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言語の「フィルター」の魔法のこと

ごあいさつ

こんにちは。

昨日で連続投稿180日を達成しました。

昨日のスクショです

365日まで、あと約半分まで来ました。

しかし、今がいちばん苦しいのです。
ネタが…。
ネタが、もうない。マジで。

仕方がないので、
例のごとく
リアルタイム創作記録を
書こうと思います。


作品紹介

私が書いているSF小説
白銀の騎士」シリーズ。

これはいわば
SFロボット戦記物といえる作品で、
ひらたく言えば
ガンダムのバッタもん」です。

いま書いているのは、この第3部
白銀の騎士3 <破戒への調べ>
の序盤のほうになります。

ついでに言うと、この第3部は
ラストまでプロットができていて、
あとは書くだけ、というところまで
来ています。

ということで、
「物語がエタる」心配はないので
安心して見ていただきたいと思います。


「懐かしい」植物の風景

いま、その第2章を書いています。

主人公が、心の癒しを求めて
植物園を散策しているところです。

この植物園のある一画で、
今作のヒロインと出会うのですが…
まだ、そこまでは書けていません。

この「植物園のある一画」ですが、
どこか懐かしさを感じる情景
描きたいと思いつきました。

われわれ日本人読者の感じる
「懐かしさ」ではありません。

作中の登場人物(主人公)が
感じる「懐かしさ」です。

ええ、ここが難しいところでして。

日本人が感じる
「懐かしい」植物の情景は
いくらでも浮かんできます。

しかし、おそらく
欧米系であろうと思われる
主人公が感じる「懐かしい風景」とは?

…と考えたときに、
ここで想像力のギアを
一段アップしなきゃいけないな、と思いました。


着想を得たエッセイ

なぜ、そんなややこしい描写を
入れようと思ったか。

これは、ずいぶん過去に
新聞で読んだエッセイを
思いだしたからです。

それは、
「子供時代」の体験を語った、
「鏡」と「帽子」が出てくる話だったと記憶しています。

私はなにも考えずに、
その女性の子供時代の思い出話を
目で追いながら、
日本の「洋間」をイメージしていました。

エッセイの終盤で、
日本ぽくない風習が登場し、
「あれ?」と思って
著者名を見て、ひっくり返りました。

イーデス・ハンソンさんだったのです。
「えっ、日本人じゃないやん!」

書き言葉の日本語が
あまりに自然だったために、
書き手を「日本人」だとばかり
思い込んでいたのです。

それから、もう一度
そのエッセイを読み返してみると、
いろいろと合点がいきました。

そして…
「自然な日本語」というフィルターを通すことで、
本来なら体感することが難しい
西洋人の情緒的な風景」にも、
こうしてアクセスすることができるのだ、
という驚きの事実を発見しました。


言語の「フィルター」の魔法

これは、かつて
C.W.ニコルさんが案内人となって
アメリカの国立公園を紹介する
TV番組を見ていたときにも
感じたことです。

その番組のなかで、
現地の専門家にインタビューした時に
ニコルさんが英語で話しかけました。

いや、彼にとっては母国語なので
当然のことなのですが。

しかし、それまで
「日本語を話すニコルさん」に
慣れていた私にとっては、
新鮮な驚きをともなう感覚でした。

「この人の母国語は英語」
「それを本人みずからが“日本語”に変換している」
⇒ この人の「思い・感覚」そのものを
  ピュアな形で受け取ることができている!

…というような
(言葉にしづらいですが)
不思議な感覚をおぼえたのでした。


日本語表現の可能性

それで、私は思ったのです。
「日本語でも、西洋人の情緒的な風景を描けるんじゃないか?」

お恥ずかしいですが、
私は、翻訳ものの小説を読むのが不得手です。

まず人物の名前を覚えるのに苦労します。
それから、あちらの風習や慣習にも戸惑いを覚えます。
それに、独特の文体にも慣れません。

…そんななので
読了した作品は少ないのです。

そんな私が
「(たぶん)西洋人が『懐かしさ』をおぼえる風景」を
描くことができるのか…?

と、普通なら考えますよね。

ところが私は、
イーデス・ハンソンさんのエッセイと
C.W.ニコルさんの映像を見て
「できるかも」と感じたのでした。


次回予告

思ったよりも字数を消費してしまったので
この続きは、また明日。


ふう。
明日のネタができてよかった…!

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