一生の傷
母親を殺したのは私だ。
その業と共に私は生きる。
そう決意をするまでには時間がかかった。
人の心はある意味で、時間が癒してくれると聞く。
それもあながち嘘ではないと身をもって思い知った。
身が切られるような悲しみも、とめどなく流れ出る涙も、目まぐるしく回る毎日の中で少しずつ薄れ、仮面の下に隠れてしまう。
しかし、それはいとも簡単に、突然に、表出する。
飛び出した哀愁や思慕の想いの強さに、感情の堤防はあまりにも脆く決壊する。
涙は止まらず、喉の奥から嗚咽が自然と漏れる。
どうしようもない自分に失望をしながら、掛け布団を頭の上まで引き上げ、ただただこの感情が通り過ぎていくのを私は待つしかない。
この感情のうねりに私は今でも揺り動かされる。
「大好き」や「愛している」という言葉は本来、母親に使うものだと私は思う。
自らの足で立つこともできない頃から乳や食事を与えてもらい、衣類を用意され、その庇護下に成長を許される。
ときに厳しく、無償の愛で包み込んでくれるのは自我の確立に大きく寄与すると思う。
マザコン男子は好かれないといわれるが、私はそうは思わない。
男子だからこそ、マザコンであり、胸を張って「マザコン」であると宣言をしてほしい。
それほど、母親というものは男子にとっては特別なのだ。
母は火の国と呼ばれなくなって久しい地域に生を受けた。
父、母、兄と、二人の妹の6人家族の中で悠々と育っていた。
祖父母は当時では珍しい共働き。
戦中、捕虜としてアメリカ軍に収監されていた祖父はその収容の中で自由と平等という理念や思想を植え付けられたことも影響しているのだろう。
6歳差の母の兄は、自分のことを優先する気質のため、両親の家事の手伝いは母の仕事。
神経質な二人の妹ともに、家族を守っていた。
そんな母は高校を卒業すると同時に上京をする。
看護師として働くためだ。
そんな母は仕事に没入し、三十歳を越えるまで仕事に邁進していく。
多忙を極める中、出会った父と籍を入れ、私が生まれたということだ。
その後も仕事を続けるも、家族に対しての愛を忘れない、そんな尊敬すべき母だった。
年齢により仕事を辞するも、その人望から各所から声がかかる。
最終的に七十を三つ越えるまで仕事をし続けたのだ。
引退後は孫たちの時間を何よりも愛した。
その成長を喜び、ともに歩むことに至上の愛を感じていた。
まるで自分の子どもたちに対しては行うことができなかったことを取り戻すかのように、片時も孫たちをその身から離さないほどに愛を注いでいた。
しかし、運命というものは残酷なもので。
彼女の身体を病魔が蝕みはじめていた。
最初は小さな異変だった。
腹部の違和感が何日も消えず、ずっと残り続けていた。
その頃から眩暈を起こすことも度々あり、その度に父の力を借り、病院で診察するも「問題がない」と追い返されていた。
少し大きめの身体であったため、持病があるものの、命を脅かすほどのものではないと本人も解していた。
だが、この小さな違和感は大腸がんであることが後に判明する。
これも早期発見が功を奏し、病巣も小さかったため、適切な処置により問題なく排除された。
病後も順調で2年経過しても再発や転移は見当たらなかったので一安心。
引き続き、孫たちとの生活を謳歌するも、やはりその爆弾は母の身体の中で爆ぜる機会を静かに待っていたのだ。
定期診断で判明した血小板の極端な減少。
ご存じの通り血小板の減少は、炎症を抑えることができなくなくなる。
小さなことで体をぶつければ、欝血し、痣が発生する。
その痣も血小板による凝結作用が低下しているために、治癒しづらくなっている。
自分の身体のいたるところが痣でおおわれていくそのさまは、気丈な母であっても相当なストレスだったであろう。
そんな状況を母は、叔母たちにも相談している。
私の家の者たちの大半が看護師、医師であるため、その症状などや検査結果からある程度、どのような病であるかを判断することができる。
精密な検査の結果、母に下された診断は家族に戦慄をもたらした。
骨髄異形成症候群。
骨髄に存在する造血細胞が何らかの問題を起こし、適切な血液成分を形成できなくなるものである。
最近になり少しずつ研究が進んできているものの、この病は白血病の前駆症状とされている。
つまり、母は白血病になりかけているということなのだ。
2025年現在、この病は難病指定されており、その治療法は治験段階。 まだ、有効な治療方法は確立されておらず、延命のためには定期的な輸血を行わなければならない。
白血病の根治方法は、再度正常な造血細胞が着底することが条件。
そこには多くの時間と痛みが伴う。
私は母の命を少しでも長くつなぎたく、叔母と度重なる話し合いを行った。
母は余命半年を言い渡されていたため、早急な判断が必要だった。
私は叔母と、さまざまな治療手法を検討し、精査していく。
未だに治療方法が確立していない病であるため、治験をも受け入れる覚悟だ。
可能性が低いとしても試さずに、ただ命の火を小さくしていくには本人も家族もそれを許すはずはなかった。
医師と私たち家族、叔母との打合せにより治療方針が決定する。
胚性幹細胞移植。
未分化のあるヒトの胚を移植することで、造血細胞を骨髄内に定着させるものである。
しかし、定着するとは限らない。
しかも白血病と同じく、母の身体は感染に対して非常に弱くなっている。
さらにときはコロナ禍。
母は治療のため、泣く泣く完全無菌の中へと入院していった。
ITの進化というものは人々の生活を飛躍的に上昇させ、そのQOL(生活の質)を向上させた。
私たち家族は病室の母とインターネットで接続し、毎日テレビ電話でその距離を縮めていた。
母には家族の食卓が見渡せるよう、カメラを設置し、皆が息災ないことを確認できるようにした。
痛みやその食事の管理により、日々痩せていく母を見るのは心苦しかったが、これも完治のためと私は笑顔でモニターに向かった。
当時の私はあることから仕事を長期休業していたが、母は私の顔を見るたびに、私の身体や仕事を案じ、
「仕事に早く復帰するんだよ」
と涙ながらに訴えていた。
人のことを心配する前に自分の身体のことを心配しろよ。
と、照れと、何もできない苦しさと、自分のふがいなさがないまぜになった感情で定型の返事をしていた。
3か月の入院と1か月の自宅療養。
それが繰り返されるこの治験は、母の心と体をより傷つけていくものだった。
自宅に帰ってきて、家族の笑顔に囲まれる日々に安心するも、数週間後には再度入院することになる。
「もう、治療なんかしたくないよ」
病院へ再度向かう母は、毎回小さく呟いていた。
私はそんな母を「大丈夫、次で最後だよ」と、根拠も薄い無責任な言葉で、送り出していた。
私にとって大好きな母にかけるこのコトバは、自身にも向かう刃のように心をえぐるものだった。
今であれば、「もう、治療なんかしなくていい」と言える気がする。
突然に呼び出されたのは夏の暑さが収まりかけた、ある早朝のことだった。
スマホでその知らせを聞いた私は、飛び起きると父と弟と共に病院へ向かう。
何かあってしまってはイヤだ。
ハンドルを握る手が汗ばみ、視界が曇る。
いやなことばかり考えてしまう自分がいる。
母が居ない世界なんて考えられない。
今の私が生きているのは母がいたから。
母の命が消えてしまうなんて想像すらしたくなかった。
病院につくと、今までであればガラス越しでしか面談ができなかったにも関わらず、病室へと案内してくれた。
だが、COVID-19の試験キットで検査をしてからだ。
この辺りは時世柄、やむをえなかったのだろう。
検査の結果を確認した後、入った病室には以外にも半身を起こし、いつも通り笑う母が居た。
「なんだよ。元気そうじゃなあいか」
久々に生で見る母の顔に私は笑顔になった。
母の手を握り、
「元気そうでよかった。体調もよさそうだね」
なんて言葉をこぼしたほどだった。
そんな状況でも母は、
「仕事は? どうにか戻れそう?」
なんて聞くものだから、
「だいじょうぶだよ」
なんて軽い悪態を付く私がいた。
その翌日の深夜、再度、病院から連絡が届く。
母が昏睡状態になり、もう長くないとのことだった。
昨日はあんなにも元気な姿をしていたのだ。
そんなこと、信じることなんてできない。
妹と弟は病院へ急ぎ、私は実家の父と朝になったら向かうとことになった。
こんなにも不安に駆られる夜はなかった。
夜の闇がそのままのしかかり、私の中の恐怖を増幅しているようだった。
怖かった。
なにかわからないが、ただひたすらに怖かった。
母との想い出が頭の中に走る。
そんなはずはない。
母は元気になって帰ってくるはずだ。
ふさぎこみそうになる気持ちを鼓舞するように自分に言い聞かせる。
頭の中に、様々な思考が湧いては消え、ときに心を抉る。
私が母に治験を受けさせるようにしなければ、こんなことにはならなかった。
そうすれば、母を余計に苦しませることはなかった。
家族と一緒にいる時間をもっと持てたのではないか。
私が母をこのような状況に追いこんでしまったのではないか。
そんな自問自答が夜の闇と共に降り注ぎ、私の身体を真っ黒に染めていく。
考えても仕方ないのことはわかっている。
だけど、とめどなく暗い思考が私の中に沸き、そして首元まで這いあがってくる。
私のこんな思考とは関係なく、スマホに病院から連絡が再度鳴り響く。
その音に私の心は締めあげられるように、再度苦しくなる。
電話の向こうに響く声は、私の喉元に鋭利な刃物の先をあてるようなものだった。
「非常に危険な状態です。挿管しますか? どうしますか? 判断をしてください」
突然のことに全身に汗が噴き出る。
全身が震える。
悪寒が止まらない。
スマホを持つ手が震え、頭の中が真っ白になる。
その言葉を理解しているのに、まったく理解ができない。
ただの音の羅列のように聞こえ、頭が思考をすることを拒絶する。
「判断してください! 挿管しますか!?」
スマホの向こうで担当医師と名乗る男の声が捲し立てる。
その叫びにも似た声に私は正気を取り戻す。
挿管とは、喉の奥に直接管を入れ呼吸器で強制的に呼吸をさせる処置。
完全に意識を失い、自発的な呼吸ができないため、外付けの人工呼吸器にて呼吸を促すものである。
つまり、母の最期のときが近いということだ。
人工心肺に接続しなければ、母の命は終いえる。
もう、自らの意志で呼吸をすることができない状態なのだ。
挿管は強制的に口を開き、文字通り人工呼吸用の管を差し込む。
その際、食道や気管の一部を傷つけてしまうことは往々にある。
本人の意識が薄くなっているとは言え、その姿は見られたものではない。
母はここまで孤独と痛みに耐えてきた。
それなのにまだ、痛みを与えるのか。
これまで生きるために数々の苦しみに耐えてきたのに、なおも受け入れなければいけないのか。
しかし、それを拒否すれば母の命はここで終えてしまう。
いま、私は究極的な判断を今下さなければならない。
私はいつの間にか涙が溢れ、声が出なくなっていた。
母を失いたくない。
だけどこれ以上、母を苦しめたくない。
そんな相反する二つの想いに私は押しつぶされそうになっていた。
どれだけ時間が経過しただろう。
スマホの向こうからは担当医が私をはやし立てる声が聞こえる。
挿管のメリット、デメリットを口早に説明している。
そんなのは知っているよ。
真っ白になったあたまで私は呟いていた。
「……しません……」
「え?」
電話口に担当医の驚くような声が聞こえる。
「挿管を希望しません……」
私は絞り出すようにその言葉を発していた。
母に、
いや。
母さんに、これ以上のツラい思いをさせたくない。
ただ、それだけの想いだった。
私が母さんの命を奪った。
私がその罪を背負う。
家族になんと言われようと、私が母さんを殺したのだ。
それも2度も。
1度目は治験を勧めたとき。
彼女の子どもたちや孫との幸せな時間を過ごすという希望を奪い、温かな未来を殺した。
そして2度目。
直接的に母さんの命を奪ったのは私の判断だ。
私に生を与えてくれた人を私が殺す。
ぬぐい切れない業を私は背負うことを決意した。
父や姉弟には言わない。
ただ、私が背負えばいい。
これからの人生、ずっと私が背負っていけばいい。
この業からは決して逃れてはいけないのだ。
父を起こし、病院へと向かう。
COVID-19の検査を行い、入った母さんの病室には妹と弟が、ベッドの両脇からその手を握り、声をかけ続けていた。
一晩中そうしていたらしい。
二人とも目を真っ赤にして母さんとの想い出を語りながら、母さんの名を呼び続けている。
母さんは下顎呼吸をし、聞こえているのか、聞こえていないのか、瞼を閉じていた。
まるで寝ているかのように、いつものようにいびきをかいているような寝顔は痛みからは遠いように思えた。
私は母さんの右手を妹から譲り受け、優しくさすりながら声をかける。
「ありがとう。本当につらい思いをさせてごめんなさい。本当にありがとう」
その手はいつも通り厚く、腫れぼったく、そして暖かい。
こんなにも手が温かいのだから、亡くなるはずはない。
だが、もう……。
頭ではわかっているが感情が追付かない。
口からは「ありがとう」という感謝の言葉しか漏れ出ない。
私が母さんの生を奪う判断をしたというのに。
父はベッドから遠い位置に立ちすくみ、母さんには近寄らず、ただ立ち尽くしている。
両のこぶしを強く握り、ただ、何も言わず、じっと母さんのことを見つめていた。
心音をモニターする計器の音と母さんに向ける言葉だけが、病室に静かに響いていた。
午前10時。
母さんはその73年の生涯を家族に囲まれ閉じた。
そこからは淡々と一つひとつの手続きを行っていく。
何も考える時間の入り込む余地がないほど、密にそのスケジュールを淡々とこなす。
呆然自失となり、ただ立ち尽くす父を弟に任せ、私は母さんとの最期の別れを行う。
何も考えないように、ただひたすらに。
止まらないように。
思考をしないように。
ただ、それを行う機械のように。
家に帰ると妻と子どもたちに母さんが亡くなったことを伝えた。
当然のことながら妻と娘は泣き崩れ、息子はその場に直立不動となり、放心していた。
私も今更ながらに寝ていないことに気が付き、酒を過剰にあおって寝室に入る。
寝られるわけがない。
寂しさと恐怖と、虚無感がないまぜになった感情に押しつぶされ、嗚咽する。
いい大人がどれだけ泣いたであろうか。
私は気絶をするようにいつの間にか、眠ってしまったらしい。
そこからの記憶はほぼない。
あっという間に通夜、葬式が終わり、菩提寺への納骨となった。
当然、私は仕事に復帰できる心情ではない。
母さんに関するさまざまな手続きを行い、夜は父と泥酔するまで酒を飲み、泣きながら気絶するように眠る。
そんな人間らしくない生活を妻や子供たちも心配したが、どうしようもなかった。
私はただ、母さんともっと一緒にいたかった。
ただ、もっと甘えたかった。
そんな母さんへの気持ちを抱きしめ、ただその日をいたずらに過ごしていた。
「母さんが夢の中にでてきたんだよ」
そんなことを言ったのは弟だった。
一番母さんに愛され、甘やかされた彼は夢の中にできてきた母さんに尻を叩かれたそうだ。
「いつまでもくよくよしているんじゃない!」
母さんが口癖のように言っていた言葉に、弟は奮起し、間近に迫っていた昇進試験や婚活に向かう決意をしたとのことだ。
「まずは私たちがしゃんと生きないといけないよね」
そう強く言う妹は、3人の子供たちとの生活に向き合うことが精いっぱいの日々を過ごしていた。
魂が抜けてしまったような父は、酒の量が増えていたが、昼間に散歩をすることをはじめたそうだ。
私の子どもたちも、気持ちが塞ぐことがあっても学校へ毎日のように通っている。
そんな中、足踏みをしているのは私だけだだった。
自らの不甲斐なさと、母さんを殺してしまった自責の念の中から抜け出せない私は、たくましくも生き続けようとする家族の姿にさらなる自己肯定感の低下を感じていた。
母さんが亡くなってから約1年。
いまだに立ち直れず、自堕落な生活をしていた私の夢の中に母さんはようやくに現れる。
母さんのお気に入りの一番星を冠するレストランで、私は母さんと向かい合っていた。
私たちは、食事をしながらいろいろなことを話している。
そんな中、私は突然に母さんの顔に向かって唾を吐きかける。
そのまま母さんに向かって、何かしらの文句を次々に投げかける続けていくのだ。
何を言っているかはわからないが、その一つひとつを母さんは笑顔のまま受け止め、話を最後まで聞いてくれていた。
私が話し終わると、母さんは最後にひときわ優しい笑顔を浮かべた。
その瞬間に、目が覚めた。
気が付くと、すごい量の涙を流した跡が頬にへばりついている。
夢の中で私は母さんに、何を言っていたのかはわからない。
だが、いままでにない感覚が私の中にある。
もしかしたら、母さんに対して私は言いたいことがたくさんあったのではないかとも思う。
奇妙なことに、なんだかすっきりとしている私がいた。
何をしたかったのか、何を言いたかったのかはまったくわからない。
ただ、話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
私の中にたまった澱のようなものをただ、吐き出したかっただけなのかもしれない。
私は母さんに許してもらいたかったのかもしれない。
私はベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。
そこには母さん譲りの大きな二重と、つぶれたような団子鼻をした40歳を越えたおっさんの姿があった。
正直、仕事をこのままやめようと思っていた。
だが、私は決意した。
母さんが最期まで心配していたこと。
「会社に復帰してもらいたい」
その想いに応えるべく、私は会社への復帰を決めた。
母さんを殺す決意をしたんだ。
会社に戻るなんて、それに比べたら屁でもない。
そうして、私は会社に戻り、今日も私でなくてもできる仕事を淡々とこなす。
母さんのために。
了
