捨て犬男とノラ猫女:Rainy season 2
犬の散歩をする者、ジョギングをする者、座り込んで話をしている者。皆、雨雲の休みを待っていたのだろう。河川敷には夜の気配が宿っているにも関わらず、不思議な明るさと、和やかさが漂っていた。
「夏の匂いだねえ。草の匂いが濃い感じがする」
美弥子は鼻から息を吸い込み、大げさに吐き出す。確かに河川敷には、湿っぽい土の匂いと、育った雑草の匂いがある。しかしそれは、賢太にとっての夏の匂いとは、違っていた。
日差しに熱された砂浜と、強い潮の香り。それが賢太にとっての夏の匂い。実家は海岸線に近く、年中潮の香りが鼻をくすぐった。夏はそれを一番強く感じた。
――海か……しばらく行ってないな
初夏。早朝の砂浜
ダルメシアンと弟と、父。裸足で砂浜を走った
寄せる波に近づき、弟は足をとられて尻もちをついた
手を取って起こしながら笑った。弟も父も笑った
ただそれだけの事なのに、その時の光景は賢太の中にしっかりと刻み込まれている。あんな日は、もうこないだろう。それがわかっているから、失ってしまわないように、記憶を大事にしまってあるのだろうか。
――何で今……関係ないだろ?
賢太は美弥子に気づかれないように、長く息を吐いた。随分長い間、会話が途絶えているような気がして、焦燥感を覚える。
「あ!」
唐突に。美弥子は立ち止まり、ぱっと体を賢太に向けた。
「花火大会の日、バイト入れるなら早番がいいよ」
「え? あ、えっと、何で?」
「花火大会。ベランダから花火が見えるんだよ」
「花火大会、いつ?」
「九月のはず。八月開催だと暑過ぎるっていうので九月になったみたい。八月のほうが夏っぽいっていうか、花火大会って感じするよね」
「そうだね」
賢太は言いながら、地元の花火大会は十月だったと思い出す。海上から打ち上げられる花火を実家のルーフバルコニーから眺めていた。幼なじみと弟の友達。普段着のままのハウスキーパー。両親も珍しく家にいて、大輪の光の花が咲くたびに、みんなが笑顔を大きくする。大好きなスイカを食べる手が止まるほど、空に目を奪われていた。
――またかよ……
美弥子といて嬉しいはずなのに、家族を思い出す。何故なのだろう。もしかしたら、美弥子に聞いてもらいたいのかもしれない。しかし、過去を聞いてこないから、美弥子といるのが苦ではないのかもしれない。
――それは、あるかも
思って、自分の嫌な部分が顔を出したことに気づく。振り払い、美弥子の話を聞きたい、何か話してくれと願う。
賢太の願いが通じたのか、美弥子は電車の中で目撃した、中年女性のエピソードを話し始めた。関西弁のオバチャンが高校生に一方的に話しかけているといった内容。それが一人漫談のようで面白かったという内容。
続いて、道で見かけた小学生男子が電信柱の「穴」に指を突っ込んでいた謎の行動の話。交通量の多い道路に袋入りのなめこがポツンと落ちていて、それが奇跡的に車にひかれないという話。美弥子はどこかで見た他所の行動や光景を、面白可笑しく話し続ける。表情豊かで声にも抑揚がある。一人芝居を真横で見ているようで全く飽きない。お世辞にも口が達者とは言えない賢太にとって、淀みなく言葉を提供してくれる美弥子は、とても貴重で、ありがたい。
賢太は、美弥子がケンケンやアイデンティティーの話をしなくなったと気づいた。ベランダから見える景色の話は、もしかしたらケンケンからの受け売りかもしれない。しかし、その名は出さなかった。美弥子の中で、ケンケンという存在は過去になったのだろうか。
――もういいのか? ケンケンとは関係なく、部屋にきてるって事なのか?
疑問を音にするのは怖い。賢太が知りたくない答えまで聞こえてしまったら、もう美弥子には会えない気がする。
とにかく今だ。美弥子の音や姿が隣に存在する今を、じっくりと味わいたい。それがいい。賢太は美弥子の言葉に頷き、笑いながら、この時間がずっと続けば良いのにと願った。
空も街も、完全に夜と呼んで間違いのない色合いになった頃、美弥子は虫に刺された、痒い痒いと騒ぎながら、部屋に寄らずに帰っていった。駅近くの商業地域で、手を振って別れる。次の約束はしていない。花火大会の日にやってくるかもしれない。まだ結構先だけど、気長に待てばいい。
――待てるかな……
待てないとしても、会いに行く術はない。それを得ていないのは自分のせい。賢太は時折ため息を零しながら、ゆっくりとした足取りで部屋に向かった。住宅街の細い路地で、犬を連れた中年男性とすれ違う。また家族を思い出す。美弥子のおかげで、いつの間にか家族の事は頭から離れていたのに。
――ずっと、あの声が聞こえたらいいのに
頭の中で、美弥子の声を再生する。途絶えると、そこに家族の姿が入り込む。舌打ち。歩行速度が上がる。アパートの外階段を上る途中で、スマートフォンが震えた。メッセージアプリの着信バナー。送信元は母。
元気?
こちらはみんな元気です。
ちゃんとご飯を食べていますか?
たまには電話くらいちょうだいね。
シンプルな文章は、母の声に変換されて頭に流れ込む。落ち着きがあって聞き取りやすい、アナウンサーのような声。懐かしい。しかし今聞きたいのは、その音ではない。
賢太は返信せず、スマートフォンをポケットに押し込んだ。
