伊東のバイト先のはなし❼(理想のくらし)
加東は出し抜けに言った。
「私は曙美のスパイよ。でも安心して。私も曙美のやり方はおかしいと思ってる」
伊東はとりあえずズボンのチャックを上げた。
「仲邑くんは曙美に洗脳されたわ。帽子を被っているのは、オデコにBの焼き印が入っているからよ」
伊東は、仲邑が最近急に帽子を被り出したのには違和感を感じていたが、そんな事になっているとは知らなかった。
「仲邑くんは相当ヤバいわ。曙美本人でさえ時々ちょっと引くくらいの曙美原理主義者よ」
色んなことを一気に言われて、伊東は理解が全く追い付いていないのだが、とにかく思っていた以上にこの町は曙美の独裁政権なのだろう。
「私はこの町で生まれ育ったけど、いつか脱出しようとずっと思ってた。でもみんな、ここの妙な居心地の良さにドップリで、管理されている事にすら気づいていないのよ」
やはり思っていたとおりなのだ、と伊東は思った。
「物流倉庫の地下から町の外に繋がっているトンネルがあるの。そこから一緒に逃げましょう」
「ち、ちょっと、話が急過ぎるからよく分からないんだけど、また改めて、その話をしよっか」
伊東は加東の強い圧から逃れようと、ひとまずそう言った。正直これ以上めんどくさい事には関わり合いたくなかった。
部屋に帰った伊東は、荷物をまとめる事にした。加東が言うトンネルというのも怪しげだが、確かに冷静になって考えると、地上から脱出しようにも検問に引っ掛かるだろうし、結局そのルートしかない様な気がした。
荷物を整理する中で、ある紙片が出て来た。
それは、伊東が大学を卒業したものの、就職せずぐだぐだしていた頃に考えた、『神セブン』という伊東なりのQOLを満たす7つの基準だった。
今の伊東はいつの間にか、神セブンから乖離した生活を送っていた。週6で残業の働き詰めで、ワークライフバランスどころの騒ぎではなかった。本来の伊東は「出来るだけ働かない」を柱とした生活を目指していたのだ。
伊東は反省した。初志貫徹。全く働かない訳じゃないんだけど、ワークよりライフ。とにかくライフ優先。そこが俺のバランスじゃなかったのか、と強く胸に刻んでその紙片を財布の中にしまった。
翌週の昼休み。伊東と加東は倉庫内の端っこの、人気の無い空間に居た。
「伊東くん、行くよ」
加東がマンホールを開けると、信じられない程広い空間がそこにあった。
リュックサックを背負ったふたりは、そこからハシゴを伝って中に降りた。
懐中電灯で足元を照らすと、水溜り周辺にカマドウマがビッシリと集まっていて、鳥肌が立った。
朽ちたコンクリートのトンネルが、遠くまで続いていた。コンクリートの隙間から植物の根の様なものが張り出し、そこから雫が滴っていた。
「この町はヤマサキパンが来る前は平和だったらしいの。でもヤマサキパンが出来てから町は封鎖されて、一部の住民はトンネルを作って逃げ出したの。それがこのトンネルよ。だから曙美だけが独裁的な訳じゃなくて、どうしてもヤマサキパンはいくら組織改編をしても、なぜかパートの中から権力者が現れるの。そんな状態が70年以上続いているわ」
全くなんのはなしか分からなかったが、昔からこの町は封鎖されがちで、このトンネルは脱出専用だという感じみたいだ。
「ここは時代と共に忘れられたの。私は図書館で偶然この事を知ったわ。それで曙美にこの物流倉庫のスパイを買って出たのよ」
伊東はこれだけの施設が忘れ去られる事自体が、この町を端的に表しているな、と思った。そうでも思わないと今回で話が終わらなくなるな、とも思った。
「紗里。この町を出るのね」
首にBのタトゥーをした女が、暗闇の中に立っていた。
「流羽架!? 何で分かったの?」
「水くさいわね。紗里の事なら全てお見通しよ」
「ゴメン。流羽架。私この町から出る。私はBじゃなくて「C」なの!カープ女子なの!」
「分かってる。広島でもどこでも好きな所に行きなさい」
「……流羽架!」
伊東はなんのことだかサッパリ分からなかったが、無事地下通路から町の外に出た。
加東はアッサリと「じゃあねー」と言い残し、広島県の方に行ってしまった。
*
伊東は今、ある土地の山中に小屋を建てて暮らしている。
知り合った農家から、山林を10万円で譲ってもらった。伊東の片方のキンタマの慰謝料と丁度同じ額だった。使い途としては最高だと思い、購入したのだ。
小屋はYouTubeを観ながら、見よう見まねで作った。
部屋には『神セブン』の紙片を額に入れて掲示している。
①寒さを防ぐ屋根と壁
②水道
③電気
④通信環境
⑤暖房
⑥バランスの取れた食事
⑦清潔な衣服と寝具
山にはいくらでも倒木があるため、薪ストーブで暖を採れるし煮炊もできる。
達成できていない項目もあるが、②は水タンクだし、③も軽トラからUSB充電でスマホを見られるのでとりあえず十分だと思った。
いずれは沢の水を引こうと思っているし、いずれは太陽光パネルでも付けようと思っている。そういう遠回りが楽しいし好きだと思った。
伊東は今、山の斜面にダイヤモンドドリルで穴を開ける仕事をしている。
もう少し格好良く言えば、『地質調査』なのだが、実際は肉体労働の最たるものだった。斜面のため踏ん張る事もままならず、足場を設置する所から作業は始まる。その下作業が出来てやっと仕事が始まる。ひたすらドリルの軸を連結して行き、地中深くの岩盤サンプルを採取するのだ。
最初のうちは腕も指も完全にバカになり、すぐに使い物にならなくなった。だが人間関係に支配されていた頃よりも、自然のルールに支配されている今の方が、彼には楽だった。
伊東は働くのが嫌いだ、とずっと思っていた。だが自分は仕事が嫌いなのではなく、仕事で味わう閉塞感が苦手だ、という事に気が付いた。これは経験を通してしか得られなかった事で、こうして心の解像度を上げていく作業を続けて行けば、理想のくらしに近付いて行くのだろう、と思った。
仕事のパートナーの久村は、少年がそのまま大人になった様な人物で、伊東よりも大分年上なのだが、未だに山の中を楽しそうに駆け回っている。
伊東がドリルの先を冷やすための水ホースと格闘していると、久村の声が聞こえて来た。
「クワいた」
太い指がクワガタを摘んでいた。
「3時だから休憩だよ」
久村はクワガタと一緒に缶珈琲を手渡してくれた。
クワガタを喪失した右側のキンタマの上あたりに、そっと置いてみた。
珈琲を飲みながら見る山の風景は、特別な開放感があった。
*
その日、小屋に帰ると一枚のハガキが投函されていた。
私たち、結婚しました!
山咲市市長 仲邑倫也・(妻)曙美
伊東は思わず呟いた。
「なんのはなしですか」
(終わり)
↓参考文献
