琵琶湖は女神の涙だった─湖北・湖南・湖西・湖東の神々が守る永遠の湖 第八話 最初の人
四柱の神が揃ってから、
湖は静かになった。
北では
伊吹嶺神が吹雪を抑え、
南では
瀬田流神が水を巡らせ、
西では
比良守神が嵐を受け止め、
東では
鈴鹿照神が夜を照らす。
湖は完全な守りを得た。
女神、淡海の涙は
いまも静かに湖へ落ちている。
だがその涙は
もはや悲しみだけではなかった。
湖は
命を育て始めていた。
水の中に
小さな命が生まれる。
魚。
水草。
鳥。
そして
山には獣が現れる。
湖は
世界の一部になっていった。
だがまだ
人はいなかった。
この湖を
見る者はいなかった。
ある日。
東の山の奥で
ひとりの若者が迷っていた。
彼は狩人だった。
鹿を追い、
山を越え、
深い森へ入り込んでしまった。
夜が近づいている。
森は暗くなり、
風が冷たくなる。
若者は歩き続けた。
すると突然
森が開けた。
目の前に
巨大な水が広がっていた。
若者は
立ち止まった。
見たことのない景色だった。
山よりも広い水。
空を映す水。
静かな波。
そして遠くには
赤い鳥居。
若者は
言葉を失った。
「……海?」
だが違う。
波は穏やかで、
潮の匂いもしない。
それは
湖だった。
そのときだった。
湖の中心で
光が揺れた。
水面の上に
白い影が現れる。
長い髪。
白い衣。
そして
涙を流す女神。
女神、淡海だった。
若者は
膝をついた。
言葉が出ない。
ただ
その姿を見ていた。
女神は
ゆっくりと若者を見た。
そして
優しく微笑んだ。
「あなたが、最初の人」
その声は
水のように静かだった。
若者は言った。
「あなたは……誰ですか」
女神は答える。
「この湖」
「そして涙」
若者は
理解できなかった。
だが
なぜか怖くはなかった。
湖の風は
優しかった。
月の光が
水面に揺れている。
遠くの山では
四柱の神が
静かに見守っていた。
女神は
湖を見つめた。
そして
若者に言った。
「この湖を、見ていて」
「人はここに来る」
「たくさん来る」
若者は聞いた。
「なぜですか」
女神は
しばらく黙った。
そして
静かに言った。
「人は、水を求めるから」
だがその言葉の奥には
もう一つの意味があった。
それは
まだ誰も知らない。
その夜。
人間は
初めて琵琶湖を見た。
それは
新しい物語の始まりだった。
女神の涙は
これから人と共に
流れていく。
喜びと。
悲しみと。
愛と。
争いと。
すべてを抱きながら。

(第九話へ続く)
