【連載小説】第二話「最後の選考」ジャンヌ・ダルクの残心
放課後の道場に、耳が痛くなるほどの静寂が張り詰めていた。
試合が始まるまでは。
来週に迫った地区大会・団体戦のメンバーを決める、最後の選考会。
三連覇という看板を背負ったこの部にとって、予選落ちは許されない。
その重圧は、部長である凛の肩に、鉛のように居座り続けていた。
次鋒候補、橘さくらと二年生の柏木遥。
周囲の予想を裏切り、試合は泥沼の激戦と化していた。凛は審判台の横で、膝の上に乗せた拳を血の気が引くほど握りしめ、二人を注視していた。
(さくら、いい……。今の受け、完璧だった)
さくらの剣は、十年以上の蓄積が、今日という日に結実していた。
高校から剣道を始め急成長した柏木の「異質なまでの天性」を、さくらの長年の経験に基づいた巧みな間合いで封殺し、何度も柏木を土俵際まで追い詰める。
守りの手堅さがさくらの持ち味だった。
派手さはない。
でも崩れない。
三年間、一日も休まなかった積み重ねが、鉄壁の間合い管理となって柏木の前に立ちはだかっていた。
対する柏木の肩は激しく上下し、面金の奥の瞳は焦燥に焼かれていた。
初心者の彼女にとって、これまで目立った活躍のなかったさくらの地力は、想像を絶する壁だったに違いない。
だが、試合時間が残り十秒を切った合図の笛が鳴ったその時だった。
さくらが勝負に出た。
(……来る)
凛には見えた。さくらがこの三年間、血の滲むような思いで磨いてきた、あの一拍子の面。
凛が教えた技だった。
ここぞという時に攻め切れないさくらのために、二人で道場に残って繰り返し練習してきた、あの一撃。
だが、逸る心に引きずられるように、竹刀が動くよりわずかに早く、さくらの足が床を蹴った。
(足が少し早い……でも)
凛は、並の相手ならばそれに気づかないだろうと期待した。
だが「羽毛一本分の空白」を、柏木の野性が逃さなかった。
柏木は受けない。弾かない。
右斜め前、相手の懐へと、一切の迷いを断ち切るように体ごと鋭く踏み込んだ。
さくらの面が、虚空を割る。
すれ違いざま、柏木の竹刀が雷光のごとく走った。
「ドォォォッ!!」
さくらの胴に、柏木の竹刀が吸い込まれる。
乾いた衝撃音が、道場の空気を支配した。
(……体捌き)
凛は息を呑んだ。
あれは、教わってできる動きではない。
追い詰められた極限で、技術を捨て、思考を捨て、ただ「勝つ」という本能だけが選ばせた最短距離の軌道。
柏木は最後の瞬間まで、勝利を諦めていなかった。
「……そこまで」
顧問の南先生の静かな声が響く。
柏木の一本勝ち。
宣告を受けた瞬間、柏木はその場に崩れ落ちそうになるのを堪え、大きく肩で息をした。
余裕など微塵もない。
一方、さくらは虚空を割った自分の竹刀を、呆然と見つめたまま凍りついていた。
南先生が、隣に立つ凛に低く問いかけた。
「見たか。経験値では橘が圧倒していた。だが、最後の一瞬、どちらが『戦場』を生き残る剣をしていた?」
「……柏木です」
凛の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。
「柏木は最後の瞬間まで、勝つための最善を選択し続けました。でも、さくらは……自分の中の焦りに、先に負けました」
さくらの三年間は本物だった。
柏木をあそこまで追い詰めた事実は、彼女が積み上げてきた時間の証明だ。
けれど、一校の命運を背負う団体戦において、その「一瞬の心の揺らぎ」はチーム全体の崩壊を意味する。
(ごめん、さくら。私は、最後まで勝利に手を伸ばした方を信じるしかないんだ)
凛は震える手で、スコアボードに「柏木遥」の名を書き込んだ。
「橘には俺から伝えておこうか?」
南先生の気遣いは、理解できた。さくらと親しい自分への、配慮だろう。
「いえ、私が言います」
凛は顔を上げた。
(親友だからこそ、逃げてはいけない)
部室前の廊下。
防具を外し、薄暗い通路に出てきたさくらに、凛は正面から向き合った。
「さくら、ちょっといい?」
さくらの瞳には、まだ、微かな光が残っていた。
部長である凛なら、自分の三年間を汲んでくれるのではないか。
そんな甘い期待。
凛は一瞬だけ躊躇し、すぐにその迷いを切り捨てた。
情で濁らせることは、死力を尽くした柏木への冒涜だ。
「今回の団体戦、メンバーから外れてもらう」
さくらの表情が、石のように固まった。
「……え」
「決勝まで勝ち進むための、最善の布陣を選んだ。悪いけど、補欠としてチームを支えてほしい」
数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。
「それだけ……?」
さくらの声は、今にも千切れそうなほど、かすれていた。
「私は、三年生だよ。今年が、最後のチャンスだった。一度でいいから、凛と並んで……」
「わかってる。でも——」
「わかってないっ!!」
悲鳴のような声が廊下に弾けた。
「ずっと選ばれる側にいた凛に、私の何がわかるの……!」
凛は言葉を失った。かけるべき言葉を、知識の引き出しから必死に探す。
「……私……剣道、辞める」
喉の奥が、ぎゅっと締まった。
「才能なんてないし、試合に出たって、どうせ皆の足を引っ張るだけ。柏木みたいな天才には勝てない……」
自虐的な笑いを浮かべ、さくらは凛を射抜くように見た。
「ただ、凛には——」
さくらの目が、凛の「目」を捉えた。
凛は何も言わなかった。
ただ、部長として、正しい判断をしたことを自覚している、冷たく澄んだ目。
その目を見た瞬間、さくらの表情から、縋るような色が消えた。
彼女は、言いかけた言葉を飲み込み、力なく唇を噛んだ。
防具袋が、重い音を立てて床に叩きつけられる。
さくらはそのまま、背を向けて走り去った。
静寂だけが残った。
凛は、床に横たわった防具袋を見つめたまま、動けない。
『ただ、凛には——』
さくらがあの時、言いかけて飲み込んだ言葉。
それは、親友としての本音だったのか、それとも決別だったのか。
(……私は、正しいことをした)
部長として、間違っていない。
決勝まで行ける布陣を選んだ。勝利のために、私情を捨てた。
それなのに。
何かを、取り返しのつかない形で間違えた気がした。
夕暮れの廊下、必死に呼吸を整えていた柏木の後ろ姿と、走り去った親友の影が、重なり合って溶けていく。
何が間違っていたのかもわからないまま、凛はただ、冷たい静寂の中に立ち尽くしていた。
第二話 了
