琵琶湖は女神の涙だった──湖北・湖南・湖西・湖東の神々が守る永遠の湖 第三話 涙は湖となる
太古の空は、今よりもずっと近かった。
山々はまだ若く、
大地は柔らかく、
川は決まった道を持っていなかった。
そして、湖もまだなかった。
そこにはただ、広い窪地があり、
雨が降れば水が溜まり、
乾けば消える――
そんな場所だった。
だがある日、
その大地に静かな変化が起こった。
女神、淡海(おうみ)が
初めて涙を流したのである。
それは激しい涙ではなかった。
怒りでもない。
悲しみでもない。
ただ、静かな涙。
まだ人は生まれていなかったが、
彼女は未来を見てしまった。
人が生きる姿を。
愛し合う姿を。
助け合う姿を。
だが同時に――
争う姿も。
奪う姿も。
自然を傷つけ、
水を濁し、
山を削る未来も。
すべて見えてしまった。
その未来の重さを、
女神はひとりで受け止めた。
そして、涙を落とした。
一滴。
その涙は、大地に染み込んだ。
普通なら消えるはずだった。
だが、その雫は消えなかった。
それは、女神の涙だったからだ。
二滴目。
三滴目。
四滴目。
涙は静かに降り続けた。
すると、大地が変わり始めた。
水は逃げなくなった。
まるで
「ここに留まりたい」と
思っているかのように。
涙は集まり、
やがて小さな水面を作った。
それは、まだ湖とは呼べない
小さな水鏡だった。
その水面は
空を映した。
山を映した。
そして、女神自身を映した。
淡海は、その水面を見つめた。
そこには
泣いている自分が映っていた。
その姿を見て、
彼女は気づいた。
この水は
ただの水ではない。
自分の想いそのものだと。
涙は止まらなかった。
だがそれは、
世界を壊す涙ではなかった。
受け止める涙だった。
涙は溜まり、
広がり、
やがて谷を満たし始めた。
山々の間に水が広がり、
谷が湖となり、
風が水面を揺らした。
それが――
琵琶湖の始まりだった。
だがそのとき、
天は気づいた。
この湖は、
ただの湖ではない。
もし女神が怒れば、
もし悲しみが溢れれば、
この水は世界を飲み込む。
それほどの力を
すでに持っていた。
天は決めた。
この湖には
守りが必要だと。
四つの方角に、
神を置くことを。
北。
南。
西。
東。
四柱の男神。
彼らは、
女神を閉じ込めるためではなく、
共にこの世界を守るために
生まれることになる。
それが、
湖北・湖南・湖西・湖東の神々である。
だがまだ、
彼らは現れていない。
四柱の神がこの地に立つのは、
もう少し後のことになる。
女神の涙が、
本当の湖となったそのとき――。

(第四話へ続く)
