わたしの心は今どっちを向いているのか
自分の心を自在にコントロール出来たのなら
どれだけ楽に生きられる事だろう
皆さんは今、自分の心が内を向いているか
外を向いているか分かりますか
心が内を向いていると
自分の事ばかり考えてしまいます
心が外を向くとまわりの事を
考えられるようになります
緊張してあがった経験はありませんか
わたしはクラスの発表会など苦手でした
注目が集まるとすぐにあがってしまいます
この時心は内を向いています
心が内を向くと
考え事が多くなります
神経で言うと交感神経が優位になっています
緊張してあがった時は自分の事で精一杯ですよね
まわりが見えなくなります
これは交感神経が優位な時も同様です
交感神経は戦闘状態とも言えますので
戦う時は自分の事しか見えなくなります
(自分の事しか見えないから戦うとも言えますね)
この時心は内向きです、心が内を向いていると
いう事は心は外を向けません
まわりが見えないので
発表会の時も
自分はどう思われているだろうか
自分は上手く話せてるだろうか
自分の行動はおかしくないだろうか
と
自分の事しか見れなくなります
まわりを見ていないので
自分を見てるとも言えます
一方同じ状況でも
心が外を向いていると
あの人は咳がつらそうだけど大丈夫かな
外は今日も良い天気だな
あの人とあの人は仲が良さそうだな
と
まわりの事が見れるようになります
この時心は落ち着いていて
神経で言えば副交感神経が優位で
リラックスしています
同じ状況でもその違いが出るのは
自分と自分以外を分けてしまうか
一緒に出来るかだとわたしは思います
自分とまわりは別だと思ってしまうと
自分の事を考えるようになってしまいます
攻撃されないか
変に見られないか
自分はまわりとは別なんだと思うほど
自分の事を考えてしまいます
自分とまわりを一緒だと思えると
自分の事は考えなくてもよくなります
見えるのはまわりの事ばかりです
まわりを見れているという事は
心は落ち着いているという事です
どちらが良い悪いというわけではありませんが
そういう仕組みがあると分かれば
好きな方を選ぶ事ができます
ちなみに人は、見られていると感じると
緊張します
わたしの何を見ているのだろうと思うと
だんだん自分の事を考え始めます
なので
大勢の人から見られると緊張が増していきます
それでも心が落ち着き
まわりを見れる人の事を
心が強い人だと
感じるのではないでしょうか
ここまでの記事を少しまとめます
心が内を向く=自分の事を考えてる=交感神経が優位
心が外を向く=まわりの事を考えてる=副交感神経が優位
心が外を向いている方が良いように見えますが
大事なのはバランスだと思います
自分の事も考え
まわりの事も考える
自分が幸せな分
まわりの事も幸せに出来ると
わたしは思います
まわりの事とは言葉で説明するのは難しいですが
自分という存在は在ると思えば在り
無いと思えば無いようなものであると思っています
確かめようもないのですが
どこからが自分かというのはこちらを
お読み頂いた方がわかりやすいかもしれません
突然ですが英語の
I,my,me,mine,を覚えていますか
わたしは、わたしの、わたしを、わたしのもの、
と言う使い分けです
(英語の表現として合っているかはわかりませんがニュアンスの違いとして使っていきます)
自分の身体もまわりの事として、見た時
自分の指(my fingers)は今無理してないだろうか
自分の目は疲れてないだろうか
と
まわりの事として見れると思います
この時は心は外を向いています
自分の指(mine fingers)だと認識するという事は
心は内を向いた状態になっています
自分を見ているからです、もっというと今見ている指を自分と認識している状態なのです
それが間違っているという事ではなく
認識の違いです
自分の体と捉えるか、自分そのものという捉え方か
という事です
小学生の時、足をケガした子の
こんな反応の違いを感じた事はありませんか
「痛ーい痛いよー」
自分がケガをしたら痛いです大騒ぎします
当たり前ですが主観的ですね
一方で
「足、ケガした」
同じケガの度合いでも
痛みを感じてないわけでは無いでしょうが
客観的です
あまり騒ぎません
自分がケガをしたと捉える子と
ケガをしたのは自分の足と捉える子
そういう違いとも言えます
話は少し変わりますが
東洋思想では世の中に固定不変のものは無いと
言われます
浴室に置いてあるシャンプーボトルに
入っているシャンプー
半年後に入っているのも、シャンプーですが
中身は違います
そう、詰め替えたからです
お財布の中身
今入っている金額を見てください
1ヶ月後同じ金額が入っていたとして
中身は違います
紙幣番号を見てください
変わってなかったら世にも奇妙な物語です
同じように見えても
物質そのものは変わっている
という事です
身体もそうです
自分の身体も常に細胞が変わり続けています
同じように見える私の指でも細胞一つ一つに番号を振っていたとしたら
7年後にはバラバラの番号で出来た指に
なっています
つまり今見ている指と7年後に見る指は違うものです
シワが増えただけ、ではありません
違うものに変わっていったので
シワが増えた指、になったのです
体全体がそうです
そうでなければわたしの体は産まれたてのままです
かわいいです
結局何が言いたいのか
自分という存在は在るように見えます
在るように見えますが
物質そのものは変わっている
という事です
ずっと変わらない私というものは
無いのです
もしかして私達入れ替わってる
一体私達の体は何と入れ替わり続けて
いるのでしょうか
それは自分のまわりにある色んなもの
言葉では言い表わせませんが
世界そのものと言えます
スケールが大きいですね
なので
目に入る全てのものがわたしの一部
もしくは一部だった
ということになります
口の中に入る前の食べ物、空気そして
体から出る
排泄物、おなら等は
まさにそうだと言えます
心が内を向くと自分を観てしまいます
自分という存在を強く認識するので
自分とまわりは別なんだという認識を生じます
心が外を向くとまわりを観ます
まわりを見ているのは自分ですが
まわりを見ている時、自分という認識は薄れるので
自分とまわりの境界がハッキリとしたものではなく
だんだんぼんやりとしたものになります
自分とまわりは一緒なんだという認識が
生れてきます
そしてそれは、自分というものはないのかもしれないという認識と同じだと思います
自分という認識が薄れると
困っている人を見て助けようと動いてるその時
その人はまわりを見ているので
心は外を向いているという事になります
火災現場だったり事故現場などの、自分が巻き込まれる可能性のある大変な状況で助ける場合
助け出した後
「自分の身の危険は考えなかったのですか」
というインタビューに
「自分の事は全く考えていませんでした」
と答えるのは
自分を見ていない
心は外を向いていたという事だと思います
わたしもそういう心で居たいと思ったりします
なので
前述にある
[自分と自分以外を分けてしまうか
一緒に出来るか]
という話に戻りますが
自分が、自分とまわりを分けると
相手も同じように分けたくなります
生まれるのは対立です
対立は不安や恐さを生みます
違うと認識しているのは自分自身だからです
違うと思ってるのに一緒だとは、思えません
相手の方も違うと認識されてるなと感じれば、分けたくなるのは仕方ない事だと言えます
対立は深まるばかりです
自分が、自分とまわりを一緒だと思えると
相手も同じように一緒だと思ってくれるかもしれません
思ってくれないかもしれません
ですが
相手が同じように思ってくれるのなら私もする
というのは
自分の心が内を向いている考え方だと思います
自分を見ているからです
相手は自分の事しか考えない人かもしれない
と思っても
私は、相手を一緒だと思う、対立を生まない、
あなたを尊重する
自分に出来る限り
そのように心を外に向けておく事が
争いの少ない平和な世界になる
きっかけになるのかなと
わたしは思いました
もちろん
ずっとそう思い続けるのは難しいです
それが出来ればキリストやガンジーだと思います
わたしには出来るようになる日がくるのかも
分かりません
それでも尊重し合いたい
諦めずに、そんな世の中になってほしい
人間には心の隅にそんな気持ちがあるの
かもしれません
この記事の内容が正しい訳ではありません
むしろ間違っているかもしれません
ただ、同じように悩む方が1人でもいるのなら
読んで頂けたら良いなと思い、書いてみました
この記事で少しでも心を外に向けたいと思える人が
増えれば嬉しいです
最後まで読んで頂いてありがとうございます
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