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なぜ「想像力の無さ」が「コミュ力」と呼ばれるのか?:「隠れネガティブ」的コミュニケーション能力

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はじめに

「ルシルナ」というブログを運営している犀川後藤と申します。そして本書では「コミュ力」について書きました。ただ、一般的な「コミュ力本」とは内容も対象とする読者もかなり違うので、少し長くはなりますが、【はじめに】でその辺りのことについて詳しく触れておきたいと思います。

さてまずは、「犀川後藤という男は、『コミュ力』を語るのに相応しい人物なのか?」について触れておく必要があるでしょう。

率直に言って私は、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」ではありません。友達が多いわけではないし(というか、はっきり言って少ないです)、ワイワイ盛り上がっているところにはなるべく近づきたくないし、いわゆる「コミュ力が高い人(例えばYouTuberの「フワちゃん」みたいな人)」は苦手です。喋る時と喋らない時の差が激しいので、私を「コミュ障」側の人間だと思っている人もいるかもしれません。

しかし一方で、親しくしている人からは「コミュ力が異常」と言われることもあります。そしてそう感じてくれる人は大体、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」が苦手だったりするのです。

「コミュ力」に関する本よくあるアドバイスとしては、「笑顔で接しましょう」「相手の名前を覚えましょう」「良いところを褒めましょう」みたいなことが挙げられると思います。もちろん、そのような振る舞いを「好意的」に受け取ってくれる人もいるでしょう。しかし、私の周りにいる人たちはよく、「いつも笑ってる人って何考えてるかわかんない」「店員さんに存在を記憶されたらその店にはもう行きたくない」「どうして私なんかのことを褒めてくれるんだろう」みたいに感じていたりします。先程挙げたような行為が、全然プラスに働いていないというわけです。こういうことは全然普通に起こり得ます。

そして私は、「そういう『一般的に良いとされている振る舞い』を苦手だと感じる人」から、「コミュ力が異常」と言ってもらえることが多いのです。この話だけでも、「『一般的に推奨されるコミュ力』は決して万能ではない」のだと理解してもらえるかと思います。

もちろん私自身も、「一般的に良いとされる振る舞い」をあまりポジティブには受け取れません。だから私は、「同じタイプの人が何を嫌だと感じるのか」が分かるつもりだし、「そのような振る舞いをしない形で他者と関われているはず」だと思ってもいます。そしてこのような理由から私は、「『コミュ力』を語るのにそれなりに適している」と言っていいのではないかと考えているのです。

さて私はこれまで、「ネガティブな人」とばかり関わってきました(「ネガティブ」の程度は様々ですが)。つまり、ネガティブだからこそ、「笑顔で接しましょう」「相手の名前を覚えましょう」「良いところを褒めましょう」みたいな「一般的に良いとされている振る舞い」に強く違和感を覚えてしまうというわけです。中には、「そのような振る舞いが『上っ面』に感じられ、相手に対する関心を抱けなくなってしまう」と口にする人さえいました。

しかしその一方で、私の周りの「ネガティブな人」には「『ネガティブ』には見られていない」という特徴もあります。私はほとんど「女友達」しかおらず、しかも10歳以上年下であることが多いのですが、彼女たちはホントに、「見た感じまったくネガティブっぽくないのに、話してみるとネガティブでしかない」という人ばかりなのです。

このような人のことを本書では「隠れネガティブ」と呼ぼうと思います。そして、「皆さんが想像する以上に『隠れネガティブ』はたくさんいる」と断言しておきましょう。特に若い世代には「隠れネガティブ」が多い印象です。

私の周りの「隠れネガティブ」は大体、見た目や接し方なども含め、「リア充の生き方で無双できそう」と感じるような雰囲気を持っています。もちろん、普段の振る舞いも明るく楽しそうに見えるのですが、しかし色々話してみると「根っからのネガティブ」であることが分かってくるという感じです。

「自分もそうだ」という方には分かってもらえるでしょうが、「隠れネガティブ」は「『ネガティブさ』を表に出すこと」を、「周りの空気を悪くする『良くない行為』」だと認識しています。なので普段から、「ネガティブ」だと悟られないように頑張っているのです。当然、「ポジティブな人」と認識した相手に自身の「ネガティブさ」を見せることはないし、「明るく元気な雰囲気」を崩すことも恐らくないでしょう。同じような「ネガティブさ」を内に秘めている人でなければ、その本性を見通せないのです。

そのため、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」は特に、そもそも「隠れネガティブ」の存在に気づけないと思います。もし「自分の周りには『隠れネガティブ』なんていない」と考えているなら、その認識は大いに間違っていると言っていいでしょう。あなたの周りにも「隠れネガティブ」はいると思います。そして、あなたが「隠れネガティブ」の存在に気づいていないのであれば、あなたの「言動」が「隠れネガティブ」に負担を与えたり傷つけたりしていると考える方が自然なのです。

それで私は、「『隠れネガティブと接するためのコミュ力』がかなり高い」という自覚を持っています。ここ20年ぐらい、「隠れネガティブ」とばかり関わってきたので(「面白いなと感じる人」は大体「隠れネガティブ」でした)、その経験値はかなり高いと思っているのです。

というわけで、そんな経験を踏まえつつ、本書では「隠れネガティブ的コミュ力」について書いてみました。

「隠れネガティブ的コミュ力」という言葉には2つの意味があります。1つは恐らくイメージ通りでしょうが、「『隠れネガティブ』と接するためのコミュ力」です。そしてもう1つ、「『隠れネガティブ』との関わり方から『コミュ力』を考え直す」という意味も込めています。

私はどうしても、よく見聞きする「コミュ力に関するアドバイス」に違和感を覚えてしまいがちです。ただ、それは決して「『隠れネガティブ』には通用しないから」みたいな理由ではありません。私には「『想像力』が欠如している」と感じられてしまうからです。

「コミュ力の本質」は「想像力」だと私は考えています。相手が「何をしてほしい/何をしてほしくない」と思っているのか、あるいは「何に嬉しい/辛い」と感じるのかなど、「相手の受け取り方を想像すること」こそが「コミュ力」の最も重要なポイントだというのが私の理解です(「当たり前だろ」と感じる人も多いでしょうが)。

さて、よく見聞きする「コミュ力に関するアドバイス」を雑に要約するなら、「○○の時には△△しましょう」みたいな感じになるんじゃないかと思います。そして私は、このような認識に対して「『想像力』を放棄している」と感じてしまうのです。同じ人間でも、「いつ」「どこで」「どんな状態にあるのか」によって受け取り方・感じ方は異なるはずだし、別の人なら当然もっと違いは大きくなるでしょう。それなのに、相手の振る舞いや性格を「大雑把な括り」で捉えて、「こういう時はこんな風にすれば大丈夫」などとアドバイスするのは、「あまりに『想像力』が欠如している」と感じられてしまうのです。

そんなわけで、私は本書に「『隠れネガティブ』にはこういう振る舞いを”しない”方がいい」みたいな話を多く書きました。もちろんこれは、「アドバイス」としては不十分だと理解しています。「じゃあどうすればいいんだよ」に答えていないからです。しかしここまで書いてきた通り、コミュニケーションに関しては「想像力」が何よりも大事だと私は考えています。つまり、「『どう振る舞うべきか』は、その時のあらゆる状況を踏まえた上で、『想像力』を発揮して自分で決めるしかない」というのが私の基本的なスタンスなのです。

このように私は、「『隠れネガティブ』との関わり方」について言及することで、「そもそも『コミュ力』って何なんだっけ?」みたいに問いかけたいと考えています。そしてそのことによって、「コミュ力」について多くの人に再考を迫れたらなお素晴らしいでしょう。つまり、「『隠れネガティブ』との接し方講座」と「『コミュ力』そのものの議論」を同時に行おうというのが本書の目的というわけです。

さらに言えば、「『ネガティブな人』の方がコミュ力が高い」という私の認識も共有したいと考えています。というのも、「『ネガティブな人』の方が明らかに『想像力が高い』」からです。というか、「『想像力が高い』からこそ『ネガティブ』になってしまう」と表現すべきでしょうか。

「ネガティブな人」ほど、「こんなことを言ったら相手を傷つけてしまうかもしれない」「誰か1人にこういう振る舞いをしたら、贔屓してるみたいに思われるかもしれない」「良かれと思っての行動でも、相手は悪く受け取るかもしれない」など、様々な「可能性」を思い浮かべてしまいます。それらは、「ポジティブな人」からしたら「考え過ぎ!」と一笑したくなるようなものかもしれません。ただ、「考え過ぎてしまう」というのは裏を返せば、「想像力が高い」ことの現れでもあると私は思っています。そして、「様々な可能性を思い浮かべられる能力」は、そのまま「コミュ力」に直結するはずです。

私は逆に、「考え過ぎ!」と笑って受け流すような人に対して「想像力の無さ」を感じてしまいます。そしてそういう人の言動には、やはり「違和感」を覚えてしまうことが多いのです。

さて、誤解されるかもしれないので書いておきますが、私は別に「ネガティブになれ」などと言いたいのではありません。そうではなく、「ポジティブな自分は、対人関係における『想像力』が少し低いのかもしれない」と”想像”してみてほしいと考えているだけなのです。

本書の主張は、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」の人にはもしかしたら理解不能かもしれません。ただ、私の周りの「隠れネガティブ」はきっと本書の内容に共感してくれるだろうし、世の中にも同じように感じる人は恐らくたくさんいるはずだと思っています。実際、この【はじめに】の文章を何人かの「隠れネガティブ」に読んでもらったのですが、「凄く共感できる」という反応をもらえました。本文の内容にも結構賛同してもらえるはずです。

なので、本書の内容が意味不明だった場合は、「こんな世界線も存在するんだなぁ」ぐらいに受け取ってもらえればよいかと思います。そして本書の内容に触発される形で、「コミュニケーションにおける『想像力』」について多くの人が考えを巡らせてくれたら嬉しい限りです。

「隠れネガティブ」と「コミュ力」について

「隠れネガティブ」ってどんな人?

まずは、15歳ぐらい年下の友人女性の話から始めましょう。

彼女は、傍目には「どうしたって『リア充』にしか見えない」みたいな雰囲気を醸し出しています。本人もそんな風に見られがちなことを理解していて、「普段は意識して『リア充』側に寄せている」と言っていました。その方が、何かと生きやすいことが多いからでしょう。だから、「ワイワイ盛り上がることを『楽しい』と感じる人たち」の中にもナチュラルに混ざれるというわけです。

実は私も、彼女が「ネガティブな人」だと理解してからも、ついうっかり「ポジティブな人」というイメージに戻っていたことが何度もありました。会話の中で、彼女が「ネガティブなんで」と口にすることでようやく、「そういえばネガティブな人だった」と思い出せるみたいなことは頻繁にあります。「ネガティブな人」だと理解している私でも意識していないと忘れてしまうほど、普段の振る舞いからは「ネガティブさ」がまったく見えてこないというわけです。

ただやはり、会話の端々から「ネガティブさ」が見え隠れします。例えば彼女は、普段から関わる相手に対しても、「会ったらどんな話をしようか」とあらかじめシミュレーションしてしまうと言っていました。「会話が上手く展開しなかったり、沈黙してしまったらマズい」みたいに考えてしまうからでしょう。そう感じずに済む相手はとても少ないのだそうです。本当に、見た目の雰囲気からはまったく想像できないので驚かされてしまいます。

多くの「隠れネガティブ」と関わってきた私にとっても、彼女は「『隠れネガティブ』の極み」みたいな人で、相当特殊です。ここまで見事に「ネガティブさ」をかき消せる人はなかなかいないと思います。ただ彼女ほどではないとしても、このようなタイプの人は結構いるでしょう。自己肯定感が低く、しかし「『自己肯定感が低いこと』を表に出すべきではない」と考えてしまうため、「まるで『自己肯定感が高い』かのように擬態する」みたいな生き方をしている人は案外いるはずです。

さて本書では、「隠れネガティブ」を厳密に定義するつもりはありません。私は、自分が関わってきた人のことしか知らないし、世の中には色んなタイプの「隠れネガティブ」がいるはずだからです。なので、「どんな特徴があるのか」みたいな要素を羅列したりはしません。ただ、私が出会ってきたのがどんな人たちなのかについては少し触れておこうと思います。

割と共通しているのが、「『今この場で、自分はどのような振る舞いをすべきだろうか』みたいな思考をしてしまう」という点でしょう。「その場その場において『求められている自分像』を見極め、出来るだけそれに見合う振る舞いをしなければならない」と考えているというわけです。「『ネガティブさ』を隠す」という意識も、そのようなスタンスから来ていると言えるでしょう。「『ネガティブさ』を出すことが積極的に求められるような状況」なんて普通あり得ないので、結局「自分の『素』を出すわけにはいかない」という思考になってしまうというわけです。

また同じような理由から、「私は今ここにいてもいいのだろうか?」という感覚を抱くことも多いだろうと思います。つまり、「『求められている役割』を全う出来ていないのではないか」と不安になり、「この場には相応しくないかもしれない」と考えてしまうというわけです。しかしその一方で、「集団の中でひとり孤立するような振る舞い」も「場を乱す行為」に思えるため、「ぼっちになるのは良くない」という感覚にもなります。「ぼっちが嫌」なのではなく、「ぼっちになると周りに気を遣わせてしまう」という理由から「ぼっちを回避しようとする」というわけです。

さて、ここまでの話は、「『自分が迷惑を被る』よりも、『自分のせいで誰かが迷惑を被る』方がより苦痛に感じられる」とまとめられるでしょうか。つまり、「『加害者』になるくらいなら、『被害者』でいる方がまだマシ」みたいな発想です。人によっては、「明るく振る舞うのはしんどいけど、それでこの場が丸く収まるならその方がむしろラク」みたいに考えて「ネガティブさ」を隠しているなんてこともあるでしょう。そしてこのような理由から、「隠れネガティブ」は「明るくて楽しい人」みたいな振る舞いをしてしまうのです。

さらに、そういう振る舞いをすればする程、「○○さんは明るくて楽しい人だ」という見られ方が固定化し、一層「その『見られ方』に自分の振る舞いを合わせなければ」みたいに考えてしまいます。まさに「悪循環」でしかありません。しかし、自力ではその状況から抜け出せないし、周囲の人もまさかそんな辛さを抱えているなんて思いもしないので、結局いつまで経っても状況は変わらないままというわけです。

こんな風に説明すると、「『一般的に良いとされている振る舞い』が『隠れネガティブ』にとっては負担になる」という話が少しは受け入れやすくなるかもしれません。

私が出会ってきた「隠れネガティブ」はこのようなタイプが多かったですし、私自身もそういう要素を少しは持っています。私は割と早い段階で「『ネガティブさ』を隠さずに他者と関わる」方向に振り切ったので「隠れ」ではないのですが、「隠れネガティブ」の気持ちはよく分かるつもりです。

さて、ここまでで「隠れネガティブ」についてあれこれ書いてきましたが、ではあなたは、このような人の存在をこれまで想定したことがあるでしょうか? 「そんな人がいるなんて想像したこともない」という方は、あなたの周囲にいる「隠れネガティブ」に何らかの形で負担を強いていると考えた方がいいと思います。あなたが「一般的に良いとされている振る舞い」をすればするほど、「隠れネガティブ」はしんどさを感じる可能性が高いからです。

「『隠れネガティブ』なんか自分の周りにはいない」とか「いるとしても関わるつもりはない」みたいに感じる人もいるだろうし、それ自体は仕方ないと思っています。ただ私は色んな人に、「自分が無意識の内に『正しい』と信じているコミュニケーションが、実は誰かを傷つけているかもしれない」という可能性について少し考えてみてほしいと思っているのです。そしてさらに、「『コミュニケーション』というのは、『その場その場で想像力をフルに発揮する行為』である」という考えが、もう少し当たり前のものとして語られる社会であってほしいなと願ってもいます。

「コミュ力」とは「想像力」のことである

以前、当時20代後半だった友人女性から、「ノーメイクで会社に行ったら『体調が悪いのか』と心配されて、凄く嫌だった」という話を聞いたことがあります。

彼女はそもそも「普段からあまりメイクをしない」と言っていました。ただ恐らくその日は、まったくしていなかったのだと思います。そして、ノーメイクだったことで普段よりも顔が青白く見えたのでしょう、「体調が悪いのでは」と心配されたというわけです。ちなみに、そう心配してくれたのは女性の上司だったと記憶しています。

彼女はその時のことについて、「体調を心配してくれていることはもちろん分かるし、それ自体はありがたいけど、『社会人なのにメイクをしていない』と暗に批判されているようにも感じられて嫌だった」と言っていました。

この話、あなたはどう感じるでしょうか?

一般的に、「相手の体調を心配すること」は「良いこと」とされているだろうし、それが出来る人は「コミュ力が高い」と判断されるはずです。しかしこのケースでは、「『体調を心配された側』が不快感を覚える」という結果に終わっています。つまり、「『行為』単体では正解だとしても、『振る舞い』全体としては不正解だった」ということになるわけです。

もちろん、「『行為』としては良いことをしているのだから、それで十分ではないか?」と感じる人もいるでしょう。しかし私は、まったくそうは思いません。というのも私は、「コミュニケーションにおいては、『あなたが相手からどのように見られており、”そのあなた”がその行為を行うことで、相手がそれをどう受け取る可能性があるか』を常に想像することこそが何よりも大事」だと考えているからです。私が思う「コミュ力の高さ」は、この1点に尽きると言ってもいいでしょう。

例えば、少し変な話をしますが、「女性に『生理』について聞くこと」を「難しい」と感じる男性は多いと思います。私も、基本的にはそういう認識です。ただ私の場合、会話をしている中で、女性の方から自然と「生理」の話が出てくることがあります。それはつまり、「『犀川後藤には生理の話をしても別に何ともない』という認識が相手の中にある」ことを意味するでしょう。なのでそういう相手に対しては、私の方から「生理」についての質問を投げたりすることもあります。

「『生理』について聞く」というのは大体の場合、「行為」としては恐らく「あまり良くないこと」と受け取られるはずです。ただ、私の振る舞いが仮に「セーフ」なのだとすれば、結局のところ「行為そのもの」の問題ではないということになるでしょう。つまり、「正しく『想像力』が発揮されていれば、『良くないとされる行為』も問題ではなくなる」というわけです。

さて話は変わりますが、「セクハラ」について(特に年配の)男性は一般的に、「女性が『嫌だ』と感じたら、それが『セクハラ』だってことになっちゃうんだから、『何をしちゃいけないか』なんて分かんないよ」みたいな認識を持っているんじゃないかと思います。これは要するに、「『セクハラ』かどうかが『行為の良し悪し』で決まるわけじゃないならお手上げだ」みたいにまとめられるでしょう。そして、「セクハラ」に限る話ではありませんが、私はこの点、つまり「『行為の良し悪し』でしか判断しない」という感覚にこそ、コミュニケーションにおける最大の問題があると考えているのです。

もちろん、「マニュアル」や「アドバイス」をちゃんと機能させるためには、「客観的に判断可能なもの」をベースにする必要があるでしょう。そのため、コミュニケーションに関する主張が「行為の良し悪し」の話ばかりになってしまうのは仕方ないと思ってはいます。

しかし、「『行為』が良ければ良い、『行為』が悪ければ悪い」という判断には、「想像力」が発揮される余地がまったくありません。だから私は、「コミュニケーションを『行為の良し悪し』で判断するすべての主張」にどうしても違和感を覚えてしまうのです。なのでまずは、「コミュニケーションの良し悪しは行為で決まる』という判断は正しくない」と認識してほしいと思っています。というか私は、そう認識することでようやく「コミュニケーションのスタートラインに立てる」のではないかとさえ考えているのです。

かつて働いていた書店に、「あれ? 今日なんか元気ないじゃん」とスタッフ(主に学生バイト)に声をかける上司がいました。近くで見ていた感覚として、その上司に「悪気がない」ことは明らかです。間違いなく、「相手の心配をしている」「積極的にコミュニケーションを取ろうとしている」というポジティブな気持ちからの行動だったと思います。

しかし一方で、その上司とは2回り以上年の離れたスタッフから話を聞いてみると、「『俺の前ではいつも元気でいろよ』と言われてるようで嫌」みたいに感じている人が結構いました。私も、その感覚はとてもよく理解できます。つまりその上司の行動は、意図したのとはまったく逆の形で受け取られていたというわけです。

しかし問題はそれだけに留まりません。というわけで、「あれ? 今日なんか元気ないじゃん」と声をかけられたスタッフが、その後どう振る舞うようになるのか想像してみて下さい。当然、「しんどい時でも無理して元気なフリをする」ことになるでしょう。それはもちろん、「自分が不快な気分にならないために、『元気ないじゃん』と声をかけられないようにする」という目的もあるのですが、同時に「『元気ないじゃん』みたいに心配してもらうのは申し訳ないから」という配慮の気持ちもあるのです。

このケースでも同じように、「あれ? 今日なんか元気ないじゃん」と声をかけることは普通、「『行為』としては正しい」と判断されるでしょう。しかし結果としては、そう言われた方が負担に感じてしまっているというわけです。

さて一般的に、「誰とでも仲良くなれる人」は「コミュ力が高い」とみなされることが多いでしょう。しかし私は、「誰とでも仲良くなれる」のは単に、「相手が発している『NO』に気づけないだけ」ではないかと感じてしまうのです。「相手の『NO』に気づける人」はむしろ、「NO」を発する人に近づかなかったり、近づくにしても慎重にするはずでしょう。もちろん、そういう人は「誰とでも仲良くなれる」ようには見えないはずです。そして私には、どう考えてもその方が「コミュ力が高い」ように感じられます。

つまり私は、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」は、単に「『想像力』が低いだけ」なのではないかと考えているのです。

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