「『無言の帰宅』という言葉を『無言で生きて帰宅した』と解釈する人がいる」という話にぶっ飛んだ話
少し前に、あるtogetterのまとめを見てのけぞった。
SNS上の「行方不明だった夫が無言の帰宅となりました」という報告に対して、「命があってよかったです」「今は色々聞かないであげて下さい」とレスしている人々がいて、びっくりした
この件に関しては色々と言及している人も多いようで、ネットでテキトーに拾ったリンクをいくつか貼っておこうと思う。
今回はこの件について色々書いていくつもりなのだが、まず最初に言っておくと、私はこの元になったThreadsの投稿を見ていない(そもそもThreadsを登録していない)。あくまでも、最初に目にしたtogetterのまとめをベースに書いていくのでその点はご了承いただきたい。
さて、私はもちろん「『知らない言葉・表現がある』という状況自体は仕方ない」と思っている。世の中に存在するすべての言葉・表現を知れるわけがないし、さらに言葉というのは常に変化し続けるわけで、その変化まで含めてすべて追うなんてことはまず不可能なはずだ。だから「『無言の帰宅』という表現を知らなかった」という事実自体を責めたいわけではない。
ただ、個人的に強く感じたのは、「文脈というものを理解できないんだろうか?」ということだ。
先程書いた通り、私はThreadsの投稿を見ていないので、実際にどんな文面だったのかは知らない。ただ、普通に考えて、「行方不明だった夫が無言の帰宅となりました。」の後に、ポジティブな言葉が続いたりはしないだろう。もちろん、「心配して下さった皆様、ありがとうございました。」みたいなことは書いていると思う。ただ、「これで一安心です」とか「皆さんの応援のお陰です」なんて言葉は続いていなかったはずだ。
とすればだ、「『行方不明だった夫が無言の帰宅となりました。』という文章がポジティブな意味ではない」という可能性について検討し、一旦躊躇すべきではないだろうか。私にはどうしてもそんな風に感じられるのだ。
そして一瞬でも躊躇すれば、「無言の帰宅」をネットで検索するぐらいの行動は取るだろう。「文章がどうもポジティブな感じじゃないな。とすれば、自分の知らない意味を含んでいるかもしれない」みたいなことは考えてもいいんじゃないかと思うのだ。特に、ここで話題になっているのは「他者の死」である。通常の事柄以上に慎重さが求められるだろう。だから余計に「躊躇」が必要だと思うし、繰り返しになるが、「躊躇すれば、検索しておこうぐらいのことは考えるだろう」と思えてしまうのだ。
さて、今回の件に関連して、「書き手がもっと分かりやすく書くべきだ」みたいな意見も出ているようである。しかし、少なくとも今回のケースにはそのような主張は成り立たないと思う。
「行方不明だった夫が無言の帰宅となりました。」と書いたのはもちろん妻だろう。そしてこんなことをSNSで発信したのは、「『夫が行方不明になっていること』をSNSで公表しており、多くの人に心配してもらったから、事実の報告はなるべく早くした方がいい」という気持ちからだと思う。
であれば当然、「彼女は気持ちの整理がまったくついていない状態でこの文章を書いた」と考えるべきだろう。
だったら、「死んだ」とか「亡くなった」みたいな表現を使いたくないのも当然だと思う。「目の前の現実を受け入れられない」という気持ちがグチャグチャした状況にいるはずで、そういう状態であれば、自分の気持ちを波立てないような婉曲的な表現を使うのも自然だろう。「心配を掛けたから早く報告しないと」という気持ちと「夫の死を受け入れたくない」という気持ちが入り混じっていたはずで、そういう心境を想像すれば、「無言の帰宅」という表現を”使わざるを得なかった”と考えるべきだと私は思う。
これが「報告書」や「説明書」であれば、「書く側が分かりやすく書けよ」という批判も成り立つだろうが、今回のケースはまったくそのような状況ではないはずだ。どう考えても「受け手側が配慮や想像力を働かせるべき状況」であり、書き手側を責める発想はちょっと私には理解できない。
あと、確かに「知らないこと」があるのは仕方ないのだが、それはそれとして、やはり「知っていることの総量が少ない人」というのはいる。「一定以上に知識はあるが、抜け落ちていることもある」のと、「単に知っていることが少ない」のでは全然話が違うだろう。私は少し前だが、30歳前後の男性が「ポストイット」という固有名詞を知らなくて驚愕したことがある。どんな人生を歩んでいたら、一度も「ポストイット」という言葉に触れないなんてことになるのだろうか。
そんなわけで、「無言の帰宅」を知らなかったという人は少しだけ、「『知ってることの総量が少ない』だけなのかもしれない」と疑った方がいいかもしれないと思う。確かに、「無言の帰宅」という表現は知らなくてもある程度仕方ないように思うが(日常的によく使う言葉ではないので)、それは「一定以上に知識がある人」に対して言えることであり、「知ってることの総量が少ない人」には当てはまらない。そして後者に対しては、「『知ること』に対する努力や意識が欠けている」としか思えないのだ。
みたいなことをあれこれと考えさせられた。いやしかしホント、久々にぶっ飛ぶぐらい衝撃的な話で、マジでビックリしたなぁ。あと、最後の最後でそもそもの話をするが、「無言の帰宅」って表現を知ってるかどうかって話とは別に、「SNSで気軽に他者に話しかけすぎ」なんだろうなとも思う。確かにSNSは人と人との距離を縮める便利なツールだが、それは決して「配慮」や「想像力」を欠いてもいいということではない。なんだかなぁ、と思う。
