琵琶湖は女神の涙だった──湖北・湖南・湖西・湖東の神々が守る永遠の湖 第十話 湖の恋
湖のほとりの村は
少しずつ大きくなっていた。
朝になれば
男たちは舟を出す。
湖へ網を投げ、
魚を捕る。
女たちは水を汲み、
火を起こし、
村に煙が上がる。
子供たちは
湖の浅瀬で遊ぶ。
その村の中に
ひとりの青年がいた。
あのとき
最初に湖を見つけた若者だった。
彼は
もう立派な漁師になっていた。
ある春の日。
湖の岸に
新しい家族がやってきた。
遠くの山の村から
移り住んできた人々だった。
その中に
ひとりの少女がいた。
黒い長い髪。
湖のように
静かな瞳。
少女は
湖を見て驚いた。
「こんな水、見たことない」
青年は
その言葉を聞いた。
そして
笑った。
「俺も最初はそうだった」
それが
二人の最初の言葉だった。
それから
二人はよく湖に来た。
青年は舟を出し、
少女を湖の真ん中へ連れて行く。
静かな水。
揺れる光。
遠くの山。
湖は
二人の時間を包んだ。
少女は言った。
「この湖、優しいね」
青年は答えた。
「うん」
「この湖は守られてる」
少女は首を傾げる。
「誰に?」
青年は空を見た。
北の山。
南の流れ。
西の峰。
東の光。
だがその話を
少女はまだ知らない。
ある夜。
二人は湖の岸に座っていた。
月が湖を照らしている。
そのとき
水面が揺れた。
白い光が
湖の中心に現れる。
女神、淡海だった。
少女は
息を呑んだ。
「……きれい」
女神は
二人を見ていた。
その瞳は
少しだけ優しかった。
そして
少しだけ悲しかった。
女神は
静かに涙を落とした。
一滴。
その雫が
湖に落ちる。
波が
小さく広がる。
少女は言った。
「湖が泣いてる」
青年は
何も言えなかった。
なぜか
胸が痛かった。
遠くの山では
四柱の神がそれを見ていた。
伊吹嶺神は
静かに目を閉じた。
瀬田流神は
湖を見つめている。
比良守神は
腕を組んだ。
鈴鹿照神は
月の光を落としている。
瀬田流神が言った。
「人は恋をする」
伊吹嶺神が答える。
「そして別れを知る」
比良守神は言う。
「争いも生む」
鈴鹿照神は
静かに言った。
「だが光も生む」
湖の岸で
少女は笑っていた。
青年も笑っていた。
二人はまだ
知らない。
この湖が
喜びも
悲しみも
すべてを受け止める場所だということを。
そして
この恋が
やがて
女神の涙の意味へ
繋がっていくことを。

(第十一話へ続く)
