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【日記】喝を入れる

水は高い所から低い所に流れるというか、幽霊は生前の行動を繰り返しているというか、最近油断するとすぐにある考えに陥ってしまう。

それが「行動にはコストがかかる」だ。

これは至極単純な話で、例えば移動だと、鉄道を使えば電車代が、バスを使えばバス賃がかかる。車はガソリン代がかかり、徒歩や自転車だって直接お金はかからないが体を動かす分エネルギーを余分に消費している。

それと同じ要領で、お昼時に外に出ていればご飯を食べるためにお金がとび、落ち着いた場所で少し休憩したいと思って喫茶店に入るとお金がとぶ。もっといえば、外出をするということは何か目的があるということで、その目的だってお金を払うことを求められる(というのはちょっと資本主義的すぎるか)。
究極で言えば、服を着替えて外出することだって、洗濯の回数を増やして服の寿命を縮めているとも言えるだろう。

というような考えに陥ってしまうと、じゃあ家にいて着替えなければ洗濯する必要もないし、エネルギーの消費が少なければ食事の回数や量も少なくていいやんけとなり、1日中布団の上でくねくねして過ごすことを正当化してしまう。


これはまた別なんだけど、4,5年前から陥っている考えがある。
こっちは一言で表しづらいので、例を交えながら説明をする。

例えば、山登りで頂上でしばらく楽しんだ後に、これからまた時間と体力をかけて帰らないといけないのかと思うあの感覚。車で長距離の旅行をした時の、また運転しないと帰れないのだというあの感覚。自転車で30km漕いで遠出して、帰りにもまた同じ距離を漕がないといけないと考えた時のあの感覚である。

3例出したものの、ほぼ同じことを言っていると私でも思う。

一言で言うとこれは「めんどくさい」なのかもしれない。
大抵どんなことでも前準備や後始末は「めんどくさい」ものなのだけど、年々この「めんどくさい」が肥大化してきていて、ついにその物事の楽しさの部分まで覆うようになったのかもしれない。知らんけど。

もしくは、「自分で後始末をしなくちゃいけない感」なのかもしれない。
大人になるということが元々そういうことなのかもしれないが、何をしても最後まで自分が後始末をつける必要があり、私は4,5年前にそれを自覚してしまったのではないだろうか。(不運なことに)

どちらにせよ、この考えが行き着く先は、お家で寝そべることの正当化である。


ですが、
これらを「うんうん、それは彼氏が悪いね。じゃあ入れるね。」と認めてしまうと、そこが行き止まりになってしまう。

なので、私は私に喝を入れるしかなく、
わざわざコメダ珈琲に来て、カツ(パン)を(腹に)入れながらこの文章を打ち込んでいる。

2切れ食べた後でnote用の写真を撮り忘れたことに気付いた

ではまた明日。


※「喝を入れる」と「カツを入れる」のダジャレを成立させるために1,600円支払うことで、「コストがかかるからじっとしている」という堕落した考え方を叩き出そうとしている。

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