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喫茶店の手記 - 矢野南


-『病室の手記』から

序文

 僕はまた、いや、今度は物語を始める必要に迫られたのだと思う。しかし、物語を始めるためには時間を止める必要があった。僕は、僕の記憶に迫ってくる時間を感じていた。
 十二月に生ぬるい雨が降った日のことだった。遠くの列車の音が聞こえない夜だった。声を出すことができなかった僕は、心地良い風邪の痛みに潜り込み、息を止め、遠くの列車の音を聞いていた。
 そして時間は止まり、さざ波が生まれることもなくなった。
 僕はあの大きな海に背を向けた記憶を思い出すことができた。さらに僕は、真っ赤な鯉が泳ぐ川の水面を、眩しい街灯の光が映る川の水面を、歩いて遡るために物語を始めることができた。
 僕は古時計の振り子を見つめていた。ユウは屋上から薄明を眺めながら、ただならぬ長い夜の後のことを考えていた。星が現れた朝焼けと雲が流れた水平線だった。すると、目覚まし時計は小さな音を立てた。僕はユウが見た景色を夢で見たと思うのではなかった。僕はユウが、絶望の夢の中からでも、静止した振り子の重しほどの窓から、星の光を感じていることを、僕の方は揺られながらも、いつだって願っていた。

 ユウはベッドに横たわり、今日の朝、確かに思い出すだろうと思っていた言葉を、あの時の自分の返事と、濁流のような涙と一緒に飲み込んだ。
「明日から学校に来ないとお前はこれから一生そうやって過ごすことになるかもしれない。自分だけではどうしようもできないことがある。俺が力を貸す。だからユウ、お前は学校に戻って来い。明日の一度だけでも良い。でもな、チャンスも一度なんだ。わかったか?」
 職員室は静まり返っていたが、ユウの、部屋の壁を越えるほど鍛え上げさせられた—縛り付けられたといっても良いだろう—聴覚には、様々な音や温度が届いていた。いつからだっただろう、皆がユウを見る目の恐ろしさ、哀れで、無関心で、あのどうしようもなく寂しげな目に囚われ始めた日は。ユウの目はもうほとんど光を通さないほど怯えていた。そして今、目の前にいるクラス担任の教師、職員室から感じるやわらかな魂への呼びかけが、ユウに春の暖かさを思い出させた瞬間だった。
 ユウはベッドから起き上がり、今日の朝、もし上手くいった場合、確かに思い出すだろうと思っていた言葉を、あの時の自分のメモを一つずつ破り捨てていった。全ての準備が整っても、時計の分針にはまだ180度ほどの余裕があった。
 人々の喋り声が近付いてくる。時間だ。ユウは身構えた。確かに、半年前、ユウには大きな不幸が訪れた。やっぱりそれは確かなのだ。それからの不幸に比べれば、それだってとるに足らないと言えたらどれだけ良かったことだろう。しかしユウはその時、まだ身近な記憶に大きな幸せを感じられることができた。最も近い師と最も近い記憶が偶然、ユウの部屋の窓をかすめただけの幸福だった。
 人々の喋り声が止まった。一人分の足音だけが近付いてくる。チャイムが鳴った。
 ユウは階段を降りた。十数段の階段の全ての一段が恐ろしく呼びかけてきた。踏み締めるとはこのことだったのだとユウは心に刻まれたように思えた。それでも背後から襲ってくる記憶を踏み潰すことはできなかった。全て、ユウにとっては大切な記憶だったからだ。だから優しく踏み締めて行ったのだ。弧を描くように歩いた。靴紐だって無闇にきつく縛ることはしなかった。母親の声はもはや聞こえてこなかった。自分だけの物語を誰かに話そうなんて思いもしなかったのだ。
 春は空気に触れた肌の全てに眩しかった。誰かの声で少しずつ視界が広がっていった。大きなエルムの木が立つ丘の上に寝そべり、絶え間なく舞い散る桜の花びらの隙間から、わずかに青空が見えているだけだった。
「久しぶり!」
 ユウは少しだけ語気を強く、キミは落ち着いた様子で、二人が目と目を合わせた瞬間だった。


一 海への散歩道

 僕はデスクに積み上がっていた本を両手で持ち上げて片手で運ぼうとする。だいたい今日という日に限って閉館日である。しかしなんと今日はやっているじゃないか。なんてこともない幸福感、僕はその気持ちが僕の記憶に寄り添ってあげてくれることをもうよく知っている。ひとことで言えば長い夜だった。うん、今、これ以上は別にいいだろう。それは大事なことである。しかし僕に与えられた幸福は限られた時間なのだ。もったいない。捨てることは惜しい。でもね、積み上がっていたあの本たちを見てそんなことが言えるだろうか。そう思うと笑えてくる。なんて散らかった部屋だ。また長い夜に会いに行く。もうしばらく向こうから会いに来てくれたことはない。応援なのかもしれない。僕はいつの間にか、誰よりも長い夜のファンになっていたのかもしれない。だからいつだって、会える時に会いに行くからね。僕は鏡を見てそう告げるふりをしただけだった。実はその時、鏡に映る自分の姿すらも見てはいなかった。それで良いと思っていた。そうと決めたからだ。自然に散らかっていったこの部屋をかき分けて家を出る時はいつも、なんだか大自然の隠れ家のような。片手に積み上げた本を持ち、リュックサックを背負い、僕は真っ直ぐ歩いて図書館へ向かった。その真っ直ぐが部屋と書架を結ぶ最短距離かどうかなんて。今、大事なことを思い出すならば些細な幸福である。しかしもう、そんなものは家のドアを開けた瞬間に吹いた静かな風が吹き飛ばしてしまった。返却期限は明日だった。常に時間が迫り来る恐ろしい頃を思い出すと胸の痒みを引き起こすんだ。それで良いと思っていた。痛みではないからだ。ともかく、思考の堂々巡りは無意味な散歩に変わった。思考はどこに行くのか、僕はもう自分の想像を超えていく自分の思考を自由にさせていた。脳内に出来上がったこの街の地図を描いてみようと思う。それはまたいつか。今の目的地は図書館と決まっているのだからそこへ向かうだけ。あゆみはどれだけ素直になっても誰にもここへ来た道のりを完全に知られることなんてない。この道には僕と僕以外しかいない。僕の脳内地図を僕以外の誰が読めるだろうか。僕はいつだって新しい地図に新しい道を作っている。最近はこの道から見える風景がどうだとか、そうなると建物の高さはこれくらいがちょうどいいだとか、そんな感じなんだろうと思う。曖昧な理由は、さっきも言ったように、僕にはもう僕の思考の目的地が僕の想像をすぐに超えてしまうと思えてしまうからだ。そう、あの後、気づいたら僕は列車に乗っていた。どうだろう。最近は思考どころか、目的地すらもそんな感じなんだろうと思う。当然、理由だって同じだと思って良いのだと思う。
 それまでに見えていた、覚えていることがある。銀杏の黄色い落ち葉が駅前の寺で舞って、まるで涼んでいるようだった。冬なのに半袖でさ。子どもたちは元気そうで、ベンチでくたびれるあの人もいつも通りなのだろう。
 僕は改札を超えて、目の前の列車を軽やかに見送った。十五両編成の風が僕の歩くスピードを超えて行った。次の列車がやって来るまで、一体あと何分かかるのだろうか。僕はどの列車を待っているのだろうか。僕はホームの椅子に座って目の前の窓を眺めた。カーテンが閉められていた。その、ぴったりと寄せられていない隙間に、僕の意識はなぜだか心地よく吸い込まれていくようにして、まぶたが閉じられていたことを思い出すまで、一体どれだけの列車を見送っていたことだろう。その列車は、一体、どこへ行く、どんな列車だったのだろう。
 結局、僕は数十分ほど待った。そうやってぼんやりと一番後ろの車両に乗るためにホームの端っこまで歩いて、次の駅ではもう降車していた。列車がゆっくりと一駅を進んでいる間、僕はユウが階段を降りていく姿を思い出していた。

 森の中に図書館がある。歩く方向を真っ直ぐだと思ってしまうほどの森の中だ。僕は大きな書庫から一冊の本を受け取った。図書館の前には小学校がある。家から教室までまっしぐらだったユウ、公衆電話に十円玉を入れるユウ、真っ暗になっても、公園には仲間たちの誰かがいた。ユウとキミとで二人きりになることもあった。そんな時は、ブランコを漕がずに打ち明け話を期待した。夜空でも見ていなければ話せないこと。ユウは胸が高鳴り、知らず知らずのうちに、金属が軋み始める音を心地よいと思うようになっていた。
 駅前の時計台がキンコンカンコンと打ち鳴らす合図で僕は優雅に喫茶店へ向かった。背の高い喫茶店だ。三階の窓際は東側で、日中の日当たりがよく、ブラインドからもれる光が心地よかった。ここでも遠くを見渡せる場所にいるはずだった。しかし、僕はまた、目の前にある大きな物語を抱きしめていた。あくびをして、僕はBGMの意味を考え始めた。このチェーンの喫茶店で流れているBGMについて、ユウはこれまでどう思っていたことだろう。
 たとえばセロニアス・モンクからあの特徴的な不協和音を取り除いてしまった環境音楽用アレンジのピアノトリオや、一体誰が演奏しているのかもよくわからない枯れ葉だとか、僕が好きなジャズがBGMになっていることもある。それを変わり果てた姿と言うとはなんて傲慢なんだろう。空間に溶け込む音楽、僕はトイレに入って気づいたのだ。「モンクだ!」と。この曲の名前が「枯れ葉」だということはジャズファン以外にもよく知られている。誰かがあくびをした瞬間、キミは並木通りを思い浮かべてくれるかもしれない。僕の師はBGMについていつかこう言ったと思う。「もう表現することがなくなったんだよ。」だから僕は書くことをやめることにして、そして今日もまた、小さな本の中で眠ることにした。BGMのように流れる記憶を頼りに、僕はユウに話しかけることにした。長い夜に会いに行くのだ。ゆらゆらと、落ち葉が水面からするりと、あっという間に海底へ沈んでいくように思えるだろう。

 ユウは駅前のロータリーをぼんやりと見下ろしている時だって、痛みの感覚がそうやって眺めている風景のように散っていくことにはならない。どんな風景にしてもそうだった。くたびれたように、しかしどこか呆れて楽しんでいるように、そんな人々と喫茶店の喫煙所から眺めている煙越しの風景だって。そこではスーツもパーカーもドレスも同じ煙でにおっていた。駅舎で雨宿りをして待ちくたびれたキミが床に水滴を落とした。霧の中ではよく見えないのだが、実は、地面では虹色に揺れる油がどこからかやってきていた。振り払おうとしても、見ないようにしても、この感覚が逃げていくというあまりにも小さな希望をむしろ忘れさせてくれるための行為に思えた。慌てて持ち込んだコップの水を一気に飲み干したキミはまた、すぐさま水を汲みに行ってしまった。キミの顔は地面と似ていた。さっきあの急な階段を登っていた時、ガラス越し見えた学生服の集団の声は深い煙の中を縦横無尽に駆け巡り、暑苦しい湿気で上着を脱ぐ仕草を見た。煙は消えてしまった。しかしユウは煙の意味のなさに安堵していた。隣の席に感じた煙からシャンプーの弱い匂いがすると、コーヒーの焦げた香りすらかき消すように、瞬く間にチーズの発酵臭が広がっていった。キミは頷き、姿勢を正したまま髪の毛を柔らかくポニーテールに結き、スプーンでカップの底をゆっくりと掻き回したり、また揺らしたりした後、両手で抱えるようにしてくちびるに近づけていた。溶け切ることのなかったココアの粉を掬い上げて食べたキミの表情は暗かった。そして妙に俯いていたキミはスマートフォンも両手でしっかりと握りしめていた。髪を揺らせて立ち去ったが、残り香はチーズだけだった。時刻を気にする素振りは見せなかったが、ユウにはその気持ちがよく理解できるような気がしてしまった。いつも行われている同じ仕草であり、それにも関わらず緊張していた。ユウは綺麗だと思った。その繰り返された記憶は、必ずキミの夢が見ているはずなのだから。アルバイトも消えたらしい。何も言わずにではなかったらしいが、それでもキミは「賢いだろう」と同僚に語り、カバンから履歴書の一枚でも取り出したに違いない。お手洗いから戻ってきたユウは何一つとして変化のないテーブルを深く認識した。トイレで、ラジオのCMから聞こえてきたお悩み相談はこうだ。「友だちはたくさん作った方がいいですか?それとも今の少ない親友を大切にするべきですか?」

 僕は丘の上に立つ菩提樹を眺めていた。キミの墓地の場所はキミの友人の近くになったそうだ。だから寂しくはないだろうと僕は思う。春のような暖かい風は、僕には梅雨のような温かい風に思えた。墓石に刻まれた文字はこの丘の中央に立つ木が新たな心臓となるように願われているのかもしれない。一年前、病室に横たわっている死んだキミに駆け寄った時、僕は瀕死を免れようと必死にもがいた長旅の後、ただ目の前の海をぼんやり眺めて過ごした日々で暖かい表情を取り返しかけていた。だから寂しさの実感が訪れる前に涙がこぼれ、そして目の前に海ができた。僕はキミに会いにいった回数が少なかったと後悔しているわけではない。なぜなら僕は、僕がキミに会いに行ける状態である時、僕がそこからキミの目の前に現れるまで、義務を感じたことなど一度もなかったからだ。それでも伝え残したことがいくつかあることには思い至る。僕の詩はキミの棺桶に入った。「心が向く先に心は沈み、木が見る先に魂は育つ。」僕はまだ、キミのお気に入りの喫茶店を見つけられていない。死後、キミから届いたコーヒー豆は、キミが秘かな思い出だとこぼしたあの店のものではなかった。
 脳は止まれと指示する。心は進めと急かす。神経と身体で行われる高速往復が並列の輪郭に耐えきれず、丸みを帯び、円環の深い森が現れる。それでも僕の詩は、今、目の前に見えている木にしがみつけと涙を堪える。最後に僕ははっきりと、丘の上の木と墓を見た。キミたちよりも長い間見た。一足先に、キミたちに別れを告げた後、僕はこれで良かったのだと思った。これ以上、今の僕にできることはないだろう。僕は強い風の音と低い声の音を聞く木を見た。かつてエリック・ドルフィーは言った。「When you hear music, after it’s over, it’s gone in the air. You can never capture it again.」僕はこの時、いつか空に消えた音楽を聞いてみたいと思っていた。もちろん今だって、そう思っているに違いないのだけれど。
「早く早く!」ユウははしゃぐ。「ねぇまだなのー!」ユウはすねる。思いっきりドアを開けて外に出たユウ、リュックサックを玄関に置き忘れているユウ、キミはそれを見て笑って、キミの父に預けた。小さな夢の国で見るキャラメルのポップコーンやクリームソーダに、味の違いを見出して笑うなんてことをするずっと前のユウだった。
 ユウがすがるように駆け込んだ喫茶店。まず、古めかしいショーケースが腰を低くして迎え入れてくれる。銀紙に包まれたショートケーキ、陶器に納まったコーヒーゼリー、ユウは心を奪われていて、このお店の中でお客さんが自分一人だと気づくまで時間を止めていた。カウンターに人はいなかった。背後から「どうぞ。」と声をかけられて驚いたユウは、高い背もたれの横から振り返ってこちらを見るキミにやっと気づくのだった。「どうも」店内を見渡したユウには壁に貼り付けられた大きな鏡と、同じくらい大きな一枚の絵画が目に入ってきた。ユウは鏡が見える場所を嫌っていた。それはもちろん、言うまでもなく、自分自身を見たくないからであり、もう一つ、あの枠の中へ忙しなく出たり入ったりするキミたちを見たくないからだ。そうして鏡と絵画を背にして座った席からは入り口や、その隣に鎮座するショーケースも見えた。
 エレベーター、コの字型の建物の中庭、目線の高さに合わせた壁がある向かい合わせの大きなテーブル席、ユウはそのどれもが苦手だ。潮騒に背中を守られながら、夜明けの街がユウに感じさせたものは灰色の雲を見て生まれたさざ波だ。やがてその一つ一つが太陽の光に煌めかせようとも、それぞれのさざ波の誕生を知ることはできない。少なくともそこに、喜びも悲しみも、快楽も苦痛もないと思えることがユウにとっては救いだった。
 リュックサックを重たくしてまでもユウはR全集を持ち歩く。以前のユウは、夕日が沈んでしまう前までに、薄明かりが消えてしまう前までに、長い夜と同じほど重たい過去から這い出ていくように、毎日わずかな精神力に心を研ぎ澄まし、そうやって家を出ていくだけで一日が終わっていた。そんな時でも必ず、お気に入りの詩はいつもリュックサックの中にあった。何度も紙に書き写した。スマートフォンのメモ帳を開けば最も目立つところに固定されていた。しかし、ユウはキミが書いた、始まりを告げるには弱々しすぎる一詩を全ての中にあるささやかな序章としての一詩として俯瞰することで、痛みに溺れながらも、その一詩から、夕焼けから薄闇までの短い時間に、あまりにも広く輝かしい世界を見せてくれたように思えた。そして徐々に、必ずしもR全集でなければいけないというある種の偏愛や束縛、感傷や呪術、そういった意識が変化していくことを感じていっただろう。ユウにはR全集を持つことで、幸福と痛みを同じように重たく包み込む夜の重力を感じることができた。分厚いR全集と釣り合った長い夜をユウは心から解放し、そうやって、やっとの思いで夜の幸福を味わい始めたのだと思う。物語の理不尽さに注視し、お守りの糸が切れたのだとキミの想いに助けられながら過去を受け入れていくことで、もう一体どこに行くのかもわからぬ歩く力へと変えていくしかない。微かな幸福を味わうという進歩には、夜道を歩いている状況において、これまで味わってきたキミたちへの深い愛情に痛みが和らいでいくひとときに思えた。悲しくもそれらの日々を伝えることで社会の変化を期待するなんてあり得ないことだった。既存の表現にもまとめ上げることのできない複雑な痛みを「闘病」や「病気と戦う」などといった言葉でまとめてしまうなんてあり得ないことだった。だからこそ、ユウは誰にも言わず、また誰にも存在を知られることもなく、夜道を歩きながら、痛みへの新しい表現を探し続けていた。憎しみや怒りは心に沈殿した詩を読んでいた。痛みへのそれに比べれば、社会への憎しみや怒りなんて取るに足らない。ユウは、そんなレベルで生きたことがなかったのだ。夜空に浮かび上がっているキミたちの全てから、からくり人形を動かすための導線のごとく繋がるキミたちの表現を感じているユウが、キミたちしか知らない表現を理解しようと幻想の世界へ繰り出していくことは必然だったのだ。
 思案に暮れるユウの元に運ばれてきたクリームソーダが、カラり、シュワり、音を立てて長いグラスから溢れそうになっていた。急いで口を付けた後、ユウは喫茶店のざわめきに気づくのであった。遠くを見渡してみると、小さな収納にすっぽり納まったCDプレイヤーとターンテーブルがあった。店内で流れている音楽はなんてこともない雑多な、モダン・ジャズのプレイリストであった。まるで隠されているかのように少しだけ置かれたCDとレコードを見つけたユウは、この喫茶店の慌ただしい歴史と、キミが大切に守ってきた暖かい空間について、また思案に暮れてしまうのではないかと呆れそうに、わずかながらも笑いを堪えていた。
 それにしても、ソニー・クラークから「Nica」とはなんてことだろう。気の利いたタイムレーベルからリリースされた『Sonny Clark Trio』は、どれを聴いてもハードバップの良さを十分に伝えることに成功したブルーノートの同名のアルバムと比較して、ジャズファン以外からの知名度も圧倒的に低く、そうしたごく一般的なジャズの名盤語りとして引き合いに出される機会もあまりないのだ。それにしても、『Cool Struttin’』は世代を超えて多くの人を虜にした。ブルージーで落ち着いた演奏と、一見、煌びやかな街を切り取ったようなジャケットの相性に、いつかのユウだってうっとりとしたものだ。ブルーノートの『Sonny Clark Trio』で聴くことができるジャズのスタンダードは誰もが否定できないほどの一級品のアレンジとアドリブをどっしりと構えたリーダーのソニークラークが残した名演である。しかしユウのフェイバリットはタイム盤の『Sonny Clark Trio』だ。全曲がソニー・クラーク作曲のオリジナル。彼の作曲の巧さを味わうにはこれ以上ない隠れた名盤だと言える。もはやジャズを50年代、60年代の黄金の時代から聴き始めるリスナーも少なくなっているように思える。スタンダードの古典的名演は現代的なアレンジでより洗練され、進化を遂げている事実にもジャズというジャンルの懐の深さを感じる。それこそ全てを包み込む長い夜そのものではないだろうか。ソニー・クラークが書いた曲にユウは、彼なりのブルースの解釈に想いを馳せ、そうやって作曲家から、何にひとつとして伝統を借りていないとは言わずとも、キミが名付けたものこそを認めたいと思うようになったのではないだろうか。
 ソーダ水の上にアイスを浮かべてみようと思ったキミ、クリームソーダにチェリーを乗せてみようと思ったキミ、古く重たい力を借りて、ひとまずその完成を見届けたキミたちによる共通認識が今ユウの目の前にある。新しさを見出さなくても良いと思えた瞬間はなんて美しい現象なんだ。ユウは、そんなキミの歌を聴きに、キミの声に呼ばれた時に、涙の海に浮かべることのできるきらめきを”見た”のだった。ソーダ水の緑でも、チェリーの赤でもない青い光が、水中に沈み、海底に立つユウの足先をあたためていた。その日の夕暮れ、全集を読み耽るユウ、ジャズの音が立ち上る。空っぽの夏空に、痺れるような痛みを想像してくれるキミはいない。グラスの氷が音を立てずにぱきりと割れていた。未だ波も立たずに、”過去の砂”で、亀裂の入った踵をほんの少しだけ上げた。それまでの話を、ユウはいつだってキミから思い出していた。
 なまぬるい風が、墓石をなぞりながら丘を越え、今、菩提樹のお守りからするりと抜けていく音楽と共にここまで来たようだ。昼時、僕はあの喫茶店のドアを開けると、夕方よりも少し大きな音でジャズが流れていた。しかしあの時とは真逆、ランチの客たちで満席の店内を確認した店主から両手で小さくバツを作られ、「時間はあって、待てるのですが、だめですかね。」と粘るも、小刻みに首を振られ、結局追い返されてしまった。「また来ます。」それは事実になる。またねって、忘れるつもりはないし、いつだって思い出して良いのだから。
 確かに、「ありがとう」も「さようなら」もなかった記憶はよくユウの手を止めさせている。はじめ、キミはユウの生真面目な緊張感を察知して待った。深呼吸が得意だったキミにはお見通しだったのかもしれない。カップに何本の黒い線が引かれていただろう。ユウは空っぽの陶器に口を付けてキミの体温を感じたのだと言い聞かせた。そしてキミも言い聞かせてみた。詩の序文にもできない体温の緊張を、空気の振動に乗せて一本の線が引かれた。息を止めているユウにはキミの深呼吸の音がよく聞こえていた。しかし、しかしだ。その後の熱、ほとばしる生命を踏み締める快楽よりもだ。翌日の重みと痛みをキミに伝えることができなかったことによる悲しみ、苦しみの方が、いつまでも引き出しの手前に存在しているのだ。最後に思い出すことを詰め込んだあのぐしゃぐしゃの紙切れで溢れそうになる引き出しの中に存在しているのだ。ユウは伝えるべき言葉の存在を認識できずにいた。そうして長い時間息を止めることになったのは、ユウの言葉はいつも否定されるべきなのだと思い始めてしまってからである。誰もいない階段を下る時も、満席の鉄道に押し込まれている時も、ユウはキミの手をできるだけ長い時間硬く握りしめていようと思った。刹那の視線と、音の振動と、包まれるような温度にこそ心が呼び寄せられるのかもしれないと気づくのは、ユウがさらなる海を泳ぎ始め、そして、新しい世界から過去を見つめ直す時だった。またここにやってくるのは、それらか何年も経った後だった。ユウはあの席を見つめ、この店のメニューで最も安いエスプレッソを胃の中に流し込んだ。もう荒れた内臓の傷の痛みは過ぎ去っていたのだった。
 過ぎ去りし日々、ユウにとってそれはコンクリートで埋め立てられた工場地帯の中にある病室での記憶が大半であった。妙に人気もない長い待合室を超えて、ではなぜ、こんな遠いところまでやって来なければならないのかと、医者も患者もいなければ蛍光灯の険しい光も飛び飛びであり、あの空間への疑問は恐ろしく肥大してユウの痛みへの認識に紛れこんできた。固い地面から眺めた海も確かに海だった。それは間違いなく故郷の砂浜から広がる小さくも果てしない水平線の風景と、江ノ島に吸い込まれていく太陽の季節を思い出させてくれるあたたかい海だった。束の間の白昼夢に、キッチンカーから降りて来たキミがコーヒーを渡してくれた。「次はいつ来るの?」「今日も長いね。」「あまり無理をしないように。」そんな言葉をかけてくれたキミはよく、コーヒー豆が入ったガラス瓶の蓋を開け、ユウの顔に近づけてくれた。鉄や潮の空気に混じっても、その、ほどよく焦げた果実の香りはユウに、時間を戻せば痛みよりももっと前の、記憶で表せばもっと奥底にある、誰もいない家でベッドから這い出た後に飲んだ一杯のひとときを思い出させてくれる瞬間だった。キミが使っているものほど美しくはないが、入口にゴムのパッキンがついているガラス瓶を開ける。自分の鼻で香りを確かめる。購入した日付が書かれたシールも確かめる。どうしてこんな海底にコーヒーの香りが届いてきたのかはユウにもよくわからない。長い間、海の中で目を開け続けることを強いられたユウに、目を閉じるという選択肢を与えてくれたものがあの果実であることは間違いないだろう。そうだ、その時、ユウは水面に横たわっていた。その無意識だけが香りを捉えさせたのだ。手動のミルでガリガリと豆を削る音はすぐに潮騒でかき消される。コーヒーを淹れる水に塩水を使うことはできない。沸騰する水の音が誰もいない家に響き、ユウは海風で街中を疾駆した。駐車場で倒れたユウの血管を高速で流れる毒より速く。どんな痛みを伝える電気信号よりも、ユウ自身が信じている感受性よりも、何よりも速く、離岸流の向きをも変える速さで海風が故郷の全てを包んでいったように思えた。それから、ユウはいつも海に帰りたいと思っていた。

「背中の痛みを確認した。胸の痛みにも意識が向く。痛みは中央に寄っていたのかもしれない。気にせず音楽を聴いて過ごす。痛みが強くなりそうな予感で不安になる。そうすると、途端に痛みが恐怖と束になって襲ってくるようだった。炭酸水を買って飲む。落ち着こうとする気持ちを獲得する。痛みの変化はない。痛みが移動している。 血管を移動しながら詰りを吐き出すかのように。少しだけ痛みが落ち着いてきた。そうと思いきや椅子に座るとまた元の痛みに戻ってくる。身体の中央、食道からみぞおちあたりが痛く、背中も痛い。もしかすると胃潰瘍だろうか。そのような外傷だろうか。とも思った。しかし、皮膚をつねってみると、おそらくこの辺りが痛いのだろうなと把握できる。表面の筋肉や神経の痛みだろうか。うつ病などの精神病から発症することもあるという線維筋痛症を疑った。しかし、そこまで強い痛みではない。痛みも考えも巡った。ひとまず温めることが良いと判断してみる。入浴。お湯に入る直前に、右足のひざ裏の筋が強く痛んだ。入浴中は、痛みが弱まったり、移動したり、強まったりした。身体を巡る血液と神経と思考と感覚。痛みの移動や変化がとても恐ろしい。怖いと思ったタイミングですぐに浴槽から出る判断をし、心を落ち着かせようとした。ストレッチを試す。痛みの強さは変わらないが、バランスが安定していたように思える。しかしやはりそれでも背中は全体的に痛い。ここで思い出す。夕方の喫茶店で、窓際の背もたれがない高い椅子で、姿勢を良くした方が良いと思い、背筋をピンと張っていた。もしかするとただの筋肉痛なのかもしれないと疑ってみた。そんな生ぬるい痛みではないことなんてわかっていた。キミに電話をかけた。現状を5分くらいで話す。不安という現象は誰かに話した方がいいから電話したんだということを伝えられた。そして次には、眠ることが最善と考え、日付が変わる前にベッドに入り電気を消した。お腹の鼓動が気になり眠れない。足のしびれが止まらない。頭が常に火照っている。眠れない。呼吸を意識して少しだけ眠る努力をしてみるが、静かな心を保つことは厳しかった。脳は興奮状態にあり、交感神経が強く働いてしまっているのではないかと推測した。対処としては、今すぐに眠るのではなく、一旦眠ることを、心地よくないことをやめて、まずは水を一杯飲む。頭が火照っていることに意識を取られていたので、保冷剤をおでこに貼る。効果を実感。少しだけ落ち着きを取り戻す。さっきは寝るために仰向けだったが、姿勢をうつ伏せに変えてみる。音楽をかけ、夜更かしは気にせず、いつもの自分がわかるくらい安心できるような状態を作ってみる。音楽は身体を水に沈ませる想像の世界で鳴っている。 宮殿の噴水の前で、僕は眠ることができない。コクトーの阿片という文章の存在を思い出した。阿片中毒から回復していく様を克明に記した書物らしい。この文章は精神病から回復していく様を克明に記した書物と言えるだろう。 
 あれからすぐに眠れた。良かった。目的は達成された。身体の痛み、若干あり。医者からもらった解熱剤と痛み止め、胃液を保護する薬の服用のために朝食を取る。トーストと野菜スープだ。インスタントコーヒーを1杯飲んでみる。カフェインを試す。痛みに変化はなし。ただ、気づいたら冷え切っていた頭がまた火照り始めた気がする。散歩に行ってみよう。空気を吸いたい。そうしたら、僕はぜひ自分の身体がどう変化するのかを確認しておきたいのだ。


二 水に佇み

 確か、僕がいつでも探していた景色は、僕がどこにいても故郷を思い出したいがために、海の見える街の記憶ばかりなのだと思う。生まれた街でそんな記憶が儚く過ぎ去って行くことを恐れ、僕は染み渡る凪と、潮の香りと冷たい夕暮れを求めて出かけて行ったのだと思う。僕はもう、街の中に潜む海が語りかけてくる夢を見る必要なんてなくて、ただしけた日の波にでも乗るように群衆の中へ消えていくこともあれば、誰もいない砂浜に立ち尽くすための道の途中で新しい声を拾うように波が奏でる歌に耳を寄せていたりする。
 もし、痛みが情けをかけてくるような、感情を持つ現象であったのならば、僕は毎日何時間も味わうことになった不幸はもっと曖昧なものであっただろうし、それが何週間も、何ヶ月も、こうして何年も続いてしまっているからこそ、夕暮れの美しさとの関係性が続いているのだと思う。
 始め、ベッドで天井を見ていた僕には海の底に沈んだ碇に括り付けられている鎖が凄まじい圧力を感じさせていた。指を曲げて何かを掴むことにも、膝を曲げて体制を変えることにも、あらゆる動作に常軌を逸した時間を必要とした。自分の身体が発する信号を頭で理解していたとて、水分補給もままならず、痺れる足を動かすことも大変な作業であった。薬の効果が切れ始め、自分の意識のほとんど外に存在していた狂気の力を感じ始めると、それでもやっと重たい荷物を引きずるように、トイレを済ましたり水を飲んだりした。一歩、いや、1メートル這いつくばるだけでも夏は汗が滝のように流れ、冬はフローリングの冷たさに凍えた。動作を行うために筋肉を緊張させ続けていたせいなのか、排泄中ですら両肩は耳の辺りまで上がり、がくがくと震えながらわずかな解放感にすら縋ることはできなかった。水はというと大きなマグカップから何度も喉に流し込み、僕はここでわずかな解放感に希望の香りを求めることができた。水はお湯になり、コーヒー豆は粉になった。僕は軽量スプーンと計量カップと、花の絵柄が施された古くさいカップアンドソーサーをキッチンに並べた。

 ユウは手に入れたタバコの箱を見た。革命家の肖像は見下ろされていた。煙のようにこの世から消えていったわけではない。いつまでも這って進むあなたの重たい風で思い出す。殴り書きの日記がユウの腹の底では未だに蠢き続けていることを。水に濡れたコンクリートが、コーヒーカップの底が、川底が、海底が、今でもユウの革命への一歩を思い出させている。それは水面化で淡々と計画されていたものなのかもしれなければ、はたまた底流のごとく必死に隠されなければならなかった感情なのかもしれない。山の中の焼却場であり、海の上の花火であり、遠くに見える船であり、用意ドンのピストルであった。革命の煙が血を巡り、ユウは砂浜で一斗缶から噴き出る煙を眺めていた。これであの大量の薬は全て空に消えたのだ。学校の椅子に座っている時間よりも病院の待合室にいた時間の方が長かった頃、ユウはそれよりももっと多くの時間を砂浜の上で過ごすことができればと、祈りが潮風に変わるまでさらにどれだけの時間が過ぎ、一体どれだけ醜い一歩に対するあなたの殺意を感じ、せめてもの抵抗にして無言を貫いたことだろう。ついに切り出した言葉に込められた憎しみをあなたはもう覚えていない。
「人の気持ちに寄り添えないあなたが医者をやる資格なんてない。今すぐ廃業しろ、この殺人者め。さようなら。もう二度とあなたが目の前に現れてこないことを祈ります。あなたの目の前に現れようなんてそんなこともう思いませんから。どうか恥じてください。あなたの恵まれた聡明さによって、あなたは過ぎ去ったこれまでの時間を思い出すことなんてないでしょう。それは理解しようと努めます。だからあなたはこのまま一生あなたのままなんですよ。そうです。もしあなたがあなた自身の変化、加齢、そして老衰、予期せぬ病魔によって、救いの手を見つけ出そうとこれまでの記憶を頼りにする時、そうやって長い時間をかけて、やっとの思いで握りしめたものからあなたは手放されるでしょう。あなたは人を殺そうとした。いえ、もっと丁寧に言わなければならない。人を救おうとはしなかった。だからあなたは後悔できるようになってついに、救われない感情から憎しむべき殺人者の姿をを見ることだろう。今のあなたにはその姿を見ることなんてできない。その机にあるナイフを取り出して目の前の人を突き刺すなんてできない。あなたの後悔が一生続くように願う。墓場で手を合わせられている時もなお、死ぬまで続いた後悔があなたの周りの人々の枕すら夜な夜な濡らすことになるだろう。その悲しみに水を刺すつもりなんてない。おまえだけが一人だ。せめて誰もいない病室でカルテでも焼き払ってみたらどうだろう。本来、消えるべきなのはおまえの方だ。それをわかっていてもそうはできないあなた。人ひとりを消したあなた。あなたは憎しみそのものだ。自分自身の存在を後悔し、生まれたことを後悔するがいい。もう二度と会うことはない。お前に殺されてしまったのだから。さようなら。」
「なんてひどい捨て台詞。」
「病はあなたから離れていくだけだ。」
 ユウは生まれて初めてタバコを吸った。テーブルも椅子も、様々な家具の種類がバラバラの喫茶店で。奥まった喫煙所の、ぼんやりと赤いランタンが灯る長いカウンターに肘をかけて。思い出したからだ。「タバコをお吸いなさい。さもないと、ほかの人があなたのかわりに吸ってしまいますよ。」エリック・サティは、タバコを吸えという医者からの助言に従っていたのだ。ユウは医者からユーモアを聞いたことがなかった。ユウも、ユーモアを話すことが苦手だった。雨の中、自転車がブレーキをかけてキイと音を立て、喫茶店の前に止まったな、と思った。ユウはあなたを笑わせてやろう、と思った。まずいコーヒーをもう一杯頼んで、ユウとあなたの関係性はまた少しだけ深まっていった。

 僕は鏡の前を通り過ぎて絶望する。蛇口から溢れ出る冷水が醜い顔面を湿らせる。僕は美しい夕暮れの街を見るためだけに存在していて、僕自身が美しい存在になる必要なんてなかった。夕暮れは常に、遠くにあって、だからいつも、誰かのために存在しているわけではなかった。そう思っても、僕はできるだけ薄闇を待った。誰にも見られないように待った。長い痛みと待ち時間はむしろ、僕の心に様々な色彩の港町を浮かび上がらせた。僕はベッドで再び目を閉じて、その、向かうべき場所に引き寄せられる感情を待った。さざ波が誕生するのごとく僕の身体に現れる新しい痛みを変化の原動力に変えた。そしてやっと、僕が逃げ出さなくてもいいくらいの明るさを願い、布団の上から手を伸ばし、カーテンの半分が開かれると、空は、掠れた白線が薄明に光り、分厚い雲が薄闇に登り始めていた。夕方のチャイムと鳥のさえずりと、子どもの声と鉄道の音が潮風に混じり、心の奥底に鎮座していた僕の耳は、醜くも、再び僕の顔に戻ってきたように思えた。砂浜で閉じられた耳は遠くの家が愛おしく、どんなに激しい雨音をもかき消すほどの潮騒が僕の耳に届く。そしてこの部屋には少しだけ、僕の記憶に近くも新しい香りが、ささやかに冷たい風が、水平線に遠くの音を聴いている刹那、ぐるりと過ぎ去って行った。僕は大旋回の風の中で立ち上がり、またふらふらと音に揺られながら、今はこの場所に閉じ込められている心地良さを見出す以外の選択肢がないことを、あまりにも眩しく、美しい光景を手に入れることができない悔しさの発露とともに、その準備を記していた何の関連性もない単語、途切れ途切れのメモに憂い、どんな行動よりも遅い行動を抱き締めるために、あの叫びたちを必死に結びつける寂しさで感じていた。絶望の記憶を見ることで、僕と痛みの関係性はまた少しだけ近づいていった。

 ユウは今日も書き留めている。街を歩き、何もかもを書き留めようとしている。あなたが与える印象の中に迷い込み、ユウの地図に今日も新しい記憶を浮かび上がらせている。それはユウが今でもあなたのことを考え続けなければならないからである。俯きがちな老人は顔をあげ、いつもより、いくらか柔らかい笑みを見せているように思える。だからこそ今日のこの街が正気には思えない。ユウはどんな街に行っても正気の街を感じることができなかった。いつもなら閑散としているこの街の、ユウの静な散歩道には、満員電車よりも寿司詰めの人々で賑わいを見せていた。しかし川の砂利道に立つ白い大鳥は今日も同じ場所で佇んでいた。ユウは回り道したことを思い出した。もしも真っ直ぐ進んでいたことを勇気だと思えるのならば、散歩がユウに書き留めさせる風景は変わり、あるいは全ての風景に縛られた散歩よりも何にも囚われない決断や行動に支配され始めることを予感してしまっていたことだろう。動くためではなく動き出すために、世界を見るためではなく居場所を増やすために、今いる場所にいる時間を減らそう。動き出すための椅子も、居場所のための椅子も、時間を減らすための椅子も、全ては喫茶店の中の特等席にある。
 午前中、あなたを知るために入った喫茶店では、もうわかっていたことなのだが、まばならな人々が各々のお気に入りの席で、重い腰を据えてコーヒーを飲んでいた。ホイップクリームが添えられた暖かく甘いスコーン、趣味の良い大きな扉の奥の喫煙所、整理されていない店内と狭いキッチン、眩しい太陽光は薄暗い空間に、この店に一枚だけ存在するガラス窓からちりちりと差し込むばかりだ。日差しというよりかは遠い光源を感じるようで、そこは喧騒から切り離された場所にある、曰くつきの歴史を誇ることもない不思議なサロンに近く、恐ろしいほどの安さがむしろ古典的に思えて、もう長いことユウを魅了し続けている。ユウは、街の底に繋がる場所は地下鉄ではなく、地上一階に存在しているこの喫茶店なのだと言う。その意味はシェルターにも近いだろう。あなたは短い詩をたくさん書いた。あなたは悩みや思い出を短いエッセイにした。あなたはかつてのこの国を思い浮かべていたのだと思う。田園風景がそのものとして存在していた頃のことで、あなたはその当たり前を愛していたのだろうか。伝えたかったのだろうか。それとも、あなたの新しい記憶にしたかったのだろうか。あなたの一人称はゆらゆらと変わり、決して落ち着くことはなかったという。それが居心地の悪さでもあったという。ユウにもその意味が自分自身に染み渡っていたことを知ることとなった。ユウにもたくさんの一人称があり、たくさんのあだ名があった。なんて呼ばれても良かった。だから自分も、自分のことをなんて呼んでも良かった。あまりにも居心地が悪く、意図的に省略しようと努力した時もあった。しかし、ユウは手紙を書く度に気付かされるのだった。自分が誰でどんな人であるのか、また、相手はどんな人であるのか、そして、宛先は誰であるのか、それが何よりも重要だということに。ラベリングをされたあらゆる人々に対する発言を批判するために新たなラベリングが必要であることに、どうしてこうも繋がってしまうのだろうと悩むこともあった。しかしそうでなければまた新たな分断が起こるだけなのだろうと、ぼんやりながらも、ユウは大切にしたい宛先のことを考えていた。これからも、いつもあなたはユウにとってのあなたでしかない。数年ぶりに会ったあなたはユウの街の底の場所を知っているみたいで、目の前にいただけなのにも関わらず、ユウの中に入ってくる気配を感じた。一滴の涙で、あなたとの再会はこれで良かったのだと思えた。田舎のどこにでもいるあなたは都会のどこにでもいるあなたになった。ユウはどこにでも現れるあなたを見ては、あなたが辿った道を思い出して、あなたとは別の道を、あなたの心を抱えながら進んでいった。
 
 久しぶりに僕の元へ朝が来た。身体から突き出してくるあの無数の鎖は繋がれたままであったが、しかしその先端の重石がない、いや、今の僕が想像できる限界の軽さに思えた。軽快な腕の動作でカーテン、そして窓を開けた。ほとんど自由な力を取り戻した僕はその加減をすっかり忘れていたようだ。西側の窓が物凄い憩いでスライドし、静寂の早朝にガシャンと音を立てた。そして朝の静けさは驚くこともせずに、ゆっくりと冷たい空気を僕の部屋の中へ忍び込んできた。緩やかに下がっていく体温が心地良かった。もう一つの小さな窓を開けると、この部屋に沈殿し、こびりついた重たいほこりの一部、その表面がささくれのように剥がれて、部屋をぐるりと舞った後、大空に向かって羽ばたいていった。大量のレコードや古書、オーディオケーブルと共にしたあなたも冷たい空気をまとった。今日の日を待つ。その意志は電子ピアノの上に置かれた洋服の塊を見て思い出された。僕が着る服に選択肢はなかった。お気に入りの詩集、思い出の写真、予備の薬が詰まったポーチ、必要なものは既に、全てリュックサックが抱きしめていた。僕の持ち物に選択肢はなかった。コンセントに繋がっているドライヤー、ボタンを押せば流れる音楽、ドアにかけられた大きな写真。僕の準備に選択肢はなかった。僕は冷たい空気とともに家を出た。冬は空気に触れた全てがゆるやかだった。酒の空気を思わせるような社交性はなく、僕は一人、音楽に揺られながら風の膜へ入っていった。あれから僕の部屋はまたすぐに、遮光性のカーテンの暗がりの中に消えた。僕の眠りを誘うあなたの写真が挟まれた詩集を開くために、明るい空の下でもあなたの存在を感じるために、僕はすぐに、近くの喫茶店へ向かった。
 僕は見た。老人たちの集いがそこにあることに安堵して同じ空間を共にした。奥歯が痛む。感覚はすぐに暖房の効いた空間を認識して塗り替えられた。老人たちはぬるいなと言って笑いながらコーヒーを飲む。僕は同じコーヒーを注文した。あなたを探して詩集を開いていた。もう疲れてしまった。連絡がたくさん来た。逃げるように入った朝の立ち食い蕎麦屋、ラジオからはシャウトが力強いロックがかかっていた。足取りは重かった。それでも、今偶然流れている音楽に身を任せてみた。電車になんて一本くらい逃しても、時間になんて少しくらい遅れても、それでも次を待つ力だけは僕の心に刻まれているはずだろう。もう疲れてしまった。あなたを探して詩集を開いていた。そこには確かにあなたがいた。音楽が僕の脳を駆け、火照りは鼓動を上げた。人々に押し潰された僕は吐き気で飛び出した。下り坂を歩いていれば、なんとか、やっと、正気を保てることができるような、全身の力が全て脳に奪われているようだった。一階には知っている名前の喫茶店があった。僕は何の飲み物を注文したのだろうか。そんなことよりもあなたに抱きしめてほしかった。だから僕はあなたを探して詩集を開いていた。テーブルに全ての体重を乗せて、それでも僕はあなたを眺めていることだけが命を繋ぐ手段なのだと思っていた。一体何人の人々がこの喫茶店に出入りしたことだろう。僕の耳には届いていた。自動ドアが開く音も、いらっしゃいませ、いってらっしゃいの声も、あなたの会話もあなたたちの会話も、店内に響く環境音楽も…。吐き気だ。僕はトイレに駆け込んだ。声は鳴り止み音楽が僕の元にやってきた。セロニアス・モンクだ。なんだこのアレンジは。独特の不協和音がモンクの真髄ではなかったのか。さっぱり小綺麗になったピアノトリオで演奏されていたセロニアス・モンクはあまりにも空虚だった。しかしそれも当然だった。BGMだからだ。表現することなんてないのだ。それがBGMである。どれだけの音楽表現がBGMになったことだろう。耳障りの良いBGMが流れ、パラノイドを起こす広告ばかりだ。僕はさっきそんなBGMを聴いていた。あんな電車に乗っていて気が狂わない人々を同じ人間だと思うことなんて僕にはできない。詩人の喜びの声を聞こうとする。それは詩人と同じように心の中だけで聞こえてくる。その声は音を立てず、記憶に問いかけてくる。だからそう、困っていない時にも不安を探そうとするんだ。僕の想像力の根源には苦しんでいるあなたがいる。あなたの墓地の前に行かなくても良いように。僕はいつもそう思っている。だからそう、いつだって旅人のような顔をして歩き出すんだ。ショーケースのパンを見て、南の雲の切れ端と山の稜線に夕日が当たる風景を思い出した。遠くの景色を見て、僕は電話をかけた。それで歩き出す理由だってできた。各駅停車を待って乗り換えた。乗り換えて地下通路を歩いた。地上はもうすぐそこだった。階段を上る一歩一歩が愛おしかった。あまりにも長く感じたが、それは数十分の出来事だった。僕は太陽の光にではなく、コンクリートの染みを頼りに、人々の足元だけを見て街を歩いた。僕の部屋の本棚に近い香りがして立ち止まると、深呼吸…コーヒー豆を焦がした香りも鼻を満たしてくれる。その本棚にびっしりと詰め込まれた本の並びには何の順序もなかった。カバーが外れている本なんて当たり前だった。焼けて変色した本、背表紙が擦れて題名が見えない本、ビリビリに破けている本。あなたたちは一体どこからやってきたのか。僕はあなたのことも、あなたの旧所有者のことも、さらにその先の、旧所有者の旧所有者のことも、そして、いつか新刊書に綺麗に並んでいたあなたの姿も、知りたいと思った。それは全て想像でしかなかったけれど、それでも本に書き込まれた誰かの名前や昔の価格、棒線や斜線や丸線、折り曲がったページ、栞が挟まっていたページ、破れていたページ…あなたが進んできた道とその時間に比べたらほんのわずかなのかもしれないが、足跡を見ることがあった。これこそが日々だったのだ。あなたは語っていた。僕は聞こうと、聞こうと聞こうと必死になった。必死になって必死になって今見ることができるあなたの全てを見ようと思った。だから何時間でもそこにいることができた。少しの時間でも、僕は、その時、少しの幸福を感じていた。いつもそこにあなたたちがいてくれたから。あなたは僕に会いにきてはくれない。しかし、僕は幸いにもあなたに会いに行くことができる。だからあなたのことを、待ってくれているのだと信じた。紛れもない希望に近づくため僕は、あなたの姿を見るだけでも良かった。コートのポケットに入れておいた小銭と引き換えにあなたの手を握りしめることができた時、僕はどれだけ幸福だっただろうか。やっと、あなたのことを知ることができる、そう思って、もう片方のポケットに入れておいた小銭の数をもう一度、入念に確認した後、目の前にそびえる本棚をぼうっと見つめ、目眩に襲われてしまう前に、僕はまた歩き出していた。しかしなぜそういった幸福が少しでも続くだろうと思ってしまったのか。僕は目眩によろめきながら目の前の喫茶店に入ろうとしたが、それではダメだった。僕はまた歩き出して、あまりにも急な階段を登ってまでも、絶対に行かなければならない喫茶店があった。換気のために窓が開いても静かな場所だが、一階からは人々の暮らしの音が聞こえてくる。ラジオは音楽家によるおすすめの曲が紹介されている時だった。どんな音楽に励まされても、今日のここからは自分次第なのだと思った。するとあなたは僕よりも静かだと感じた。そして僕はあなたに話しかけてみた。
「ここは静かで良いですね。素敵な場所を見つけられたようで。」
「色々と面倒なことはあるのですが、それでもここが良かったんですよ。」
 その時、僕の言葉はあなたが代わりに喋ってくれていたように感じた。あなたもカーテンの隙間から漏れる太陽の光に傷つけられ、薄暗い場所で煙たい空気に溶け込んでいたのだろう。僕はあなたの気持ちがよくわかる。しかしあなたは黙っている。僕の気持ちを汲み取ろうなど、そんなことをするあなたではなかった。進むべき道が前にあっても、僕はいつだって後ろにいるあなたを見ても良いし、幸福を味わいながらも視線が地に落ちていく僕の目の前にあなたはいてくれた。枯れ葉を見ていたおかげで、快活な学生の姿を目にすることは少なかったが、どこか今だけを見つめることができるといった意味で心軽く校舎へと吸い込まれていった人々の声に、僕はただレシートの紙切れを握り潰しながら信号待ちで目を閉じて、それでも歩いていくしかなかった。目的地があるうちは、そうすることができるだろう。埃まみれの7インチレコードが待っていてくれた。ジャケットすらない、傷だらけの姿を見た。それは何十枚買ったとしても百円にも満たない、社会から価値がないと判断されたゴミ同然の代物だった。僕にとってはあなたが作り出す資本の大きさなどどうでも良かった。僕はできる限りあなたを綺麗にしてあげたかったし、いつかあなたのことが好きな人の元に受け渡れば良いなと思っていた。僕があなたと話すには、僕自身が音楽になるしかないことくらいわかっていたのだがそれを叶えることはできない。だから僕は楽器を弾いていた。社会の誰に伝えるわけでもなく、ただあなたに聞かせるためだけに音を出した。そう思えばボロボロの機材を寄せ集めることだって楽しかった。そうやってあなたを知っていてば知っていくほど、僕に近づいてくるあなたの存在を感じていた。僕はあなたに出会ってしまったのだ。しかし、あなたは孤高で、孤独で、厳しく、力強く、これまで僕が話したあなたとは社会的な扱われ方がまるで違うカリスマだった。僕はあなたを探したし、見かけることだってあった。あなたは死んでいた。今でも伝説として語り継がれていた。僕はあなたとの多くの出会いはあなたとの多くの別れなのだろうなと思った。僕は薄暗い店内から抜け出して冬空を見上げるとまだ聴いたことのないあなたの金切り声が彗星のごとく、足跡も残さずに大気から高速で去っていくように思えてならなかった。あなたを見つけるためには僕にも声が必要だった。だから街を歩き回ってあなたの所在を聞いた。この凄まじい精神力がどこからやってきたのかと不安げになる隙も与えない、自分にとってだけの、ただの使命で僕は街を歩いた。そしてついにある店主からこんな言葉を耳にした。
「またどうしてそんなものを探しているのかね。あるにはあるんだけれども。」
「何でも良いんです。お願いします。一度見せてほしいです。」
 店主はカウンターの奥の、さらに奥の段ボールの中をかき分けていた。僕にはそういった音が聞こえているだけだった。
「これだよ。当時のライブだ。貴重なものでね。あなたはそんなに彼が好きなのか。」
「そうですか。いや、そうなんです。だからその、少しだけでも良いので、今、ここで見せていただいても良いでしょうか。」
「構わないけれど、この映像は長いんだよ。二週間だけ貸すから、またここへ来てくださいな。」
「ありがとうございます。大切に見ます。また来ます。」
 僕はそのケースに何枚のDVDが入っているのか検討も付かなかった。それについて、いやそれ以上はあなたに聞くこともなかった。僕は世間話をしたかったわけでもない。アルコールの海に溺れたかったわけでもない。いつでもあなたの声に耳を傾けていたかった。急斜面の階段を降りていく。一段一段、リュックサックの重みを感じる。僕はまた空を見上げて、高速で空気を切り裂くあなたの声を思った。急がなければならなかった。僕は100円で過ごせる酷い異臭の喫茶店に入り、今日の、これまでの出来事をメモ帳にまとめた。

 歩き疲れたユウは目を閉じるために、浴槽に湯を張った。代わり映えのない、誰もいない、あなたから切り離れる一時を作るために、やっと手に入れた習慣によって無音で湯に浸かろうとした。しかし、ユウはあの場所で書き留めなければならなくなってしまった。なぜ、今なのか、どうして避けることを許してくれないのか、その運命をユウはもうよく理解していて、それで今度は長い夜を越えることなく一つの詩を書き上げていた。

“あなたがどんな身分でも、わたしはあなたに共感する。湯船に浸かりながら煙草を吹かすあなたより、湯船に浸かりながら涙を流すあなたであれば。どんな身分のわたしでも、わたしはあなたを応援する。冗談を言わず、女々しさを示すことで。笑わないあなたは、無理に笑わないあなたの意思を誇る。わたしは水面に触れる音を、わたしの耳だけで聞き入る。あなたの憎しみは世界のものではなく、あなたが作り出す世界のものである。憎しみで死の世界に沈黙を作らせたあなたが認められることはないだろう。 それでも、良心の前で、沈黙は必ず死の世界へ落ちる。その時、わたしにはあなたの声が聞こえない。しかし、あなたの声が現れる世界に、あなたの生の世界があり、それでもわたしはまだ、あなたの憎しみだけを聞いている。床で鳴る水滴にあなたは、わたしの憎しみを死の世界に落とす。あなたの死の世界がわたしの沈黙に伝わり、わたしだけが認める沈黙に、あなたはわたし以外の誰かを認めて嘆く。あなたは落ちてくる者を拾い上げ、涙が辿る道で力を得る。死の世界で水を汲むあなたはもう、溢れ出す涙の音を聞く者だ。時に、あなたの元を訪れる水のない者へ、あなたはその沈黙に水を分け与える。あなたが聞く沈黙は美しい。あなたの沈黙は沈黙の前にだけ、沈黙と等しく美しい。”


三 黒と青

「南関東で雪が降るなんて珍しいな。しかもこんな海の見える街で…」
 ユウはカーテンを開けて雪景色を見ていた。
「こんな日の夜は長いだろうな。定時で帰る人々の波も…」
 ユウにとっては部屋のエアコンを付けるのも惜しい。そんな余裕はないのだ。珍しいとはいえ、こんな気象がこれから毎日続いてしまったら電気代で破産してしまうだろう。
「”キミがどんな人であろうとも、夕方になったら家を出てみたまえ。” おお、リルケよ、雪国を知らぬのか?まあ良いだろう。もう日没は過ぎている。しかし、やはり、どうしても家を出るのだ。」
 ユウの独り言は長い。
 子どもたちの声が聞こえてくる。
「雪って汚いらしいよー。」
「えー、そうなの?」
 ユウは重たいダッフルコートに腕を通しながら声を出した。
「賢い奴らだ…かつてスキー場を大きなかき氷だと思っていたことを思い出す。」
 そして雪道を歩きながらまた思い出した。かつて雪国にいたことを。今日も喫茶店を目指

して歩き始めたユウにはアイデアがあった。凍える手で3000円にも満たない所持金を見た。
「それでも甘いものだろう!一番安いコーヒーだろう!」


雪道の巡礼

 私は、カフェインの過剰摂取で普段は意識することもない血の巡りへの不安を抱くように、その時、ある種、精神的な混乱を起こしていたのかもしれない。半メートル以上の積雪で毎日の雪かきに追われている中、無謀にも、数キロの距離を徒歩で移動させられることへの不安は意識されることがなかった。
 人々は、まず行動しろと喚き散らす。それが誰のための言葉なのか理解する必要なんてない。どうせ自分を励ますためなのだろう。その言葉はナイフである。自傷を行う人間のすぐ隣りで平然を装えるほど狂っていなければ、私たちはパラノイドによって降り注ぐナイフを避けることなどできない。歩き出してからひどく後悔することを、その深い傷がどれだけ長い年月、私たちの精神を蝕み、そして誰の手にも届かない場所へナイフが沈んでいくことを、あなたたちは知らない。
 私は人知れず歩いた。まずは己の精神を知るために歩いた。そして今、こうして大雪の中を歩いている。北国で行われたことのほとんど全ての現象が私に及ぼした無謀。それらを成長だと語ることになんの意味があるだろうか。大量のアルコールとタバコと大麻で狂った腰つきに一体どんな音楽が似合うというのだろうか。私はあなたたちが音楽を聴いているとは思えなかった。あなたたちにとって音楽とは踊るためのBGMであり、BGMの音は大きければ大きいほど良いと言う。そもそも環境音楽とは...いやそんなくだらない定義から話すのはよそう。アカデミズムを憎んでいるという一点においては私もあなたたちに同意している。
 頭上の星空だけが灯りの長い雪道ではこれまで学んだどんな教科書を思い出そうとも不安が解消されることはなかった。そもそも記憶を引き出してくるという精神的なアカデミズムは恐怖に対して全て無意味だった。
 何もないバス通りを外れ、橋を超え、あとはこの暗闇の一本道をただひたすら前進するのみだ。道の両側では高い木々が鬱蒼と閉塞感を作り出して、私は歩道のない二車線に、そこそこの広さの道路にも関わらず、息が詰まる思いだった。時たま遠くから走ってくる車は時速100キロメートルを超えるようなスピードでこちらに迫ってくる。私はスマートフォンのライトを振り回して、私の存在をアピールする。しかしこんな道を徒歩で移動する人間がいることを想定したこともない人々にしてみれば、その光もまた恐怖に違いなかっただろう。車はわずか数十メートル先でやっと私の存在に気づき、車線を跨いで小さな弧を描いた。私も側溝なのか崖なのかわからない茂みに身体を寄せて、立ち止まり、猛スピードの対向車を見送った。全身の肌の凍え。全身の体内の業火。渾然一体の波の力。熊や猪を恐れている暇はない。イヤホンで聴いてみた音楽は気持ちを和らげるBGMにも、救いの手を感じるような愛にも、どんな効果をも私に及ぼすことなく空に消えた。
 精神障害の症状と向き合う中で、もうそろそろ死ぬだろうなと思う場面には少なからず遭遇してきたつもりであった。虚脱感であった。しかし今回の死は、意識からすると病気よりも遠くに存在するように思えるのだが、私と死のその距離が縮んでいくスピードに関していえば未だかつて経験したのとのない速さだった。死ぬ!
 それでも夜空は美しかった。いつの間にか雪は止んでいた。自分の足音が少しずつ聞こえてくるような感覚もあった。私は声を押し殺した。ありがとう!
 一点の光が徐々に大きくなってくる。色や形が顕になってくる。コンビニだ!
 精神世界の長いトンネルを超えたことはあったのだが ... その先は ... また ... すぐにトンネルの入り口だった ... あの苦しみに戻るくらいなら ... 私は歩くだけだ!!!
 ああ、ほのかな灯りに勝る安堵は存在しないのか。
 ああ、真っ暗な自然に勝る感受は存在しないのか。
 ああ、私の感受は、どの道へと向かうのだろうか。

処女航海の涙

 私は、無言で立ち尽くす巨人の前で涙を流し続けた。キミの前で気が済むまで泣いてやろうと思っていた。泣き顔を見せてやろうと思っていた。そうしたらもうあれから何時間経ったのかわからないほど夕焼けは全て消えて、また長い長い夜が始まろうとしていた。夜が始まるまで私は、やっておくべきいくつかの仕事があった。しかしそんな連絡などどうでも良かった。後で誰に何と言われようが、社会不適合の烙印を押されようが、私はいつまでもキミの前にいることが何よりも重要で、その感情はこれまでの私の人生からは決して想像することもできなかった報いだった。私がキミに話しかけようとする。キミは存在で答えてくれる。何千年も前から待っていてくれていたように思う。私はキミに、絶対に崩壊してはならないという強い意思を見た。その意志は圧縮された水分を引き出した。時間をかけて少しずつ、雪が溶けて、やがて春が来るように。私は自らの心を春の風が疾駆するまで空にさせよう、その風景こそ長い間キミが見せてきた存在なのではないかと思った。空洞に音楽は鳴り始め、止んだ。そして今度は私が新たな音楽を鳴らして、数分でその音楽は止んだ。いつまでもいつまでもその繰り返しで、しかしキミはもっと長い間、誰に話すこともなくただ繰り返してきた。切り倒される木々を見た。整備される道路を見た。崩壊する建物を見た。全てを見るだけがキミの仕事だった。キミには到底及ばないが、私だって見る仕事に取り掛かってきたのだ。だから今日もキミをじっと見つめた。私よりも痛みを知っているキミに見せつけてみた。今日の出来事の全てが悲しみとなって私に降り注いだ。
 先人よ、痛みを知る先人よ。嘆くことも許されなかった先人よ。これからも、いつまでも待ち続けている先人よ。地に残らず、史ともならず、ただそこに存在し続けることこそが意志の全てだった先人よ。
 私はキミに深いお辞儀をして去った。
 いつかもう一度キミにそうした時、今度は涙を流すことなく、声もなくただキミを見つめた。
 そうして苦悩の記憶に雄大な山々の風景が刻み込まれたのだった。
 私は崩壊していく建物を写真に収め、心の奥底で抱きしめながら逃げるようにバスに乗り込んだ。
 眠りの中では、キミたちが子守唄を歌ってくれる。私がキミたちを抱きしめている限り、確かにキミたちは存在していた。


「お客さん。そろそろ閉店の時間です。」
「…あ、すいません。今出ますから。」
 ユウはダッフルコートにさらっと腕を通して、自分以外の客がいない店内を見た。
「これで完成だ。さて、これは、これからどうすればいいのだろうか。しかしこれで完成なのだ。」
 ユウは重たい全集をリュックサックに詰め込んで喫茶店を出て行った。そして見た。雪崩のように押し寄せてくる群衆を。
「時間だ。」
 地面に刻まれた大量の足跡を。夢の中に埋もれた雪国の記憶を。これから書くべきあなたの姿を。


四 どうして春を信じなければならないのだろうか

 私は駅のホームで待っていた。電光掲示板を見れば、快速列車の次に私の町へ行く鈍行列車がやってくると理解した。
 私は快速列車に乗る選択肢だってあるのではないかと思っていた。それは私が身につけた、私の気まぐれという素質への理解だった。
 目の前にいる男は妙に大きなリュックサックを背負い、項垂れながら音楽を聴いているようだった。
 私は彼をユウだと思った。首筋から顎にかけての肌荒れを見つけて、私はもう確信を拭い去ることなど出来やしなかった。
 快速列車が通過する。私の行動に対する決意は誰にも邪魔されたくなかった。お前らがその心情を知る必要などありやしなかった。
 私はユウの背中を両手で突き飛ばした。ユウはあっと小さな声を上げてから、一瞬で身体の向きを変えて私の左手を掴んだ。
 「最後に会いたい人がいるんだ!」
 私は右足でユウを蹴り飛ばした。ユウはふっと目を閉じてから、ホームから線路にの上に投げ出されてうずくまった。
 ユウに掴まれていた手をそのままに引っ張られ、私もホームから線路へと引き込まれていった。
 しかし私が線路に落ちることはなかった。私は固い壁に激突してホームの端ででうずくまった。
 私はよろめきながら立ち上がると、既に電車は通り過ぎていた。駅を横切った風の名残だけがあり、ユウの姿はどこにも見えなかった。
 私はホームのベンチに座り、全身の力がぐったりと抜けた。
 何度もホームドアが開き、何度も閉まっていった。
 私はもう一度ホームドアの前に並び、次にやってきた鈍行列車に乗り込んだ。
 私は誰もいない車内で一枚の写真を取り出し、そこに映る人の笑顔を見つめていた。
 「僕が会いに行くからね」
 こうしてユウは死んで、私は僕が会いたい人のところへ行くための旅が始まった。
 その旅はすぐに終わった。僕がずっと会いたかった人は、週末にでも会いに行くことができる人だった。
 そうして私は生きて、私の身体の中に、次に殺さなければならない人の予感が立ち昇る苦しみを味わっていた。


終文

僕は自然になりたい。
大地、空や星、草花、水や木、
そして僕の部屋に吹き込んだあの風と話がしたいから。

僕はどこまでも歩くだろう。
僕の部屋から喫茶店まで、喫茶店からまた次の喫茶店まで。

あの日、家を出た僕に降り注いだ光。
お前は今どこにいる。僕の記憶を照らし続ける光よ。

どんな小さなドアを超えるときにだって、
お前はいつも僕のそばにいてくれる。
そして僕はお前から受け取った光を小さな声に変えて、
また喫茶店の扉から街に出ていくことだろう。

「ご馳走様でした」
「ありがとうございました」

私はまだやりたいことがある。
それに気づかせてくれたのは僕で、死んでいったユウだ。
あなたたちもそうである。
殺意と死人の上に立ち、私もいつか殺される日が来るんだ。

夜空の大きさに比べれば
痛みなど取るに足らない
社会に蔓延る怒りなんてものは
病気に比べれば取るに足らない

苦悩の人々を殺す権力者たちへ告ぐ
お前の怒りで殺されても構わない
恐怖は目の前の珈琲に潜んでいる
お前はそれを飲むことができない

-続く


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