「科学」の見落とすもの
コロナ禍では「科学的」にというにわかに降って出たワードが(主に科学者ではなく)政治家から連発され,「エビデンス」という言葉が濫用され,ご都合主義にまみれた「科学」の使われ方にうんざりした人も多かったのではないだろうか.
多くの一般人は「科学」と言われると物理や化学といった実験科学のことを連想する.観察事実から仮説を組み立て,仮説を検証するために繰り返し実験を行い,再現性と反証可能性を確認しながら応用可能な普遍的な真理の解明へと発展させていく,あの「科学」のことである.しかし政治や社会の領域で使われる「科学」とは、このような実験を中心とする自然科学とは似ても似つかぬような代物であって,共時的・通時的普遍性に乏しく,思想性や偏りが完全には排除できず,反証されうる余地が高いものであることはちゃんと認識しておいたほうがいいだろう.
これは社会科学の研究対象が「移ろいゆく人間」を対象にしているという学問上の特性によるものであって,決して社会科学者が無能なわけではなく、そのような特性を関係者が全員認識した上で発展させていくのならばなんの問題もないことだ。しかし、どうも最近の政治や人文社会科学界隈における「科学」の使われ方は上記のような社会科学の限界や特性を隠し,全く別物である自然科学の権威を借りて,学者自らが一般人へのマウンティングや思想の押しつけを行っているようにしか見えず,学者としての誠実性や倫理性に欠ける行為だと思う。
そして公衆衛生や理論疫学など今回のコロナ禍で注目と批判を浴びた分野は、自然科学と定義される医学の中でもかなり社会科学に近く、用いられる研究手法も社会科学的なものであるということは指摘しておかなければならない(疫学の西浦教授の研究に専門的な議論を投げかけたのが経済学部教授であった点がそれを物語っている)。
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自然科学と社会科学の違いはいろいろあるが,私は最大の違いは条件を完全にコントロールした「実験」を行えるかどうかだと思っている.今年のノーベル経済学賞は自然実験に関するものだったが,これは裏を返せば「実験」する手法を開発したというだけでノーベル賞になってしまうほど,社会科学の領域では「実験」を行うことが難しいということを意味している.
「実験」が行えないことの最大の弊害は「研究対象バイアス」を解消できないことだ。
自然科学の領域では概ね以下のような手順を取りながら真実が解明されていく。
(1)研究者がある事象に興味を持って(■)、観察して法則性に気づいたり、事象に何のパラメータが影響しているのかという問いを持つ
(2)事象に関与しうるパラメーターを研究者が想起して洗い出し(■)、観察研究をして統計学的に有意となる強い相関や因果関係を持つパラメーターを特定する
(3)得られた観察研究の結果から、パラメータと事象に関する仮説を組み立て、パラメーターを人為的に変更することで予想される変化が生じるのか、条件をコントロールした実験を行う(▲)
(4)さらに考えられうる反論や事象に関与する別の重要因子を除外するため、多面的かつ複数の実験を行い、反証可能性を一つずつ潰していく(▲)
(5)再現性が確認され、多くの研究者がその結果に納得し、他に考えうる重要なパラメーターが存在しないと多くの学者が合意したとき、ある事象に対して特定のパラメーターが主要な因果関係にあることが学術界での確立した知見と認識される
(6)学術界での知見を踏まえて一般社会でその知見が技術として応用され、確立された理論が現実世界でも耐えうる理論かどうかが実践的に実証される(▲)
社会科学では(1)(2)までは行うことができるが、実験が困難であるために(3)以降のプロセスを経ることが仕組み上極めて難しい。
実は自然科学も決して完璧な学問ではなく、(■)で示したようなプロセスにおいて研究者の研究対象バイアス(=選択バイアスの一部)が少なからず入り込むものだ。
例えば研究者が興味を持つ事象やパラメータは、「人間が観測しやすい環境において」、「人間が認識したり想起できる範囲内」に限られる。近世までの世界では光に近い速度で運動する物体など、到底人間の認識できる範疇を超えており、そのような運動において時間の尺度が変化する可能性というのは到底想起できなかっただろう。しかし、産業革命以降に今までとは桁違いの動力源が生み出されると、光の速度で移動する物体という思考実験できるほどに人々の世界に対する認識範囲が広がった。その結果としてアインシュタインが相対性理論を提唱する下地ができたのだ。
そして昨今の学術界では科学研究にも短期的な成果が求められるため、研究者が関与するパラメータを想起する際は、「測定しやすく」、「有意差がつきやすい」と研究者自身が考えるパラメータを選んでしまうことが多い。あまりに複雑で測定が難しいパラメータを選ぶといくら研究時間があっても成果が出ない。そのような点で、見落としがちな因子が生まれやすい環境にある。
しかし、幸いなことに自然科学にはこのようなバイアスを事後的に除外していく何重もの機会がある。それが(▲)で示したプロセスだ。観察研究で得られた知見を実験で人為的にコントロールして検証することで、理論の裏と表を両方検証することになり、もしも想定された結果とは異なる実験結果が得られれば、研究者が想起できなかった別のパラメータの存在に気づくことができる。さらに条件がコントロールされた実験環境下での知見が、実社会で「技術」として応用される過程の中で、リアルワールドでもその知見が普遍的で応用可能なものであるか、知見の限界がどの辺りにあるのかということを実証的に検証することができる。
具体的には「ある理論に基づいて開発した薬物を実際に患者に投与してみると、たしかに理論通りの効果はあるが、予期せぬ別の副作用が強すぎてその効果を打ち消してしまった」などの事例が医学領域では数え切れないぐらい多く発生している。いくら学術的には正しい理論でも、そのような結果がでればそのような薬は世に出ていくことはできない。
自然科学では上記のような何重もの研究対象バイアス検証を潜り抜けたものだけが、「科学的に検証されて確立された技術」として社会に出ていく。だから「科学」は多くの人に信頼される
しかし、社会科学には(▲)で示したようなバイアスを解消するプロセスがないか、極めて脆弱であるがゆえに、潜在的な限界が数多くある。それは学問上の特性なのでやむを得ない側面もあって、そのような足元が不安定で穴だらけの状況でも象牙の塔の中でより確実な知見を得ようと地道に努力している学者は多い。無論、その知見を社会に出して政策に応用するためには、自然科学以上に慎重な姿勢や説明責任が求められることは言うまでもない。
しかし、いま人文・社会科学の一部学者や米アカデミアを中心とする「リベラル」勢力が企んでいることは、このような限界だらけで不完全な社会科学や人文学に関する一部の知見を「統一された正義」「正しさ」として一般人に上から目線で押し付け、批判を行う人々を炎上やキャンセルカルチャーで無理やり黙らせたり、「科学」の権威のもとに秘密裏に社会システムに組み込もうとする行為である。
そしてそれに積極的に加担してきたのがTwitter住人やリベラル論壇であり、立憲民主党や共産党など今回の衆議院選挙で「大衆」からそっぽを向かれた勢力である。大衆は言語化は難しいかもしれないが、彼らの行おうとしている企みを注意深く観察し、NOを突きつけた。
社会科学における知見をより早く社会に届けたければ、人文・社会科学者はTwitterで市民批判を行う前に、科学倫理に基づき、説明、同意と自由意思の原則もとで市民参加の小規模な社会実験を繰り返すべきである。それが難しければ少なくとも自然実験に基づく研究をもっと充実させるべきだ。こうした実験の中で、自らが提唱した理論や政策に、想定していなかった負の側面や見逃していた交絡因子がないかを検証していく必要があるだろう。そしてそもそも学術界の知見自体が解析しやすい特定の属性の人々を対象としたものに偏っていないのか、繰り返し批判的吟味を行う必要がある。
そしてEBPMは日本にはまだ時期尚早である
日本の法体系や行政システムは制定法を中心として無謬性を原則としている。学生時代に中央省庁にインターンに行ったときに感じたのだが、過去の答弁や一度採用した理屈に矛盾がないように論理を組み立てるのが官僚たちが最も重視することであり(私は審議会の根回し同行や椅子運びなど体を動かす作業を主にやっていたのが、同時期に来ていた別部署のインターン生は過去の国会答弁をひたすら読むトレーニングをさせられていた)、大きな事件や政治的判断がなければ、その理屈を官僚が積極的に覆すことはない。
しかし科学理論は(▲)のような検証を繰り返す中で随時修正され、場合によっては撤回されることもある生き物のような性質を持つ。今回のコロナ対策でも「新型コロナは飛沫感染のみで空気感染しない」といった初期の知見がなかなかアップデートされないまま政策が継続された結果、本来防げた感染が防げなかったケースが散見された。
行政の無謬性と「科学」は水と油ほどに相性が悪いものであり、社会科学の知見を今の行政制度のまま政策に落とし込んでいきたいと考えるならば、後で理論が撤回・変更されることが99.9%ないと言えるほど、充分に実験で吟味されている科学的知見のみをまずは適応対象にするなど、他国にはない相当な慎重さが必要だ。
正直なところ、今の日本には行政側にも、学術界側にもそのようなプロセスを踏めるだけの素地が整っていない。アメリカですら「科学的に」を印籠のように連呼するバイデンの姿勢を見ていても、それが充分に整っているとは思えない。このような状況下で「正しさ」の押し付け同様、無理にEBPMを推し進めれば、そのリスクや限界を知らされないまま、思わぬ大きな不幸や不平等を被る人が多く発生してしまうだろう。それははっきり言って科学の倫理に反しているし、EBPMの正当性に疑義を生じさせせるものだ。
「科学」、特に人文・社会科学はその限界と特性を、関係する人々が全員認識した上で応用する必要がある。分野内で蓄積してきた議論自体が、実験が難しいゆえに実は脆弱な基盤に基づくものであったことを認識し、できる限り思想性や政治性を排した環境下で、市民を馬鹿にすることなく説明責任を果たし、可能な範囲で「実験」を交えながら真摯に議論していくことが、人文・社会科学系の学者には求められていると思う。
