『星ヨミ樹の世界』 第3話 二杯のスープ
第3話 二杯のスープ
フィオナは、まだ何が起きたのか
よくわかっていなかった。
体の奥まで凍えていた感覚は、
もうなかった。
今はやわらかな灯りと、
淡い薬草の香りがある。
「ええええええ!?」
観測舎に、シロルの声が響いた。
白い兎は、長い耳を
ぱたぱたさせながら、
ナビエルの腕の中を
まじまじと見つめている。
「だ、だれ!?その子だれ!?
なんで抱っこしてるの!?」
少し離れた棚の上で、
ミロがしっぽをふりふりと揺らした。
扉を閉めながら、ナビエルは言った。
「……少し落ち着け」
腕の中のフィオナは、
ぼんやりと二匹を見ていた。
白くて、まるくて、
落ち着きなく耳をぱたぱたさせる、
マリンブルーの瞳のたれ耳の兎。
ふわふわの銀灰色の毛並みに、
エメラルドグリーンの瞳をした猫は、
気だるそうに見えて、
こちらをじっと観察している。
ナビエルは部屋の奥のソファまで歩き、
フィオナをそっと下ろした。
その途端、シロルが耳をぱたぱた
揺らしながら跳ねてくる。
「妖精みたい……!ちいさい……!
きらきらしてる、かわいい……!」
ミロがしっぽをひとつ揺らした。
「シロル、近い」
けれど、その声より先に、
ナビエルの手が
シロルの頭をかるく押さえた。
「静かに、弱っている」
「むきゅっ」
シロルの耳の先が、ぴこん、と跳ねる。
フィオナは思わず目を瞬いた。
冷たい声なのに。面倒そうなのに。
その手つきは、少しも乱暴ではなかった。
ナビエルはソファの背に掛けてあった
淡い毛布を取った。
無言のまま、フィオナの肩へかける。
「……冷える」
それだけ言って、もう視線を外す。
シロルは耳をぱたぱたさせたまま、
フィオナの足もとを見上げた。
「ねえ、寒くない?おなかすいてない?
いたいところある?」
ミロは棚から降りてきて、
フィオナから少し離れた場所に座った。
しっぽは相変わらず、
ふりふりと揺れている。
「いっぺんに聞いたら、わかんないでしょ」
「だって気になるんだもん!」
「見ればわかる。すごく弱ってる。
消えてしまいそう」
フィオナは、
二匹のやりとりをただ見ていた。
やがてシロルが、小さなカップを
両手で抱えて戻ってきた。
「はいっ。これ、おいしいよ!
エルの特製スープだよ!
独特な味だけど、元気出るよ」
急ぎすぎたせいで、危うくつまずく。
「わ、わ、わっ」
ミロが素早く前足を出し、
カップの底を支えた。
「だから落ち着いてって言ったのに」
「えへへ……」
「笑ってごまかしてる」
フィオナは、
おそるおそるカップを受け取った。
両手で包むと、
じんわりとあたたかい。
そっと口をつけると、ほのかな甘みと
花のようなやさしい香りが広がった。
「……おいしい」
つぶやくように言うと、
シロルの耳がぱたぱたと揺れた。
「でしょ!」
そのとき、
部屋の奥でかすかな光がまたたいた。
フィオナが顔を上げる。
観測舎の中央には、
大きなデスクがあった。
その上には、透明な星図のような
パネルが浮いていた。
周囲には、光る鉱物を入れた瓶や、
細いガラス管、透きとおった球体、
星の胞子を集めた小さな器が並んでいる。
さらに奥の透明なケースの中では、
青い葉の植物がゆらゆらと、
宙に浮かんでいた。
窓辺には、
光をためたような蔓がたれている。
そのそばの瓶の中では、
星の赤ちゃんのような小さな光が、
ときどき、ふわりと揺れた。
大きな窓の向こうには、
白く光る星ヨミ樹。
その光を受けながら、
ナビエルが記録を始めていた。
細い指先を星図の上へ静かにかざす。
すると、青白い星字が宙に淡く浮かび、
星図のまわりへ静かに重なっていく。
まるで星明かりそのものが、
人の姿を借りているみたいだった。
フィオナは、
しばらくその様子に魅入っていた。
冷たい人だと思った。
何を考えているのか
わからない人だとも思った。
けれど――
その横顔は、
どうしようもなく美しかった。
ただ何かを記録しているだけなのに、
その姿から目をそらせない。
なぜか、もっと見ていたいと思ってしまう。
胸の奥に、
小さな波紋のようなものがひろがる。
「……見とれてる?」
ミロの声に、フィオナははっとした。
「……え」
ミロはしっぽをひとつ揺らす。
「エル、観測や記録をしてるとき、
きれいだから」
シロルも耳をぱたぱたさせながら、
うんうんと頷いた。
「わかる!ふだんはこわいのにね!」
その言葉に、
デスクの向こうから声がした。
「聞こえている」
「ひゃっ」
シロルの耳の先が、びくっと跳ねた。
でも、ミロのしっぽは
楽しそうにふりふりしている。
フィオナはその光景を見て、
また少しだけ胸の力が抜けた。
やがて、ソファから降りたフィオナは、
ふらりと窓辺のほうへ歩いた。
シロルが耳をぱたぱたさせながら、
ついてくる。
「だいじょうぶ?歩ける?」
ミロもしっぽを揺らして、隣に並んだ。
「倒れそうなら言って」
フィオナは小さく頷いた。
窓辺には、ひとつの透明なケースが
置かれていた。
その中で、淡い光をまとった
青い葉の苗が浮いている。
近づくと、葉先の光がかすかに揺れた。
フィオナは思わず手を伸ばしかける。
その瞬間。
「触るな」
すぐ後ろから声が聞こえた。
フィオナは小さく肩を震わせた。
いつの間にか、
ナビエルが背後に立っていた。
振り向いたら、
ぶつかってしまいそうなくらい近かった。
フィオナの指先がケースに届く前に、
ナビエルがそっとその手を止めた。
「まだ安定していない。触れないほうがいい」
言い方は少し冷たかったけれど、
指先はやさしかった。
フィオナはゆっくりと彼を見上げた。
ナビエルの青い瞳は、
夜空に星を散らしたように綺麗だった。
怒っているわけではないと、
すぐにわかった。
シロルが耳をぱたぱたさせる。
「エル、その植物、
ずっと元気なかったやつだよね?」
ミロがしっぽをゆらした。
「……さっきより光ってる」
フィオナが、
もう一度ケースの植物を見る。
たしかに、さっきよりも葉の光が強い。
ケースの脇に置かれていた、
星字記録用の小さな鉱石も、
ほんの一瞬だけ淡く明るさを返した。
けれど、デスクやガラス管、
周囲の器まで光りだすことはなかった。
ナビエルはそれを見つめたまま、
手をかざした。
星字が彼のそばにひとつ、
またひとつと浮かび、
観測の記録として残っていった。
「……やはり」
小さくこぼした声は、
独り言のようだった。
「星ヨミ樹につながるものだけが、
反応している」
フィオナは目を伏せた。
自分でもわからない。
何が起きているのか。
でも、シロルは嬉しそうに
耳をぱたぱたさせた。
「すごいね!
フィオナはきっと特別なんだね!」
ミロもしっぽをふりふりさせながら言う。
「……すごいけど、ずっとじゃないみたい。
近くにいるときだけ」
「その通りだ。戻れ」
ナビエルの次の言葉は、
また命令みたいに冷たかった。
でも次の瞬間、
ナビエルはソファまで歩き、
毛布を整えた。
「ここに座って」
フィオナは、
その言葉に少しだけ目を見開いた。
それは、ナビエルなりの
「もう無理をしなくていい」
に聞こえた。
夜は、ゆっくり更けていった。
シロルはフィオナの隣で、
長い耳を頬に沿わせるようにして、
くたりと丸くなった。
「ぼく、ここで寝る!」
ミロは足もとへ静かに座る。
しっぽはゆるやかに、
ふり、と一度揺れた。
「じゃあ、ぼくも」
「ふたりとも、あったかい……」
フィオナがそう呟くと、
シロルの耳がうれしそうに、
ぱた、と揺れた。
「でしょ!」
やがて、フィオナのまぶたが
ゆっくり閉じていく。
もふもふのぬくもり。
やさしい灯り。
窓の向こうの星ヨミ樹の光。
こんな夜があるなんて、知らなかった。
深く沈んでいた心が、
ほんの少しだけ明るいほうへ
浮かび上がる気がした。
そのままフィオナは眠った。
どれくらい時がたっただろうか。
しばらくしてふと目を覚ますと、
観測舎はまだ青白い光に満ちていた。
すぐそばでは、
シロルが長い耳を頬に寄せたまま眠り、
ミロはフィオナの足もとで
しっぽをゆるく揺らしながら、
うつらうつらしている。
その向こうで、ナビエルはまだ何か
作業をしているようだった。
ランプの灯り。星のまたたき。
窓の外の星ヨミ樹。
それらに囲まれて、
ひとり観測を続けている。
指先がわずかに動くたび、
青白い星字が宙にひらいては、
記録の層へ重なっていく。
彼は眠らないのだろうか、
とフィオナは思う。
けれどその横顔には、
疲れよりも、
星を見つめる者だけが持つ
深い静けさがあった。
何を考えているのかも、
やっぱりよくわからない。
でも――
その姿を、
もう少しだけ見ていたいと思った。
すると、
ナビエルがふいに視線を上げた。
フィオナが起きていることに
気づいたのだ。
ナビエルは、鍋の下に置かれた青い石に
そっと触れた。
石の奥に淡い灯りがともり、
琥珀色のスープに、
ゆっくりと湯気が立ち始める。
乾かした花と薬草の香りが、
やわらかく広がった。
ナビエルはスープを器によそい、
フィオナのそばへ置いた。
「これを飲んで」
短いひとこと。
フィオナは器を両手で包んだ。
あたたかい。
今日、二杯目のスープだ。
そっと口をつける。
ほんのり甘いやさしい香り。
体の奥へ静かにしみていく、
ほっとする甘み。
栄養がぎゅっと詰まっているのに、
薬のような苦さはない。
胸の奥まで、あたたかさが
ゆっくり広がっていく。
フィオナは小さく息をついた。
「……やっぱり、おいしいです。
ありがとうございます」
ナビエルは、
少しだけ表情をやわらげたように見えた。
けれどすぐにいつもの無表情へ戻り、
淡々と言う。
「よく効くはずだ」
それだけ言うと、
また観測デスクへ戻っていく。
フィオナは器を胸元に抱えて、
その背中を見つめた。
目頭が、じわっと熱くなった。
二杯目のスープのぬくもり。
毛布のやわらかさ。
そばで眠るシロルとミロのあたたかさ。
そのすべてに包まれて、
フィオナはもう一度、
まぶたを閉じた。
その夜、フィオナははじめて、
深く眠った。
第4話「観測舎の朝」に続きます。
♪おまけ♪
第3話「二杯のスープ」イメージイラスト

深く眠った。
AIを活用し、加筆・調整を行って制作。
世界観・設定・監修:Lunavi / minamiayako
