琵琶湖は女神の涙だった──湖北・湖南・湖西・湖東の神々が守る永遠の湖 第五話 南の神 ― 瀬田流神
北の守りは生まれた。
伊吹嶺神が
雪と嵐を山で受け止めるようになってから、
湖は静けさを取り戻し始めた。
だが湖は、
まだ不安定だった。
水は増え続けていた。
女神、淡海の涙は
止まらない。
一滴、また一滴。
涙は湖を広げていく。
もしこのまま水が増え続ければ、
湖は山を越え、
大地を飲み込んでしまう。
天は再び考えた。
北は守られた。
だが湖には
もう一つの力が必要だった。
それは
流れ。
湖の南には
細い川があった。
水はそこから
ゆっくりと外へ流れていた。
だがその流れは弱い。
涙が増えれば、
川はすぐに溢れてしまう。
その川は
後に人が
瀬田川
と呼ぶ場所である。
この流れを守るため、
新しい神が生まれた。
南の空に、
光が集まった。
その光は
水面に落ちる。
すると湖の中央から
ひとりの神が現れた。
若い神だった。
長い髪は水のように揺れ、
その身体には
太陽の光が宿っている。
彼の名は
瀬田流神(せたながれのかみ)。
水を巡らせる神。
瀬田流神は
湖を見つめた。
広がる水。
静かな波。
そして
涙を流し続ける女神。
神はゆっくりと
湖面に手をかざした。
すると水が動いた。
湖の水が
南へ流れ始める。
ゆっくりと。
しかし確実に。
その流れは
谷を抜け、
川となり、
遠くの大地へ続いていく。
それが
湖の呼吸だった。
瀬田流神は言った。
「湖は閉じていてはならない」
「水は巡らねばならない」
「命のように」
湖の水は
南へ流れ、
やがて遠くの海へ向かう。
そして雨となり
再び山へ戻る。
それは
永遠の循環だった。
女神は
その流れを見た。
自分の涙が
世界へ旅立っていく。
それは
悲しみではなくなっていた。
命になっていた。
女神は
静かに微笑んだ。
ほんの少しだけ。
それは
この湖が
世界の一部になった瞬間だった。
その日から
湖は溢れなくなった。
水は
瀬田流神の導きによって
南へ流れる。
それが
琵琶湖の命の道となった。
だが守りは
まだ二つ足りない。
西。
東。
湖にはまだ
嵐を受け止める盾がない。
そして
夜を照らす光もない。
次に生まれる神は
西の山。
比良の峰に現れる。
それが
比良守神。
湖西の守り手である。

(第六話へ続く)
