親方、話それてますよ|アルテミス2が塗り替えたアポロ13号の失敗記録
「親方、見ました? アルテミス2。月の裏側まで行ったって」
「おう、ニュースでやってたな。40万キロだろ? すごい話だ」
「40万6771キロですよ、正確には。人類最遠記録の更新です」
「……若よ。うちの出張溶接、一番遠い現場どこだった?」
「え? 三重の四日市じゃないですか」
「片道80キロだ。往復で160キロ。40万キロってことは……2500往復分か」
「そういう換算します?」
「しかしな、若。おれが気になったのは距離じゃない」
「はい」
「55年前の記録を抜いたって話だ。アポロ13号。あれ、知ってるか?」
「映画にもなったやつですよね。トム・ハンクスの」
「そう。あのミッション、失敗なんだよ」
「……え?」
「月に着陸するはずだった。ところが途中で酸素タンクが爆発した。着陸どころじゃない。なんとか月の裏側をぐるっと回って、地球に帰ってきた」
「それは知ってます」
「つまりな。あの記録は目指して出した記録じゃない。帰るために、たまたま遠くまで行っちゃっただけだ」
「……たしかに」
「それが55年間、誰にも抜かれなかった」
「親方、なんか深い話になってきましたね」
「溶接でもあるんだよ、こういうこと」
「出た」
「笑うな。いいか、うちが昔、とある食品工場のステンレス配管をやったときの話だ」
「はい」
「指定された溶接材がどうにもうまく乗らない。結局、夜中までかかって、何度もやり直した。正直、あれは失敗だった」
「……」
「でもな。なんでうまく乗らないか調べたら、指定の材料自体が配管の素材と合ってなかったんだ。うちが苦労したおかげで、設計のミスが発覚した」
「それ、結果オーライじゃないですか」
「ちがう。失敗したからこそ、見つかったんだ。最初からスッといってたら、数年後に配管が割れてたかもしれない」
「で、その工場、それからずっとうちに頼んでくれてるだろ」
「あ……たしかに」
「失敗の記録ってのはな、消えないんだよ。でも、消えないからこそ、信頼に変わることがある」
「……」
「アポロ13号も同じだ。月に降りられなかった。でもあの失敗があったから、NASAは帰還の技術を死ぬほど磨いた。55年かけて、やっとその記録を正面から塗り替えにいった」
「アルテミス2は、ちゃんと狙って抜いたわけですもんね」
「そういうこった」
「親方、話それてますよ」
「……それてないだろ、今日は」
「いや、宇宙の話が溶接になってる時点で、だいぶそれてます」
「若よ。40万キロ先に人が行ける時代に、80キロの出張で文句言うなよ」
「言ってないです」
「……でもな」
「はい」
「失敗の記録を塗り替えられるのは、また挑戦したやつだけだ」
「……それは、宇宙も溶接も同じですか」
「同じだ」
「……親方、今日はちょっとカッコいいですね」
「うるせえ。明日の現場の準備しろ」
55年間、誰にも抜かれなかった記録。 それは、失敗の記録だった。
でも、失敗は終わりじゃない。 いつか誰かが、正面から塗り替えにくる。
その「いつか」が来るまで、記録は静かに待っている。
あなたの現場にも、まだ塗り替えられていない記録が、あるかもしれない。
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