り付けた Bob Lady による『杯』の全文+千億祥也の聖別解説 の🎙️朗読を聞きながら、✒️ ❝『杯』に登場するアイテム ❞ と 📚 ❝ 現実に出現するアイテム ❞ が 同時進行Real timeで 相互に影響し合う 時空間的関係を 比較検討したい。読者は Bob Lady による『杯』の全文🌟の朗読の 追っかけ黙読Silent Shadowing🌟の実行と これら二者の 時空相待space-time dependency🌟を捉えて欲しい。

 なお、この音声配信の挿入曲は 伝統ヨガ芸術プロダクション所属アーティストの千億祥也 作曲による神秘ヨーガ音楽作品である。また、「湯帷子」🌟の漢字の読みは 基本的に「ゆかたびら」だが、現代では「ゆかた」と読ませるのが一般的になっている。ただ  Bob Lady は 明治時代の風情ふぜいに重きをき「ゆかたびら」と読んでいる。


[楽曲バージョン名]
森鴎外著作の短編小説『杯』の
Bob Ladyによる朗読及び
千億祥也による聖別解説と音楽

[Creative work ID]
98dfa568-9c6d-4c3e-b5f5-0bbe08ec79c0

[Blockchain 登録日時]
2026年01月15日 JST 12時 04分 41秒

[解説文と音楽の著作者]
聖別解説 📚 & 音楽🎼 & 演奏🎹
千億祥也
徘さまよい人の夜の歌 』 Op.100
ヨーガのふる里』 Sound ver.

[朗読とカバー画像の著作者]
朗読🎙️& カバー画像🖼️
Bob Lady

著作権者
🌞伝統ヨガ芸術プロダクション




森鴎外著作の短編小説『杯』の
Bob Ladyによる朗読及び 
千億祥也による聖別解説と音楽の
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 いざ、読者は 想像力をはたらかせやすくなるだろうか? 🤩 こうして ❝複合現実❞ や ❝時空相待❞ の姿を あぶりしてると、ミッフィー の異次元的存在と重なる。


 神秘ヨーガ芸術主義のテーマの一つである 共感覚synesthesia🌟を発動させる千億祥也の芸術作品と類似する光景だ。ところが、鴎外は 芸術を「主義」ではなく「個人の内生活の表現」としている。たしかに、「芸術が人の内生活を主な対象にする」なら、個人主義🌟と云う多義的な言葉だけでは 意義を説明しきれない側面がある



 近ごろは自然主義ということが話題に上ることが少なくなって、その代りに個人主義ということが云々せられる。
 芸術が人の内生活を主な対象にする以上は、芸術というものは正しい意義では個人的である。この意義における個人主義は、哲学的に言えば、万有主義と対している。🌟家族とか、社会とか国家とかいうものを、この個人主義が破壊するものではない。
 Stirner(マックス・シュティルナー)🌟の人生観のように、あらゆる観念を破壊して、跡に自我ばかりを残したものがあって、それを個人主義とも名づけたことがある。あれは無政府主義の土台になっている。しかしあれは自我主義である。利己主義🌟である。
 利己主義は倫理上に排斥しなくてはならない。個人主義という広い名の下に、いろいろな思想を籠めておいて、それを排斥しようとするのは乱暴である。
 無政府主義と、それといっしょに芽ざした社会主義との排斥をするために、個人主義という漠然たる名をつけて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜しむべきことである。
 学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。

引用元:青空文庫作成ファイル
文芸の主義』森鴎外 より

 

 つまり、伝統 YOGA における個人主義も、絶対的な真理🌟の探究が前提にある以上、家族とか、社会とか、国家とか云う秩序を破壊する運動ではないのである。あるいは また、汎神論などの万有主義が 個人の内生活のYOGA の実践に神性や仏性を認めて 聖なる創造を実現するなら、個人主義に真理が覚醒する正しさも理解出来よう。

 たとえば、インド哲学において、プルシャとプラクリティの二元論を説くサーンキャ学派🌟と、ブラフマン一元論を説くヴェーダーンタ学派🌟は、思想的に対照的な立場をとったが、両学派のYOGA 行者は、心の働きを止滅させるための実践🌟を共通して行う。端的に言えば、実在の本質に関する根本的な哲学的主張に違いこそあれ、どのような哲学体系であろうが、その背後に絶対的な真理が存在する限り、YOGA を正しく実践する以上、同じ最上の悟りの成心に至るのである。これが、神秘ヨーガ芸術主義の主張なのだ。(この主張は 2026年1月現在、インド哲学の学術的な定説とは異なるので ご注意ください。)

 一方、現代の世相とあいれない一部の宗教家の思想や、YOGA 聖典の教えの普遍性を検証しない 教養俗物🌟たちの無責任な見解、更に 自己中心的(独善的)な利己主義は、家族や社会、ひいては 国家を破壊する要因にりかねない。

 すなわち、ここに表現されている個人主義は 自分勝手な利己主義や無政府主義ではないのだ。「自分らしく生きる」「自分を大切にする生き方」などと言いながら 他者とのひずみをつくっているなら、それは 利己主義である。自分の愚かな信念や言動によって自分自身を苦しめて、限りなく自分を不幸にしているなら、それもまた 利己主義である。

 はからずも、『杯』において 自然主義などと云う没理想に限定された銀の大きな杯を持つ者たちの背後にさえ、仮に 絶対的な真理が存在するなら、世俗の現実をうしなった火のあなから流れ出た熔巌ようがんめたような色の小さな杯で 泉の清水しみずを飲もうとけ入って げたそばに進み出る者を、ただただあわれんでいるのであって、「そうか?」と助け船を出してまで、慈悲深い救いを絶えず発信しているのである。🤭

 けれども、どんなにあらがっても、この世俗世界にっては、虫は虫でしかなく、人は人でしかない。そう云う現実を越えていく真理に向かう文学があっても 良かろうと思う。それは 鴎外の意図ではないかもしれない🌟が、西山には、社会の矛盾や運命を受け入れて その中で個としての矜持きょうじを保つだけではなく、聖教量における Speculationスペクラチオン が、この『杯』の根底にあるように 思えてならない。

 以上のように「個人の内生活の表現」を 神秘ヨーガ芸術主義の運動に 結び付けたい 西山なのである。🥳

 美しい日本と私(個人)が、測り知れないかなしみのふちへと沈んでいくうれいを打ち立てて、芥川🌟にしても太宰🌟にしても、三島🌟にしても、川端🌟にしても、自死を択ぶべきでは無かった。今は 、その哲学的解決策を 森鴎外の『柵草紙の山房論文』の考察にゆだねたい。

 

 
 虚心になりて世界を見よ。そこに哲學あらむ。平氣になりて文學の現勢を見よ。そこに評論あらむ。さとりは大道なり。まなびは迂路なり。まことや成心は悟の道の稻麻竹葦たうまちくゐ🌟にして、學の路の荊棘けいきよくなれば、誰かはこれを破り、これを除かむことを欲せざらむ。りとて理を談ずるを聞くことだに能はざる世の昧者まいしやに、成心あらせじと願ひて、唯實を記したるのみを見て悟れといはむは、おそらくは難題ならむ。早稻田文學が文壇の牛耳をとりて大道を説くは善し。われあに其意を取らざらむや。されど其言はすなはちわが取らざる所なり。故いかにといふに、早稻田文學は讀者の沒理想をいのちにして言を立つといへど、所謂沒理想は沒理想にあらずして、沒成心なればなり。 

 (中略)

 夫れ絶對には是非もなければ彼我ひがもなし。されどその能く是非なきものは何ぞや。その能く彼我なきものは何ぞや。答へていはく。空間を脱したればなり。時間を離れたればなり。質といひ、絶對といふものは顯象(事相)にあらざればなり。
 絶對の相對を現ずるや、空間は彼我を立て、時間は後先をなす。既に相對あり、彼我後先あり。この顯象世界の中、いかでか是非なきことを得べき。佛家🌟はこれを體象力といひ、ハルトマン🌟はこれを質用といふ。シヨオペンハウエル🌟が所謂いはゆるプリンチピウム🌟、インヂヰヅアチオヽニス🌟」は空間時間をこの理より視たるなり。
 こゝに此顯象世界の法廷にありて裁判をなさむとするものあり。又此顯象世界の文壇にありて批評をなさむとするものあり。その宣告、その評論は縱令たとひ絶對の上よりしても實相を撥無はつむすべからず。盜む者と盜まるゝ者と、みな是なり、皆非なりといひてはおそらくは裁判にはなるべからず。論理を守るものと、論理を守らざるものと、皆是なり、皆非なりといひてはおそらくは批評にはなるべからず。

引用元:青空文庫作成ファイル
柵草紙の山房論文』森鴎外 より


 ※ なお、この記事において、🌟のしるしのあるリンク先の解説文やAIの回答の引用は 西山の記事の投稿の便宜を図るものに過ぎず、正確性や普遍性、信頼性、安全性などを保証するものではありません。



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【参考動画】


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