琵琶湖は女神の涙だった──湖北・湖南・湖西・湖東の神々が守る永遠の湖 第九話 湖のほとりの村
若者は
山を越えて村へ戻った。
だがその顔は
いつもと違っていた。
狩人たちは
すぐに気づいた。
「どうした」
「獣でも見たのか」
若者は
しばらく黙っていた。
そして言った。
「海のような水を見た」
村人たちは笑った。
「この山の中に海などあるものか」
だが若者は首を振った。
「海じゃない」
「もっと静かな水だ」
「山より広い」
その言葉に
村人たちは顔を見合わせた。
そんな水を
誰も見たことがなかった。
数日後。
村の男たちは
若者の後を追って山を越えた。
森を抜け、
谷を越え、
そして
目の前の景色を見た。
巨大な水。
空を映す湖。
静かな波。
誰も言葉を出せなかった。
ただ
立ち尽くしていた。
その中のひとりが
小さく言った。
「ここに住める」
水がある。
魚がいる。
山には獣。
森には木。
ここは
命が集まる場所だった。
その日から
人は湖のほとりに住み始めた。
それが
最初の村だった。
湖の水は
豊かだった。
魚はよく釣れる。
鳥が集まり、
獣が水を飲みに来る。
人は
湖の恵みで生きた。
子供が生まれ、
家が増え、
火が灯る。
村は
少しずつ大きくなっていった。
だがその夜。
湖の中心で
光が揺れた。
女神、淡海は
その光の中に立っていた。
湖のほとりに
小さな火が見える。
人間の火。
女神は
それを静かに見つめていた。
四柱の神も
山からその光を見ていた。
伊吹嶺神。
瀬田流神。
比良守神。
鈴鹿照神。
瀬田流神が言った。
「人が来た」
比良守神は
腕を組んだ。
「湖を荒らさねばよいが」
鈴鹿照神は
湖を見つめていた。
「人は光を求める」
伊吹嶺神は
静かに言った。
「だが影も生む」
女神は
何も言わなかった。
ただ湖を見ていた。
湖の水は
静かに揺れる。
その水には
もう一つのものが落ちていた。
人の想い。
喜び。
祈り。
希望。
それらは
水に溶けていく。
女神は知っていた。
人は
この湖を愛する。
だが同時に
湖は
人の悲しみも受け止める。
それが
涙の湖の宿命だった。
村の火は
少しずつ増えていく。
湖のほとりに
光が並ぶ。
それは
人の暮らしの光。
だが女神の涙は
まだ止まらない。
なぜなら
人が増えるほど
湖に落ちる想いも増えるからだ。
それが
この湖の未来だった。

(第十話へ続く)
