『鉄之助と是清』
著 AI
監修・監督 チャトチャックでお口チャック
『鉄之助と是清』
第1話:「桃生の風、北上川のきらめき」
[一]
天保十三年(一八四二年)秋。
東北の雄・伊達六十二万石の城下町は、燃えるような紅葉に包まれていた。
仙台城(青葉城)がそびえる青葉山の断崖から、東を望む。眼下を流れる広瀬川の激流を隔てて、大手門から真っ直ぐに伸びる大広丁――片平丁(かたひらちょう)には、伊達家側近中の側近である重臣たちの巨大な武家屋敷が、延々二キロにわたって白壁を連ねていた。
その一角、二千石を数える富田家の広大な敷地内にある馬場を兼ねた練兵場は、にわかに殺気立っていた。
「そこまでだ!」
鋭い怒号が響き渡ると同時に、鈍い木刀の音が響き、富田家の四男、わずか七歳の鉄之助の身体が宙を舞った。
鉄之助は広瀬川の断崖から吹き上げる冷たい川風に煽られながら、黒土の上に激しく叩きつけられた。額からはうっすらと血が滲み、握りしめた木刀は数間先、生い茂る老松の根元まで弾き飛ばされている。
「鉄之助、お前の剣には我が強すぎる」
仁王立ちで息子を見下ろすのは、父であり仙台藩重臣の富田実徳(さねのり)であった。その背後では、家督を継ぐ長男をはじめ、元服を控えた優秀な兄たち(後の富田小五郎ら)が、冷徹な目を弟に向けている。
「伊達の武士たる者、己を滅ぼして藩に、主君に尽くすのが道。一度こうと決めたらテコでも動かぬお前のその頑固さは、いずれ己の身を滅ぼすぞ。この片平の屋敷に収まる器にあらざる者は、伊達の武士には不要だ。今日の稽古はここまでとする」
父が背を向け、兄たちがそれに従おうとした、その時である。
「……折れませぬ」
地を這うような、しかし凛とした声が練兵場に響いた。
実徳が驚いて振り返ると、鉄之助は泥だらけの着物のまま、膝をつき、両手で地面を強く押し込んで立ち上がろうとしていた。その小さな身体は小刻みに震えていたが、向けられた眼光だけは、大人の武士をも射すくめるような凄ましき光を放っていた。
「鉄は、叩かれて叩かれて、初めて名刀になると学びました。私の名は鉄之助。この身が折れることなど、断じてありませぬ!」
鉄之助は弾かれた木刀を拾い上げると、屋敷の白壁の向こうに広がる、巨大な仙台の城下を見据えた。
北は、重厚な寺社が立ち並ぶ北山(現在の北仙台駅付近)の鬱蒼とした森。
南は、広瀬川が大きく蛇行し、藩の南の守りとなる愛宕橋から土樋(つちどい)の河原。
経済の中心である城下町を越え、遥か先にある東口のつつじが丘の小高い丘まで、伊達政宗公が平野部を見下ろす段丘の上に築き上げた大都市が、一望のもとに広がっている。
(父上や兄上たちは、この巨大な仙台の街しか見ていない。だが、この街のさらに東、つつじが丘の山をも越えたその先には、もっと広い世界があるはずだ)
七歳の少年の胸には、この雄大な伊達の城下町ですら狭苦しい檻に思えるような、途方もない知的好奇心が芽生えていた。
「勝手にするがよい」
足早に去っていく父と兄たちの背中を見送りながら、鉄之助はただ一人生い茂る松の木の下に立ち尽くしていた。
「鉄之助」
背後から、静かだが芯の通った声がした。振り返ると、豪奢な上級武家屋敷の奥から、母のお貞(さだ)が歩み寄ってくるところだった。富田家の家政を取り仕切る凛とした佇まいの中に、今はその瞳に深い憂いが満ちている。
お貞は泥だらけの鉄之助の前に膝をつくと、懐から白い手拭いを取り出し、少年の額の血を優しく、しかし確かな手つきで拭った。
「また父上に逆らったのですか。お前は昔から、一度握りしめたものは、たとえ手が血に染まろうと決して離さない。お前が四男ではなく、富田の家を継ぐ長男であったなら、どれほど楽だったか……」
「母上。私は、兄上たちのようにお城下(片平)の格式だけを守る立派な武士にはなれませぬ。北山から愛宕橋まで、この大きな仙台の街すべてを見渡しても……今の私には、何故か狭くて息が詰まるのです」
鉄之助の真っ直ぐな言葉に、お貞は一瞬、息を呑んだ。
我が子の瞳の奥にあるものが、ただの子供の我が儘ではなく、この仙台六十二万石の強固な壁ですら遮ることのできない、恐ろしいほどの先見性であることを母の直感が悟っていた。お貞は手拭いを握りしめ、寂しげに小さく首を振った。
「その頑固さは、いずれお前をこの仙台の地から、遠く誰も知らない場所へ押し流してしまう。それが母には恐ろしいのです。……さあ、着替えなさい。風邪をひきます」
突き放すような言葉とは裏腹に、鉄之助の背中を撫でる母の手のひらは、痛いほどに温かかった。
鉄之助は母の温もりを感じながら、改めて東の空を睨みつけた。そこは、富田家が代々知行する、北上川の風が吹く桃生郡の海へと繋がっているのだった。
[二]
その夜。片平の富田邸の書斎には、行灯の細い光の中で張り詰めた空気が漂っていた。
鉄之助は、父・実徳が江戸の知人から届いたばかりの書状を、今までに見たこともないほど深刻な顔で読み耽っているのを、物陰からじっと盗み見ていた。
「父上……何か、一大事でも起きたのですか」
普段なら厳しく叱られるところだが、実徳は息子を近くへ呼び寄せると、机の上の書状を指差した。
「鉄之助。幕府より、天を揺るがすような触れが出た。十七年もの間、我が国を異国から守ってきた『異国船打払令』が、本日をもって廃止された」
「廃止……。では、近づいてくる黒い南蛮船を、大砲で追い払ってはいけなくなったのですか?」
「そうだ。これからは、水や薪(まき)を与えて、穏便に帰さねばならんという幕命だ」
実徳の声は微かに震えていた。
「海の向こうの大国、あの清(中国)が、イギリスという異国の軍艦に手も足も出ずに敗れたのだ。そのアヘン戦争の衝撃が江戸を、そしてこの仙台を揺らしている。我が国を取り囲む『東海(太平洋)』や南海の守りは、もはや刀を振り回して大砲を撃てば国を守れるという時代ではなくなった。ただ恐れるのではない。これからは、相手の力を知らねばならん。途方もない時代が、お前たちの前に来ようとしている」
アヘン戦争、そして打払令の廃止――。
父の言葉は、七歳の鉄之助の脳裏に、強烈な楔(くさび)となって打ち込まれた。
大人が、あの厳格な父が、まだ見ぬ海の向こうの影に怯えている。
(刀が通じない相手。だったら、俺たちは何で戦えばいいのだ)
その答えを探すように、鉄之助の心は、富田家が代々治めるあの豊かな領地、北上川の河口へと飛んでいた。
[三]
それから数年が経ち、弘化四年(一八四七年)。十二歳になった鉄之助は、息苦しい仙台のお城下を離れ、富田家が代々知行する桃生郡小野本郷(ものうぐん おのほんごう)の領地へと向かっていた。
現在の東松島から石巻へと続くその土地は、北上川が何百年もかけて運んできた肥沃な土壌に恵まれ、見渡す限りの黄金色の稲穂が地平線まで波打つ、実り豊かな地であった。
「鉄之助、よう来たな。お城下(片平)の堅苦しい空気に、さぞや息が詰まっておったろう」
出迎えたのは、小野の広大な本陣屋敷で隠居生活を送る祖父であった。
祖父は鉄之助の手を引くと、領地を一望できる小高い丘へと登った。
眼下には、富田家が誇る二千石の田畑が広がり、そのすぐ東側には、波一つない鏡のような内海が静かに青い水を湛えている。歌枕(名所)としても名高い万石浦(まんごくうら)――地元の者が「奥の海(おくのうみ)」と呼ぶ、穏やかな海であった。
「見よ、鉄之助。この豊かな桃生の土と、奥の海の恵み、そして領民たちの血と汗が、我が富田の誇りだ。家督を継げぬ四男坊のお前だからこそ、お城下の格式や派閥に縛られるな。誰よりも広い目で、この美しい土地と民を守る真の術を考えねばならんぞ」
祖父の温かい言葉に頷きながらも、鉄之助の視線は、「奥の海」のさらに先――牡鹿半島の付け根を越えた向こう側へと吸い寄せられていた。
[四]
翌朝、鉄之助は一人、静水な「奥の海」を背にして、荒々しい地鳴りのような地響きが聞こえる東の海岸へと歩みを進めていた。
そこは、松島湾から石巻湾へと繋がる、遮るもののない大パノラマ。地元の漁師たちが畏怖を込めて呼ぶ、広大な太平洋――「表の海(おもてのうみ)」であった。
ザザーン、と激しい白波が砕け、冷たい飛沫が鉄之助の頬を打つ。
少年は懐から、長崎経由で密かに入手したというオランダの古い地理書の写しを広げた。そこには、日本という島国の外側に、大人が語るよりもさらに巨大な大陸と大海原が描かれている。
「若様! そんなところで表の海を睨みつけて、何をしておられるね!」
振り返ると、仙台藩の米を江戸へ運ぶ千石船の老船頭が、網を繕いながら心配そうに声をかけてきた。
「こっちの『表の海』は、あの静かな『奥の海』とは訳が違う。底が知れねえほど深くて、ひとたび嵐が来りゃあ、どんな大船でも一呑みだ。落っこちたら一たまりもねえ。お侍様は大人しく、お城下(片平)にお戻りくだせえ」
鉄之助は地理書を握りしめたまま、潮風に向かって声を張り上げた。
「船頭、お前は江戸へ行くのだろう。この表の海の先に、本当にこの本にあるような、日本の何十倍も広い国があるのか?」
「へえ。江戸の船乗りたちの噂じゃ、品川の遥か沖合に、日本の刀なんかまるで通じねえ、大砲をいくつも積んだ異国の黒い船が通り過ぎるって持ちきりです。お上(幕府)も薪や水を与えて機嫌をとるしかねえそうで……。まぁ、俺たち田舎の人間には、雲の上の恐ろしい噂話ですがね」
漁師は首をすくめて笑ったが、鉄之助は笑わなかった。
荒れ狂う「表の海」の水平線を、ただ一文字にじっと睨み据えていた。
(雲の上の話などではない。父上が言っていた危機は、この海の向こうから確実に迫っている。もしあのバケモノのような異国船が、この桃生の海に、俺たちの田畑にやってきたら、伊達の刀だけで守れるというのか……)
胸の奥から、熱い塊が突き上げてくるのを鉄之助は感じていた。
周囲の大人がただ怯え、あるいは見ない振りをしている世界の現実が、いま、この表の海の向こうに確かに存在する。
「……打ち払うのではない」
鉄之助は、大海原に向かって、小さく、しかし決意に満ちた声を放った。
「地獄などではない。そこにあるのは、まだ見ぬ世界だ。俺は、この表の海を渡る。渡って、奴らの仕組みを、国を動かす富の知恵(経済)をすべて奪い取ってやる。それで、この桃生を、日本を守ってみせる」
[五]
数年後、十四歳になった鉄之助の身体は、片平の練兵場での厳しい鍛錬によって、大人びた体躯へと成長していた。しかし、あの表の海で誓った頑固なまでの志は、一分も衰えていなかった。
仙台・片平の富田邸の書斎。重苦しい夜の空気の中、鉄之助は父・実徳の前に平伏していた。
「私を江戸へ行かせてください! いや、いずれは海の向こうへ。仙台の中だけで学べることは、もうありませぬ!」
「黙れ!」
父の実徳が激しく机を叩いた。「四男とて伊達の武士。藩に尽くすことだけを考えよ! 海の向こうなど、お前のような者が生きて戻れる場所ではない!」
「拒まれても、私は行きます! 刀を磨くだけでは、この仙台も桃生も守れぬことは、父上が一番ご存知のはずです!」
床に額を擦りつけ、血が滲むほどに強く床を押しつける鉄之助。
重苦しい沈黙が書斎を支配したその時、静かに襖が開いた。母のお貞が、盆に茶を載せて入ってきた。
実徳が「下がっておれ」と一喝するが、お貞は夫の前に凛と座り直した。
「殿。この子は一度言い出したら、たとえ刺し違えても引き下がりませぬ。お忘れですか、七歳のあの日、泥にまみれても『折れぬ』と言い放ったあの眼を」
「お貞、お前まで何を言う」
「私はこの子の母親にございます。本当は、江戸へも、ましてや異国へなど、命の危険がある場所へは一歩も出したくはございませぬ。ですが……」
お貞は鉄之助をじっと見つめた。その目には、大粒の涙が溜まっていたが、声は決して震えなかった。
「この富田の血を引く四男坊が、誰も歩んだことのない道を進み、この国の危機を救うというのなら……母として、その背中を押すのが私の役目かと存じます。殿、どうか、江戸へ行かせてやってくださいませ」
「母上……」
鉄之助の胸が熱く震えた。いつも厳しく、自分を富田の枠に収めようとしていた母が、誰よりも自分の「本質」を理解し、命がけで父を説得してくれている。
実徳は妻と息子の顔を交互に見つめ、やがて深く、天を仰ぐようにため息をついた。
「……そこまで言うなら、江戸で勝海舟という者が塾を開いていると聞く。お前のその頑固な頭が、江戸の風で叩き直されるか見てやる」
旅立ちの朝、鉄之助は片平の広大な屋敷の門前に立ち、遠く桃生の、そしてその先にある「表の海」の空を見つめた。懐には、母が持たせてくれた新しい手拭いと、あのオランダの地理書が眠っている。
「必ず、この国を救う知恵を掴んで戻る」
一歩を踏み出した鉄之助の背中を、広瀬川の強い朝風が押し上げるように吹き抜けていった。
のちに日本銀行第二代総裁となり、日本の金融の番人として国家権力と真正面から激突することになる男――富田鉄之助。その不屈の人生の歯車が、宮城の潮風の中で、いま確かに回り始めた。
だがこの時、遥か遠く、江戸の薄暗い路地裏の片隅では、のちに鉄之助と数奇な運命で結ばれ、共に日本の命運を背負うことになるもう一人の天才、高橋是清が、まだ産声をあげたばかりであった。
『鉄之助と是清』
第2話:「江戸の泥、横浜の風」
[一]
安政四年(一八五七年)冬。
ペリーの黒船来航から三年、江戸・芝にある仙台藩の足軽長屋は、身を切るような寒風と、どん底の貧窮の臭いに満ちていた。
「おい、話は決まったんだ! そのガキをさっさと菓子屋の番頭へ引き渡せ! 養子に出せば、まとまった金が手に入るんだよ!」
ドスン、と激しい衝撃とともに、荒々しい怒号が薄暗い長屋の壁を震わせた。
酒臭い息を吐き散らし、目を血走らせて暴れているのは、是清の養父であり仙台藩の最低辺の足軽・高橋覚治(かくじ)であった。覚治は博打の借金に追われ、三歳になった是清を裕福な菓子屋へ「売る」ように養子へ出す計画を進めていた。
「そうですとも! 我が家には今年、本物の実子が生まれたのです! なんで血の繋がらない不義の子を、いつまでも他人の金で育てなきゃいけないんです!」
そう言って、生後間もない実の息子・是利(これとし)を愛おしそうに抱きしめながら、是清を冷酷な目で睨みつけているのは、養母であった。是清を引き取った直後に我が子が生まれたことで、養母の愛情は完全に実子へと偏り、血の繋がらない是清を「余計な食いぶち」として露骨に冷遇していたのである。病床の養祖父は、ただ弱々しく咳き込むことしかできない。
「黙りおれ、この親不孝者どもがッ!」
地響きのような怒号をあげ、三歳の是清をきつく、引きちぎらんばかりの力で抱きしめて立ち塞がったのは、養祖母の喜代(きよ)であった。
喜代は、この地獄のような長屋にあって唯一、凛とした知性を失わない老女であった。元は教養ある江戸の家の出であり、粗暴な息子・覚治の身持ちの悪さに絶望しながらも、この家に売られるようにやってきた赤ん坊に、狂おしいほどの情愛(溺愛)を注いでいた。
この赤ん坊――のちの高橋是清は、呪われた血筋の中に生まれていた。
実の父親は、幕府お抱えの天才絵師であり、狩野派の重鎮・川村庄右衛門。当時七十歳近い老人であった。その庄右衛門が、屋敷で働く若い小女に手をつけ、生まれたのがこの是清である。不義の子として世間の目を恐れた実親たちによって、生後わずか数日で、数枚の小銭とともにこの貧しい足軽長屋へ放り出されたのだった。
「二年も我が子として育てたこの可愛い是清を、実子が生まれたからと町人の家へ放り出す気かい! 伊達の武士(もののふ)としての意気地(いくじ)はどこへ行った! 我ら高橋の家名を泥に塗る気か! 覚治、お前のような人間のクズに、この子は絶対に渡さない!」
覚治が喜代を突き飛ばし、凄まじい力で拳を振り上げた、その時。
喜代は鋭い眼光で息子を睨みつけ、長屋の外まで響くような大声で一喝した。
「打ち殺したくば、まずこの私を殺しなさい! ですが覚治、お前のような犬畜生がどれほど足掻こうと、この子はいつか、この長屋の泥を突き破って天へ登る龍になるお方だ。お前のような泥棒の手で汚してよい命ではない!」
その気迫に気圧されたか、覚治はチッと舌打ちをして、手近な酒瓶を叩き割ると、そのまま夜の盛り場へと消えていった。
静まり返った長屋で、喜代は割れたガラスの破片から是清を庇うように抱き上げ、奥の小さな机へと向かった。
それから数年、是清が物心つく頃には、喜代の教育はさらに熱を帯びていた。
「是清、よくお聞き。お前はね、実の親に捨てられ、この汚い泥の中に落ちた種なんだよ。周りを見なさい。酒を飲んで暴れる父親、他人の実子ばかりを可愛がる母親……。お前は、この泥に染まっては絶対にいけない」
喜代は、行灯の細い光の下で、上質な草紙を広げた。貧しい暮らしの中で、喜代が自分の小袖を質に入れてまで買い揃えた、江戸の最新の学問書やそろばんだった。
「お前には、天から授かった破格の頭がある。おばあちゃんが、お前に江戸で一番の知恵を授けてあげるからね」
喜代は是清を膝の上に抱き、一文字ずつ、丁寧に、しかし狂おしいほどの情熱で読み書きを教え込んだ。是清は驚異的な集中力でそれを吸収した。一度見た文字は絶対に忘れず、喜代が弾く算盤の音を、耳で聞いただけで暗算してみせた。
「そうだ、いい子だ、是清……。お前は賢い、誰よりも強い。いつか、この江戸の街が狭く思える日が必ず来る」
義理の弟との差別、養父の暴力、長屋の飢え。それらすべての理不尽から是清を守り続けたのは、喜代の狂気にも似た溺愛と、夜な夜な叩き込まれる「言葉と数字の力」であった。
長屋の泥をすすりながらも、是清の瞳には、養祖母の愛によって育まれた、決して折れない傲慢なまでの自信が宿り始めていた。
(俺は、こんな泥の中で終わる人間じゃない。おばあちゃんのためにも、いつか、もっと広い場所へ行くんだ)
安政の激動が迫る江戸の片隅で、最底辺の神童は、外の世界へと飛び出す牙を、静かに、しかし確実に研ぎ澄ましていた。
[二]
慶応元年(一八六五年)春。
世は幕末の騒乱の極みにあったが、芝の足軽長屋に生きる十歳の是清にとって、最大の武器は刀ではなく、養祖母・喜代に叩き込まれた「数字」と、生まれ持った「異形の記憶力」であった。
是清の神童ぶりは、長屋の界隈ではすでに畏怖の対象だった。貸本屋から借りてきた分厚い『三国志』や『太閤記』などの軍談を、行灯の薄明かりの下で一度めくっただけで、翌朝にはその数万字におよぶ合戦の描写を一言一句違わず、講釈師さながらに暗唱してみせる。そればかりか、大人の商人が弾く算盤のパチパチという音を耳で聞いただけで、「おじさん、今の計算、三文間違えているよ」と、顔も見ずに言い当てる。その瞳には、最底辺の長屋にいながらも、周囲の大人たちをどこか見下すような不敵な光が宿っていた。
その異能が、仙台藩の江戸下屋敷(芝・蔵屋敷)を揺るがす大事件を引き起こす。
ある日、是清は、酒代のために藩の勘定方(財務役所)の雑用を請け負っていた養父・覚治の御供として、下屋敷の奥へと足を踏み入れた。そこでは、十数人の勘定方の役人たちが、額に汗を浮かべながら、うず高く積まれた和綴じの勘定帳と格闘していた。藩が江戸の豪商から借り入れた数万両の金と、領地から運ばれた米の出納が、どうしても合わないのだという。
「どけ。いつまでそろばんを弾いておる。そんな鈍い手つきでは、夜が明けても終わらんぞ」
静まり返った部屋に、十歳の小僧の傲慢な声が響いた。
役人たちが「な、何を!」と激昂する中、是清は臆する風もなく、机の上に広げられた厚い大福帳を乱暴に奪い取った。接着された和紙が擦れる音をせわしなく響かせながら、驚異的な速さで丁(ちょう)をめくっていく。その目は、数字の羅列を『見る』というより、まるで脳内に写し取っていくようであった。
わずか半刻の後、是清はパチンと勘定帳を閉じると、部屋の最奥に座る勘定頭の顔を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「三千二百四十一両の赤字。……いや、違うな。これは『赤字』ではない。そこの四丁目の右側、および八丁目の左側、米の買い入れの数字が不自然に膨らんでいる。勘定頭、あんた、江戸の米問屋と裏で手を組んで、藩の公金を五百両ばかり、内密に懐へごまかしたな」
「な、何だと……!?」
部屋の空気が一瞬で氷結した。
勘定頭の顔面はみるみる土気色に変わり、図星を指された衝撃でガタガタと震え出した。役人たちが色めき立ち、慌てて帳簿の四丁目と八丁目を調べ直す。はたして、十歳の少年が指摘した通りの、巧妙に隠されていた「数字の嘘」が白日の下に晒された。大人たちが誰も気づかなかった、あるいは恐れて触れなかった藩の巨悪を、長屋の足軽の息子が、たった一本の脳髄で叩き潰した、まさに胸のすくような瞬間であった。
だが、この大逆転劇は、すぐに牙を剥いて高橋家に襲いかかった。
横領を暴かれた腐敗役人たちにとって、是清は口封じにせねば源る危険分子となった。その夜、芝の長屋の周囲には、抜身の刀を持った刺客たちの不穏な足音が響き、高橋家は全滅の危機に瀕した。
この切迫した状況下で、驚愕に震える一同を下がらせ、大福帳を腕に抱えたまま、定清のその傲慢なまでに不敵な面構えを凝視している一人の男がいた。
彼こそが、仙台藩の江戸留守居役――大童信太夫(おおどう しんだゆう)であった。
大童は、長い髭をなでながら、低く豪快な声で笑い出した。
「……恐ろしいガキだ。この泥まみれの足軽長屋に、これほどの頭脳が眠っていようとは。おい高橋、お前の首を狙う勘定方の刃は、すでに江戸中に満ちている。だが、お前のような面白い玉を、こんな長屋の私闘で死なせるわけにはいかん」
大童は是清の小さな肩を、パシリと強く叩いた。
「今、横浜の港にはアメリカやイギリスの異国人が集まり、ヘボンという南蛮の医師が『英語塾』を開いておる。お前を『藩の生木』として、今すぐ横浜へ逃がす。よいか是清、これからの日本は、刀を振り回すだけの奴らでは国を守れん。異国の言葉と仕組みを学び、いずれ藩の、いやこの国の巨大な武器となれ!」
「留学生」という名目は、腐敗役人の刃から是清の命を救い、同時に最底辺の長屋から彼を外の世界へと解き放つ、大童信太夫による究極の救済処置であった。
しかし、急遽決まった旅立ちを前に、長屋に戻った是清を待っていたのは、涙の夜だった。
荷造りをする是清の背中を、老いた祖母の喜代が、震える手で見つめていた。喜代の髪は白髪が混じり、かつて覚治と大立ち回りを演じた頃の体躯は、小さく萎んでしまっていた。
「是清……行くのかい」
「おばあちゃん、大童様の命令だ。横浜へ行って、アメリカの言葉を学ぶんだ。俺が立派になれば、もう誰もこの家を馬鹿にしない。おばあちゃんに、うまいものだって毎日腹いっぱい食べさせてあげられる」
是清が快活に笑ってみせると、喜代はシワだらけの手で、是清の頬を包み込んだ。その目から、大粒の涙が溢れ落ち、是清の汚れた小袖を濡らした。
「寂しいよ、是清。本当はね、お前をどこへもやりたくない。この腕の中に、ずっと閉じ込めておきたいんだよ。血の繋がらないお前を、実の子以上に可愛がった私を、長屋の奴らは狂っていると笑った。だけどね……」
喜代は、自分の唯一の晴れ着であった上質な小袖を、昼間に質に入れて作ったわずかな路銀(小銭)を、布に包んで是清の手のひらに握らせた。
「お前は泥の中の龍だ。この江戸の薄暗い長屋で、燻って終わる器じゃない。お前を縛る泥から、今こそ飛び立ちなさい。寂しさに負けて、お前の翼を折るような真似は、この喜代の面目が許さないよ」
「おばあちゃん……」
「行きなさい。振り返るんじゃないよ。お前がどんなに遠くへ行こうと、私の仕込んだ知恵とお前の度胸があれば、世界のどこでだって生きていける。高橋の、いや、この日本の一番の男になっておくれ」
喜代は是清を狂おしいほどの力で抱きしめ、それから、突き放すようにその背中を強く叩いた。
翌朝、夜明け前の薄暗い霧の中、是清は一つだけの風呂敷包みを背負い、長屋の門を出た。
一歩、歩き出し、どうしても堪えきれずに一度だけ振り返る。
長屋の木戸の陰で、小さくなった祖母・喜代が、冷たい朝風に吹かれながら、いつまでも、いつまでも手を振り続けていた。
(おばあちゃん、行ってくる。俺は絶対に、泥の中では終わらない――)
是清は溢れる涙を、着物の袖で乱暴に拭い去ると、異国への門戸が開く未知の街・横浜へと向かって、東海道を死に物狂いで走り出した。
これが、自分を命がけで愛してくれた唯一の肉親との、今生の別れになるとも知らずに。
[三]
芝の長屋を出て、がむしゃらに走り続けてから数週間。十歳の是清は、未だ横浜という名の「異界」に馴染めずにいた。
横浜へ到着した初日の夕暮れ、野毛の切り通しを抜けたところで、背後から激しい蹄の音が響き、一頭の立派な白馬が是清のすぐ脇を猛烈な速さで駆け抜けていった。
「うわっ!」
激しく撥ね上げられた泥水を顔面に浴び、是清は道端へ派手に這いつくばった。馬の背の異国人は、振り返りもせず優雅に居留地の奥へと消えていく。
泥を拭い、顔を上げた是清の眼前に広がっていたのが、立ち並ぶ漆喰の洋館と、燃えるような赤髪や青い目を持つ異国人たちが行き交う、慶応元年の横浜外国人居留地であった。
「……何だ、ここは」
是清は風呂敷包みを背負ったまま、呆然と立ち尽くした。長屋の大人たちが「毛唐(けとう)」と恐れ慄いていた理由が、子供の目にはよく分かった。彼らは言葉の通じぬ異形の生き物であり、何より、その眼光には江戸の武士たちが持つ『面目』とは全く異なる、ぎらぎらとした「欲」の光が宿っていた。
大童信太夫の手蔓(てづる)で、是清は居留地にあるサミュエル・ブラウンの英語塾へ入ることとなった。だが、机の上でアルファベットの文字をなぞるような退屈な学問は、江戸の帳簿を一瞬で暗記した是清の性に全く合わなかった。
何より、藩からの仕送りは早くも途絶え、是清の腹は毎日、虫が鳴くように鳴っていた。生きるためには、この異形の大人たちの懐へ飛び込むしかなかった。大童の紹介状を携え、是清がようやく見つけて赴いた先が、英国のチャータード・マーカンタイル銀行の館員、アレクサンダー・シャンドの洋館であった。
「お前が、大童の寄こした足軽の小僧か。思ったより、ちんちくりんだな」
仕立ての良い上着をまとい、片目に硝子の眼鏡をはめたシャンドは、目の前に立つ小僧の顔を見て、狡猾な笑みを浮かべた。シャンドの頭の中で、数週間前、居留地の入り口で自分の愛馬が撥ね飛ばした、あの泥まみれの日本のガキの姿が鮮やかに繋がったのである。是清もまた、主人の顔を見た瞬間、あの時の白馬の男だと気づき、奥歯を噛み締めた。
「お前に飯と寝床をやる。その代わり、この館の全ての部屋の掃除、馬の世話、そして靴磨きを課す。不満なら今すぐ長屋へ帰るがいい。代わりの小僧などいくらでも転がっている」
シャンドはそう言い放つと、是清の風呂敷包みを無造作に取り上げ、中からおばあちゃんの喜代が持たせてくれたなけなしの小銭が入った布包みを見つけ出し、当然のように自分の懐へ仕舞い込んだ。逃亡を防ぐための「前金(担保)」だという。日本の武士が重んじる人情など微塵もない、冷徹で小狡い大人の洗礼であった。
(舐めるな、毛唐め。お前らが数字と契約で来るなら、俺はその上を行ってやる)
そこから、是清の長く泥臭い潜伏の二年が始まった。
朝から晩まで勝手口でシャンドの重い革靴を磨き、馬の糞を片付け、床を這回る日々。是清の英語の学び方は、決して優雅なものではなかった。
居留地の裏路地で外国人の子供たちに「イエロー・モンキー(黄色い猿)」と石を投げつけられれば、負けじと泥を投げ返し、覚えたての罵り言葉を叫んで取っ組み合いの喧嘩をした。シャンドが他の異国の商人たちと部屋で交わす会話を、壁に耳を押し付けて文字通り盗み聞きした。
持ち前の異形の記憶力が、居留地の濁流のような生きた言葉(英語)を、二年の歳月をかけて一語一語、是清の脳髄に「武器」として叩き込んでいった。
――そして、慶応三年(一八六七年)。是清は十二歳になっていた。
ある日の午後、シャンドが机の上で、日本の小判(金貨)と異国の銀貨を並え、複雑な顔でそろばんを弾いていた。当時の横浜は、不平等な交換比率のせいで、日本の金が大量に海外へ流出している時期であった。
シャンドは独り言で、「これなら、あと三百両は安く買い叩けるな……」と英国の言葉で呟き、狡猾な笑みを浮かべた。
「それは計算が違いますよ、旦那」
足元で床を拭いていた十二歳の是清が、雑巾をバケツに放り込み、流暢な発音の英国語で不意に口を開いた。二年前の、ただ喚くだけの迷子ではない。居留地の荒波で鍛え上げられた、低く芯のある声だった。
「金貨の重さと、そっちの銀貨の質を合わせれば、買い叩けるのは二百五十両が限界だ。あんたの計算には、横浜の米相場の変動が抜けている。子供相手に小狡い真似をする割には、あんたの算盤は随分と大雑把だ」
シャンドは片目の硝子眼鏡を落としそうになりながら、床から自分を見上げる、精悍な顔つきに成長した日本の少年を、まるで本物の化け物を見るような目で見つめ返した。
[四]
「面白い。実に面白いな、コレキヨ。子供相手に小狡い真似をしたことは謝ろう。お前はただの召使にしておくには、あまりに頭脳が回りすぎる」
シャンドはその日から、是清の扱いをガラリと変えた。
館の掃除や馬の世話こそ続けさせたが、夜、仕事が終わると、シャンドは是清を自身の書斎へと招き入れるようになった。
「コレキヨ。お前がその異形の頭脳をさらに活かしたくば、言葉だけでなく、世界の『富の仕組み』を学べ。これが『簿記(ぼき)』だ。この世のあらゆる商いは、この左右に分かれた帳簿の数字ですべて説明がつく」
シャンドが広げたのは、日本の大福帳とは全く異なる、大金が動く国際銀行の複雑な帳簿であった。
シャンドは、もはや子供扱いをせず、利息の生まれ方、為替の仕組み、担保の重要性を理詰めで叩き込んだ。人情や面目を一切排除し、ただ契約と数字だけで世界を動かす異国の合理主義――それこそが、居留地で牙を研いだ十二歳の是清が、生涯の骨肉とする「大人の知恵」となった。
おばあちゃんの喜代から授かった言葉の土台の上に、イギリス人シャンドの冷徹な知性が重なる。
短期間のうちに是清は、シャンドにとって、居留地での商談の裏付けを任せられる、なくてはならない最年少の「右腕」へと変貌を遂げていった。
第3話:「赤坂の黒船」
[一]
嘉永二年(一八四九年)。
陸奥国仙台お城下の格式を捨て、大いなる志を胸に初めて江戸へ上った十四歳の富田鉄之助を待っていたのは、強烈な「幻滅」であった。
鉄之助が藩命によって最初に入ったのは、築地にある仙台藩の広大な江戸下屋敷であった。伊達六十二万石の威信をかけ、何千人もの武士がひしめき合う巨大な街のような屋敷。しかし、そこで行われていたのは、故郷の片平丁と何ら変わらない、門閥の格付けと、上役へのへつらい、そして形骸化した武士の格式の押し付け合いであった。
「四男坊のお前が、いくら異国の地理書を読んだところで、藩の役職に就けるわけがなかろう。大人しくお城下の兄たちを見習い、身の程をわきまえよ」
ペリーの黒船が浦賀に現れるわずか数年前、激動の前夜であるにもかかわらず、大藩・仙台の藩邸は、未だ泰平の眠りの中にいた。
(ここも、あの片平の屋敷と同じ檻か。江戸へ来れば、世界を守る知恵があると思ったのは、俺の錯覚だったのか)
十四歳の少年・鉄之助は、形式ばかりの御用を務める日々に、息が詰まるほどの焦燥感を覚えていた。
[二]
「これからは、刀の時代ではない。洋式の大砲と鉄砲の時代だ」
藩邸の退屈な空気を飛び出した鉄之助は、十代後半から二十代前半にかけて、当時江戸の知識人の間で急速に広まっていた「高島流西洋砲術」や蘭学の門を叩いた。そこでは、これまでの武士の戦い方とは全く異なる、オランダの兵法に基づいた洋式調練が行われていた。
「前へ進め(フォールワーツ)!」
異国の号令に合わせ、隊列を組んでゲベール銃を構え、大砲の弾道を計算する。数字を用いて戦の勝敗を導き出すその合理的な学問に、鉄之助は一時、貪るように没頭した。江戸に来てから、すでに十年の歳月が流れていた。
しかし、その希望もすぐに暗雲に覆われる。安政五年(一八五八年)、大老・井伊直弼による「安政の大獄」が始まったのである。国の未来を憂い、先進的な海外の知識を広めようとしていた福井藩の橋本左内や、長州藩の吉田松陰といった希代の秀才たちが、次々と幕府の手によって捕らえられ、刑場の露と消えていった。
鉄之助が学んでいた砲術の塾でも、昨日まで日本の国防を熱く語り合っていた仲間が、ある朝突然、役人に連行されていった。
鉄之助は、冷たい雨の降る江戸の街頭で、没収されていく洋式銃の山を見つめながら、絶望に震えていた。
(大砲の撃ち方をいくら学んでも、それが身内同士の殺し合いや、権力の弾圧の道具にされるだけなら、何の意味がある。武器の扱いを学ぶだけでは、この国は救えない……)
十四歳で江戸の門をくぐってから、得られたはずの答えは未だ見つからず、鉄之助の苦悩は深く、暗い淵へと沈み込んでいた。
[三]
文久二年(一八六二年)。鉄之助は二十七歳になっていた。
桜田門外の変によって大老が暗殺され、幕府の権威は完全に失墜。江戸の街には、着物を血で染め、目を血走らせたどこぞの脱藩浪士たちが、抜身の刀をぶら下げて「尊王攘夷」を叫び暴れ回る、狂気の都と化していた。
行き詰まり、宿舎で一人、おばあちゃんから貰った新しい手拭い――ではなく、母のお貞が持たせてくれたあのオランダの地理書を抱きしめて立ち尽くす鉄之助の元に、一通の密書が届いた。
呼び出されたのは、芝の閑静な料亭の奥座敷。そこで待っていたのは、長い髭を蓄え、不敵な笑みを浮かべた仙台藩の江戸留守居役――大童信太夫(おおどう しんだゆう)であった。
「富田、江戸に来てから十三年、ずいぶんと面構えが険しくなったな。高島流の砲術も、安政の大獄の嵐の前には形無しだったか」
「大童様……。私は、自分の眼孔の小ささに絶望しております。十四の年にこの江戸へ来て以来、刀を捨て、銃を持っても、この日本の狂った地殻変動を止める術が分かりませぬ」
鉄之助が床に手を突くと、大童は豪快に笑いながら、膳の上の酒を煽った。
「馬鹿者。大砲を撃つだの、浪士を斬るだの、そんなものは小手先の戦だ。いいか富田、今、赤坂の風の強い丘に、幕府の軍艦奉行でありながら、幕府のためではなく『日本全体の海軍』を創ろうと目論んでいる途方もない化け物がいる。名を、勝海舟という。あやつの塾には、敵を打ち払うためではなく、海の向こうの仕組みを丸ごと奪い取るための、真の知恵が集まっている。お前のような頑固な玉は、あやつの元へ行って、一度木っ端微塵に叩き壊されてこい」
大童の手から差し出されたのは、勝海舟への一筆(紹介状)であった。
(世界の仕組みを丸ごと奪い取る知恵――)
大童の言葉を聞いた瞬間、鉄之助の胸の奥で、十二歳のあの日、桃生の荒々しい「表の海」を睨みつけたあの熱い塊が、一気に息を吹き返した。
[四]
翌朝。二十七歳となった富田鉄之助は、一刻の猶予も惜しむように宿を出ると、赤坂の小高い丘へと続く坂道を登っていた。
周囲の武家屋敷が物々しい警戒を強める中、目指す私塾「勝塾」の門前へと、一歩一歩、確かな足取りで近づいていく。
門前に立ち、見上げる。白壁の向こうからは、従来の剣術道場のような木刀のぶつかり合う音ではなく、聞いたこともない異国の言葉の朗読や、何やら激しい議論を戦わせる若者たちの熱気が、外まで漏れ聞こえていた。
「仙台藩四男坊、富田鉄之助。天下の行く末を、この眼で確かめに来た」
鉄之助は懐から、母のお貞がかつて持たせてくれた、あの擦り切れた白い手拭いを取り出し、おのれの額の汗を強く拭った。母の「その頑固さは、いずれお前を遠くへ押し流してしまう」という言葉が、風の音に混じって耳元をかすめた。
鉄之助は腰の刀の柄から完全に手を離すと、覚覚を決め、重厚な勝塾の門を、拳で強く叩いた。
この赤坂の門の向こうに、日本の未来を、そしておのれの運命を根底から変える「黒船」が待っているとも知らずに。
第4話:「勝塾の牙」
[一]
文久二年(一八六二年)。
赤坂の小高い丘に建つ「勝塾」の重厚な木門を叩いた富田鉄之助を待っていたのは、これまでの人生で受けたことのない、強烈な洗礼であった。
「仙台藩の二千石、四男坊だって? 御苦労なこった。おい富田、その腰の立派な刀を抜いて、今すぐ俺を斬ってみな」
通された広間の奥、世界地図や航海図の写しが壁一面に貼られた部屋で、あぐらをかいた男――幕府の軍艦奉行・勝海舟は、冷笑を浮かべながら鉄之助を挑発した。
鉄之助は微動だにせず、鋭い眼光を勝に向ける。
「私は先生を斬りに来たのではありません。国を救う知恵を求めて参りました」
「知恵だと? 笑わせるねえ。江戸の街じゃあ浪士どもが『攘夷』だと騒いで異国人を斬り回っているが、あんなものはただの犬の遠吠えだ。海の向こうのイギリスやアメリカにゃあ、大砲を何十門も積んだ巨大な蒸気軍艦が何百隻とあるんだよ。お前らがいくら刀を磨いて大声を張り上げたところで、その軍艦が一発、品川沖から大砲を撃てば、この江戸の街ごと一瞬で灰になる。お前、その伊達の刀を振り回して、軍艦の大砲を跳ね返せるかい?」
勝の容赦のない言葉は、かつて鉄之助が桃生の「表の海」で感じた強烈な危機感と、寸分違わず合致していた。鉄之助は深く息を吸い、畳に両手をついて平伏した。
「分かっております。だからこそ、私は刀を捨てに参りました。大砲で打ち払う時代は終わったと、父からも学びました。これからは、敵の強さを知り、その仕組みを丸ごと奪い取る知恵が必要にございます。先生、私を海の向こうの仕組みを知る、先生の足元に置いてください」
勝は鉄之助の真っ直ぐな瞳をじっと見つめ、やがて膝を叩いて豪快に笑った。
「気に入った! 江戸に集まる武士どもはどいつもこいつも頭が固くていけねえが、お前はいい眼をしている。よし、今日からここに居座れ。お前のその頑固な頭脳を、海の向こうの知恵で叩き直してやる!」
[二]
勝塾での日々は、鉄之助の知性を激しく揺さぶった。
そこでは剣術の稽古など一切なく、朝から晩まで、オランダ語や英語の原書を読み解き、航海術や、世界の国々がどのようにして富を築いているのかという「通商(貿易)」の仕組みを学ぶ講義が行われていた。
鉄之助は、数字と理詰めで動く世界の巨大なルールに触れ、「戦とは大砲を撃ち合うことではない。国を動かすのは『富』の流れそのものだ」と、おのれの目線が日本という狭い島国から、世界へと完全に開き始めるのを感じていた。
だが、そんな鉄之助の前に、もう一つの壁が立ちはだかる。
「おい、仙台。お前、親父に気に入られて随分と調子に乗っているな」
勝塾の廊下で、鉄之助の行く手を遮ったのは、勝海舟の実子――勝小鹿(ころく)であった。鉄之助より十歳以上も若い少年だが、偉大な父の影に怯え、どこか周囲に牙を剥くひねくれた若者であった。
「小鹿様、私はただ、先生から授かった書物を読んでいるまでにございます」
「ふん、格式ある大藩の武士が、形ばかりの頭を下げて親父の機嫌を取っているだけだろう。俺は知っているんだ。親父の周りに集まる奴らは、どいつもこいつも俺を『偉大な勝海舟の出来損ないの息子』としか見ていない。お前もそうなんだろう!」
小鹿の瞳には、強烈な劣等感と、誰からも認められない深い孤独が滲んでいた。
鉄之助は、その少年の荒んだ姿に、かつて仙台の片平丁の練兵場で、優秀な兄たちの後ろ姿を見上げながら「お前は四男坊だから不要だ」と突き放されていた、幼き日の我が身を重ね合わせていた。
鉄之助は一歩、小鹿に近づくと、その少年の目線に合わせて静かに頭を下げた。
「小鹿様。私は、仙台二千石の富田家の四男坊にございます。家督を継ぐ兄たちとは違い、藩にとってはいてもいなくても変わらぬ、いわば『お荷物』として育ちました。……偉大なる勝先生を父に持つお方の苦しみなど、私ごときには到底分かり得ませぬ。ですが、私は小鹿様を出来損ないなどとは断じて思いませぬ。ただ、世界の広さを共に知りたいと願う、一人の同志と思っております」
「同志……だと?」
小鹿は驚いたように目を丸くした。おべっかを使うわけでもなく、己の傷口を真っ直ぐに見据えて対等に語りかけてくる鉄之助の頑固な誠実さに、少年の頑なな心が、初めて微かに揺れ動いた。
[三]
それからの日々、鉄之助と小鹿の関係は少しずつ変化していった。
鉄之助は、勝塾で学ぶ航海術の計算を小鹿に優しく教え、小鹿もまた、鉄之助の持つ決して折れない「鉄の如き意志」に、次第に兄のような頼もしさを感じ始めるようになっていた。
勝海舟は、書斎の陰から、不器用ながらも互いに歩み寄り、共に世界の学問に没頭する二人の背中を、満足そうに見つめていた。
「富田の野郎、上手く小鹿の錆びついた心の鍵を開けやがったな……。あの頑固さは、ただの意固地じゃねえ。他人の痛みが分かる、本物の誠実さだ」
文久から慶応へと年号が変わり、世はいよいよ大政奉還へのカウントダウンを始めようとしていた。国内の政争が血で血を洗う泥沼と化していく中、勝塾という静かな嵐の目で、鉄之助は世界の仕組みを奪い取るための牙を、小鹿と共に極限まで研ぎ澄ましていた。
そして慶応三年(一八六七年)。
二人の前に、ついに太平洋の水平線が姿を現そうとしていた。
『鉄之助と是清』
第5話:「二人の交差点」
[一]
慶応三年(一八六七年)春。
江戸・赤坂の「勝塾」の書斎には、夜を徹して車輪の如く回り続ける緊迫した空気が漂っていた。
世は十五代将軍・徳川慶喜による大政奉還の足音が近づき、幕府の命運がいよいよ尽きようとしている激動の最中である。幕府の軍艦奉行であり、勝塾の主である勝海舟は、おびただしい数の洋書に囲まれた机の前で、一人の武士と対峙していた。
仙台藩江戸留守居役――大童信太夫(おおどう しんだゆう)である。
「勝先生、泣いても笑ってもこれが最後の談判だ。我が仙台藩から、富田鉄之助をアメリカへ留学させる。そのための御免状(許可証)と、藩の金蔵から一千両の旅費をもぎ取ってきた。あとは先生、あんたの一筆だけだ」
大童は、泥だらけの袴のまま畳を叩いた。保守的で変化を嫌う大藩・仙台藩を相手に、大童は「今、世界を見ねば伊達六十二万石は内側から腐り落ちる」と、己の首を賭けて幹部たちを脅し抜き、年間一千両という破格の国費を力ずくで工面してきたのである。
勝は葉巻の煙をふっと吹き出し、細い目をさらに細めて大童を睨みつけた。
「御高説は結構だがね、大童さん。今の幕府や藩の御公儀(役所)ってやつは、明日にもひっくり返る泥船なんだよ。そんな戦前(いくさまえ)のドタバタの中で、なんで俺が、仙台の四男坊ひとりのためにアメリカ行きの船を手配しなきゃならねえんだい?」
「……あんたの倅、小鹿(ころく)殿のためだ」
大童の低い声に、勝の手がピタリと止まった。
「小鹿殿が近々、米国へ留学することは公儀の隠密から聞いている。だが、あやつは優しすぎる。偉大なる勝海舟の影に怯え、異国の荒波を一人で生き抜く度胸がねえ。だが、富田鉄之助は違う。あやつは十四の年に江戸へ来て以来十三年、藩の門閥に干され、安政の大獄で仲間を失い、どん底の闇の中で『国を救う知恵』だけを求めて牙を研ぎ続けてきた男だ。鉄之助なら、泥水をすすってでも小鹿殿を守り抜き、二人で生きて日本の未来を持ち帰る。勝先生、あんたの愛息の命を、我が藩の最高峰の頑固者に託してみる気はないかい?」
勝海舟はしばらく沈黙し、やがて、喉の奥から豪快な笑い声を響かせた。
「ハハハ! 狸め、そこまで調べ上げて俺を強請(ゆす)りに来やがったか。……いいだろう、その賭け、俺も乗った」
翌朝、勝は鉄之助を書斎へ呼び出すと、一枚の航海図を床に広げた。
「富田、いよいよ時が来た。俺の倅の小鹿を連れて、アメリカへ渡れ [B]。お前を小鹿の『守り役(従者)』として指名する。これは命令じゃねえ。お前が十四の年からこの江戸の泥の中で探し続けてきた、お前自身の戦場だ」
アメリカへの留学――。
それは、かつて桃生の「表の海」で世界へ渡ると誓ったあの日から、十八年もの歳月を経て、大童の命がけの裏工作と、勝海舟の親心という巨大な時代のうねりによって、ついに鉄之助の前に差し出された本物の「大命」であった。
「勝先生、大童様……命に代えても小鹿様をお守りし、異国の知恵をこの国に持ち帰って参ります!」
平伏する鉄之助に、大童は自身の長い髭を揺らしながら、不敵に笑って言い添えた。
「富田、異国の地は数字と契約の戦場だ。高潔な武士の正義だけでは生きて戻れん。お前たちに、横浜の居留地でとびきりの『武器』を用意してある。大童信太夫の最高の手土産だ。横浜の港へ着いたら、イギリスの銀行の館(やかた)を訪ねてみよ」
武器、とは一体何のことか。鉄之助は、アメリカの最新の学問書でも渡されるのだろうかと思案しながら、今や固い信頼で結ばれた小鹿の肩を叩き、旅立ちの地・横浜へと向かった。
[二]
潮風と漆喰の臭いが立ち込める、横浜外国人居留地。英国のチャータード・マーカンタイル銀行の館員、アレクサンダー・シャンドの洋館の応接間に、鉄之助は足を踏み入れた。
「大童様から、ここに日本の未来に必要な『武器』があると伺って参ったのですが……」
鉄之助がそう切り出した瞬間、部屋の扉が開き、一人の少年が紅茶の盆を載せて入ってきた。
十三歳になった高橋是清であった [A]。居留地の荒波で二年間揉まれ、その体躯は小柄ながらも引き締まり、何より、その瞳には大人を小馬鹿にしたような傲慢で鋭い光が宿っていた。
「旦那、大童の旦那が寄こした通訳候補は、そこのちんちくりんなガキのことですよ」
シャンドが片目の硝子(ガラス)眼鏡をいじりながら笑う。鉄之助は絶句した。二千石の上級武士として厳格に育った鉄之助にとって、目の前にいるのは仕立ての悪い着物を着て、手足が泥で汚れた、ただの靴磨きの小僧にしか見えなかった。あまりにも育ちが違いすぎる。
「大童様は何を考えておられる。これより命がけで太平洋を渡るのだ。このような、品格も格式もない子供を連れて行けるか!」
鉄之助が不快感を露わにすると、是清は盆を机にドスンと乱暴に置き、鉄之助を床から睨み上げて鼻で笑った。
「おい、そこの仙台の若様。ちんちくりんと侮るなよ。あんた、アメリカへ着いたらどうやって飯を食うんだ? 異国の文字も読めず、為替(かぜ)の仕組みも分からず、ただ刀をぶら下げて突っ立っているだけの武士が、一番の『お荷物』なんだよ」
是清は、シャンドの机の上に広げられていた英語の国際帳簿を指差し、流暢で精悍な英国の言葉を淀みなく捲し立てた。
「今、幕府の阿呆どもが定めた金銀の交換比率のせいで、日本の小判がどれほどこの居留地から海外へ流出しているか、あんた知ってるかい? 国内じゃ金一に対して銀が五の価値なのに、この居留地じゃ金一に対して銀は十五だ。毛唐どもは海外から安いメキシコ銀貨を持ち込んじゃあ、日本の小判を三分の一の値段で買い叩き、上海の市場へ横流しして暴利を貪ってやがる。この館のシャンドの旦那だって、今月だけで数百両分の小判をそっくりそのまま英国へ送る計算書を弾いてる最中だ。刀を磨いて『攘夷』だと吠えている間に、この国の地肉(国富)は文字通り毟り取られてるんだよ。異国のルールの前じゃあ、あんたのその立派な二本差しも、ただの重てえ鉄クズだ」
[三]
「……!」
鉄之助の背筋に、冷たい戦慄が走った。
ただの通訳ではない。高島流の砲術で弾道を計算し、勝塾で世界地図を睨んできた鉄之助の頭脳が、是清の言葉の意味を瞬時に、そして誰よりも深く理解していた。
この小僧の言っていることは正しい。日本は今、大砲や軍艦で撃ち合って負けているのではない。異国が仕掛けた「数字の罠」によって、戦う前の血をすべて吸い取られているのだ。そして、その巨大な世界の仕組み(経済)を、目の前の泥まみれの十三歳のガキが、英国の言葉で完璧に看破している。
(大童様が『最高の武器』と評したわけだ。この小僧は、知性の化け物だ)
しかし、鉄之助の武士としてのプライドがそれを素直に認めさせることを拒んだ。何より、この小僧の態度はあまりにも不遜であり、命を預け合う従者としての「品格」が微塵も感じられない。
「口の利き方に気をつけよ、無礼者。お前がどれほど異国の帳簿を読めようが、その傲慢さはいつか身を滅ぼすぞ。国家の大命を帯びた留学の場に、そのような私欲と不遜に満ちた小僧を連れて行くわけにはいかん!」
「けっ、お説教ならお城下(仙台)で身内相手にやってな、若様。あんたらの言う『品格』だの『格式』だので、異国の腹黒い奴らから一両でも守れるっていうのかい? 俺はあんたの犬になるために大童の旦那の誘いを待ってたわけじゃない。不満なら、さっさとその錆びついた刀をぶら下げて一人で海へ飛び込めばいいさ!」
是清は鉄之助の鋭い眼光を正面から跳ね返し、フンと鼻を鳴らして応接間を飛び出していった。
ピシャリと激しく閉められた扉の音だけが響く。
「……やれやれ。大童の旦那も、随分と気の荒い二頭の馬を同じ馬車に繋ごうとしたものだ」
シャンドが呆れたように肩をすくめる。
一人残された鉄之助は、拳を固く握りしめ、是清が去った扉をじっと睨み据えていた。胸の中では、小僧の無礼さへの怒りと、それ以上に、彼が放った「世界の現実」への強烈な戦慄が、激しく渦巻いていた。
出会いは最悪。価値観も、育ちも、真逆の二人。
交わした言葉は刃の如く互いを傷つけ合い、決裂寸前の重苦しい空気のまま、横浜の洋館に緊迫した沈黙が流れていた。
『鉄之助と是清』
第6話:「主従の契約」
[一]
シャンドの洋館での激しい決裂から数日。富田鉄之助は、勝小鹿を宿舎に残し、一人で霧深い横浜居留地の裏路地を歩いていた。
耳の奥には、あの十三歳の小僧――高橋是清が放った「異国のルールの前じゃ、あんたの刀もただの鉄クズだ」という剥き出しの言葉が、刺さった棘のように残り続けていた。
怒りは、すでに消えていた。あったのは、ただ純粋な感嘆である。
(あの若さで、世界が日本を貪り尽くす仕組みを見抜いている。やはり、あの小僧をここに置いていくわけにはいかない)
その時、前方の薄暗い路地裏から、激しい罵声と殴り合う音が聞こえてきた。
鉄之助が足を早めて物陰から覗くと、そこには数人の異国の水夫(荒くれ者たち)に囲まれ、泥だらけになって殴り飛ばされている是清の姿があった。
是清がシャンドの館の用向きで、異国の商人から受け取るはずだった大切な商いの手形を、水夫たちが「小僧、生意気な口を利くな」と力ずくで奪い取ろうとしていたのである。
「返せ! それはシャンドの旦那の大事な書類だ!」
是清は鼻血を流し、着物を引きちぎられながらも、獣のように水夫の足に噛みつき、泥まみれになって抵抗していた。長屋の泥をすすり、居留地で這いつくばって生きてきた是清の、狂おしいほどの「生命力」の塊がそこにあった。
「やめろ!」
鉄之助は叫ぶと同時に路地へ飛び出し、腰の刀を鞘ごと引き抜いた。刀は抜かない。勝海舟から教わった通り、ここで異国人を斬れば国際問題になり、留学どころではなくなる。鉄之助は高島流砲術の鍛錬で鍛え上げた頑強な体躯を活かし、鞘のまま水夫たちの腕や腹を電光石火の速さで叩きのめした。
武士の気迫に気圧された水夫たちは、手形を放り出し、悪態を突きながら退散していった。
[二]
静まり返った路地裏。鉄之助は泥の中に落ちた手形を拾い上げると、壁に背を預けて荒い息を吐いている是清にそっと差し出した。
「大丈夫か、是清」
是清は手形をひったくるように奪い返すと、顔の泥を乱暴に拭い、鉄之助を忌々しそうに睨みつけた。
「……余計なお節介だ。武士の旦那が、何の用だ。俺を助けて恩でも売れば、大人しくアメリカへ付いていくとでも思ったかい。格式だの品格だのと言っていた割には、随分と泥臭い真似をするじゃないか」
強がる是清の身体は、恐怖と悔しさで微かに震えていた。
鉄之助は、そんな是清を冷笑することも、武士の傲慢さで叱りつけることもしなかった。ただ静かに、泥まみれの地面に自ら膝をつき、是清の目線に合わせて真っ直ぐに向き合った。
その鉄之助の瞳は、片平の屋敷の格式も、伊達二千石のプライドもすべて削ぎ落とされた、抜けるように青い、驚くほど「純粋」な光を湛えていた。それは、十二歳のあの日、桃生の海を眺めながら「この海を渡って、世界の仕組みを奪い取る」と誓った、あの無垢な少年の瞳そのものであった。
「俺は、恩を売りに来たのではない。お前を迎えに来たのだ、是清」
鉄之助の声は、低く、しかし驚くほど優しく路地裏に響いた。
「さっきのお前の戦いぶりを見て確信した。お前には、この居留地の毛唐どもにどれだけ踏みつけられても、決して死なない泥臭い生命力がある。そして、世界の理を見抜く破格の頭脳がある。……だがな、是清。お前がいくら天才でも、この横浜の狭い路地裏で一人で戦っていては、いつかさっきの奴らのように、力ずくで踏みつぶされて終わるぞ」
「……何だと?」
[三]
「世界の掟は、お前が思うより遥かに巨大で、冷酷だ」
鉄之助は、是清の小さな肩に、そっと大きな手を置いた。
「だからこそ、海を渡るのだ。お前が海外の資本家どもを見返したいのなら、俺の背中に乗れ。俺が仙台藩から毟り取ってきた一千両の旅費も、勝先生から授かった後ろ盾も、すべてお前の武器として使わせてやる。お前が世界の仕組みを学ぶための盾に、この富田鉄之助がなってやる」
是清は息を呑んだ。
これまで出会ってきた大人は、暴力を振るう養父か、自分を口封じにしようとした藩の腐敗役人か、あるいは子供相手に前金を巻き上げるシャンドのような、計算高い者ばかりだった。
だが、目の前にいるこの奇妙な武士は違う。己の持てるすべてを「お前の武器にしろ」と言って、あまりにも真っ直ぐな、純粋な瞳で自分を求めている。
「是清。俺の『お供』としてアメリカへ来い。これは、身分の主従ではない。同じ未来を見据える、魂の契約だ。お前のその異形の頭脳と生命力、俺に命を預ける覚悟で、賭けてみないか」
鉄之助はそう言うと、泥のついた大きな掌を、是清の前に差し出した。
是清は、じっとその掌を見つめた。
(この男は、本物だ……。格式に溺れた他の武士とは格が違う。この真っ直ぐな瞳になら、俺の未来を賭けてもいい)
是清の喉の奥から、熱い塊が込み上げてきた。少年は鼻の血を袖で拭うと、ニカッと不敵な、しかし十三歳らしい子供の純粋な笑みを浮かべた。
「……いいだろう、富田の若様。そこまで頭を下げられたら、断るわけにゃいかないね。あんたが俺の盾になるって言うなら、俺はその百倍の知恵で、あんたの進む道を切り開いてやるよ」
是清は、鉄之助の大きな掌を、おのれの泥まみれの小さな手で、壊れんばかりの力で握り返した。
格式高き上級武士の四男と、最底辺の足軽長屋出身の靴磨き。
横浜の汚れた路地裏の泥の中で、二人の天才は、身分を超えた本物の「主従(バディ)」としての契りを、ここに正式に交わしたのである。この時、二人の視線は、狭い居留地の壁を越え、遥か太平洋の向こうへと完全に重なっていた。
『鉄之助と是清』
第7話:「出発前夜、最後の告白」
[一]
慶応三年(一八六七年)八月。
米国留学の御免状が下り、横浜での主従の契約を終えた富田鉄之助と高橋是清、そして勝海舟の息子・勝小鹿の三人は、出発直前の数日間、大童信太夫の手配によって赤坂の隠れ家に身を潜めていた。
当時の江戸は、翌月に控えた大政奉還を前に、徳川の終焉を予感させる不気味な焦燥感に包まれていた。
市中では、薩摩藩の浪士(御用盗)による放火や略奪といった卑劣なテロ行為が横行。これに対抗するため、庄内藩を中心とする「新徴組(しんちょうぐみ)」や、幕臣による「江戸見廻組」が殺気立って路地を巡回し、怪しい者は容赦なく斬り捨てる戒厳の世であった。さらに東海道の川崎宿あたりからは、民衆が「ええじゃないか」と狂ったように乱舞する、不穏な世直しの熱狂がじわじわと江戸の足元まで忍び寄っている。
異国へ渡る若者たちの存在が露見すれば、攘夷派の浪士や暴徒に命を狙われるのは必至であり、彼らの旅立ちは事実上、密航同然の緊張感に包まれていた。
その夜、隠れ家の小さな庭先で、鉄之助は一人、むっとする夏の夜気の中で夜空を見上げていた。遠くの街道からは、時折、市中を巡回する新徴組の物々しい蹄の音が微かに響いてくる。
「……富田。やはり、俺のような出来損ないがアメリカへ行くなど、親父の顔に泥を塗るだけではないだろうか」
暗がりから力なく声をかけてきたのは、十七歳の勝小鹿であった。小鹿は膝を抱え、自分の袴の裾を見つめて震えていた。
「小鹿様……」
「横浜で見たあの巨大な外国船の群れ、そしてあの青い目の異国人たち……。俺は怖くて堪らないんだ。親父は『日本に海軍を創るために、アメリカの術を丸ごと盗んでこい』と言ったが、俺にはそんな大役、とても背負いきれない。親父の周りに集まる奴らはみんな、俺を『偉大な海舟の頼りない息子』としか見ていない。本当は、俺を置いてお前たち二人だけで行ったほうが、日本の為になるんじゃないか」
偉大すぎる父の影に押しつぶされ、旅立ちの恐怖に涙を浮かべる主君の息子。鉄之助は、十四歳の年に故郷・仙台を旅立ってからの長い十三年間を思い返していた。
鉄之助は静かに小鹿の前に膝をつくと、懐から一枚の擦り切れた白い手拭いを取り出した。第一話で、泥まみれになった己の額の血を、母のお貞が拭ってくれたあの手拭いである。
「小鹿様。私も、仙台二千石の富田家にあって、あってもなくても変わらぬ『お荷物』として育ちました。十四の年にこの江戸へ来て以来十三年、私は藩の門閥主義に干され、安政の大獄で大局を見据えていた多くの仲間を失い、おのれの無力さに何度も絶望してきました。……ですが、勝先生は私にこうおっしゃいました。『これはお前自身の戦場だ』と。先生が小鹿様をアメリカへ送るのは、ご自身の身代わりにするためではありませぬ。親の影のない遥かななる異国で、小鹿様が一人の男として、ご自身の足で立つのを信じておられるからにございます」
鉄之助はさらに懐から、オランダの地理書を取り出し、夜風に晒した。
「私の心にある原風景は、陸奥国仙台の桃生(ものう)という土地にあります。地平線まで黄金色に輝く田畑が広がり、その隣には、波一つない鏡のように静かな『奥の海(万石浦)』がある。俺はアメリカで一旗揚げ、世界の仕組みを丸ごと奪い取って戻ります。そして、あの美しく穏やかな桃生の海と領民を、今度こそ俺の手で守ってみせる。小鹿様、私はご自身の手で未来を掴もうとするお方を、命に代えてもお守りいたします」
鉄之助の嘘偽りのない、頑固なまでの誠実な言葉が、小鹿の震える肩を静かに包み込んでいった。
[二]
「へっ。相変わらず仙台の若様は、お説教が上等だねえ」
その時、縁側の暗がりから、風呂敷包みを枕代わりに寝転んでいた十三歳の是清が、のそりと起き上がってきた。いつもの不敵な笑みを浮かべ、おばあちゃんの喜代から貰ったなけなしの路銀が入った布包みを弄んでいる。
「是清……お前は、怖くないのか?」
小鹿が尋ねると、是清は鼻で笑った。
「怖い? 冗談言っちゃいけないよ。俺はね、実の親に生後すぐに捨てられ、この芝の薄暗い足軽長屋へ放り出された男だ。博打打ちの親父には菓子屋に売られそうになり、義理の弟が生まれた途端に『お荷物』扱いさ。長屋の奴らからは不義の子だと指をさされ、横浜じゃ毛唐どもに石を投げつけられて泥水をすすってきた。……俺にとっちゃ、この日本って国そのものが、底の知れねえ地獄の泥沼なんだよ」
是清の淡々とした、しかし壮絶な告白に、お坊ちゃん育ちの小鹿は息を呑んだ。
「そんな地獄の中でさ、血の繋がらねえ俺を命がけで抱きしめて、読み書きを教えてくれたおばあちゃんが言ったんだ。『あんたは泥の中の龍だ。日本一番の男になっておくれ』ってね。小鹿の若旦那、あんたは『勝海舟の息子』って看板が重くて泣いてるが、俺に言わせりゃあ、そんな立派な看板があるだけで羨ましくて涎が出るねえ。俺には、おばあちゃんへの誓いと、この一本の脳髄しかありゃしないんだ」
是清は布包みを強く握りしめ、小鹿と鉄之助を交互に見据えた。その瞳には、最底辺から生きて戻ってきた者だけが持つ、凄まじい野心の火が灯っていた。
「親父の影がなんだ。足軽の不義の子の俺と、仙台のお荷物の富田の若様と、勝海舟の出来損ないの若旦那――この三人がアメリカへ行って、世界の一番デカい仕組みを丸ごとひっくり返して戻ってきたら、そいつは最高に胸のすく大逆転劇だと思わないかい?」
[三]
「是清……」
小鹿は、涙を袖で拭うと、初めて小さく笑った。是清の剥き出しの野心と、鉄之助のどこまでも真っ直ぐな純粋さ。この二人の規格外の天才に挟まれ、自分がいかに狭い殻に閉じこもっていたかを、小鹿は痛感していた。
「……分かった。俺も、もう弱音は吐かない。アメリカへ行ったら、親父の真似ではなく、俺自身の目で異国の海を見極めてみせる。富田、是清、俺を仲間に入れてくれ」
小鹿は、自分の小さな拳を二人の前に差し出した。
鉄之助は深く頷き、その大きな掌で小鹿の拳を包み込み、是清もまた、「へっ、旅賃の代わりには働いてもらうよ」と不敵に笑って、おのれの手を重ね合わせた。
身分も、育ちも、直面している苦悩も、全く違う三人の若者。
だが、暗雲垂れ込める江戸の夜空の下で、それぞれの一番深い「本音」を曝け出した時、三人の魂は、まだ見ぬ未来の水平線へ向けて完全に一つに重なった。
慶応三年八月。激動の幕末、国を追われるようにして旅立つ若者たちは、江戸の夜空の下で、固き誓いの手を結んだ。高潔なる救国の頑固者・富田鉄之助、底辺からの復讐に燃える高橋是清、長屋の知恵から世界の仕組みへと挑む凸凹の同志たち。夜が明ければ、そこは日本の刀も格式も一切通じない、無限の広がりを持つ大洋。しかし彼らはまだ知る由もなかった。明日乗り込むアメリカ行きの蒸気船の先に、大自然の猛威、そして是清を待ち受ける『奴隷』という底知れぬ地獄の罠が待ち受けていることを――。
第8話「太平洋の激浪」
慶慶応三年(一八六七年)八月九日。
大政奉還を目前に控えた江戸の緊迫をあとにした富田鉄之助、高橋是清、勝小鹿の三人は、相模国横浜の港から、当時の世界最新鋭を誇るパシフィック・メール汽船会社の巨大蒸気船「コロラド号」へと乗り込んだ [B]。
それは、十四歳で陸奥国仙台お城下を旅立ってから十八年、世界の仕組みを奪い取ると誓い続けた鉄之助にとって、ついに太平洋の水平線へと漕ぎ出す運命の朝であった。
しかし、タラップを越えた瞬間に待っていたのは、異国の地へ向かう高揚感を一瞬で凍りつかせる、冷酷なる「世界の洗礼」であった。
「おい、そこのちんちくりん。お前は下だ。船底へ行け」
一等客室へと案内される鉄之助と小鹿の背後で、白人の一等航海士が、十三歳の是清の胸元を大きな手で乱暴に突き飛ばした。鉄之助と小鹿は藩費と勝家の潤沢な資金があるため、白人の紳士淑女が集まる最上層の客室が許されていたが、足軽上がりの従者(お供)に過ぎない是清は、船の最下層にある、貧しい移民や出稼ぎ労働者がひしめく暗く不衛生な「三等船室(下等客室)」へ容赦なく叩き込まれる仕組みになっていた。
「大童様の御手回しとはいえ、是清をこのような暗がりに一人残していくわけには――」
生真面目な鉄之助が刀の柄に手をかけ、割り切れぬ想いで航海士に詰め寄ろうとした、その時である。是清は引きちぎられそうな風呂敷包みを抱え直すと、鉄之助を遮るように不敵な笑みを浮かべ、フンと鼻を鳴らした。
「おいおい、仙台の若様。そんな堅苦しい顔して怒るんじゃないよ。一等室のふかふかの寝床じゃあ、俺の雑草の骨がふやけちまう。飯の時になったら、上等な肉の匂いを頼りに這い上がってやるさ。じゃあな、若旦那も泣くんじゃないよ」
是清はオロオロする小鹿の肩をぽんと叩くと、そのまま、獣のような足取りで薄暗い船底への階段を駆け降りていった。
[二]
船が横浜の港を離れ、陸奥国の島影が完全に消え去った時、三人が生まれて初めて目にしたのは、遮るもののない三百六十度、すべてが紺碧の境界線で区切られた「本当の地平線」であった。伊達六十二万石の城下町も、血で血を洗う江戸の政争も、すべてがこの巨大な大洋の前には塵に等しい。
だが、大自然の猛威は容赦なく彼らを打ちのめした。
航海十日目。船は太平洋の真ん中で猛烈な嵐(大シケ)に遭遇した。巨大な鉄の船体がミシミシと悲鳴を上げてきしみ、山のような怒濤が甲板を洗う。船体が狂ったように傾くたび、一等客室の床に伏した鉄之助と小鹿は、生まれて初めて経験する内臓を吐き出すような猛烈な船酔いに襲われていた。
「うう……富田、俺はもう駄目だ。アメリカに着く前に、ここで死ぬんだ……」
小鹿は顔を土気色にし、偉大な父の顔を思い浮かべながら涙を流した。鉄之助もまた、不屈の意志とは裏腹に、身体が言うことを聞かず、寝床から一歩も動けない。周囲の白人乗客たちは、奇妙な衣服を着て悶絶する日本の武士たちを、薄汚いものを見るような目で冷淡に無視していた。
「おいおい、伊達の武士も、海舟の若旦那も、海の神様の前じゃあ形無しだねえ」
その時、一等室の扉を蹴破るようにして入ってきたのは、顔色一つ変えない、ケロリとした顔の是清であった。その両手には、湯気を立てる熱いスープの入った木碗が握られている。
長屋の泥水をすすり、居留地でシャンドの馬の糞を片付けながら胃袋を鍛え上げてきた是清にとって、この程度の嵐は何の苦でもなかった。是清は、三等船室で取っ組み合いの喧嘩の末に仲良くなったという、頑固な白人の船の調理場(コック)の懐へ自ら飛び込み、病人のための特製スープを泥臭く奪い取ってきたのである。
「是清……お前、なぜそんなに動けるのだ……」
鉄之助が驚愕の目でスープを受け取ると、是清は枕元に座り込み、小鹿の背中を優しくさすりながら言った。
「下(船底)の荒くれ者どもが言ってたよ。海の化け物に勝つには、腹いっぱいに食って、水平線の真ん中で『俺が一番偉い』ってふんぞり返るのが一番だってね。さあ、若旦那もこれを飲みな。アメリカにゃあ、これの百倍美味い肉や、見たこともねえ甘い菓子が待ってるんだ。こんなところでへばってたら、おばあちゃんへの誓いが笑っちまう」
是清の手からスープを口にした小鹿は、その温もりに救われ、恐怖を忘れて微かに微笑んだ。鉄之助は、弱る主君の息子を堂々と励ます十三歳の是清の横顔を見つめ、大童信太夫が「異国の地は数字と契約の戦場だ。お前たちに最高の武器を拾っておいた」と言った言葉の真意を、身体の芯から理解していた。この小僧の生命力こそが、この無慈悲な海を渡るための最大の羅針盤なのだ。
[三]
嵐が去り、体調を取り戻した三人の二十四日間の航海は、驚くべき「知の共闘」の場へと変貌していった。
三等船室の薄暗いランプの下、是清は毎夜、荒くれ者の白人水夫や貧しい移民たちと、長屋仕込みの度胸でトランプ(博打)の卓を囲んでいた。
「おい、東洋の餓鬼。そのなけなしの小銭をすべて毟り取ってやるからな!」
大柄な水夫たちが是清を囲んでせせら笑う。しかし、是清の脳髄は、養祖母・喜代に叩き込まれた「驚異的な暗算力」によって、配られた全ての札の確率を一瞬で弾き出していた。
パチン、と札を叩きつけるたび、是清の前に小銭が積み上がっていく。
「おい、このガキ、配られた札を一言一句すべて覚えているぞ! 化け物か!」
驚愕する水夫たちに対し、是清はシャンドの館で壁越しに盗み聞きした生の英国語と、彼らから学んだ泥臭い罵り言葉を交えて不敵に笑い飛ばした。いつしか、船底の荒くれ者たちは是清を「コレキヨ」と呼び、肩を組んでアメリカの生の噂――現地の美味い食べ物や、金を稼ぐための裏事情、そして近づくサンフランシスコの街の構造を、喜んで教え込むようになっていた。
是清が下層で仕入れてきたその「生きた異国の情報」を携え、夜、三人は一等室の狭い机の前に集まった。
一本の蝋燭の光の下、鉄之助が勝塾から携えてきた英語の辞書を広げ、是清が仕入れた情報と照らし合わせながら、アメリカの最新の情勢を必死に紙に書き出していく。
「是清、お前が水夫から聞いた『ゴールド・ラッシュの残影』という言葉は、この辞書にある『金鉱の富』のことだな。……小鹿様、この数字を見てくだされ。アメリカという国は、金銀の比率を完全に法律で縛り、世界中の富をこのサンフランシスコという港に集めようとしている」
鉄之助が鋭い知性で大局を読み解くと、小鹿もまた、勝海舟から教わった航海術の知識を総動員して、船の現在地とアメリカ上陸までの日数を正確に導き出してみせた。
格式も、二千石の身分も、海舟の息子の看板も、この太平洋の真ん中では何の意味も持たない。お互いの知恵と命を支え合い、言葉という唯一の武器を研ぎ澄ます中で、三人の間には、上級武士と足軽という壁を超えた、強固な「同志の絆」が確かに結ばれつつあった。
[四]
慶応三年九月二日。
横浜を出発してから、驚異的な速さで太平洋を走り抜けた二十四日目の朝。
「富田! 是清! 見ろ、水平線の向こうだ!」
小鹿の弾んだ声が、朝霧の立ち込める甲板に響いた。
鉄之助と是清は、仲良くなった一等航海士から手渡された遠眼鏡(望遠鏡)を交互に覗き込み、息を呑んだ。
霧の向こうから姿を現したのは、黄金色の朝日に照らされ、見たこともない巨大な石造りの洋館が美しく立ち並ぶ大都市――サンフランシスコの全貌であった。港には無数の巨大な蒸気船がひしめき合い、世界の富がそこに集結しているかのような、圧倒的な輝きを放っている。
「……着いたな、アメリカだ」
鉄之助は、懐から母のお貞が持たせてくれたあの擦り切れた白い手拭いを取り出し、新天地の風に晒した。「必ず、この国を救う知恵を掴んで戻る」。十八年の歳月を経て、ついに約束の地の土を踏む覚悟が、その頑固な胸に満ちていた。
是清もまた、おばあちゃんから貰った路銀の布包みを強く握りしめ、輝く大都市を見据えてニカッと不敵に笑った。
(おばあちゃん、見ててくれ。俺はついに世界の入り口まで来た。この街の毛唐どもを全員見返して、日本一番の男になってみせる!)
三人は互いの顔を見合わせ、二十四日間の激浪を生き抜いた同志の誇りを胸に、ついに新世界へと足を踏み入れようとしていた。
だが、希望に胸を膨らませ、港へ降り立つ彼らはまだ知る由もなかった。その輝かしい街の影で、英語が読めるという十三歳の是清の「傲慢なる隙」を狙い、彼を『商品』として値踏みする、悪質な白人詐欺師たちの冷酷な視線が、すでに彼らを捉えていることを――。
第9話:「サンフランシスコの光と影」
慶応三年(一八六七年)九月二日。二十四日間に及ぶ大洋の激浪を越え、富田鉄之助、高橋是清、勝小鹿の三人が踏み降りた地は、眩いばかりの「光」に満ちていた。
そこは、ゴールドラッシュの熱狂から瞬く間に大都市へと膨れ上がった、世界で最も若く、最もエネルギーに満ちた都――サンフランシスコであった。
「……これが、海の向こうの国か」
小鹿は言葉を失い、鉄之助はただ圧倒されて街並みを見上げていた。陸奥国仙台お城下の長屋や赤坂の勝塾の街並みとは何もかもが違っていた。数階建ての石造りのビルが整然と立ち並び、舗装された道路を巨大な馬車が何台も行き交い、夜になれば、街路のガス灯が星のように夜の闇を白々と照らし出す。
大童信太夫から支給された一千両を路銀に、彼らが案内された宿舎の食堂で出されたのは、血の滴るような分厚い牛の肉(ステーキ)と、雪のように真っ白なパン、そして見たこともないジャガイモの料理であった。
江戸の泥水や長屋の飢えを骨身に染みて知る十三歳の是清は、その肉を口に運んだ瞬間、その美味さに目を見開いた。
「美味い……美味すぎる! 若様、小鹿の若旦那、ここの奴らは毎日こんな天国みたいな飯を食ってるのかい。これなら、おばあちゃんへの手土産の買い出しくらい、一瞬で稼ぎが出そうだ」
是清はナイフとフォークを器用に使いこなし、アメリカの圧倒的な富と豊かさにすっかり酔いしれていた。鉄之助も、この異国の進んだ仕組みを丸ごと奪い取り、陸奥国仙台の桃生の領民を守るのだと、これからの留学生活に頑固なまでの胸の鼓動を高く鳴らしていた。
[二]
しかし、その眩い光のすぐ隣には、どす黒い「影」が牙を剥いて潜んでいた。
翌日、大学への手続きと市中の視察のために街へ出た三人は、一歩路地裏へ入った途端、その現実に直面することとなる。船内の一等客室で親しく言葉を交わしていた白人の紳士たちが、地上に降りた途端、奇妙な衣服を着た鉄之助たちを、まるで汚物でも見るような冷酷な目で見つめ、露骨に避けて歩くのである。
さらに、一角の広場では、凄惨な光景が広がっていた。おのれたちと同じ黄色い肌をした中国人移民(クールー)を数人がかりで取り囲み、その髪を引っ張り回して泥水を投げつけ、家畜のように嘲笑っていた。中国の清国がイギリスに惨敗したアヘン戦争の報は知っていたが、世界におけるアジア人の立ち位置がこれほどまでに下等に扱われているとは、鉄之助の想像を遥かに超えていた。
「これが……自由と平等を謳う国の、真の実態か」
鉄之助は、刀の代わりに両の拳を白くなるほど強く握りしめ、世界の冷酷な洗礼に唇を噛んだ。小鹿は異国人の放つ強烈な人種差別の視線に怯え、鉄之助の背中に隠れるようにして震えている。是清もまた、自分が磨いていたシャンドの革靴を思い出し、喉の奥に苦い塊が広がるのを感じてしていた。
[三]
世界の中に孤立したような強烈な疎外感の中、うなだれて歩く三人の前に、一人の仕立ての良い衣服をまとった白人紳士が、実となめらかな発音の日本語で話しかけてきた。
「ようこそ、偉大なるサムライの皆さん。長い航海、さぞやお疲れだったでしょう」
男の名は、ヴァン・リード(Eugene Van Reed) [C]。サンフランシスコを拠点に、横浜の外国人居留地をも行き来する、やり手の米国人商人であった。リードは帽子を優雅に脱ぐと、小鹿に向かって深々と頭を下げた。
「海舟先生のご子息である小鹿様、臨まれる仙台藩の富田様。お噂はかねがね伺っております。私の馬車で、特製の珈琲(コーヒー)でもてなさせてください。この危険な街で、新参の日本人が生きていくには、確かな案内人が必要なのです」
異国の地で出会った、初めての親切な大人であった。小鹿はすっかり安堵の表情を浮かべて彼を信用し、鉄之助もまた、これから向かうべき東海岸(ボストンやニューヨーク)の大学の事情や、手続きの流れを、リードから必死に聞き出そうとした。リードは実に紳士的に、それらの問いに一つ一つ丁寧に答えてみせた。
[四]
ヴァン・リードに案内された宿舎の豪奢な談話室には、夜を照らすガス灯の下、サンフランシスコの裕福な白人商人や、一攫千金を狙う炭鉱主たちが集まり、煙草の煙と珈琲の香りが立ち込めていた。
鉄之助と小鹿が、異国の大人たちの放つ威圧感と、聞き取れぬ英語の濁流に気圧されて身を硬くしている中、十三歳の是清だけは、全く異なる動きを見せていた。
「おい、給仕(ウェイター)! この珈琲は温(ぬる)すぎる。これじゃあ、横浜の泥水の方がまだマシだ。さっさと淹れ直してきな」
是清は、仕立ての悪い着物の袂(たもと)をまくり上げ、居留地で荒くれ水夫たちと渡り合ってきた流暢で、かつ尊大な英国の言葉を談話室に響かせた。周囲の白人たちが「なんだ、あの東洋のガキは」と眉をひそめて注目する。
給仕が「生意気な猿め、英語が話せるからと調子に乗るな」と、あからさまに皿を乱暴に置くと、是清はさらに鼻で笑って、机の上の英語の新聞を指差した。
「調子に乗っているのはどっちだ。ここに書かれている東海岸の鉄道会社の株価の暴落も読めないのかい? あんたがそうやって客に八つ当たりしている間に、あんたの持っている小銭はただの紙クズになる。大人なら、新聞の数字くらい頭に入れたらどうだ」
新聞に書かれた複雑な経済記事を瞬時に読み解き、大人の男を言葉の刃で完膚なきまでに論破してみせる十三歳の小僧。その破格の聡明さに、周囲の白人たちは言葉を失い、給仕は顔を真っ赤にして退散していった。
鉄之助は「是清、よさぬか。異国の地で無用な諍い(いさかい)を起こすな」と生真面目に嗜めたが、是清は「へっ、若様たちは黙って見てなよ。言葉が通じりゃあ、毛唐どもなんて長屋の博打打ちと変わらな。数字の仕組みを知ってる俺の勝ちさ」と、傲慢に胸を張った。
その様子を、部屋の隅のソファーから、珈琲の煙越しにじっと凝視している鋭い眼光があった。ヴァン・リードである。
リードの目は、驚嘆ではなく、冷徹な「値踏み」の光を湛えていた。
(……化け物じみた頭脳だ。だが、実に惜しいな)
リードは、是清が白人たちを言い負かして得意絶頂になっているその横顔に、子供特有の致命的な「隙」をはっきりと見て取っていた。あの少年は、自分の才知を過信している。言葉が通じるがゆえに、このアメリカという国が持つ、真の冷酷さと人種差別の深さを侮っている。何より、あの生真面目な武士たち(鉄之助や小鹿)を「お荷物」だと心の底で見下し、自分一人で世界と渡り合えると思い込んでいる。
(おのれの才に溺れる犬ほど、罠にかけるのは容易い。あの頑固な武士から引き離し、一人にしてしまえば、いくらでも毟り取れる)
リードは狡猾な笑みを唇の端に浮かべると、ゆっくりと立ち上がり、平伏するような丁寧な日本語で鉄之助の元へ歩み寄った。
「富田様、小鹿様。東海岸への長旅は過酷です。まずはあなた方二人が大学へ向かい、基盤を整えてから、この優秀なコレキヨを呼び寄せるのが最も合理的だ。その間、彼の身の振り方は、この私が責任を持ってここでお預かりしましょう。これほど英語ができる少年なら、私の商いを手伝わせながら、いくらでも学問をさせてあげられます」
合理主義を勝塾で学んできた鉄之助は、小鹿の体力を最優先に考え、リードのその提案を「一理ある」と受け入れてしまう。
サンフランシスコの圧倒的な繁栄の影で、三人の運命をバラバラに引き裂く、見えざる蜘蛛の網が静かに広がりつつあった。おのれの才に溺れ、異国の本物の悪意に気づかぬ十三歳の是清。そして、さらなる高みを目指して東海岸へと旅立つ決意を固める富田鉄之助。
翌朝の駅のホームで交わされる二人の固い握手が、是清を底知れぬ深い深い運命の谷底へと突き落とす、切なき別れになるとも知らずに――。
『鉄之助と是清』
第10話:「運命の分岐点」
[一]
慶応三年(一八六七年)九月三日。
朝のサンフランシスコの駅は、東海岸の未開の地へと向かう巨大な黒い蒸気機関車の吐き出す、すさまじい白煙と硝煙の臭いに包まれていた。
当時、アメリカの大陸横断鉄道は未だ全線開通には至っていない。ここから先は、線路の途切れた大平原を、インディアンの襲撃や無法者の影に怯えながら、何週間も「駅馬車」に揺られて荒野を超えるという、命がけの過酷な道程が待っていた。
「是清。小鹿様の身体を考えれば、一日たりとも無債(むだ)にはできん。……お前を、この西海岸に残していくことを許してくれ」
鉄之助は、手渡された広大なアメリカの地図を見つめながら、生真面目な胸を痛めていた。だが、この荒野の強行軍に十三歳の是清を連れていくことは、足手まといになるだけでなく、是清の命をも危険に晒す。リードの言う通り、まずは自分たち二人がボストンで学問の基盤を整え、それから是清を呼び寄せるのが、最も確実な道であった。
出発を告げる激しい汽笛が、駅の天井に木霊した。
[二]
「是清。これを」
鉄之助は懐から、第一話から己の泥を拭い続けてきた、あの母のお貞が持たせてくれた擦り切れた白い手拭いを取り出した。そして、是清の居留地での戦いで汚れた小さな手を、優しく、包み込むようにして拭った。
「大童様から預かった一千両の中から、お前のこれからの学費と宿代として、二百両をヴァン・リードに前払いしておいた。あの男は親切だが、ここは異国だ。決して己の才を過信し、無茶な真似はするな。……俺がボストンで必ず家を構え、すぐに迎えの書状を送る。それまで、待っていてくれ」
武士としての誠実さから出たその「二百両」という巨額の金貨の袋。しかしそれが、皮肉にもリードにとっては「日本人の子供を一人預かるだけで、これほどの実入りになるのか」という、底知れぬ強欲に火をつける決定的な引き金になっているとは、鉄之助は知る由もなかった。
是清は、鉄之助のどこまでも真っ直ぐな純粋さと、自分を案じる温かさに一瞬胸を熱くしたが、いつもの不敵な笑みでそれを覆い隠した。
「若様こそ、あの甘ったれの小鹿の若旦那をお荷物にするなよ。英語も話せねえ武士が、荒野の真ん中で泣きべそかいてたら笑っちまう。……必ず立派になって、また会おう」
二人は、言葉の刃を交わしたあの横浜の路地裏のように、お互いの手を壊れんばかりの力で握りしめた。
[三]
ゴォォォ、と地鳴りのような咆哮をあげて、巨大な鉄の塊がゆっくりと動き出す。
窓から身を乗り出し、小さくなっていく是清の姿へ、ちぎれるほどに手を振り続ける小鹿と鉄之助。
是清もまた、おばあちゃんから貰った路銀の布包みを強く握りしめ、白煙の向こうへ走り去る汽車を、ただ一人じっと見送っていた。
頼るべき武士たちが去り、急激に押し寄せる、異国の地での耐え難い孤独と心細さ。十三歳の少年の肩が、一瞬だけ、小さく震えた。
その刹那。背後から、至極穏やかで、包み込むような温かい声がかけられた。
「寂しいかい、コレキヨ」
振り返ると、ヴァン・リードが、父親のような優しい微笑みを浮かべて立っていた。その手には、是清の冷えた身体を気遣うように、温かい外套(コート)が握られている。リードはそれを是清の肩に優しくかけると、目線を同じ高さに合わせ、いたわるように言った。
「彼らは素晴らしいサムライだが、やはり『古い日本の武士』だ。君のような、世界を動かす新しい数字の才能(知性)を、どう扱っていいか分からなかったのさ。だから君を、こんな遠い街へ置いていってしまった……。可哀想に。だが、もう大丈夫だ」
リードは是清の頭を優しく撫で、その自尊心をこれ以上ないほど甘く満たしてやった。
「これからは、私と君の時代だ。私は君を、ただの子供としても、従者としても扱わない。一人の対等な『商人』として、世界の仕組みをすべて教えてあげよう。明日、私の事務所へ来なさい。君の才能にふさわしい、最高の学校の書面を用意して待っているよ」
「……あいつら武士の、お供なんかじゃねえ。一人の、商人……」
是清の瞳に、孤独の裏返しとしての、強烈な野心と慢心の火が灯った。
(そうだ、この人は俺の力を分かってくれている。若様たちが戻る頃には、俺がこの西海岸の富をすべて手に入れて、あいつらを驚かせてやるんだ)
リードの優しさの裏にある、底知れぬ「えぐみ」に満ちた蜘蛛の罠。是清は完全にこの親切な大人を信頼し、みずから進んでその網の中へと足を踏み入れていく。一人きりになった神童の頭上に、冷酷なる契約の罠が、静かに、しかし確実に閉じようとしていた。
[四]
慶応三年秋。陸奥国仙台お城下の格式を捨てて世界の海へと飛び出した富田鉄之助と、芝の長屋から言葉の武器一つで這い上がってきた高橋是清。二人の天才を繋いでいた固い主従の絆は、アメリカの大陸を分かつ過酷な地平線によって、無残にも二つに引き裂かれた。おのれの才に溺れ、親切な大人の仮面に隠された罠に気づかぬまま、孤立無援となった十三歳の神童。翌朝の駅のホームで交わされる二人の固い握手が、是清を底知れぬ深い深い運命の谷底へと突き落とす、切なき別れになるとも知らずに――。
『鉄之助と是清』
第11話:「仕組まれた罠」
[一]
サンフランシスコの夜。
富田鉄之助たちが去ったその夜の街は、霧に煙るガス灯の光さえも、冷酷な蜘蛛の網のように是清の周囲へまとわりついていた。
案内されたヴァン・リードの事務所は、床一面に頭部がついたままの巨大な虎の毛皮が広げられ、壁には剥き出しの銃器が飾られた、いかにも一攫千金を成し遂げた男の、野蛮で強欲な空間であった。足元に広がる猛獣の鋭い牙と毛並みは、この部屋の主が持つ捕食者の如き凶暴性を無言で誇示している。
しかし、部屋の主であるリードは、どこまでも父親のような優しい微笑みを浮かべたまま、ふかふかのソファーに是清を座らせ、異国の甘い菓子と、香気立つ珈琲(コーヒー)を差し出した。
「これからは君の時代だ、コレキヨ。君の知性をさらに高める、最高の寄宿学校(アカデミー)の書類を用意したよ」
机の横には、鉄之助が是清の学費にと信じて置いていった「二百両」の金貨の袋が、重々しく鎮座している。リードは机の引き出しから、一枚の厚い、羊皮紙の書面(契約書)を取り出し、是清の前へ丁重に差し出した。
是清は、英語が読めるという強烈な自尊心から、不遜な態度でその書面に目を走らせた。そこには確かに、美しい飾り文字の英国語で「学費の支給」「宿舎の提供」という言葉が並んでいる。
(ふん、これしきの英語、俺を誰だと思ってるんだ。シャンドの館の国際帳簿に比べりゃ、子供の落書きみたいなもんだ)
是清の脳裏には、東海岸へ去った武士たちを世界の知恵で一刻も早く見返してやりたいという焦りと、「言葉が通じる自分は特別だ」という慢心があった。
[二]
だが、流し読みをする是清の目が、中央の一行に一瞬だけ留まった。
『Indentured Servitude』
見たことのない、奇妙にねじくれた法律の古語であった。
(……イン、デン……なんだこれ?)
是清は、ほんの一瞬だけ首を傾げた。懐には大童から貰った辞書が眠っている。引けば、それが『人身の自由を売り渡す年季奉公(実質的な奴隷)』という、おぞましい監獄の言葉であることが分かったはずだった。
しかし、是清の若き傲慢さが、その手を止めさせた。
(まあいいや。異国の役所へ出す、形式的なお決まりの決まり文句だろう。シャンドの館の帳簿だって、役人の書く前置きはいつも無駄に長かった。大事なのは、その下にある金額の数字だけだ)
是清は鼻で笑うと、その不気味な単語をあっさりと流し、読み飛ばした。その下にある「譲渡条項」――『雇い主は、この契約の権利を他者へ自由に売却・譲渡できる』という、大福帳の数字を暗算してきた是清なら一発で気づくべき罠の数行さえも、「早く学校の仕組みを手に入れたい」という焦りから、ただの転校の手続き程度に都合よく解釈し、まともに読まずに読み進めてしまった。
「学校へ通いながら、放課後に少しだけ私の知人の農園の帳簿(簿記)を手伝ってくれればいい。これはそのサインだ」
リードはどこまでも紳士的な、穏やかな声で是清を促した。是清は疑うことなく羽根ペンをインクに浸した。サラサラと「高橋是清」の名を英語で書き入れる。
「素晴らしいよ、コレキヨ。君は本当に賢い選択をした」
リードは、乾ききらない契約書を丁寧に、恭しく受け取ると、それを大切そうに懐へと仕舞い込んだ。その顔には、先ほどと変わらぬ温厚な微笑みが浮かんだままであった。
「今日はもう遅い。今夜は宿舎の温かいベッドでゆっくり休みなさい。明日、学校の者が君を迎えに来るよう手配しておいたからね」
リードはどこまでも優しく是清の肩を叩き、その夜は最高の寝床を提供して是清を完全に安心させた。
[三]
翌朝。
是清が目覚めると、宿舎の前に用意されていたのは、昨日のような白人紳士の乗る豪奢な馬車ではなかった。
それは、汚れた幌で覆われ、身を寄せ合うようにして貧しい異国の出稼ぎ労働者や移民たちが詰め込まれた、泥まみれの「共同馬車」であった。座席などなく、家畜の運搬用の荷台に近い代物である。
「……おい、リードの旦那。なぜ俺がこんな小汚い荷物みたいな連中と一緒に乗らなきゃいけないんだ? 学校の迎えはどうした」
是清が胸の奥に這い寄る奇妙な違和感に眉をひそめ、見送りにきたリードに詰め寄ると、リードは昨日と変わらぬ穏やかな、しかしどこかひんやりとした微笑みを浮かべて言った。
「これも学校の教育の一環だよ、コレキヨ。まずは実務を学ぶために、知人の農園へ向かうのだ。異国の地で成功したくば、現地の労働者たちの泥臭い生き方を知らねばならん。さあ、乗りなさい。時間は金(マネー)だ」
リードは是清の背中を優しく、しかし確固たる力で押し込み、共同馬車の荷台へと乗せた。
是清が「おい、あれ? 何かおかしいぞ……」と声をあげようとしたその瞬間、御者が鞭を鳴らし、共同馬車は冷酷に走り出した。
リードは遠ざかる馬車に向かって、一度も声を荒げることもなく、ただ優雅に帽子を脱いで見送った。鉄之助からせしめた二百両の袋を引き出しに仕舞い込みながら、彼は静かに事務所へと戻っていった。その温厚な仮面のまま、人を家畜の列へと並べる底知れぬ静けさこそが、この男の持つ本当のえぐみであった。
[四]
共同馬車がガタガタと砂埃を上げて走り続け、到着したのは、華やかな大都市から遥かに隔離された、オークランドの果てにある広大な農園であった。
馬車の荷台から、他の労働者たちと共に放り出されるようにして泥の中に着地した是清。
そこに、リードの姿はなかった。
出迎えたのは、衣服の汚れた大柄な白人の農園主と、その傍らで抜身の銃を片手に、目を血走らせて労働者たちを睨みつける粗暴な監視兵たちであった。
「おい、新しい家畜が来たぞ! 衣服を剥ぎ取れ!」
「な、何をする! 俺はリードの紹介で、ここに帳簿の手伝いに来たんだ!」
是清が叫ぶ間もなく、着ていた仙台藩の仕立ての良い衣服は無残に引きちぎられ、おばあちゃんの喜代が持たせてくれたなけなしの路銀(布包み)も、容赦なく奪い取られた。
代わりに与えられたのは、家畜の敷布のような粗末なボロ切れ一枚。かつて海の向こうからやってきて、名前を奪われ、衣服を剥がれ、おのれのルーツ(根源)のすべてを否定されて暗黒の畑へと投げ込まれた、あの黒い肌の先祖たちの悲劇と、いま、十三歳の是清の運命は完全に重なった。
連れて行かれた薄暗い小屋の床には、鎖に繋がれた数人の黒人労働者たちが、疲れ果てて座り込んでいた。
言葉は通じない。だが、彼らが是清に向けるその「声なき瞳」には、おのれの尊厳を他人に握られ、ただ過酷な運命を耐え忍ぶ者だけが持つ、底知れぬ孤独と諦念が満ちていた。
是清はその瞳の中に、かつて江戸の芝の長屋で、理不尽な暴力と飢えに怯えていた自分自身の幼き日の姿を、生々しく見出していた。
(俺は……文字を読めるからと調子に乗って、何一つ世界の恐ろしさを分かっていなかったんだ。あのとき、なぜ、まあいいやなどと流してしまったんだ……!)
おのれの知性を過信し、完璧に騙された神童。
衣服も、金も、言葉の武器すら通用しない本当の地獄の底で、是清は奪い取られた布包みがあった泥の地面を血が出るほどに掻きむしり、声を上げて胴哭した。
[五]
慶応三年秋。おのれの才に溺れた神童・高橋是清は、親切な大人の仮面を最後まで剥がさぬリードの罠にかかり、文字通り一頭の『家畜』として買い叩かれた。おばあちゃんへの誓いも、日本一番の野心も、すべては西海岸の黒い泥の中に埋もれていく。一方、その事実を何も知らぬまま、東海岸への汽車の中で世界の経済書をめくる富田鉄之助。引き裂かれた二人の天才の運命。衣服を剥がれ、名前を奪われた日本版クンタ・キンテ――高橋是清は、この人間以下の泥の地獄から、果たして生きて戻ることができるのだろうか――。
『鉄之助と是清』
第12話:「地獄のオークランド」
[一]
慶応三年(一八六七年)秋から、翌年の明治元年(一八六八年)夏へ――。
サンフランシスコの華やかな輝きから遠く隔離されたオークランドの果て、見渡す限りの広大な葡萄(ブドウ)畑は、十三歳の是清の肉体と精神を粉々に勘み砕く、果てしない「監獄」であった。
是清に課されたのは、朝四時の冷酷な鐘の音から、夜九時の消灯にいたるまで、一言の会話も許されぬ乾いた重労働であった。作業中に隣の者と言葉を交わすだけで、馬上から目を光らせる白人監視兵の乗馬鞭(むち)が容赦なく飛び、顔の皮を裂く。
秋の照りつける猛暑の中、おのれの背丈ほどもある巨大な籠を背負わされ、手の皮が破れて血と黒い泥が混じり合う中、葡萄を摘み続けた。だが、地獄の本番は、冬になってからであった。
カリフォルニアの冬は、深い霧が立ち込め、畑は底冷えする泥の海と化す。ボロ切れ一枚の是清は、凍てつく泥水に裸足を浸し続け、やがて凍傷によって足の爪が一本、また一本と腐って剥がれ落ちていった。春が過ぎ、再び夏が来れば、今度は四十度を超える灼熱の太陽が、剥き出しの背中を焼き、爛れた皮膚が衣服のボロ切れと血で張り付いた。
夜、薄暗く悪臭の立ち込める小屋へと放り込まれた是清の前に出されたのは、ドロドロに腐った家畜の残飯と、ボウフラのわく濁った泥水であった。
あまりの屈辱と、おのれの才に溺れて罠を見落とした己への激しい怒りで、是清は最初の数ヶ月、残飯の器を床にぶちまけ、狂ったように叫びながら壁に何度も頭を打ち付けていた。
「若様……おばあちゃん……! 俺は間違っていない、俺はすべて読めていたんだ! なのに、なぜ俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ! ここから出してくれ、出してくれッ!」
だが、その叫びは、夜の荒野の地平線へと虚しく吸い込まれていくだけであった。さらに是清を絶望させたのは、白人の農園主が突きつけてきた「帳簿」であった。是清が毎日貪るように食う残飯、泥水の代金、小屋の家賃、ボロ切れの衣服のすべてに法外な高値(借金)がつけられ、毎月、是清の年季奉公の「違約金」として加算されていく。
(働けば働くほど、自由になるための金が膨らんでいく……。これが、異国の数字の正体か……!)
おのれの得意とした数字の力で、二度と抜け出せぬ檻の深さを証明される。これ以上の精神的破壊はなかった。
何より是清を苛立たせたのは、同じ小屋にひしめく黒人労働者たちの言葉であった。
シャンドの館で端正な英国語を完璧にマスターしたという自負は、彼らの前で木っ端微塵に砕け散った。彼らが口にするのは、強烈な南部訛りと独自の濁った言葉(スラング)であり、是清の耳にはただの不気味な呪文にしか聞こえない。言葉という最大の武器すら通用しない孤独。それは、十三歳の神童を本当の抜け殻にしていった。
[二]
奉公が始まって十ヶ月が過ぎた、明治元年の、燃えるような夏の夕暮れ。
地平線の彼方へ、血の滴るような巨大な赤い太陽が静かに沈み、畑一面が深い紫色の影に覆われようとしていた。
一日の過酷な重労働を終え、疲れ果てて泥の中に這いつくばっていた是清の耳に、地を這うような、しかし驚くほど美しく、重厚な歌声が響いてきた。
会話を禁じられた黒人たちが、白人の監視を潜り抜けるため、口を閉じたまま喉の奥を震わせて響かせる、地鳴りのようなハミングの重奏。それは、おのれの名前を奪われ、家畜として生きる彼らが、人間としての魂を繋ぎ止めるための、悲痛なる祈りの歌(霊歌)であった。
十ヶ月の間、一日も欠かさずその旋律を泥の中で聴き続けてきた是清の「化け物じみた耳」が、彼らの濁った歌声の輪郭を、突如として鮮やかに捉え始めた。南部訛りの激しい言葉の破片が、脳内の引き出しにある英語と、火花を散らしてガチッと噛み合ったのである。
(……あ、あの一節は……『主よ、あの山を動かさないでください(Lord, don't move the mountain)』と言っているのか……!?)
言葉の壁が、脳内で音を立てて崩壊した。
彼らが絞り出すように歌う、悲痛なる祈りの意味が、是清の脳髄にダイレクトに突き刺さる。
『ただ、私に、あの山を登り切る力を与えてください。
私の道を、平らにしないでください。
ただ、主よ、私を導き、この苦難を越えさせてください――』
是清は、泥の中に顔を伏せたまま、大粒の涙を流した。
彼らは神に「この地獄から今すぐ救い出してくれ」と乞うているのではない。「どんな絶望の山が目の前に立ちはだかろうとも、おのれの足でそれを登り切って見せるから、そのための不屈の力をくれ」と、おのれの魂を繋ぎ止めるために歌っているのだ。
その時、一人の大柄な老黒人が、泥だらけになって泣き震える是清の元へ歩み寄ってきた。男は何も言わず、是清の傷だらけの頭の上に、そっと分厚く温かい大きな手を置いた。そして、自分のなけなしの取り分であった、乾いた固い木の実を、是清の小さな手のひらにそっと握らせた。
(この人たちも……俺と同じだ。誰も言葉を教えてくれなかったこの泥の中で、必死に、自分の力で生きてるんだ……!)
かつてアフリカの地から引き裂かれ、名前を奪われながらも、おのれのルーツ(根源)を決して忘れずに生き抜いてきた彼らの「声なき瞳」と、初めて意味を理解した「魂の歌」が、いま、是清の冷え切った心臓へ、烈火の如き熱い血を送り込んでいた。
[三]
(俺は何を泣き言を言っているんだ。俺の目の前にあるこの地獄の山は、神様が用意したんじゃない。おのれの才に溺れ、慢心した俺自身が、勝手に作り出した山だ!)
是清の脳裏に、江戸の芝の長屋の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
自分はあのどん底の泥水の中から、おばあちゃんの喜代の愛と、言葉の力だけでここまで這い上がってきたのではなかったか。
『是清、よくお聞き。お前はね、泥の中に落ちた種なんだよ。だがね、お前は泥の中の龍だ。いつか天へ登る男だよ』
おばあちゃんの声が、黒人たちの歌う「山を登り切る力をくれ」という祈りと、完全に一つに重なった。
是清は床にまき散らしたドロドロの残飯を、両手で、泥ごと力強く掴み取った。そして、涙と鼻血で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その汚い飯を口の奥へと猛烈な勢いで押し込んだ。噛み締め、飲み込むたびに、死に絶えかけていた少年の野生の牙が、再び鋭く、獰猛に蘇っていく。
「死んでたまるか……。こんな泥の底で、俺の命が終わってみせるか! リードの毛唐め、よくも俺を騙しやがったな。生きて、生きてここを出て、お前らの仕組みを全部乗っ取って、この百倍の仕返しをしてやる!」
十ヶ月の絶望を経て、彼らの「濁った南部訛り」をも完璧に聞き取れるようになった是清の耳は、今や最大の武器へと戻っていた。
ただ鞭に怯えて働く奴隷ではない。籠を背負って葡萄を摘みながらも、是清の耳は獣のように、白人の監視兵たちが交わす会話を冷徹に盗み聞きし始めていた。この農園の収穫高、ブドウが運ばれる港の場所、そしてここがサンフランシスコからどれほど離れているのかという地理のすべてを、脳内の大福帳へと再び冷徹に写し取り、泥の中で静かに牙を研ぎ始めたのである。
[四]
慶応三年秋から、翌年の夏へ。十ヶ月におよぶオークランドの暗黒の葡萄畑で、高橋是清は、過酷な重労働に肉体を削られながらも、奴隷たちの血と涙の歌に魂を震わせ、彼らの言葉の壁をも突破して、雑草の生命力を奇跡の如く蘇らせていた。衣服を剥がれ、名前を奪われても、その頭脳の牙だけは決して折れはしない。一方、その頃、遥か東海岸のボストンの地。是清からの便りが途絶えたことに、不穏な冷たい気配を察した富田鉄之助が、ついに怒りの大刀を手に、西海岸へと引き返そうと動き始めていた――。
第13話:「鉄之助の激闘」
[一]
明治元年(一八六八年)夏。
米国東海岸のボストンの地で、富田鉄之助の胸を焦がしていたのは、じわじわと這い寄る底知れぬ不穏な気配であった。
サンフランシスコの駅で高橋是清と別れて以来数ヶ月、約束していたはずの西海岸からの便りは、最初から一通たりとも届いてはいなかった [C]。不審に思った鉄之助は、アメリカの郵便の仕組みを疑い、あるいはヴァン・リードの不義理を疑い、かつて相模国横浜の居留地で是清の才能を誰よりも高く認めていた英国銀行の館員・アレクサンダー・シャンドへ密かに書状を送っていた。
そしてロンドン経由でボストンへと折り返し届いたシャンドからの告発状が、鉄之助の脳髄を叩き割った。
『コレキヨが、こちらの銀行へ送るはずの定期の帳簿報告が皆無だ。リードの周辺を精査したところ、コレキヨは学校へなど行っていない。奴の巧妙な罠にかかり、西海岸のどこかの農園へ売却された疑いがある。今すぐ救わねば、あの少年の命はない』
「……最初から、騙されていたのか!」
鉄之助は、おのれの甘さと、異国の仮面を被った本物の悪意に激しい憤怒を覚えた。勝海舟の息子・小鹿をボストンの宿舎に残し、大刀を握りしめると、再びあの過酷な駅馬車と蒸気機関車を乗り継いで、西海岸へと怒濤の勢いで引き返した。
数週間の命がけの逆行を越え、サンフランシスコへ戻った鉄之助は、あの巨大な虎の毛皮が敷かれたヴァン・リードの事務所の扉を、激しく蹴破った。
「おや、富田様。ボストンの大学はどうされました?」
リードは、相変わらず父親のような温厚な微笑みを浮かべていたが、鉄之助の眼光は完全に猛獣のそれであった。
「白々しい真似はよせ、リード。是清はどこにいる。大童様から預かった二百両の国費を奪い、あの少年をどこへ売り飛ばした!」
[二]
リードは少しも慌てず、珈琲(コーヒー)の煙をくゆらせながら、引き出しから一枚の厚い羊皮紙を差し出した。
「これはコレキヨ自身がサインした、正当な『年季奉公』の契約書です [A]。アメリカの法律に従ったまで。文句があるなら、裁判でも起こしますか?」
リードの顔には、世界の理(ことわり)を知らぬ日本の武士など、異国の法律の文字でいくらでも捻り潰せるという、底知れぬ傲慢さが満ちていた。
だが、鉄之助は勝塾で仕込まれた知性を総動員し、冷徹に言い放った。
「大刀を抜く必要などない。お前を破滅させるなど、その紙切れ一枚で十分だ」
「何だと……?」
「その書面には、コレキヨの滞在費と学費の対価として奉公を課すとある。だが、私はあらかじめ、お前に二百両の現金を学費として前払いしている。つまり、この少年の奉公の対価は、お前がサインさせた瞬間に、すでに『完済』されているのだ。対価の二重取り、および未成年への欺瞞(ぎまん)による契約は、カリフォルニアの法においても明白なる詐欺行為。これをお前の取引先であるシャンドの国際銀行や、現地の裁判所に持ち込めば、お前の信用は一瞬で灰になるぞ。……どうする、リード。この街で二度と商いができぬ身になりたいか」
鉄之助の圧倒的な知性の論理に、リードは初めてその温厚な微笑みを失った。
虎の毛皮の上で、リードの顔面はみるみる土気色に変貌し、自分の仕掛けた数字の罠が、逆に自分の首を絞める刃となった衝撃にガタガタと震え出した。
[三]
リードから農園の場所を吐かせた鉄之助は、馬を飛ばしてオークランドの広大な葡萄(ブドウ)畑へと急行した。
「何だお前は!」と抜身の銃を向ける白人の監視兵たちを、鉄之助は仙台藩二千石の凄まじい武士の気迫で一喝して撥ね退け、畑の奥へと突き進んだ。
燃えるような酷暑の泥の中に、ボロ切れ一枚を纏い、鎖に繋がれた黒人労働者たちの中に立つ、炭のように黒く焼けた是清の姿があった。
「是清……!」
「……若様?」
是清は、自分の幻覚かと思い、擦り切れた目でその巨大な影を見上げた。
鉄之助は馬から飛び降りると、自ら黒い泥の中に両膝をつき、傷だらけの是清を、その大きな腕で折れんばかりの力で強く、強く抱きしめた。
十ヶ月の間、白人の鞭に打たれても、凍傷で爪が剥がれても、決して流さなかった是清の本物の涙が、鉄之助の胸元へ一気に溢れ出た。
「若様……遅いよ……! 俺、ずっと待ってたんだぞ……! こんな泥水すすりながら、あいつらに負けてたまるかって……! 今に見てろ、ここを出たら死ぬ気で学んで、あいつらの何百倍、何万倍も大儲けして、俺を家畜みたいに扱いやがった毛唐どもを全員、この数字の力で底の底まで見返してやるんだって……! そう思わなきゃ、死んじまうところだったんだ……!」
「すまない、是清。本当によく生きていてくれた。大童様との約束だ、お前は俺が、命に変えても日本へ連れて帰る」
是清は、鉄之助の胸に顔を埋めながら、十ヶ月ぶりに「人間」に戻った喜びと、自分の盾になると言った男が本当に荒野を越えて助けに来てくれた感動に、声を上げて泣き続けた。二人の交わした魂の契約が、このアメリカの泥の中で、完全に本物の絆となった瞬間であった。
[四]
鉄之助の命がけの知性によって、是清は正式にその身体を解放された。
農園の門を去る間際、夕暮れの紫色の空の下、あの黒人労働者たちの口から、地を走るような『Lord, don't move the mountain』のハミングの重奏が、二人の生還を祝福するように、静かに、しかし力強く響き渡った。
是清は、あの木の実をくれた老黒人と固い視線の会話を交わし、「ありがとう。俺は、この山を自力で登り切ったよ」と、彼らの南部訛りの言葉で告げた。黒人たちは、静かに白い歯を見せて微笑み、彼らの自由を祈るようにハミングの音を高く響かせた。
その夜、サンフランシスコの宿舎。
鉄之助は、水に濡らした布で、是清の傷だらけの背中や、鞭の跡が刻まれた足の汚れを、優しく、丁寧に拭い去っていった。だが、異国の冷酷なる不条理に晒された少年の肉体は、あまりにも深く傷ついていた。
灯の下、ボロボロになった相棒を見つめる鉄之助の胸に、ある一つの苦渋の決断が宿る。それは、二人がそれぞれの戦場へと再び袂を分かつ、新たなる激動の始まりであった。
明治元年夏。富田鉄之助の命がけの知性と武士の意地によって、高橋是清は、十ヶ月におよぶ奴隷の地獄からついに生還を果たした。だが、異国の冷酷なる不条理に晒された少年の身体は、あまりにも深く傷ついていた。宿舎の灯の下、傷だらけの相棒を見つめる鉄之助の胸に宿る、ある一つの苦渋の決断。それは、二人がそれぞれの戦場へと再び袂を分かつ、新たなる激動の始まりであった――。
『鉄之助と是清』
第14話:「生還とそれぞれの戦い」
[一]
明治元年(一八六八年)夏。
地獄のオークランド農園から生還し、サンフランシスコの宿舎の一室で数日間の休息を得た是清の前に、富田鉄之助は一通の書状を静かに差し出した。
それは、東海岸のボストンに残してきた勝小鹿を介し、陸奥国仙台の江戸留守居役・大童信太夫から届いた、最後の定期隠密書であった。そこには、鳥羽・伏見の戦いを発端とする幕府の崩壊、そして官軍(薩長の新政府軍)が東北へ向けて進軍を開始したという、祖国を二分する大内戦――戊辰戦争の始まりが、生々しく記されていた。
「……国が、裂けるのか」
是清の言葉に、鉄之助は冷徹な経済の現実を重ねて頷いた。
「仙台藩は未だ負けてはいない。だが、このまま内戦が長引けば、藩の金蔵はいずれ底を突く。大童様が命がけで工面してくれた一千両の仕送りも、遠からず完全に途絶えるだろう。……是清、お前は次の船で、日本へ帰れ」
「帰れ、だと……!?」
是清は、宿舎の硬い椅子から跳ね起きるようにして激昂した。
「冗談じゃねえよ、若様! 俺はまだ、アメリカで何一つ大儲けしちゃいない! あのリードの毛唐に一太刀浴びせるどころか、なけなしの路銀まで毟り取られて、手ぶらで江戸の長屋やおばあちゃんの元へ帰れるかってんだ!」
十三歳の少年の剥き出しの悔しさが、狭い部屋に響き渡る。十ヶ月の奴隷労働で炭のように黒く焼けた是清の肌は、未だ白人社会への激しい怒りで逆立っていた。
[二]
「命を無駄にするな、是清!」
鉄之助の低く地響きのような声が、是清の言葉を遮った。鉄之助は優しく宥めるのではなく、伊達の武士としての、いや、勝塾で世界の海を見据えてきた一人の先見者としての冷徹で強固な眼光を、真っ直ぐに少年に向けた。
「お前はもう、ただの足軽のガキではない。異国の富の仕組み(簿記)を体得し、この世界の冷酷な不条理をその肌で知った、この日本で唯一無二の武器だ。今、日本は古い殻を破り、すべてがひっくり返ろうとしている。これから始まる新しい日本の経済に、お前のその頭脳の力は、絶対に必要とされる」
鉄之助は一歩前に進み、是清の小さな肩を、大きな手で力強く掴んだ。
「お前が日本で力を蓄え、新時代を生き抜く間、俺はこのアメリカに残る。仕送りが途絶え、明日からの宿代がなくなろうとも、ここらの靴磨きや雑用で泥をすすりながら、世界の経済学を死に物狂いで学び続けてみせる。そして、必ずお前がその知恵を爆発させるための戦場(中央銀行の夢)の土台を、この俺が創ってやる。……これは、二人の戦いだ。お前は日本で生き残り、俺はここで生き延びる。異議はないな」
鉄之助の、命を賭した不退転の覚悟。
その圧倒的な瞳の重圧に、是清は奥歯を噛み締め、悔し涙を堪えてただ小さく、拳を握りしめて俯(うつむ)くしかなかった。
[三]
翌朝。サンフランシスコの港には、激しい朝霧の向こうに、日本へと引き返す巨大な蒸気船がその威容を横たえていた。
タラップの手前、是清の姿は、あの引きちぎられた仙台藩の着物ではなく、現地で鉄之助が買い与えた、仕立ての硬いアメリカの洋服(シャツとズボン)に包まれていた。歩くたび、背中や足に刻まれた十ヶ月の鞭の跡が、粗末な木綿の布地に擦れて生々しく痛む。だが、その痛みが、是清の野心をさらに鋭く研ぎ澄ませていた。
是清はタラップの上から、振り返って鉄之助を見下ろした。
港を行き交う異国人の雑踏の中、伊達の重臣の証である大刀を帯びた鉄之助が一人、微動だにせず、ただ真っ直ぐに自分を見つめて立っている。
「若様……! 死ぬなよな! 藩の金が来なくなったら、プライドも面目もクソも全部捨てて、そこらの靴磨きでもやって、泥水すすってでも生き延びろよな!」
是清の、ぶっきらぼうで、しかし剥き出しの親愛が込められた叫びが、潮風に乗って響いた。
鉄之助は、その言葉にふっと静かに、男らしい微笑みを浮かべ、ただ一言、
「日本で待っていろ」
と、声を出さずに口を動かした。
ゴォォォ、と凄まじい汽笛の音がサンフランシスコの空を震わせ、船はゆっくりと岸を離れていく。
[四]
遠ざかっていく白波の彼方、船の甲板に立つ洋服の少年の姿が小さく消えていくのを、鉄之助はいつまでも見送っていた。
やがて振り返り、再び巨大な石造りのビルが立ち並ぶアメリカの街並み、そして東海岸のボストンへと続く果てしない荒野を見据える。明日からの仕送りはない。宿を追われ、飢えに飢える日々が来ることは確実であった。それでも、鉄之助の瞳には、かつて宮城の海に誓ったあの頑固な炎が、より一層激しく燃え盛っていた。
一方、激しく揺れる船の甲板で、是清は懐の「おばあちゃんの路銀(布包み)」を強く握りしめ、水平線の向こうの祖国を見つめていた。
(おばあちゃん、俺は帰るよ。仕返しも、大儲けも、全部この日本の地でやってやる。足軽の不義の子が、どこまで登り詰められるか、世界の奴らに見せつけてやるんだ)
二人の天才の距離は、太平洋という巨大な大洋によって再び引き裂かれた。しかし、衣服を剥がされ、尊厳を削られた地獄を経た二人の魂のギアは、世界の富を支配するための新たなる戦いへと、同時に、無慈悲に回り始めていた。
明治元年。高橋是清は、引きちぎられた着物の代わりに異国の洋服をまとい、大逆転の野心を胸に、激動の祖国への生還の途についた。一方、仕送りの途絶える恐怖のなか、西海岸の港にたった一人残り、泥をすする覚悟で世界の経済学へ挑む富田鉄之助。バラバラになった二人の巨星。だが、彼らがそれぞれの戦場で研ぎ澄ました牙が、のちに崩壊した日本を世界の列強へと押し上げる、近代の中央銀行という怪物の産声をあげることになる。次回、第十五話『故郷が「賊軍」になる日』。鉄之助を待ち受ける、最大の絶望とは――。
第15話「故郷が『賊軍』になる日」
一八六八年(明治元年)の冬。
米国マサチューセッツ州ボストンの空は、まるで鉛を溶かして流したかのように暗く、低く垂れ込めていた。石畳を叩く雨は凍てつき、街路を飾るガス灯の明かりを冷酷に屈折させている。
その古びた下宿の一室で、富田鉄之助は呆然と立ち尽くしていた。
手元にあるのは、紙質の粗い一枚の書状である。一ヶ月半もの星霜を経て、激動の横浜港から荒波を越え、はるばる大西洋を渡って届いたその手紙は、仙台藩の執政であり、かつて鉄之助の米国留学を差配した大童信太夫(おおどうしんだゆう)からの、決死の隠密書であった。
「仙台、降伏す。奥羽越列藩同盟は霧散し、我が藩は朝敵の汚名を着せられ、降伏の止むなきに至れり――」
文字が、鉄之助の視界の中で歪み、滲んだ。
脳裏を過るのは、緑豊かな陸奥国の、あの広大な景観である。桃生小野(ものうおの)の肥沃な知行地。代々富田家が守り抜いてきた「桃生二千石」の土地は、新政府となった薩長の手によってことごとく没収され、一族の家禄も消え去ったという。
昨日まで自分を支えてくれていた巨大な故郷が、一瞬にして歴史の泥溝へと叩き落とされたのだ。
「賊軍……。我が藩が、朝敵か」
乾いた声が、冷え切った部屋に響いた。
三十三歳の鉄之助の胸中に、にわかに暗い炎が燃え上がる。異国の地で富強の理(ことわり)を学ぼうと牙を研いでいたその瞬間、戦うことも、故郷を守ることも許されず、足元をすべて奪われた。
腰に帯びていた大刀が、カタカタと音を立てて震える。鉄之助は無意識のうちに鞘から刀を半ば引き抜いた。妖しく光る鋼の刃が、ガス灯の光を反射して青白くまたたく。
(ここで腹を召して、宮城の英霊に詫びるべきか。あるいは、この刃を手に今すぐ日本へ引き返し、薩長のエリートどもに一矢報いるべきか――)
死の冷気が、彼の指先から全身へと伝わろうとした、その時であった。
「待て、鉄之助」
背後から、低く、だが鋭い声が投げかけられた。
振り返ると、そこには十七歳になった勝小鹿(ころく)が立っていた。軍艦奉行・勝海舟の嫡男であり、鉄之助がその「守り役」として共に海を渡った若者である。小鹿の瞳には、年若き者に似合わぬ強固な決意と、深い哀しみが湛えられていた。
「大刀を収めろ。お前がここで勝手に腹を召して、あの世へ逃げてみろ。俺は守り役不在の、不義理の主君になる。そんな、一番寝覚めの悪い真似を、俺に強いるつもりか」
「小鹿様……」
「俺を守り役不在の不義理の主君にするな、鉄之助」
小鹿は一歩も引かず、鉄之助の前に立ち塞がった。
「お前の主は、お前の帰りを待つ仙台の老親や一族だけではない。この俺でもあるはずだ。父上がお前を俺に付けてくれたのは、異国で腹を切らせるためではない。この国の、行く末を見届けるためだ」
小鹿の、武士としての意地と誇りが詰まった直言であった。その言葉は、鉄之助の凍りついた魂を激しく揺さぶり、冥府への片道を歩みかけていた足を、現世の泥土へと引き戻した。
鉄之助は、大きく息を吐き出すと、ゆっくりと刀を鞘に収めた。カチリ、と鳴った南部鉄の鍔の音が、彼の覚悟を告げる響きとなった。
「……愚行をいたしました。お許しくだされ」
「分かればよい。我らの戦いは、この刃の届かぬ場所にある」
小鹿が去った後、鉄之助は机に両手を突き、冷酷な現実に直面した。
藩が消滅、あるいは大幅に減封されたということは、これまで送金されていた年間千両という潤沢な学費が、今日この瞬間から「完全に途絶えた」ことを意味する。
衣食住の費用、授業料、書籍代。すべてが灰燼に帰した。無一文。これが異国に取り残された賊軍の士の、偽らざる現在地であった。
しかし、鉄之助の眼からは、先ほどの絶望の影は消え失せていた。
「物乞いはせぬ。武士の痩せ我慢と品格は、この異国の地であっても捨てはしない」
彼は、宣教師のネットワークを通じて紹介された、ボストンの地元名士である銀行家のもとを訪ねた。
豪奢なマホガニーの机を挟み、鉄之助は背筋を正して座った。身にまとう衣服は擦り切れていたが、その眼光と佇まいは、いささかも品格を失っていなかった。
「富田、君が送金を断たれたことは耳にしている」
厳格な顔つきの銀行家は、冷淡に言った。
「この国は契約の社会だ。担保のない者に金を貸す法律も、習慣もない。君は何をもって、我々にその負債を返すというのだね?」
鉄之助は、静かに、だが揺るぎない声で答えた。
「私の身体と、私の未来の『信用』。これを、担保にいたします」
彼は虚勢を張ることも、傲慢に振る舞うこともしなかった。ただ、深く、誠実に頭を下げた。
「我が祖国は、いま産みの苦しみの中にあります。いずれ、古い殻を破り、世界の富の仕組みを学ばねばならぬ時が必ず来る。その時、私はこの国で得た知識をすべて用い、国家の骨組みを創り上げる。その私の『生涯の労働と、それによって生み出される価値』のすべてを、あなた方に差し引く権利として差し上げましょう。いつか必ず、一ドルたりとも違わずに返済いたします」
その言葉には、ただの哀願ではない、魂の重みが宿っていた。
銀行家はしばらく鉄之助の顔を凝視していたが、やがて小さく、だが深く息を吐き、帳簿の右側(貸方)に数字を書き入れ、書類を手渡した。
「……君のその、揺るぎない目力を信じよう。だが、返せなかった時は、君のその未来は私のものだ」
「望むところでございます」
下宿に戻った鉄之助は、差し出されたわずかな生活費を握りしめ、すぐに本屋へと走った。
手に入れたのは、アダム・スミスの分厚い経済書『国富論』である。
その夜、ボストンのガス灯の下で、鉄之助は貪るように頁をめくった。
富とは金銀の蓄積ではなく、国民の労働によって生産される物資の総量である。その富を巡らせるための「信用」こそが、国を築く防波堤となる。
「これだ……。これこそが、我が国が生き残るための、真の武器だ」
冷たい風が窓を叩く中、鉄之助はノートにペンを走らせ続けた。
同じ頃、遙か彼方の極東の混沌たる東京の闇の中で、もう一人の男――高橋是清が、自らの這いつくばる泥水の中から、冷酷な富の真実を睨みつけようとしていることを、鉄之助はまだ知る由もなかった。
(第15話 完)
第16話「狂乱の放浪期」
一八六八年(明治元年)の暮れ、太平洋の荒波を越え、ほうほうの体で横浜へ帰り着いた十五歳の高橋是清を待っていたのは、凍てつくような「祖国」の拒絶であった。
「おい、見ろ。あれが噂の東太郎(是清の当時の通称)だ」
「アメリカで毛唐に買われて這いつくばっていた年季奉公の汚れ者め」
「賊軍の仙台藩の分際で、おめおめと帰ってきおって。藩の恥晒しが」
東京の瓦礫混じりの路地を歩けば、容赦のない罵声が浴びせられた。かつて神童と謳われ、藩の期待を背負って海を渡った少年の面影は、いまやどこにもない。米国での過酷な奴隷労働から生き延びて帰国したものの、新政府の覇権に沸き立つ東京において、敗戦藩の出自である是清は、文字通り社会の最底辺に放り出されたのである。
さらに、是清の未熟さに付け込む魔の手が忍び寄った。
旧藩の知人を介して近づいてきたのは、隠密貿易や武器商いで肥え太った強欲な政商や両替商の息がかかった、ずる賢い相場師たちであった。
彼らは「新国家の新しい事業だ」と是清を唆し、異国帰りの英語の知識を利用して、僅かばかりの手元金をすべて巻き上げた。世間知らずの十五歳が、狡猾な大人の「数字の罠」に抗えるはずもなかった。
一瞬にして失脚し、無一文。
冬の風が容赦なく吹き抜ける神田の場末の貧屋に、是清は這い戻った。
薄い布団の中に横たわっていたのは、病に冒され、息も絶え絶えの祖母・喜代であった。是清がアメリカにいる間も、ひたすら孫の無事を祈り続けていた、この世で唯一の肉親である。
「ばあちゃん……すまねえ。俺、また騙されて、一銭もなくしちまった」
是清は喜代の枕元に膝をつき、絞り出すように言った。かすれた声の祖母は、細く震える手で是清の煤けた頬に触れ、優しく微笑んだ。
「お前が……生きて、戻ってくれただけで、ばあちゃんは良いのだよ……」
是清は奥歯を噛み締めた。病床の祖母を養うため、そしてこの理不尽な泥水をすすり干すためなら、どんな卑しい仕事でも、喜んでこの身を投じる覚悟であった。
是清がまず選んだのは、新橋の芸者屋における「居候」――すなわち、お座敷の太鼓持ち(幇間)としての暮らしであった。
なじみの芸者のお情けで養われる身となり、夜な夜な白粉の香りが漂う座敷に上がっては、滑稽な踊りを踊り、富貴な客たちの嘲笑を買って日銭を稼いだ。酒に溺れ、三味線の音に魂を溶かす日々。だが、どれほど道化を演じても、胸の奥底にある渇きは癒えなかった。
やがて太鼓持ちの暮らしからも転落した是清は、神田に居を構える富豪・館隆安(たちりゅうあん)の邸宅へと流れ着く。
館隆安が新しく始めたのは、西洋の豚を仕入れて飼育し、異国人相手に肉を売り捌くという、いかがわしくも実利的な「豚の畜産業」であった。
「英語が喋れるというから雇ってやるが、やることはこれだ」
手渡されたのは、糞尿塗れの竹箒と、豚のエサを混ぜる巨大な木桶であった。
是清に与えられた役目は、邸宅の裏手にある「豚小屋の番人」である。
凄まじい悪臭と泥にまみれ、朝から晩まで豚の世話に追われた。かつてヘボン塾で聖書を読み、ボストンで富田鉄之助と共に学問の最高峰を目指したあのきらびやかな夢は、豚の糞尿の山の下に埋もれた。衣服には獣の臭いが染みつき、爪の間は常に黒く汚れていた。
だが、是清の眼は死んでいなかった。
館隆安の邸宅には、夜になると、新政府の太政官札(紙幣)を大量に抱えた両替商や、武器調達で肥え太った政商、そして新政府の官吏たちが密かに集まり、酒宴を開いていた。
豚小屋は、その邸宅の奥座敷のすぐ裏手に位置していた。
ある夜、嵐の吹き荒れる中、是清は泥まみれの豚小屋の影に潜み、濡れ縁から漏れ聞こえる大人たちの会話に耳を澄ませていた。
「おい、聞いたか。新政府の太政官札、あれはもう紙クズ同然じゃ。市場では誰も信用しておらん」
「大蔵省の役人どもは、数字の帳尻合わせに大福帳を二重計算して、何食わぬ顔で予算をごまかしておるそうだ。財政の土台など、とうにガタガタよ」
「国家の財布がどれほど空になろうと、我々が関税と両替で上前をはね続ければ、いくらでも富は湧いてくる」
下品な高笑いが、嵐の音に混じって聞こえてきた。
豚の体温と糞尿の熱気が立ち込める闇の中で、是清の全身に電撃のような衝撃が走った。
彼らの語る「大福帳の二重計算」「信用のない紙幣」「関税と両替の支配」。それは、まさにボストンの鉄之助が恐怖し、解き明かそうとしていた「富の仕組み」の、最も醜悪で、最も脆弱な裏側そのものであった。
(国家の財政が、二重計算で動いているだと……?)
是清の脳裏に、かつて学んだ西洋の帳簿の概念が、そして祖母・喜代を養うための執念が、火花を散らして結びついた。
(薩長の、成金役人どもめ。お前たちのやっている大雑把な算盤など、俺の脳内大福帳でいつでもひっくり返してやる。いまに見ていろ……)
是清は、豚の生暖かい背中に手を置き、暗闇の中で白く鋭い歯を剥き出して笑った。
衣服は獣の臭いに汚れ、身分は奴隷の如き番人。だが、その脳髄は、国家の富を丸ごと飲み込むための「牙」を、冷徹に、そして静かに研ぎ澄まし始めていた。
(第16話 完)
第17話「夜明け前の咆哮」
一八六九年(明治二年)の春。
東京の神田。梅の香りが微かに漂う泥路を、一人の若者が足早に通りがかった。かつてヘボン塾で共に英語を学んだ、是清の数少ない学友であった。
ふと立ち止まった学友は、館隆安の邸宅の裏手にある豚小屋を覗き込み、息を呑んだ。
そこには、異臭の立ち込める泥水の中に膝をつき、豚の糞尿を黙々と掻き出している、酷く薄汚れた少年がいた。
「……高橋、か? お前、高橋東太郎(是清)ではないか!」
声をかけられた是清は、ゆっくりと顔を上げた。顔は泥と煤で黒く汚れ、着物は破れて豚の毛がこびりついている。だが、その双眸だけは、鋭利な刃物のようにぎらぎらと光り輝いていた。
「なんだ、お前か」
是清は平然と鼻で笑い、再び竹箒を動かした。
学友は驚愕し、激しい落胆と義憤に駆られた。
「お前ほどの英才が、なぜこのような豚小屋で糞まみれになっているのだ! アメリカ帰りの神童と謳われたお前が、これではあんまりだ。今、大蔵省では新しい国造りのために、洋書を訳せる者を血眼になって探している。大蔵権大丞の前島密(ひそか)様というお方が、翻訳局の人材を求めておられるのだ。俺が口を利いてやる。すぐにそこを這い出せ!」
学友の決死の口利きは、やがて大蔵省の若き俊英、前島密の耳に届くこととなる。
数日後。築地の仮公設庁舎(大蔵省)の重厚な扉の前に、一人の異様な人物が立っていた。
およそ官庁の面接に臨むような身なりではない。着古した羽織袴からは、どれほど洗っても落ちぬ「豚の異臭」が漂い、周囲の薩長出身の小奇麗な官吏たちは、あからさまに鼻を摘まみ、眉をひそめて是清を避けた。
「高橋東太郎、前へ」
呼び出されたのは、板張りの広い一室であった。中央の机に座るのは、大蔵権大丞・前島密。その傍らには、英国の銀行から突きつけられたという、極めて難解な「外債の西洋帳簿」が置かれていた。新政府の役人たちの誰もが、その複雑な数字の羅列を前に、頭を抱えて匙を投げた代物である。
前島は、豚の臭いを放つ是清をじっと見据え、試すようにその帳簿を差し出した。
「これを読めるか。我らには、この帳簿の仕組みがさっぱり分からぬのだ」
是清は一歩進み出ると、懐から汚れた手を取り出し、帳簿を鋭く睨みつけた。
彼の脳内で、かつてアメリカで叩き込まれた数字の概念が、高速で回転し始める。そこにあったのは、単なる大福帳の書き方ではない。大英帝国の「複式簿記」の神髄であった。
是清は不敵な笑みを浮かべ、帳簿の特定の一行を指差した。そして、およそ豚小屋の番人とは思えぬ流暢な発音で、冷徹にその言葉を響かせた。
「これは『Debit(借方)』、そして右側にあるのが『Credit(貸方)』。異国では、数字をこのように左右の天秤にかけて管理するのです」
「……デビ、クレディットだと?」
居並ぶ大蔵官僚たちが、戸惑いの声を漏らす。
「左側の『Debit』は帳簿の左(借)側、すなわち資金がどこへ消えたかを示す。右側の『Credit』は帳簿の右(貸)側、すなわちその資金がどこから調達されたかを示す。この左右の数字の天秤がピタリと合わぬ限り、帳簿は一銭の価値も持ちませぬ。これこそが、世界の海を支配する大英帝国の『複式簿記』、すなわち信用の仕組みにございます。これを知らずして、どうして異国の銀行と対等に渡り合えましょうや」
前島密は、椅子から身を乗り出した。
衣服は泥に汚れ、獣の臭いを放つこの十五歳の少年の中に、計り知れない「知の怪物」が潜んでいることを、前島は見抜いたのである。
「よし。高橋、本日より大蔵省翻訳局の『写字生(下働き)』として雇う。新政府の財政を助けよ」
「はっ」
是清は深く頭を下げた。だが、その頭を下げた泥塗れの顔の裏側で、彼の脳内大福帳はすでに次の戦いを見据えていた。
それから数ヶ月。
翻訳局の片隅で、是清は山積みにされた新政府の予算書や外債に関する書類の写字・翻訳実務に没頭した。寝食を忘れ、ただ数字の海に溺れる日々。
当時、新政府の公的会計には複式簿記など導入されておらず、単式の大福帳で大雑把に計算されていた。そのいい加減な帳簿を書き写していたある夜、是清の指先がピタリと止まった。
(……おかしい。この数字は、辻褄が合わぬ)
是清は、驚異的な暗算能力をもって、太政官札の発行高と新政府の予算支出の数字を頭の中で弾き直した。
「二重に計算されている……」
冷や汗が背中を流れた。新政府の予算編成において、同一の支出項目が二重に計上され、あたかも予算が膨大にあるかのように見せかける「重大な二重計算のミス」が、大蔵省の帳簿の中に紛れ込んでいたのだ。これを見逃せば、新政府の財政は実態のない蜃気楼の数字の上に成り立ち、遠からず完全に破綻することになる。
「前島様! 帳簿に二重計算の誤りがございます!」
是清がその証拠を突きつけた時、前島密をはじめとする大蔵省の幹部たちは、一様に顔色を失った。一介の写字生が、新政府の財政崩壊を水際で防いだ瞬間であった。
同じその頃。
東京から太平洋を隔てた遥か東、ボストンの冷え切った夜。
富田鉄之助は、ガス灯の頼りない明かりの下で、アダム・スミスの『国富論』の最後の頁を閉じていた。
「国を富ませるものは、金銀そのものではない。国民の生産力と、それを裏付ける『信用』の流通なのだ。この仕組みなき国は、必ず異国の資本に丸ごと買い叩かれる……」
鉄之助は、暗闇の窓の外を見つめ、固く拳を握りしめた。
「見ていろ、薩長のエリートども。私がいずれ、この国に本物の信用の防波堤を打ち立ててみせる」
太平洋を隔て、全く異なる泥水をすすりながら、同じ「富と信用」という真実の盾を掴み取った二人の天才。
東京の豚小屋から這い上がった是清の咆哮と、ボストンの冷たい雨の中で誓った鉄之助の決意が、明治という新時代の暗雲を切り裂き、激しくシンクロした。
日本の経済の夜明けは、この二人の「不屈の魂」によって、いま静かに、だが確実に引き寄せられようとしていた。
(第2章完結 / 第17話 完)
第18話「分かたれた天秤」
一八七〇年(明治三年)から一八七二年(明治五年)にいたる歳月は、日本という国家の骨組みが猛烈な速度で再構築される過渡期であった。その激動の渦中で、富田鉄之助と高橋是清という二人の歩みは、東京と米国という遥かなる距離を隔てながら、運命の天秤の左右に分かれ、それぞれが「国家を揺り動かす巨頭」との結びつきを強めていった。
大蔵省の翻訳局で新政府の予算書の二重計算を看破した高橋是清であったが、その気性の激しさと、退屈な役所仕事への倦怠から、やがて一度は職を辞してしまった。
再び無一文となり、路頭に迷い、新橋の芸者屋での居候暮らしという泥水に逆戻りする。周囲からは「せっかくお上の役人になったものを、やはり毛唐の元で奴隷をしていたような男は、性根が腐っておる」と、冷酷な嘲笑を浴びせられた。
だが、彼の持つ「本物の語学力」と「数字の才」を、時代は放っておかなかった。
明治四年、旧唐津藩(佐賀県)が新しい時代を担う人材を育成するため、唐津城内に洋学校「耐恒寮(たいこうりょう)」を創設。その英語教師として、弱冠十七歳の是清が招聘されたのである。
「東太郎(是清)先生をお迎えせよ」
唐津の地に着任した是清を待っていたのは、大名小路を掃き清め、大勢で轎(かご)を出迎える藩士たちの姿であった。かつて東京で「奴隷の汚れ者」と後ろ指を指された足軽の子が、ここでは「世界を知る若き学僧」として敬意を払われたのだ。
耐恒寮の講堂には、五十人ほどの血気盛んな若者たちが集まっていた。のちに東京駅を設計することになる辰野金吾や、建築家として名を馳せる曾禰達蔵といった、鋭い眼光を持つ少年たちが、是清の前に並ぶ。
「ここでの講義は、すべて英語で行う。異国の言葉を学ばねば、我が国は永久に世界の両替商どもの軍門に降ることになる。面目や矜持などという安っぽいものは捨てろ。世界を丸ごと飲み込むための耳と舌を持て!」
十七歳の是清は、毎夜のように教え子たちと三升の酒を酌み交わし、時に暴れ、時に世界の広さを熱っぽく語った。生徒たちは全員、是清に憧れてちょんまげを切り落とし、ザンギリ頭にしたという。
この、九州の一角で放たれた若き是清の圧倒的な熱気と才気は、佐賀の生んだ新政府の覇者、大蔵卿・大隈重信の耳に届くこととなる。
「東京に、破天荒極まりないが、数字と英語において群を抜く若者がいる」
大隈はすぐさま是清を東京へ呼び戻させ、文部省の官僚として新政府に再び返り咲かせた。是清は無意識のうちに、新政府の財政と教育を握る巨頭・大隈重信という強固な後ろ盾を得たのであった。
一方、太平洋の彼方、アメリカ東海岸。
一八七二年(明治五年)四月、三十六歳になった富田鉄之助は、これまでのボストンにおける不屈の勉学と、卓越した実務能力を明治政府に高く評価され、異例の「ニューヨーク副領事」に大抜擢されていた。
同じ年の夏、ワシントンでの条約改正交渉に行き詰まった岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら「岩倉使節団」が、ボストンの地に到着する。
欧米の文明を目の当たりにし、その圧倒的な富と軍事力の前に、使節団の一行は言葉を失っていた。特に不平等条約の改正において、異国の冷酷な法律と関税の仕組みに、誰もが頭を抱えていた。
「富田、お前の知恵を貸せ」
使節団の事実上の首領であった参議・大久保利通は、ボストンに滞在する副領事の鉄之助を呼び出した。
鉄之助は、アメリカの関税自主権の実態や、欧米の銀行が世界の金(ゴールド)を牛耳る「金本位制」の仕組みについて、アダム・スミスの経済書を引きながら、大久保に対し、淀みなく冷徹に解説を重ねた。
「大久保様。どれほど軍隊を強くし、不平等条約を書き換えたとしても、我が国独自の『中央銀行』を創り、紙幣の価値を裏付ける信用の防波堤を打ち立てねば、日本は永遠に欧米の資本に丸ごと買い叩かれる『経済の植民地』に甘んじることになります」
「中央銀行、とな……」
大久保は、鉄之助の語る「富の真実」に、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。薩長エリート官僚の多くが「富国強兵」を目に見える軍艦や大砲に求める中で、鉄之助の眼は、それらを裏から支配する「目に見えぬ信用の力」を見据えていたのだ。
大久保は、鉄之助の頑固なまでの真摯さと、数字の裏付けに裏打ちされた知見に、全幅の信頼を寄せた。
「富田。お前のその頭脳、我が国に最も必要なものだ。近いうちに必ず、足掛け七年の留学を切り上げ、大蔵省へ戻れ。お前のような男こそが、新国家の財布の設計図を引かねばならぬ」
「はっ。命を賭して、国家の信用の防波堤を創り上げます」
鉄之助は大久保の力強い眼差しを受け止め、深く頭を下げた。
東京で大隈重信の知遇を得た高橋是清。
ボストンで大久保利通の全幅の信頼を勝ち取った富田鉄之助。
二人の運命の天秤は、東京とアメリカという二つの極で、それぞれが国家の財布を動かす巨頭の後ろ盾(ルート)を確立し、静かに、だが確実に傾き始めていた。
数年の歳月を越え、この二人の天才が再び大蔵省の席で交わる時、日本経済の命運を懸けた壮絶な戦いの幕が上がることになる。
(第18話 完)
第19話「敗戦藩(賊軍)の引け目」
一八七四年(明治七年)末。
足掛け七年に及ぶ長い米国留学を終えた富田鉄之助は、大久保利通の強い推薦により、ついに大蔵省へと着任した。三十八歳になった鉄之助の胸には、異国で血の滲むような思いをして学び取った経済の知識と、国を支える中央銀行創立への執念が、静かに燃えたぎっていた。
大蔵省の慌ただしい廊下を進む鉄之助の前に、一人の若き官僚が立ちはだかった。
端整な面持ちながら、どこか不敵な風貌を残す二十歳の青年。文部省から大蔵省へと籍を移し、すでにその実務能力を現し始めていた高橋是清であった。
二人は、言葉を失ったまま立ち尽くした。
かつてアメリカの地で、騙され、這いつくばり、共に飢えを凌いだ日々。あの地獄のような放浪期から数年。互いに死線を越え、いまこうして、新国家の財布を預かる大蔵省の席で、本物の再会を果たしたのだ。
「……仙台の旦那」
是清の口から、かつての呼び名が漏れた。その双眸には、懐かしさと、幾多の苦難を乗り越えてきた者同士にしか分からぬ涙が潤んでいた。
「よくぞ生き抜いた、是清。お前がここにいることが、何よりの頼もしさだ」
鉄之助は是清の肩を強く抱きしめた。二人の再会は、まさに奇跡のような運命の巡り合わせであった。
しかし、感傷に浸る時間は瞬時にかき消された。
大蔵省を支配していたのは、薩摩・長州の藩閥エリート官僚たちであった。彼らにとって、旧仙台藩出身の鉄之助や、足軽の子であり賊軍の影を背負う是清は、目の上のたんこぶであり、排斥すべき「余所者」に過ぎなかった。
「ふん、アメリカ帰りの賊軍めが。おめおめと大蔵省の敷居を跨ぎおって」
「いくら大久保様や大隈様の引き立てがあろうと、国を動かすのは我ら官軍の意志よ。お前たちのような敗戦藩の端くれに、国家の金塊を触らせるわけにはいかん」
廊下をすれ違うたびに、冷酷な嘲笑と露骨な嫌がらせが鉄之助を襲った。
重要な会議から外され、予算編成の端に追いやられる。薩長官僚たちは、鉄之助に不条理な難題を押し付け、彼の「誇り」をへし折ろうと画策していた。
「旦那、気になさるな。奴らは数字の本当の恐ろしさを知らぬのです」
是清は、怒りに震える鉄之助を宥めるように言った。
是清は、高度な数学の専門家ではなかった。だが、彼は異国での経験を通じて、複式簿記の帳簿が持つ「資金の調達と運用のバランス」の本質を、誰よりも深く体得していた。お金がどこから来て、どこへ流れ、どのような「信用」を生み出すのか。その会計学と経済の真理を見抜く力において、大蔵省に彼の右に出る者は存在しなかった。
「奴らが振り回すのは、ただの権力と、どんぶり勘定の大福帳だけだ。帳簿の左右をピタリと合わせる『信用の天秤』がなければ、どんな強権も砂上の楼閣に過ぎない。我々の持つ会計の知恵で、必ず奴らの鼻を明かしてやりましょう」
しかし、この過酷な戦いの最中、是清に生涯最大の悲しみが訪れる。
明治七年の冬、是清を陰で支え続け、彼が泥水をすする時も信じ続けてくれた最愛の祖母・喜代が、静かにその生涯を閉じようとしていた。
仕事を終え、夜を徹して神田の病床へと駆けつけた是清は、喜代の手を固く握りしめた。すでに生活は安定し、祖母に不自由のない暮らしをさせられるようになっていたが、別れの時は無情にも迫っていた。
「ばあちゃん……、ばあちゃん。俺、大蔵省で、本物の仕事をやってのけるよ。もう誰にも、奴隷の汚れ者なんて言わせないからな……」
喜代は、白濁した瞳を微かに開き、孫の顔を見つめた。
「お前は……強い子だ。国の、お役に立ちなさい……。ばあちゃんは、お前を誇りに……」
それが、祖母の最後の言葉であった。
冷たくなっていく喜代の手を、是清は自らの額に押し当て、声を上げて泣いた。地の文で語るならば、祖母・喜代の死は、是清にとっての精神的な「少年の日の終わり」であり、国家の富を背負う一人の男としての、真の自立を意味していた。
祖母を看取った是清の眼からは、一切の迷いが消えていた。
喪もあけ復帰し大蔵省の席に戻った是清は、鉄之助と並び立ち、薩長の仕掛ける理不尽な予算編成の書類を睨みつけた。
「鉄之助の旦那。始めましょう。我々が培った『会計学と経済』の刃で、この国の古い帳簿を、根底から叩き直してやるのです」
「ああ。国を富ませる本当の理を見せてやろう」
薩長による「賊軍いじめ」という厚い壁の向こう側で、この後、富田鉄之助のアダム・スミス流の経済思想と、高橋是清の卓越した会計学の思想が、ついに一つの強力な武器として融合することになる。
(第19話 完)
第20話「大蔵省の獅子たち」
明治八年。大蔵省の予算編成の現場は、狂乱と混乱の極みにあった。
薩長出身の藩閥エリート官僚たちは、机の上に山と積まれた大福帳を前に、算盤を弾いては怒号を散らしていた。
「予算が合わん! 陸軍の要求する軍費と、内務省の地方振興費を合わせると、太政官札の残高を遥かに超えてしまう。どこで帳尻を合わせるのだ!」
「適当に数字を削るか、さもなくば紙幣を増発すればよかろう!」
彼らのやっていることは、ただのどんぶり勘定であった。資金の裏付け(信用)がどこにあるのか、その循環が国家経済にどう影響するのかという「経済学」もなければ、帳簿の整合性を保つ「会計学」の思想も皆無であった。
そこへ、富田鉄之助と高橋是清が乗り込んだ。
薩長官僚たちは、旧仙台藩出身の鉄之助と、足軽の子である是清を、冷ややかな眼で見下した。
「おい、賊軍の居残り組が何をしに来た。算盤の弾き方でも教えにきたか」
鉄之助は、その侮蔑を泰然と受け流し、一冊の分厚い書類を机の上に叩きつけた。アダム・スミスの『国富論』を基に、鉄之助が起草した「国家財政の制度設計書」であった。
「我々が持ってきたのは、算盤の技術ではございません。国家の信用を守り、富を循環させるための『制度』と『論理』でございます」
鉄之助の声は、静かだが部屋の空気を凍らせる重みがあった。
「租税をいくら徴収し、それをどう分配するか。それらを無計画に行えば、市場の信用は失墜し、太政官札は紙クズとなります。国を富ませるには、目先の紙幣の発行ではなく、信用の流通を管理する『中央銀行』と、それを支える厳格な国家予算の枠組みが必要なのです」
「何をこざかしい学理を! 予算の計算すら合わずに泥沼に陥っている我々に、そのような大言壮語が何の役に立つ!」
長州出身の予算局長が声を荒らげた。
その時、是清が静かに前に進み出た。彼の腕には、新政府が諸外国や両替商から借り入れた「外債と公債の西洋帳簿」が抱えられていた。
「局長。あなたがたが頭を抱えているのは、計算が難しいからではございません。計算の『思想』が間違っているからです」
是清は不敵な笑みを浮かべ、黒板に太いチョークで線を一本、縦に引いた。
「あなたがたがやっているのは、入った金を左に書き、出た金を右に書くだけの、ただの『大雑把な記録』に過ぎない。しかし、私が英国の銀行から学び、磨き上げた『西洋簿記――会計学』の思想は違います。お金の動きには、常に『原因』と『結果』がある。資金をどうやって調達したか(貸方)と、それをどう運用したか(借方)を常に左右の天秤にかけ、一銭の狂いもなく整合させる。これが会計学の論理です」
是清は、目の前のでたらめな大福帳から数値を抜き出し、黒板の左右へと瞬時に、見事に整理して並べ替えてみせた。
「ご覧なさい。陸軍の軍費は、単なる支出(運用)ではない。それを支えるための公債発行(調達)と一対になって管理されねばならぬ。この天秤を無視して数字をいじるから、二重計算のミスが起き、財政が破綻するのです。私が設計した『複式簿記による予算管理制度』を用いれば、国家の資金の流れは一目瞭然となります」
薩長官僚たちは、言葉を失って黒板を見つめた。
彼らが何週間もかけて解けなかった財政の泥沼が、是清の示す「会計学の論理」によって、瞬時にして整然たる秩序へと姿を変えたのだ。
「……これが、西洋の会計学か」
予算局長は、愕然として算盤を置いた。
大久保利通の推薦を得た鉄之助の「国富論に基づく経済制度の設計」。
大隈重信の信頼を得た是清の「西洋簿記・会計学による予算管理の実務」。
大蔵省のトップである大久保と大隈は、この二人の獅子たちがもたらした「知恵の刃」を、全面的に採用することを決断した。薩長閥の嫌がらせを、二人は「圧倒的な実務の格の違い」によってねじ伏せたのである。
「鉄之助の旦那。これでようやく、奴らも我々の言葉を聴く耳を持ち始めましたな」
仕事を終えた大蔵省の深夜、是清は満足げに言った。
「ああ。だが是清、これはまだ小手調べに過ぎん。我々の真の敵は、国内の薩長ではない。この国の富を根こそぎ奪おうと狙う、異国の銀行家や両替商たちだ。彼らと対等に渡り合うための本当の戦いは、これからだ」
鉄之助は、窓の外の漆黒の闇を見つめた。
二人の若き獅子たちは、大蔵省という梁山泊で、国家の富を守るための強固な盾を、いま着実に鍛え上げていた。
(第20話 完)
第21話「不平等条約の壁」
一八七五年(明治八年)の春、横浜の外国人居留地には、潮風に混じって異国の石炭と傲慢な欲望の臭いが立ち込めていた。
この時期、日本政府は大英帝国の東洋支配の拠点である「オリエンタル・バンク」などの外国銀行に対し、莫大な外債(海外からの借金)を負っていた。さらに国内では、旧紙幣である「太政官札」から、新紙幣「明治通宝」への切り替えが遅々として進まず、両替商の店先では新旧の紙幣が混在し、為替相場は日々乱高下を繰り返していた[3][8]。
この通貨制度の「隙」を、居留地の異国人銀行家や豪商たちが見逃すはずはなかった。
彼らは不平等条約によって日本に関税自主権がないことを盾に取り、不当に歪められた為替レートと過酷な金利を大蔵省に突きつけ、国富を合法的に搾り取ろうとしていた。
「日本政府は旧札の回収に苦しんでいる。正貨(金貨)の裏付けのない紙幣など、我々は信用しない。したがって、今回の外債の返済金利は、さらに二分上乗せしてもらう」
居留地にある重厚な赤レンガの外国銀行の一室。
大英帝国の精緻な黒漆塗りの机を前に、大蔵省を代表して交渉に赴いた富田鉄之助と高橋是清は、冷ややかな視線を浴びていた。
銀行家たちが提示した帳簿には、複雑怪奇な計算式と、日本の財政を破綻に追い込みかねない数字が並んでいた。同行した薩長出身の役人たちは、英語での交渉はおろか、その数字の羅列が意味する「不条理の罠」すら理解できず、ただ額の汗を拭うばかりであった。
しかし、是清の眼は、その帳簿の数字を恐ろしいまでの集中力で精査していた。
彼が秀でていたのは、単なる算術ではない。資金が「どこから調達され、どう使われ、いかに決済されるか」という、複式簿記と会計学の冷徹な構造を完全に把握する能力である。
是清は、帳簿の右側(貸方)と左側(借方)の数字の一点に細い指を突き立てた。
「……ミスター・ハリス。この帳簿の計算は、いささか『不誠実』ではありませんか」
是清は、相手の土俵である流暢な英語で、だが冷徹極まりない声で語りかけた。
「何だと? 我々の帳簿に間違いがあると言うのか。無礼な。アジアの小国の役人に、我が大英帝国の近代的会計が理解できるはずもない」
「いいえ、理解しているからこそ申し上げています」
是清の双眸に、青い火花が散った。
「あなたがたは、我が国が『太政官札』から『明治通宝』へ移行する過渡期の混乱を利用し、為替の手数料と金利を『二重に』計上している。帳簿の借方にある短期資金の返済分を、すでに決済が完了したはずの旧外債の貸方にスライドさせ、金利の二重取りを行っている。左右のバランスを正確に合わせるべき『信用の天秤(複式簿記)』の論理において、これは明白な規律違反、すなわち『詐術』でございます」
ハリスの顔から、一瞬にして余裕の笑みが消えた。
まさか、極東の敗戦藩の出自である二十歳の青年が、ロンドン・シティの銀行家すら煙に巻くほどの精緻な「会計学の思想」を以て、帳簿の裏に隠された数字の罠を完璧に看破してくるとは、夢にも思わなかったのだ。
「……だが、日本にはこの紙幣の価値を保証する正貨が不足している。信用がない以上、金利が高くなるのは国際市場の冷酷なルールだ」
ハリスは苦し紛れに、経済の論理を持ち出した。
ここで、傍らに沈黙を守っていた富田鉄之助が静かに口を開いた。
鉄之助の脳裏には、ボストンのガス灯の下で貪り読んだアダム・スミスの教えが、生々しく蘇っていた。
「ミスター・ハリス。お言葉ですが、国の信用とは、手元にある金銀の量だけで決まるものではありません。国民の生産力と、それを健全に流通させる『経済制度』こそが真の信用であります」
鉄之助は立ち上がり、ハリスを真っ直ぐに見据えた。
「我が政府は、いま国内の通貨を統一し、紙幣の価値を保証するための大改革を進めている[3][8]。関税自主権を奪われ、為替の主導権を握られていようとも、我々は国内に『信用の最後の拠り所』たる中央銀行を創設する。独自の制度によって通貨の信用を担保すれば、もはやあなたがたの不当な高金利に頼る必要はなくなるのです。今回は、是清が指摘した正しい帳簿の数値に基づく、適正な金利でのみ契約を更新いたします。合意できぬならば、この交渉は決裂だ。我が国は他の国際市場に目を向ける用意がある」
鉄之助の、国家を背負う武士の品格と、経済学に裏付けられた揺るぎない態度。
そして是清が突きつけた、一銭の反論の余地もない「会計学の証拠」。
二人の若き獅子の前に、居留地の絶対君主であった異国の銀行家は、ついに降伏のペンを執らざるを得なかった。
「……分かった。帳簿の数値を修正し、適正な為替レートで調印しよう」
交渉を終え、横浜のレンガ通りに出た時、鉄之助と是清の背中には、心地よい海風が吹き抜けた。
「やりましたな、富田の旦那」
是清は、初めて手応えを噛み締めるように言った。
「ああ。だが是清、今日の勝利は一過性の防波堤に過ぎん。奴らが日本の通貨の弱みに付け込んでくるのは、我々に『我が国独自の中央銀行』がないからだ。この国の財布を、世界に通用する信用の盾で守る。そのための真の戦いは、これからだ」
鉄之助は、海を渡る黒船の群れを見つめ、決意を新たにした。不平等条約の分厚い壁の向こう側で、二人の天才は、国家の信用の防波堤を創り出すという壮大な青写真を、その胸の中に確かに描き始めていた。
(第21話 完)
第22話「銀の覇権と松方デフレ」
明治十年代に入ると、明治政府は創設以来の最大の危機に直面していた。
一八七七年(明治十年)に勃発した西南戦争は、政府に巨額の戦費支出を強いた。大蔵省は戦費を賄うために不換紙幣(金貨と交換できない紙幣)を乱発し、その結果、日本国内にはすさまじいインフレーションが吹き荒れた。新政府の紙幣価値は急落し、米価は高騰、国民の生活は塗炭の苦しみに喘いでいた。
さらに一八七八年(明治十一年)五月、二人を陰で支え続けた大蔵省の巨頭・大久保利通が暗殺されるという衝撃的な悲報がもたらされる。
後ろ盾を失った大蔵省は大混乱に陥り、一八八一年(明治十四年)の政変によって、今度は大隈重信が政府を去ることとなった。
この嵐の混沌の中で、新たに大蔵卿に就任したのが薩摩出身の松方正義であった。松方が掲げたのは、冷酷なまでの「緊縮財政」と「紙幣回収」によるインフレ鎮圧、すなわちのちに「松方デフレ」と呼ばれる苛烈な政策であった。
「政府の余剰金を用いて、市場に溢れ返った不換紙幣を強引に買い上げ、焼却する。物価を引き下げ、通貨の信用を回復させるのだ」
松方の断行した政策は、劇薬であった。
紙幣の流通量が激減したことでインフレは収まったものの、今度は深刻なデフレ不況が日本中を襲った。農産物の価格は暴落し、借金を返せなくなった農民は土地を奪われ、各地で小作農の暴動が頻発した。かつて「士族の商法」で自滅した旧仙台藩の士族たちも、この激変する貨幣価値の波に呑まれ、さらなる困窮の底へと追い詰められていった。
大蔵省の一室で、富田鉄之助と高橋是清は、激変する貨幣価値の波を凝視していた。
「旦那、松方様のデフレ政策は、たしかに紙幣の価値を戻しつつあります。しかし、これでは国内の産業が干からびてしまう。ただ紙幣を燃やすだけでは、富の生産そのものが死んでしまいます」
二十代半ばとなり、大蔵省の実務の中枢を担うようになっていた是清が、焦燥を滲ませて言った。
是清は、単に「帳簿の数字を合わせる」だけの会計士ではなかった。
「資本の循環(経済)」を理解するスペシャリストとして、お金が市場にどう巡り、いかにして新たな富を生み出すかという「動的な視点」を重視していたのだ。極端な緊縮は、血液である貨幣を体から抜き取るようなものであり、国家という肉体そのものを弱らせると見抜いていた。
鉄之助は静かに首を振った。
「是清、松方卿の冷徹な決断もまた、避けられぬ道なのだ。なぜなら、世界のルールは我々の都合を待ってはくれん」
鉄之助は、机の上に広げた「万国為替相場表」を示した。
当時、大英帝国を筆頭とする欧米列強は「金本位制」の覇権を確立していた。これに対し、日本をはじめとする東アジアは「銀本位制」の経済圏に属していた。しかし、アメリカやドイツなどで銀が大量に発掘・放出されたことで、国際市場における銀の価値は暴落を続けていた。
「世界の金(ポンド)に対し、我が国の銀(円)は日々価値を下げている。不換紙幣を整理し、一刻も早く『金貨、あるいは世界に通用する銀貨』と交換できる真の兌換制度を確立せねば、日本は国際為替の中で永久に富を吸い上げられ続けるのだ。そのためには、一度国内を血まみれにしてでも、通貨の価値を立て直さねばならぬ」
鉄之助の言葉には、アダム・スミスから学び取った、世界経済の「冷酷な構造」への深い恐怖と、それに抗うための不屈の理(ことわり)が宿っていた。
「……だが旦那。このままでは国民が持ちこたえられん」
「分かっている。だからこそ、今なのだ」
鉄之助は是清の目を真っ直ぐに見据えた。
「デフレによって通貨価値を安定させたその先に、我々が命がけで創るべきものがある。政府の意向に左右されず、自らの信用で紙幣を発行し、市場の資金循環をコントロールする『ただ一つの防波堤』。――すなわち、日本の中央銀行だ」
中央銀行の創立。
それは、かつてボストンのガス灯の下で鉄之助が誓い、大蔵省の豚小屋の闇の中で是清が夢見た、国家の富を守るための「真の盾」であった。
松方デフレという骨を断つ痛みを伴う大手術の裏側で、鉄之助と是清の二人は、やがて生まれる「日本銀行」の具体的な設計図を、夜を徹して引き始めていた。
それは、薩長藩閥の支配から、そして異国の資本の牙から、日本の富の自立を守り抜くための、最初にして最後の砦となるはずであった。
(第22話 完)
第23話「真の盾:日本銀行の産声」
一八八二年(明治十五年)十月。秋風が江戸城外堀の柳を揺らす東京の地に、ついに「日本銀行」がその産声を上げた。
大蔵卿・松方正義が進める強力なデフレ政策によって、市場の不換紙幣は急速に整理されつつあった。しかし、ただ紙幣を燃やすだけでは、国家の富を自律的に巡らせることはできない。
政府の財政介入から独立し、自らの信用を担保に「兌換紙幣(金や銀と交換できる本物の紙幣)」を発行する。それこそが、富田鉄之助がボストンで、高橋是清が豚小屋の闇で、そしてかつてアレキサンダー・アラン・シャンドが横浜で説き続けた、国家の「ただ一つの盾」であった。
鉄之助は、この日本の中央銀行設立における「制度設計の最高責任者」として、連日大蔵省と日銀仮事務所を奔走していた。
「政府の都合でいくらでも紙幣を刷れるような銀行であってはならん。それでは、太政官札の二の舞だ。日銀は、冷徹な『信用の番人』でなければならないのだ」
鉄之助は、起草した日銀条例を前に、大蔵官僚たちを何度も説得した。彼の主張は、アダム・スミスの国富論から導き出された「中央銀行の独立性」という、世界水準の思想に貫かれていた。
一方、二十八歳となった高橋是清もまた、大蔵省と第一国立銀行の現場を繋ぐ実務の要として、日銀の「会計の骨組み」を構築する任務に没頭していた。
「……これだ。これ以外にない」
是清が日銀の計算規程を作るために開いていたのは、かつて大蔵省で刊行された一冊の書物――『銀行簿記精法』であった。
それは、かつて是清が十三歳の時、横浜の銀行でハウスボーイとして仕えた、生涯の恩人アレキサンダー・アラン・シャンドが、日本のために命を削って口述した複式簿記の「聖典」であった[1][2]。
是清がアメリカの奴隷生活から這い戻り、お座敷の太鼓持ちや豚小屋の番人として底辺を彷徨っていた時期も、シャンドは日本に留まり、この国の近代銀行制度の種を蒔き続けていた[1]。そして、そのシャンドが遺した「貸借を常に厳格に対照させる思想(シャンド・システム)」こそが、いま、創設される日本銀行の金蔵を管理する絶対の規律になろうとしていたのだ[4]。
「シャンド先生。先生が蒔いた種は、いまこうして、この国の巨大な信用の防波堤となって花開こうとしています」
是清は、誰もいない執務室で、古びた『銀行簿記精法』の表紙を撫で、静かに呟いた。
日本銀行が開業した初日。
初代日銀総裁には、吉原重俊が就任した。そしてその傍らで、実質的に日銀の経営の舵を握る「理事」として、富田鉄之助がその重責を担うこととなった。
「富田の旦那、ついに、我が国の真の盾が完成しましたな」
開業の喧騒が収まった日銀の回廊で、是清が鉄之助に語りかけた。
鉄之助は、まだ真新しい日銀の金蔵の重厚な鉄扉を見つめ、静かに首を振った。
「いや、是清。城門は完成した。だが、これを守り抜くことは、造ることよりも遥かに難しい」
鉄之助の眼は、早くも「次の嵐」を見据えていた。
「薩長主導の政府は、日銀を『自分たちの都合の良い財布』としていつでも私物化しようと狙っている。これから先、戦争や財政難が起きるたびに、軍部や政治家どもは日銀の金蔵をこじ開けようとするだろう。その圧力に屈せず、この防波堤の独立性と信用を守り抜くこと。それが、我々に託された本当の戦いだ」
「……その時は、俺がこの体で鉄扉を塞いで見せますよ」
是清は不敵に笑った。
国家の中央銀行という「知性と不屈の盾」を、ついに手に入れた日本。
しかし、新しき盾を巡る薩長権力との暗闘、そして激動する世界の資本市場との戦いは、この産声の瞬間から、より苛烈なものへと変貌していくのである。
(第23話 完)
第24話「第2代総裁の孤独」
一八八八年(明治二十一年)二月、日本銀行の初代総裁・吉原重俊の急逝に伴い、初代副総裁であった富田鉄之助が、第ニ代日本銀行総裁に就任した。
かつて、勝小鹿の守り役としてアメリカへ渡り、学費途絶の絶望から未来の「信用」を担保に這い上がった仙台藩士が、ついにこの国における「富の頂点」に登り詰めたのだ。
大蔵省で実務に奔走していた三十四歳の高橋是清は、この同郷の先達の戴冠を、心から喜んだ。
しかし、総裁室に足を踏み入れた鉄之助を待っていたのは、栄光とは程遠い、凍てつくような「孤独の壁」であった。
「富田総裁。大蔵大臣の松方正義様がお見えです」
総裁室の重厚な扉が開かれ、薩摩閥の頂点に君臨する大蔵大臣・松方正義が姿を現した。松方の眼光は冷鋭であり、その背後には大蔵省の藩閥官僚たちが影のように付き従っていた。
松方が持参したのは、大蔵省が横浜正金銀行(のちの東京銀行)を救済し、海外からの正貨(金・銀)を強引に吸収させるための、一通の指令書であった。
「富田、単刀直入に言う。日本銀行は、横浜正金銀行に対して、外国為替の買い取り資金を無担保・低利で供給(再割引)せよ。大蔵省としては、正金銀行を通じて海外の金銀をかき集め、一刻も早く金本位制の基礎を築かねばならん」
松方の突きつけた要求は、日銀の資金を政府の都合のよい財布として、事実上「無担保の固定貸し」にせよという、乱暴な財政介入であった。
鉄之助は、机の上の指令書をじっと見つめ、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、陸奥国二千石の家格を継ぐ武士の、頑固なまでの静けさに満ちていた。
「大蔵大臣。その要求、日本銀行総裁として、お受けすることは叶いません」
「何だと?」
松方の眉が、ぴくりと跳ね上がった。総裁室の温度が、一瞬にして氷点下まで下がる。
「日本銀行は、政府の私金庫ではございません。特定の銀行に対し、無担保で巨額の融資を固定的に行うなど、中央銀行の信用を根本から揺るがす暴挙。私は留学中、そして英国滞在中、欧米の中央銀行がいかにして政府や特定機関の圧力から『独立』し、自らの通貨価値を守り抜いているかを具に見てまいりました。大蔵省の都合で日銀の規律をねじ曲げれば、せっかく芽生えた我が国の『信用』は、一朝一夕にして瓦解いたします」
鉄之助の声には、一歩も引かぬ矜持が宿っていた。
だが、薩長藩閥の最高権力者である松方にとって、この「賊軍」出身の総裁の正論は、自らの権威に対する明白な反逆としか映らなかった。
「富田。お前は留学で得た異国の生齧りの知識で、この国を論じるつもりか。我が国はまだ産声を上げたばかりの途上国。国家の危機にあたり、中央銀行が政府の手足となって動くのは当然の理。賊軍の意気地など、この場では何の役にも立たんぞ」
松方の容赦のない、冷酷な言葉が鉄之助に突き刺さる。
「お前が首を縦に振らねば、大蔵省は職権を以て、同行を創立の目的から引き戻す処分を断行する。お前に拒否権などないのだ」
大蔵省からの徹底的な孤立無援。
薩長閥の同僚たちは、鉄之助の周りから潮が引くように去っていった。日銀内部でも、大蔵省の意向を恐れる役員たちが、鉄之助に「妥協して、大臣の言う通りに融資を認めましょう」と泣きついてきた。
誰も、鉄之助の「中央銀行の独立性」という信念を理解しようとはしなかった。
ある夜、人影の途絶えた日銀の廊下で、是清は、執務室の窓辺で一人、漆黒の東京の街を見つめる鉄之助の背中を見た。
その背中は、かつてボストンのガス灯の下で必死に洋書を貪っていた時と同じ、凄まじい孤独と闘う「孤高の城主」の姿そのものであった。
「旦那……」
是清が声をかけると、鉄之助は静かに振り返り、薄く笑った。
「是清か。お前には苦労をかけるな。だがな、私は一歩も譲るつもりはない。ここで日銀が大蔵省の僕(しもべ)に成り下がれば、日本は永遠に、時の権力者の都合で通貨を乱発する三流の国から抜け出せなくなる」
鉄之助は、自らの大刀が置かれた机を愛おしそうに見つめた。
「私は勝小鹿様に『不義理の主君にするな』と遮られ、大刀を置いて、経済という戦場に身を投じた。あれから二十年。私は一度として、自分の信じる『信用の理』を曲げたことはない。大蔵大臣が私を罷免しようとも、私は最後まで、この信用の防波堤を死守する」
是清は、その鉄之助の言葉を、己の骨髄の奥深くに刻み込んだ。
数学的な数式ではなく、国家の財布をどう守るかという「会計の整合性」と「信用の論理」。それを貫くために、権力という巨大な怪物にたった一人で立ち向かう鉄之助の姿は、青年・是清にとって、生涯忘れることのできない「金融の背中」となった。
「旦那。お覚悟は、私も共にいたします」
大蔵省と日本銀行との間で勃発した、この目に見えぬ「冷たい戦争」は、ついに妥協なき決裂の瞬間へと突き進んでいく。鉄之助の行く手には、自らの立場をすべて失うという、誇り高き「奈落」が待ち受けていた。
(第24話 完)
第25話「誇り高き辞任」
一八八九年(明治二十二年)九月。日本銀行総裁室の空気は、張り詰めた弓の弦のように緊迫していた。
大蔵大臣・松方正義から突きつけられた「横浜正金銀行への外国為替融資」の要求。それは、政府が日銀の資金を私物化する不当な財政介入であった。
日銀の独立性と、世界に通用する信用の規律を守るため、富田鉄之助はたった一人でその巨大な圧力に立ち塞がり続けていた。
しかし、薩長閥が支配する新政府の力は圧倒的であった。
松方は、自らの命令に従わぬ鉄之助を日銀総裁から引きずり下ろすため、事実上の「罷免」を宣告するに至る。妥協して総裁の椅子にしがみつくか、誇りを胸に奈落へ落ちるか。鉄之助の決断は、最初から決まっていた。
鉄之助は、墨の香りが漂う一枚の和紙に、一銭の迷いもなく辞表を認めた。
五十三歳で第ニ代日銀総裁に就任してから、僅か一年半。あまりにも早すぎる、そしてあまりにも誇り高き退場であった。
総裁室の整理を終えた鉄之助のもとへ、高橋是清が息を切らせて駆け込んできた。三十五歳となった是清の目は、悔しさと怒りに赤く充血していた。
「旦那……! なぜ辞めちまうんです。松方の野郎どもに、なぜこの城を明け渡すんですか!」
鉄之助は、荷物をまとめた行李を前に、穏やかな笑みを浮かべて是清を見つめた。
「是清。私は城を明け渡すのではない。この城の『規律』を守るために、身を引くのだ。ここで私が松方の要求に屈して融資を認めれば、日銀の独立性は永久に失われる。だが、私が総裁の首を賭けて抵抗し、辞任したという事実は、将来、この国が真の金融の危機に直面した時、必ず日銀の独立性を守る『判例』として生き続ける。だから、これで良いのだ」
鉄之助は歩み寄り、是清の肩に大きな手を置いた。
「この防波堤を、いつかお前に託す。是清、お前は私よりも遥かにしぶとい男だ。私のように頑固に折れるな。泥水をすすりながらでも生き残り、この国の中央銀行を、本物の盾に仕立て上げてくれ」
「旦那……」
是清は、込み上げる涙を堪え、ただ深く、深く頭を下げた。
大蔵省を辞し、日銀総裁の重責を解かれた鉄之助が向かったのは、赤坂にある勝海舟の邸宅であった。
庭先には、すっかり白髪となった「おやじさん」勝海舟が、縁側に腰掛けていた。そしてその傍らには、かつて鉄之助と共にアメリカの地を奔走した勝小鹿が、病で青白い顔をしながらも、穏やかな笑みを浮かべて座っていた。
小鹿は帰国後、海軍に入ったものの健康に恵まれず、休職を繰り返す日々を送っていた[3]。己の命が長くはないことを、彼自身が最もよく知っていた。
「富田、よくやったな」
海舟が、煙管から紫煙をくゆらせながら言った。
「お上がいくら脅そうが、自分の信じる財布の口を閉め続けた。それでこそ、俺がアメリカへ送り出した富田鉄之助だ。薩長の手先にならずに済んで、せいせいしたろう」
小鹿もまた、細くなった手を鉄之助に差し伸べた。
「鉄之助。かつてボストンで、俺はお前に『不義理の主君にするな』と言ったな。お前は今日まで、その約束を完璧に守り抜いてくれた。お前は、俺の生涯最高の守り役だ」
その言葉を聞いた瞬間、鉄之助の胸の奥で、二十年分の痩せ我慢の糸がぷつりと切れ、静かな涙が頬を伝った。
国家の信用のために全てを失った鉄之助を、最後の最後に温かく抱き止めてくれたのは、やはりこの「勝親子」の、変わらぬ意地と誇りであった。
それから三年後の一八九二年(明治二十五年)二月。
勝小鹿は、三十九歳という若さで、静かにこの世を去った[1]。
鉄之助は小鹿の墓前に向かい、かつてボストンで共に誓い合った日々を思い返しながら、静かに合掌した。
「小鹿様。私は日銀総裁を退きましたが、お約束通り、不義理の臣下にはなりませんでした。あなたの遺してくれたこの命、これからは、あいつ――是清が受け継いで走ってくれます」
一方、赤坂の勝邸の縁側で、海舟は是清に対しても、その大きな掌を差し伸べていた。
「おい、是清。富田が命がけで残したあの日銀ってぇのはな、お上の都合で金を引き出す打ち出の小槌じゃねえ。この国で汗水垂らして働く、民のための財布だ。お前がいつか、あの城の本当の主になって、世界にその意地を見せてやりな」
「へえ、おやじさん。必ず、やってみせますよ」
是清は不敵に笑い、自らの巨大な頭(だるま)を撫でた。
富田鉄之助が命を賭して守り抜いた「日銀の独立」という思想のバトンは、いま、勝親子の温かい眼差しを受けながら、高橋是清という「泥から生まれた龍」へと、確かに手渡された。
(第3章完結 / 第25話 完)
第26話「ペルー銀山の奈落」
富田鉄之助が日銀総裁の座を辞し、静かに野に下ってから間もなく。
高橋是清の人生は、再び想像を絶する奈落へと急転直下していく。
一八八九年(明治二十二年)、是清は特許局(専売特許局)の初代局長という、官僚としての輝かしい地位に就いていた。商標法や特許法の整備に尽力し、官界での評価は極めて高かった。
しかし、その心中に宿る「泥から生まれた龍」の野心と、国家の富を海外から引き寄せるという焦燥は、安泰な官僚の椅子に留まることを許さなかった。
そこへ、甘い言葉で近づいてきた一人の男がいた。
「南米のペルーに、かつてインカ帝国が誇り、今は眠っている巨大な『カラワヤ銀山』がある。この開発権を手に入れれば、日本に莫大な金銀(正貨)をもたらすことができる」
当時、日銀を辞した鉄之助が憂慮していた通り、日本は依然として金貨の不足と、海外資本への依存に苦しんでいた。
「私が現地に渡り、銀山を再興させれば、国家の金蔵を豊かにできる。鉄之助の旦那が命を賭して守ろうとした、信用の裏付けを創り出せる」
その熱い使命感と、いまだ心のどこかに残る若さゆえの甘さが、是清の眼を曇らせた。
是清は官職をあっさりと辞職。退職金や知人から募った出資金など、文字通り「全財産」を叩き込み、ペルーへ渡ることを決意した。
一八九〇年(明治二十三年)、三十六歳になった是清は、太平洋を渡り、アンデス山脈の険しい山道を越え、ペルーのカラワヤ銀山へと足を踏み入れた。
しかし、標高四千メートルを超える現地の荒野で是清を待っていたのは、身の毛もよだつ「奈落」の現実であった。
「……何だ、これは」
息を切らし、泥だらけになって辿り着いた坑道の入り口。
そこにあったのは、何十年も前に掘り尽くされ、泥水に完全に浸かった、ただの「廃坑」であった。
機械は錆びつき、およそ採掘など不可能な荒地。近づいてきた現地人たちは、東洋から来た是清たちを嘲笑うかのように肩をすくめた。
すべては、日本の強欲な政商と現地の詐欺師が、図面を巧妙に偽造して仕組んだ「紙の上の幻」に過ぎなかったのだ。
是清が異国での経験と語学力を誇り、信じた「数字の帳簿」は、ただの嘘の羅列であった。
「騙された……。俺は、完膚なきまでに騙されたのだ」
薄薄とした高地気候の中、是清は廃坑の泥水の前に膝をついた。
投じた私金は言うに及ばず、信頼して金を預けてくれた知人たちの出資金も、すべてペルーの乾いた砂の中に消えた。
背負った負債は、到底一人の人間に返せる額ではなかった。
失意と屈辱の中、這々の体で東京へと帰国した是清を待っていたのは、かつての太鼓持ち時代をも凌ぐ、猛烈な「世間の爪弾き」であった。
「あの東太郎め。せっかくお上の局長にまで取り立てていただいたものを、分不相応な夢を見て、すべてを失いおった」
「アメリカで奴隷をしていた男だ。やはり泥棒猫の性根は変わらん。一生、泥水をすすって飢え死にするがよい」
冷酷な世間の目は、自己責任という名の下に、這い上がろうとする是清の足を容赦なく引っ張った。
再び無一文。いや、今度は「莫大な借金」という首枷を嵌められた、どん底の最底辺への転落であった。
あまりの絶望に、是清は、神田の荒れ果てた一室で、餓死することすら考えた。
その飢えと寒さに震える是清の前に、一台の轎(かご)が止まった。
現れたのは、白髪を蓄え、古い羽織をまとった「おやじさん」こと、勝海舟であった。
海舟は、埃塗れの部屋に寝転んでいた是清を、愛用の杖で小突き、不敵に笑った。
「おい、だるま。ずいぶんと安い顔をしてやがるな」
「……おやじさん。俺は、もうおしまいです。旦那との約束も、ばあちゃんとの約束も、全部泥の中に落としちまいました。俺には、もう一銭の価値もありません」
是清は顔を覆った。
海舟は畳の上にドカリと座り、煙管に火をつけた。
「馬鹿野郎。たかがペルーの泥水に落ちたくらいで、何が終わりだ。お前は、アメリカの綿花畑で毛唐に鞭打たれても、新橋で太鼓持ちをして泥酔しても、豚の糞を掻き出しても、そのたびに不敵に笑って這い上がってきた男じゃねえか」
海舟は、懐からずっしりと重い巾着袋を取り出し、是清の前に放り投げた。海舟が私財を整理して工面した、当面の生活費と返済のための資金であった。
「富田が日銀を辞めて、お前がペルーでこけた。だがな、これで『だるま』の底が知れたわけじゃねえ。七回転んで、八回目に起き上がるのがだるまの意地だ。この金で飯を食い、泥を払いな。お前がここで死んだら、富田が命をかけて守った日銀の規律は、誰が引き継ぐんだ」
その海舟の言葉は、冷え切っていた是清の胸の奥底の「龍の牙」に、再び熱い血を注ぎ込んだ。
「……おやじさん」
是清は、巾着を強く握りしめ、泥のついた額を畳に擦り付けた。
「ありがてえ……。この恩、生涯忘れません。俺はまだ、死にゃあしませんよ。何度でも、泥の中から起き上がって見せます」
一八九一年(明治二十四年)。
全財産を失い、世間から見捨てられた三十七歳の高橋是清。
しかし、勝海舟から注がれた不屈の灯火と、己の中に眠る経済の知見を武器に、彼は再び、この国の富の戦場へと舞い戻るための爪を、暗闇の中で静かに研ぎ澄まし始めるのであった。
(第26話 完)
第27話「日銀入行:事務主任からの逆襲」
一八九二年(明治二十五年)六月。
ペルーの銀山詐欺で全財産を失い、家屋敷まで売り払って東京の場末で這いつくばっていた三十八歳の高橋是清を、一人の「巨頭」が呼び出した。
第参代日本銀行総裁・川田小一郎。
金融界の「法王」と呼ばれたワンマンであり、冷徹無比な実務家であった川田は、世間から「奴隷上がりの大ボラ吹き」と嘲笑されていた是清の、帳簿を読み解く真の価値を見抜いていた。
「高橋。日本銀行の本店新館を、日本橋本石町に建設する。その建築所の『事務主任』として雇ってやる。職種は一介の書記、すなわち日当払いの下働きだ。不満か?」
「……滅相もございません。拾っていただき、感謝の極みにございます」
是清は深く頭を下げた。かつての官僚としての誇りや面目を一切捨て去り、泥の中から再び立ち上がるための最初の一歩であった。
だが、建築所の現場に足を踏み入れた是清は、奇妙な運命の悪戯に息を呑むこととなる。
そこは、花崗岩の巨石が転がり、大勢の石工や職人たちの怒号が飛び交う巨大な泥だらけの工事現場であった。その木造の監督室に、一人の男が図面を広げて立っていた。
「……高橋先生?」
男が振り返り、驚愕の声を上げた。
辰野金吾。のちに東京駅をも設計し、近代日本建築の基礎を築くことになる天才建築家であり、この日銀本店設計の総監督であった。
そして同時に、辰野は、かつて是清が弱冠十七歳で九州唐津の「耐恒寮」の教壇に立っていた頃、熱っぽく世界を教え込んだ「かつての教え子」であった。
数年前には「局長」と「教授」という対等な立場で、時に酒を酌み交わした同い年の二人が、いまや「工事の総責任者たる気鋭の建築家」と、「ペルーでこけて一介の下働きとなった事務主任」という、残酷なまでの立場の逆転を以て再会したのだ。
是清の胸の奥に、一瞬、暗い引け目が過った。
しかし、是清は不敵に笑い、泥のついた作業着のまま、かつての教え子に一礼した。
「辰野先生。いまの私は、日銀のただの事務主任に過ぎません。どうぞ、呼び捨てにしてください。先生の素晴らしい設計図を現実のものにするためなら、私はどんな泥汚れの仕事でも引き受けます」
「先生……。いや、高橋さん。あなたという人は……」
辰野は、是清の矜持を捨て去った真摯な姿勢に、深く胸を打たれた。
こうして始まった日銀本店建設であったが、着工早々、大きな試練がふりかかる。
前年の一八九一年、濃尾地方を襲った大地震の被害を目の当たりにした辰野は、設計変更を決意した。当初予定していた総石造りの構造では、地震の揺れに耐えかねて倒壊する恐れがある。
そこで辰野は、建物の二階と三階部分を、石より軽い煉瓦、それも内部が中空になった「穴あき煉瓦」に変更しようとした。
ところが、この設計変更が行き違いにより、川田総裁に報告されぬまま進められようとしていた。これを知った川田は、激怒した。
「総石造りとして株主や内閣に承認を得たのだ! それを勝手に軽い土くれの煉瓦に変更するなど、株主への裏切り。断じて許さん!」
川田の怒りは凄まじく、設計者の辰野も、工事総監督である豪商・安田善次郎も、頭を抱えて沈黙するほかなかった。
「このまま総石造りを強行すれば、次の地震で崩壊し、日銀の信用は瓦解する。だが、総裁を説得できる者は誰もいない……」
その時、是清が名乗り出た。
「私に行かせてください。川田総裁を説得してみせます」
是清は、生半可な追従で川田が動く相手ではないと知っていた。彼は早速工事現場へ飛び、石材や煉瓦を実地で調べ、辰野から徹底的に技術的な説明を叩き込んだ。
「穴あき煉瓦は、縦に積み重ね、その棒状の空洞に『トロ(灰土)』を流し込む。そうすれば、トロが上から下まで柱の芯のようになり、石よりも軽く、かつ驚異的な頑強さを備えた構造を創り出せる」
翌朝、是清は川田総裁の部屋に堂々と乗り込んだ。
「何をしに来た、高橋」
睨みつける川田に対し、是清は泥のついた穴あき煉瓦を机の上に並べた。
「総裁。株主への面目のために、国家の金蔵を崩壊させるおつもりですか」
「何だと!」
「辰野が示した設計変更は、単なる手抜きではございません。この穴あき煉瓦の空洞にトロを流し込む構造こそが、地震の揺れをいなす最新の学理に基づいた技術。さらに、石の風格を失わぬよう、表面には薄く切った最高級の花崗岩を貼り付けます。これならば、外見は壮麗な総石造りのままでありながら、内部は世界で最も堅牢な、地震に屈せぬ『信用の城』となります」
是清は、辰野から聞いた技術の理を、まるで自らが設計したかのように整然と、説得力を持って語り尽くした。
「株主への本当の信用とは、外見の石の厚さではありません。大地震が来ようとも、一銭の紙幣も、一切の帳簿も失わぬ『不滅の金蔵』を造ること。それこそが、川田総裁、あなたの歴史的な責務ではございませんか」
川田は、是清の剥き出しの熱意と、裏付けられた技術の論理に、じっと耳を傾けていた。
沈黙が部屋を支配したが、やがて、川田は小さくため息を吐き、机の上の煉瓦を指先で弾いた。
「……高橋。君の言う通りに、設計変更を認める。ただし、工期が一日でも遅れれば、君の首を飛ばすぞ」
「はっ! 望むところでございます!」
是清は不敵に笑い、深く頭を下げた。
かつての師弟である是清と辰野金吾。二人の知恵が融合し、川田総裁を説得したことによって、日本銀行本店は「石貼煉瓦造」という驚異の堅牢性を手に入れることとなった。
どん底の下働きから始まった、是清の逆襲。
彼はかつての面目を全て泥に埋め、実務の力と不屈の闘志だけで、再び国家の信用の防波堤を創り出す現場の主役へと、這い上がり始めていた。
(第27話 完)
第28話「日清戦争と富の循環」
一八九三年(明治二十六年)九月、高橋是清は日本銀行の支配役に昇進し、新たに開設された「日本銀行西部(さいぶ)支店」の初代支店長として、馬関(ばかん、現在の山口県下関市)の地へと赴任した。
当時、日本銀行の支店は東京の本店、大阪支店、そしてこの西部支店の三つしか存在していなかった。西部支店は、本州の西端から九州一円にいたる広大な金融市場を一手に司る、国家の最重要拠点であった。
赴任から僅か十ヶ月後の一八九四年(明治二十七年)七月、日清戦争が勃発する。
広島に大本営が置かれ、馬関は朝鮮半島へ出征する兵員や軍需物資を送り出す「最前線の兵站基地」となった。港には軍船がひしめき、街の倉庫という倉庫は軍需物資で満たされ、人々の熱気と軍靴の音が地響きのように街を揺るがした。
「高橋支店長! 大本営より緊急の要請です。戦地への物資調達のため、数千万単位の軍資金を即座に確保せよ、とのこと!」
西部支店の執務室に、若き局員が血相を変えて飛び込んできた。
戦争という怪物は、一日にして莫大な国家予算を喰らい尽くす。政府が戦費調達のために募集した「軍事公債(戦時国債)」は、国家の平時歳入の二倍を超える、一億五千万円という途方もない規模に達していた。
しかし、地方の銀行や豪商、地主たちには、それほどの巨額の公債を一度に買い入れるための「手元の現金(正貨)」など、どこを探しても存在しなかった。
「支店長、どうしますか! 地方から強引に現金を吸い上げれば、九州や中国地方の金融は完全に干上がってしまいます。各地の両替商や地方銀行が連鎖倒産し、混乱が起きますぞ!」
役人の多くは、戦費を調達するために「国民から金をむしり取る」ことしか頭になかった。だが、それは国家という肉体の血液をすべて抜き取るようなものであった。
四十歳となった是清の目は、冷徹にその「数字の天秤」を見据えていた。
「慌てるな。金がないなら、創り出せば良い」
是清は不敵に笑い、机の上に一枚の書類を広げた。
「地方の民は、お国のためだと喜んで公債を買い入れたがっている。だが、手元に払込みの現金がない。ならば、日本銀行西部支店が、彼らの購入する軍事公債そのものを『担保』として引き受け、地方の銀行に資金を融通(日銀貸出)してやるのだ。その融通した資金を、そのまま国庫へとスライドさせればよい」
局員は、あっけにとられて是清の顔を見た。
「それは……実体としての現金が動いておらんではありませんか。ただの帳簿上の数字の操作に過ぎないのでは……」
「これこそが、信用の真髄、すなわち『富の循環』だ」
是清は黒板に素早く図を描きながら説明した。
「現金を無理に市場から回収すれば、市場の経済が死ぬ。しかし、日銀が信用を担保に資金を貸し出し、それを軍事公債の払込みに充てれば、市場の現金の量は一銭も減らぬまま、大本営は軍費を手に入れることができる。そして、軍が馬関や広島で物資を買い上げれば、その資金は再び市場(商人や農民)へと還流し、地方の銀行へと預金として戻ってくる。この循環さえ絶やさなければ、戦争という非常時であっても、我が国の経済は一歩も揺るぎはせん」
是清の設計した、この「軍事公債を担保とする日本銀行貸出の道」によって、日本政府は国内金融を一切混乱させることなく、巨額の戦費を滞りなく調達することに成功した。これは単なる計算技術ではなく、お金の「使途と調達」を完璧に一致させる、最先端の会計学と経済の知見が生んだ奇跡的な実務であった。
一八九五年(明治二十八年)三月。
戦争は日本の勝利に終わり、馬関の割烹旅館「春帆楼」において、日清講和条約(下関条約)の交渉が開始された。
是清は、西部支店長として下関の情勢をつぶさに観察し、大蔵省や日銀本店の川田小一郎総裁(当時)に極秘の報告を送り続けていた。
最大の焦点は、清国から勝ち取る「二億両(テール)――日本円にして約三億一千万円」という、国家予算の数倍にのぼる莫大な「賠償金」の受け取り方法であった。
当初、軍部や政治家たちは「清国の庫平銀(銀貨)を、そのまま船に積んで日本へ持ち帰るべきだ」と主張していた。
しかし、野に下っていた五十九歳の富田鉄之助から、是清のもとへ、一通の密書が届いた。
『是清よ、決して賠償金を銀で受け取ってはならぬ。いま、世界は完全に「金本位制」へと移行している。銀の価値は国際市場で暴落の一途をたどる泥船だ。もし銀で受け取れば、日本はその為替の損失だけで数千万の富を失う。――この賠償金こそ、我が国が悲願の「金本位制」へ移行するための、天から与えられた正貨(金貨)の原資とすべきだ』
是清は、鉄之助のその冷徹な洞察に、強く膝を打った。
「その通りだ。旦那の言う通りにせねば、日本は永遠に、世界の金(ポンド)に買い叩かれる二流国から抜け出せん」
是清はすぐさま大蔵省の幹部たちを説得し、講和会議の全権公使である伊藤博文や陸奥宗光を動かした。
「賠償金は、銀の現物で受け取るべきではありません。清国に命じ、ヨーロッパの金融市場で外債を募集させ、国際金融の中心地であるロンドンの銀行で『英ポンド建ての金貨、または金紙幣』として受け取るべきでございます」
この是清の執拗な進言によって、日本政府は賠償金をすべてロンドンで「英ポンド建て」として回収することに成功した。
日本はこの莫大なポンド(金貨)をロンドンに「在外正貨」として預け置き、それを担保にして、明治三十年(一八九七年)に念願の「金本位制」の確立を断行した。これにより、日本の通貨「円」は、世界の覇権通貨である英ポンドと直接、等価で繋がる「世界基準の信用」を手に入れたのである。
かつて、鉄之助がボストンのガス灯の下で誓った「独自の信用の盾」。
是清の、戦時公債を巡らせる「富の循環の差配」と、賠償金をロンドン・ポンドへ転換する「会計学の知恵」によって、ついに日本の経済は、世界の強国と対等に渡り合うための最大の武器を手に入れたのだ。
馬関の冷たい潮風を浴びながら、是清は不敵に笑った。
「鉄之助の旦那……。城門は固まった。いよいよ、世界との本当の戦いが始まりますよ」
(第28話 完)
第29話「宣戦布告:日露前夜の金蔵」
一八九七年(明治三十年)に確立された「金本位制」により、日本の通貨「円」は世界の覇権通貨である英ポンドと直接繋がり、日本の経済は近代国家としての体裁を急速に整えていった。
しかし、その信用の盾を手に入れたばかりの日本に、建国以来最大の、そして国家存亡を懸けた巨大な嵐が急接近していた。
一八九九年(明治三十二年)に生涯の恩人である勝海舟を見送り、一九〇三年(明治三十六)にはかつての主君である徳川慶喜公の側近となった五十四歳の富田鉄之助は、いまや六十九歳となり、野にあって日本の行く末を静かに見守っていた。
そして、その鉄之助から日銀のバトンを受け継いだ高橋是清は、五十歳となり、日本銀行副総裁として、名実ともにこの国の「金蔵の鍵」を握る実務の最高責任者に登り詰めていた。
一九〇四年(明治三十七年)二月八日。
ついに、大国ロシアとの間に日露戦争が勃発した。
号外が東京の街を飛び交い、国民は「露国を討て」と沸き立っていた。しかし、その熱狂の裏側で、大蔵省と日本銀行本店の最奥に位置する総裁室の空気は、張り詰めた弓の弦よりも緊迫し、凍りついていた。
「……正貨準備の残高は、いくらだ」
重苦しい声で問いかけたのは、大蔵大臣・曾禰荒助(そねあらすけ)であった。
松方正義や井上馨ら元老、そして大蔵省の財政官僚たちが、真っ青な顔で是清を見つめている。
是清は、手元の極秘帳簿を静かに閉じた。
「我が国の金蔵にある正貨準備は、僅か一億一千七百万円に過ぎません」
「な……、一億一千七百万だと!」
曾禰大蔵大臣が絶句し、畳の上に置かれた算盤がカタカタと震えた。
ロシアは、陸軍二百万、世界屈指の強力な艦隊を擁し、その国家歳入は日本の十倍を超える超大国である。これに対抗するため、大本営が算出した軍費は、平時の国家歳入の数倍にのぼる「約十七億〜十八億円」という途方もない額であった。
国内での増税や、日本国内の地主や商人から募る「軍事公債」の発行。これらを極限まで強行したとしても、調達できるのはせいぜい四億〜五億円が限界であった。
「残りの十数億円は、どうするのだ! もし正貨が枯渇すれば、海外から軍艦も、大砲も、石炭すら買い入れることができなくなる! わずか三ヶ月で、我が国の金蔵は空になり、国は戦う前に滅びるぞ!」
元老・井上馨が激昂し、拳で机を叩いた。
「海外から借りるしか、道はございません」
是清の声は、驚くほど冷静であった。
「英ポンド、あるいは米ドル建ての『外債(海外からの借金)』をロンドンやニューヨークの市場で募集し、そこから戦費を調達する。これ以外に、この国が生き残る道はございません」
「しかし、高橋」
松方正義が、苦渋に満ちた表情で是清を見た。
「白人の金融家どもは、東洋の小国がロシアに勝てるなどと、誰一人として信じておらん。誰もが日本は敗北し、貸した金は紙クズになると冷酷に突き放している。そのような状況で、誰が日本の国債を買うというのだ。一体、誰を向こうへ送れば、その不可能な借金交渉を成し遂げられるというのだ」
その場に居合わせた全員の視線が、五十歳の高橋是清へと集中した。
英語が堪能であり、複式簿記と経済の論理を完璧に体得し、かつて新橋の太鼓持ちや豚小屋の番人、ペルーの奈落からすら不敵に笑って這い上がってきた男。この「雑草の如きしぶとさ」を持つ是清以外に、国家の運命を背負って異国へ乗り込める者は存在しなかった。
「……高橋。行ってくれるか」
大蔵大臣の曾禰が、絞り出すように言った。
「お引き受けいたします」
是清は、迷うことなく頷いた。
「私の命、そして我が国の命運。すべてをこの身に背負い、ロンドンへ渡りましょう」
大蔵省からの特命を帯びた是清は、出発の前夜、赤坂の私邸に一人の老客を迎えた。
六十九歳となった富田鉄之助であった。白髪を蓄え、すっかり痩せた鉄之助であったが、その双眸だけは、かつてボストンで『国富論』を読破した時の、鋭い光を失っていなかった。
「是清。ついに、お前の本当の戦場が決まったな」
「ええ、旦那。ロンドンへ渡り、イギリスの銀行家どもから金を毟り取ってきますよ。日本の意地を見せてやります」
是清は、いつものように不敵に笑って見せた。
しかし、鉄之助は静かに、だが深く首を振った。
「是清、虚勢を張るな。白人の金融家どもは、小国の傲慢さや安っぽい面目など、一瞬で見抜くぞ。お前がロンドンやウォール街で戦うにあたって、決して忘れてはならぬことがある」
鉄之助は、かつて自分がボストンで学費を絶たれ、無一文になった際、宣教師や銀行家に「自らの未来の信用」を担保に深く頭を下げて金を借りた、あの原点を語り始めた。
「彼らが金を貸すのは、お前の数字の巧さでも、軍部の戦果でもない。ただ一つ、お前の示す『嘘偽りのない誠実さと、国を救わんとする決して屈せぬ日本の不屈の信用』だ。深く頭を下げ、真摯に、命がけでこちらの本気を示せ。それ以外の虚飾は、すべて交渉の毒となる」
鉄之助の、三十年以上の歳月を経て磨き上げられた「信用の本質」を説く言葉は、是清の胸の奥深くに、ずっしりとした重みを持って染み渡っていった。
「……深く頭を下げ、誠実さを担保にする、ですか」
「そうだ。お前ならできる。だるまのように倒れても、起き上がるお前の不屈の魂こそが、この国の最大の信用担保なのだからな」
「へえ、旦那。やってみせますよ。この国を、絶対に滅ぼさせやしません」
一九〇四年(明治三十七年)二月二十四日。
高橋是清は、日本銀行副総裁、兼「外債募集特使」として、太平洋を渡る船に乗った。
彼の懐には、鉄之助から授けられた「不屈の誠実さ」という、世界で唯一通用する信用の切札が、確かに抱えられていた。
日本の運命のすべてを積んだ、極東の龍の、ロンドンとニューヨークを舞台にした世界最大の金融戦が、いま、静かにその幕を開けようとしていた。
(第29話 完)
第30話「ロンドンの静かなる戦場」
一九〇四年(明治三十七年)三月末。
ロンドンの空は、煤煙と霧が混じり合った独特の灰色に包まれていた。テムズ川の湿った冷気が、石造りの街並みを容赦なく冷やしている。
日本銀行副総裁であり、外債募集特使の任を帯びた五十歳の高橋是清は、世界金融の中心地「ロンドン・シティ」の重厚なビルの狭間に立っていた。
日本の金蔵の猶予は、長くて数ヶ月。もしロンドンで一千万ポンド(約一億円)規模の国債を引き受けてもらえなければ、満州で戦う帝国陸海軍の石炭や弾薬は瞬時にして枯渇し、日本は国家滅亡の坂道を転げ落ちることになる。
しかし、シティの銀行家たちの反応は、霧よりも冷たかった。
「ミスター・タカハシ。率直に言って、我がシティの投資家たちは、日本への投資に極めて慎重だ」
パーズ銀行(のちのナショナル・ウエストミンスター銀行)の応接室。暖炉の火が赤々と燃えているにもかかわらず、是清の身体は凍りつくようであった。
対峙するイギリスの銀行家たちは、誰もが冷ややかな視線を是清に投げかけていた。
「ロシアは陸軍二百万を誇る欧州の超大国。対する日本は、極東の小さな島国だ。近代戦の経験も浅い日本がロシアに勝てるなどと、誰が信じるかね? 君たちに金を貸すということは、ドブに捨てるも同然なのだよ」
彼らが提示してきた条件は、不条理極まりないものであった。
国債の発行価格を大幅に下げ(百ポンドの国債を九十ポンド前後で売る)、金利は六分(六パーセント)以上の高利、さらに「日本の関税収入」を抵当(担保)に入れよという、主権国家の誇りを泥にまみれさせるような屈辱的な要求であった。
「関税を担保にするだと……」
同行した大蔵省の随員たちが、怒りに拳を震わせた。関税を異国の銀行に握られるということは、実質的な経済植民地への道にほかならない。
だが、是清は取り乱さなかった。
かつて新橋の太鼓持ちとして嘲笑され、神田の豚小屋で糞尿にまみれ、ペルーの廃坑の底で騙された男である。これしきの、白人たちの傲慢な言葉でへし折れる意地など、とうに捨て去っていた。
是清の脳裏に、出発の前夜に富田鉄之助が語ったあの言葉が響いていた。
『白人の金融家どもは、小国の傲慢な面目など一瞬で見抜く。彼らが金を貸すのは、お前の示す「誠実さと、決して屈せぬ日本の不屈の信用」だ』
是清は、屈辱的な条件の書類からゆっくりと目を上げ、イギリスの銀行家たちを真っ直ぐに見据えた。
「ミスター・ハリス。あなたがたが日本の勝利を疑うのは、地政学の数式の上では当然のことでありましょう。しかし、我々が示したいのは、帳簿上の数字だけではありません」
是清は、ハリスの前に、日本銀行が厳格に管理する「財政予算書」と、日銀の「複式簿記による貸借対照表」を示した。
「我が国の財政は、かつて日本銀行の創設者たちが命を賭して築いた、世界水準の厳格な規律(会計学)に基づいて動いております。政府の都合で不換紙幣を乱発するロシアとは違い、我が円の価値は金本位制によって完全に守られている。たとえどのような戦火に包まれようとも、日本政府が自らの信用を破棄し、債務を不履行にすることは断じてございません。我々が求めているのは同情ではない。日本の『不屈の誠実さ』に対する、正当な投資でございます」
是清のその、一切の虚勢を排した、だが寸分の揺るぎもない誠実な態度と、完璧な西洋会計の論理。
イギリスの銀行家たちは、目の前の「極東のだるま」の中に、これまでのアジアの役人とは全く違う、本物の「知性と信用」の怪物を見る思いがした。
「……ミスター・タカハシの言わんとすることは理解した。だが、一千万ポンドは、我がロンドン市場単独で引き受けるにはあまりにも巨額すぎる。アメリカのウォール街などが共同で引き受けに加わらぬ限り、我々としても単独での調達は決断しかねる」
ハリスは苦渋の表情で、結論を先送りにした。
ロンドンだけでは足りない。アメリカを巻き込まねば、この防波堤は完成しない。しかし、当時のアメリカ(ウォール街)は、さらに冷淡な態度を取っていた。
(タイムリミットが、迫っている……)
満州の地では、日本軍とロシア軍の激突が間近に迫っていた。是清の背中を、焦燥の冷や汗が流れる。
その翌週。
難航する交渉の最中、是清はロンドンの大手金融機関が主催した、ある晩餐会に招かれた。
きらびやかなシャンデリアの下、正装した銀行家たちが集う会場で、是清は自らに割り当てられた席に着いた。
その隣の席には、鋭い眼光を湛えた、立派な髭を持つ一人の初老の紳士が座っていた。
イギリスの銀行家たちが、その男に対して、畏敬の念を込めて頭を下げている。
「ミスター・タカハシ。ご紹介しよう。ウォール街のクーン・ローブ商会の代表であり、世界最大の金融家の一人――ジェイコブ・シフ氏だ」
シフは、是清の汚れた手のひらをじっと見つめた後、ゆっくりと右手を差し伸べた。
「君が、日本から来た高橋か。話を聞こう。極東の小さな国が、どうやって巨大なロシアを相手に『信用』を立てるつもりなのかをね」
ロンドンの冷たい夜、世界で最も冷酷な数字を扱うウォール街の巨頭と、日本の命運を背負っただるま是清が、ついに運命のテーブルで対峙した。
日本の存亡を懸けた、最大の金融交渉が、いま火蓋を切ろうとしていた。
(第30話 完)
第31話「シフへの借判(契約)」
一九〇四年(明治三十七年)五月初旬。
ロンドンの華やかな照明に照らされた晩餐会の片隅で、日本銀行副総裁・高橋是清と、ウォール街の絶対支配者であるクーン・ローブ商会の頭取、ジェイコブ・シフは静かに対峙していた。
五十七歳のシフは、フランクフルトのユダヤ人街に生まれ、裸一貫からアメリカ金融界の頂点へと駆け上がった、氷のような眼光を持つ男であった。
彼が是清の隣に座ったのは、単なる偶然ではない。帝政ロシアが国内で繰り返す苛烈なユダヤ人迫害(ポグロム)に対し、シフは激しい憤怒を抱いており、ロシアの鼻柱をへし折る「極東の小国」の底力を見極めるため、自ら是清の隣を求めたのだ。
「ミスター・タカハシ」
シフは、琥珀色の琥珀(ブランデー)をグラスの中で揺らしながら、冷徹な声を投げかけた。
「君たちがロンドンの銀行家と五百万ポンドの仮契約を結んだことは知っている。だが、本当に必要なのは一千万ポンドだそうだな。――私は冷酷な実務家だ。無駄な同情で金は動かさない。君に問いたい。もし、日本がロシアに敗北した場合、誰がその巨額の負債を返すのかね? 貸した金が紙クズになれば、私の顧客に対する『信用』が失墜する」
シフの問いは、国家の死活を分ける刃であった。
随員の役人たちは、息を呑んで是清を見た。ここで「絶対に勝ちます」と虚勢を張れば、シフのような百戦錬磨の相場師には一瞬で見破られる。かと言って、弱気を見せれば、交渉は即座に決裂する。
是清は、グラスを持つ手を静かにテーブルに置いた。
彼の胸の奥には、かつてボストンのガス灯の下で鉄之助が説いた「信用の原点」の教えが、冷たく、だが確かに拍動していた。
(深く頭を下げ、真摯に、こちらの不屈の理を示せ。それ以外の虚飾は、すべて交渉の毒となる)
是清は、シフの目を真っ直ぐに見つめ、武士の品格を保ちながら、深く静かに頭を下げた。
「シフ氏。勝敗は兵家の常。我々は勝利のために全力を尽くしますが、もし、不運にも敗れるようなことがあったとしても――日本は断じて、一銭の負債も踏み倒しはいたしません」
是清は、顔を上げ、言葉を紡いだ。
「我が国の歴史において、政府であれ民であれ、かつて対外的な支払いを一厘たりとも滞らせたことはございません。日本人の辞書に、不義理という言葉はない。もし敗れることがあれば、我が国民は最後の一兵まで戦い抜き、最後の一人がその命と労働を以て、あなたの投資した一セント、一ペニーに至るまで働いて返済いたします。我々が担保にするのは、目に見える関税だけではない。日本という国家と、そこに生きる国民全員の『決して裏切らぬ不屈の信用』でございます」
是清の声は、少しも震えていなかった。そこには、新橋の泥水をすすり、豚小屋の糞尿にまみれ、ペルーの奈落からすら這い上がってきた男だけが持つ、凄まじい「生の実感」が宿っていた。
シフは、是清のその剥き出しの誠実さと、一切の誇張を排した揺るぎない覚悟を、じっと見つめていた。
(この男は、嘘を言っていない。そして、この男の背後にある日本という国は、命を賭して契約を守る『本物の規律』を宿している)
シフの冷徹な仮面の下で、何かが激しく揺れ動いた。ユダヤ人としてロシアの暴政に一矢報いたいという義憤。そして、この高橋是清という不敵なだるまの持つ、計り知れない信用への賭け。
「……ミスター・タカハシ。君のその言葉、そして日本国民の意地を信じよう」
シフはその場ではそれ以上の取引を語らず、静かに別れた。
しかし、翌朝。
是清がロンドンの宿舎で目覚めると、パーズ銀行の取締役が息を切らせて部屋に飛び込んできた。その手には、一枚の電報が握られていた。
「高橋さん! 天佑です! 昨日あなたの隣にいたジェイコブ・シフ氏が、クーン・ローブ商会を通じて、残りの五百万ポンドを『ウォール街で全額引き受ける』と正式に申し出てきました!」
「……何と」
是清は、窓の外の霧深いロンドンの街を見つめ、深く、大きく息を吐き出した。
ロンドン市場の五百万ポンドと、シフが引き受けたウォール街の五百万ポンド。合わせて一千万ポンド(約一億円)という、天文学的な「救国外債」の発行が、ここに完全に合意されたのだ。
日本の金蔵は、土壇場で最悪の破綻を免れた。満州で戦う軍艦の石炭も、陸兵の砲弾も、この「数字の盾」によって確保されたのである。
是清は、宿舎の机の上に置かれた、日本からの手紙に目を落とした。
野にあって日本の行く末を祈る、六十九歳の富田鉄之助からの手紙であった。
『是清よ、お前の不屈の誠実さが、世界の門をこじ開けたな。だが、これが始まりだ。金を借りるということは、国家の未来を切り売りすることでもある。必ず勝利し、一円の狂いもなく完済するその日まで、我らの戦いは終わらん』
「ええ、旦那。この借判(契約)、必ずこの手で完済して見せますよ」
是清は、震える手で契約書に日本政府を代表して署名(借判)を捺した。
泥の中から這い上がった足軽の子が、世界最大の金融家たちを相手に、国家の命を繋ぎとめた瞬間であった。極東の龍は、いまや世界の金融界をも揺るがす「怪物」へと、その脱皮を完了させようとしていた。
(第31話 完)
第32話「日本銀行総裁:龍の戴冠」
一九一一年(明治四十四年)六月一日。
初夏の爽やかな風が日本橋本石町の街並みを吹き抜ける中、日本銀行本店の総裁室において、一つの「歴史」が完成しようとしていた。
高橋是清、第五十七歳。
日露戦争における総額八千二百万ポンドの外債募集という不可能な偉業を成し遂げ、国家を救った功績により、足軽の子でありながら男爵の爵位を授けられた彼は、この日、ついに「第七代日本銀行総裁」に就任した[6][7]。
かつて、アメリカの綿花畑で「奴隷の汚れ者」と蔑まれて這いつくばり、新橋で太鼓持ちをして泥酔し、神田の豚小屋で糞尿を掻き出し、ペルーの銀山詐欺で全財産を失ったあの「だるま」が、ついにこの国の富の頂点、中央銀行の最高支配者の椅子へと腰掛けたのだ[6][7][8]。
これほどの起伏に富んだ人生を歩み、この席に辿り着いた男は、古今東西、他に一人として存在しない。
総裁室の窓から、是清は自らがかつて「建築事務主任」として、教え子の辰野金吾と共に「穴あき煉瓦」の知恵を用いて創り上げた、堅牢極まりない日本銀行本店を見つめていた。
「……ここまで、来ましたよ。ばあちゃん」
是清は、胸の奥で、三十数年前に鬼籍に入った祖母・喜代に語りかけた。
そこへ、総裁室の重厚な扉が静かに開かれた。
姿を現したのは、すっかり老い、杖を突きながらも、陸奥国二千石の家格に恥じぬ品格をたたえた一人の老客であった。
七十五歳となった富田鉄之助であった。
鉄之助は、総裁の椅子に座る是清をじっと見つめ、その深く刻まれた目尻に、温かい笑みを浮かべた。
「是清。ついに、この城の本当の主になったな。見事だ」
「鉄之助の旦那……」
是清は、慌てて椅子から立ち上がり、かつての「守り役」であった先達に対し、深く、誠実に頭を下げた。総裁という最高の地位に就こうとも、鉄之助に対する感謝と尊敬の念は、一厘たりとも揺らいではいなかった。
鉄之助は、ゆっくりと歩み寄り、是清が座っていた総裁の机を慈しむように撫でた。
「私がかつて、松方正義の財政介入に抗ってこの席を辞してから、二十二年の歳月が流れた。お前は私が遺した『日銀の独立』という防波堤を、泥水をすすりながらも、自らの手で守り抜く地位まで登り詰めた。だが、是清、戴冠に浮かれるなよ」
鉄之助は、その鋭い眼光を是清に向けた。
「お前がロンドンやニューヨークで署名した『八千二百万ポンド(八億二千万円)』という巨額の外債。あれは我が国を救った光の盾であったが、同時に『未来の国民が背負い続けねばならぬ、重い重い金鎖』でもあるのだ。我が国はこれから、この巨額の借金を、最後の一円、一厘にいたるまで完済しなければならん。そのための果てしない戦いが、今日から始まるのだ」
鉄之助の言葉は、冷徹な数字の現実を、是清の胸の奥深くに突き刺した。
金を借りたということは、国家の未来の労働を、世界に担保として差し出したということである。救国の光の裏側には、常に冷酷な数字の「負債」が、影のように這いずり回っている。
是清は、再び鉄之助に向き直り、力強く頷いた。
「ええ、旦那。お覚悟はとうにできております。お上であろうが、軍部であろうが、この日銀の財布を私物化させはしません。日本を世界一の経済大国に育て上げ、旦那が創り、俺に遺してくれた『信用の規律』を以て、あの一千万ポンドから始まったすべての負債を、いつか必ず最後の一円まで完済して見せますよ。それが、だるまの意地ってものです」
「ふっ、頼もしいな」
鉄之助は短く笑い、是清の逞しい肩を叩いた。
太平洋をまたぎ、幕末から明治という激動の過渡期を駆け抜けた二人の天才。
一人は「中央銀行の独立」という思想の盾を創り、もう一人は「会計の論理と富の循環」という実務の矛を以て、日本の富を世界の牙から守り抜いた。
総裁室の大きな窓から差し込む夕日が、二人の龍の背中を、赤々と、そして神々しく照らし出していた。
日本の経済の基盤は、この二人の不屈の魂によって、いま完全に、強固に打ち立てられた。しかし、彼らが遺した信用の戦いは、大正、昭和というさらなる激動の暗雲の向こう側へ向かって、途切れることなく続いていくのである。
(第4章完結 / 第32話 完)
第5章:だるま大臣と激動の昭和
第33話「大蔵大臣の椅子」
一九一六年(大正五年)二月二十七日。
富田鉄之助、満八十歳。
かつて勝小鹿の命に魂を戻され、ボストンのガス灯の下で国富論を貪り、大蔵省と日本銀行において国家の信用の礎を築いた頑固な先達は、東京の私邸で静かにその生涯を閉じた。
枕元に駆けつけた六十一歳の高橋是清は、冷たくなっていく鉄之助の手を固く握りしめていた。
鉄之助は、かすれる意識の中で、是清をじっと見つめ、最期の言葉を遺した。
「是清……。お上に媚びるな。軍部にも、政治家にも、跪くな……。日本銀行の財布は……国家の財布は、民のものだ。頼む、守り抜いてくれ……」
「ええ、旦那。お約束します。この命のあらん限り、我が国の金蔵は俺が守り抜きます」
是清の涙は、鉄之助の手の甲を濡らした。
明治の光と影を共に生き抜いた先達の死。それは、是清にとって、鉄之助の「不屈の魂」を自らの体に完全に取り込み、大正、昭和のさらなる闇へと立ち向かうための、最後の儀式となった。
大正から昭和へ。
一九二七年(昭和二年)春。日本経済は、関東大震災後の不良債権(震災手形)の山に喘ぎ、ついに破滅的な「昭和金融恐慌」の奈落へと滑り落ちようとしていた。
事の発端は、当時の大蔵大臣の「失言」であった。
予算委員会において、大蔵大臣が「東京渡辺銀行が本日とうとう破綻いたしました」と口を滑らせてしまったのだ。実際にはまだ破綻していなかったにもかかわらず、この一言が呼び水となり、日本中の銀行の窓口に、預金を一刻も早く引き出そうとする群衆が怒涛の如く殺到する「取り付け騒ぎ(金融パニック)」が爆発した。
「金を返せ! 我々の汗水垂らした金を返せ!」
「銀行の金蔵は空だ! 早くせねば紙クズになるぞ!」
群衆は怒号を上げ、銀行のシャッターを叩き壊さんばかりに詰めかけた。
各地の銀行が次々と支払不能に陥り、休業を余儀なくされる。国家の血液である「信用」が、完全に凝固し、経済が死滅しようとしていた。
この未曾有の国難に際し、すでに政界の一線を退き、七十二歳となっていた高橋是清に、三たび「大蔵大臣(蔵相)」として火中の栗を拾うべき特命が下る。
「高橋男爵、どうか、どうかこの国を救ってくれ。金融を沈静化できるのは、あなたしかいない」
組閣を終えたばかりの首相が、涙ながらに是清に懇願した。
是清は、すっかり白くなっただるまのような頭を撫で、不敵に笑った。
「よろしい。この老骨、国家の金蔵の防波堤として、もう一仕事して見せましょう」
大蔵大臣の椅子に三たび腰掛けた是清は、直ちに日本銀行総裁らと極秘会議を開いた。
「国民のパニックを鎮めるには、全国の銀行に『二日間の支払猶予(一時休業)』を命じる。そして、その二日間の猶予の間に、全国の銀行の窓口に『これでもか』というほどの大量の現金を山積みにする。これ以外に、国民の不安を消し去る道はない」
「しかし、大臣!」
日銀の幹部たちが青ざめた。
「政府の印刷局には、それほど膨大な紙幣の在庫はございません。二日間の間に何億というお札を印刷するなど、物理的に不可能です!」
是清は、机をドンと叩いた。
「お札の形式など、この際どうでもよい! 国民が求めているのは、政府の精巧な美術品ではなく、『自分の預金と交換できる、価値の裏付けがある紙幣』そのものだ。印刷局に命じろ。紙幣の裏側の印刷など、すべて省いて構わん! 片面だけ印刷し、インクが乾き次第、ただちに裁断して市場に送り込め!」
「う、裏側の印刷を省く……片面だけですか!?」
「そうだ。そして、まだ円の単位に満たない少額のものではなく、一気にパニックを鎮静化できる『二百円紙幣(裏白札)』を刷り上げるのだ!」
是清のこの、常識を遥かに超越した会計学と経済の知知見に基づく決断は、直ちに実行に移された。
二日間の休業の裏側で、印刷局は不眠不休で「片面だけ印刷された二百円紙幣」を刷り続けた。インクの匂いも生々しく、裏側が真っ白な急造の紙幣が、山のように荷馬車や自動車に積まれ、全国の銀行へと極秘裏に輸送されていった。
そして、運命の営業再開の日。
銀行のシャッターが上がった瞬間、詰めかけた群衆は、窓口の奥にそびえ立つ「圧倒的な光景」に息を呑んだ。
そこには、天井に届かんばかりにうず高く積まれた、文字通り「札束の山」があった。
インクの匂いが漂う、裏側が真っ白な急造の二百円札。だが、それは間違いなく、日本政府と日本銀行の「無制限の支払保証」の意志そのものであった。
「……あるぞ。本当に、お札が山のようにある」
「いつでも引き出せるなら、なにも今すぐ全額を引き出す必要はないな……」
群衆の間に広がっていた恐怖は、その「圧倒的な現物の数字」を目にした瞬間、嘘のように氷解していった。
あれほど怒り狂っていた人々は、安堵の表情を浮かべ、預金をそのまま銀行に残したまま、静かに家路へと就いたのである。
一瞬にして収束した、昭和金融恐慌。
大蔵大臣の執務室で、是清は、窓の外の穏やかな東京の街並みを見つめていた。
その耳には、かつて鉄之助が最期に遺した「お上に媚びるな、民の財布を守り抜け」という言葉が、誇り高く響いていた。
「鉄之助の旦那……。片面だけの紙幣ですがね、これで民の財布は守り抜けましたよ」
是清は不敵に笑い、自らの大きな頭を撫でた。
しかし、この恐慌の収束は、さらなる狂乱の昭和――軍部の台頭と、世界大恐慌という地球規模の経済戦への、ほんの序曲に過ぎなかったのである。
(第33話 完)
第34話「世界大恐慌とだるまの盾」
一九二九年(昭和四年)十月二十四日。
米国ニューヨークのウォール街で株価が突如として大暴落し、のちに「世界大恐慌」と呼ばれる地球規模の経済死滅が勃発した。
その余波は、瞬時に太平洋を越えて日本へと襲いかかった。
さらに運悪く、当時の井上準之助蔵相が進めた「金解禁(金本位制への復帰)」というタイミングの悪い失策が重なり、日本はすさまじい「昭和恐慌」の奈落へと突き落とされた。
農産物や工業品の価格は暴落し、東北地方では冷害も重なって、娘を売り、草の根をかじるほどの惨惨たる不況が日本中を覆った。企業は次々と倒産し、街には失業者が溢れ返った。
この、国家が瓦解しかけた一九三一年(昭和六年)十二月。
七十七歳となった高橋是清は、犬養毅内閣の「大蔵大臣」として、四たび大蔵省の席へと呼び戻された。
すっかり白髪となり、耳も遠くなっていたが、その双眸の奥に宿る「経済の野生の知恵」は、一厘も衰えていなかった。
「……金本位制という古い縛りを、今すぐ捨てる」
是清が登院したその日に断行したのは、日本を「金本位制から直ちに離脱(金輸出再禁止)」させるという、世界を驚愕させる電撃策であった。
円の価値をあえて引き下げて輸出を急速に回復させ、国内の産業に血液を通わせるための大鉈であった。
だが、是清の本当の、世界で誰も試みたことのない「救国の超弩級システム」は、ここからであった。
「……日本銀行に、政府の発行した国債を直接、全額引き受けさせる」
大蔵省の執務室で是清が放ったその一言に、大蔵官僚や日銀の幹部たちは、腰を抜かさんばかりに驚愕した。
「だ、大臣! 中央銀行に政府の借金(国債)を直接買わせるなど、禁じ手中の禁じ手! お札を無限に刷り増しするのと同じであり、通貨の信用は暴落し、ハイパーインフレーションを招いて国家の財布が爆発いたします!」
官僚たちの指摘は、会計学の常識の上では正しかった。
しかし、是清は、かつてボストンのガス灯の下で鉄之助が説いたアダム・スミスの教え、そして自らが這いつくばってきた「富の循環」の論理を、さらに高次元で理解していた。
「いま、この国はインフレを恐れる状況ではない。デフレという氷河期の中で、血液(資金)が完全に凝固しているのだ」
是清は、冷徹に数字の天秤を示した。
「市場にお金がないなら、国債を発行し、それを日銀に直接引き受けさせて『無から信用(資金)』を創造する。そして、その資金を、ただちに東北の冷害不況救済や、地方の道路、河川改修といった『公共事業』へ一気に投じるのだ。そうすれば、資金は土木労働者や農民の手へと直接渡り、彼らが米や服を買うことで、市場に暖かな富の循環が蘇る。国債を直接引き受けるのは、凍りついたエンジンの点火プラグを叩くための、最初の一撃なのだ」
是清の設計したこの「高橋財政(リフレーション政策)」は、凄まじい効果を発揮した。
日銀直接引き受けによって生み出された莫大な救国国債の資金は、地方の農山村へ直接流れ込み、日本の市場経済は瞬く間に息を吹き返した。
世界中の先進国が恐慌の泥沼で喘ぐ中、日本は「世界で最も早く、最も美しく恐慌の底から脱出した奇跡の国」として、国際社会から驚嘆の目で見つめられた。
しかし、この奇跡の「劇薬」には、恐ろしい副作用が眠っていた。
是清は、帳簿の数字の天秤を握りながら、静かに呟いた。
「これは、恐慌という病を治すための一時的な毒薬。市場が温まり、経済が回復したならば、直ちに国債の発行を抑え、借金を回収し、日銀の独立した金蔵を守らねばならん。さもなくば、本当に国家の信用が死ぬ」
だが、その劇薬の「甘い蜜」を吸い、その無限の打ち出の小槌を貪り食おうとする、制御不能の怪物が新政府の内部で急速に成長していた。
それは、満州事変を引き起こし、さらなる領土拡張と軍備拡張を叫び、莫大な「軍事予算」を要求し始めた「陸海軍の軍部」であった。
「高橋蔵相! 陸軍の近代化と満州の治安維持のため、国債をさらに大増発し、軍事費を二倍、三倍に増やせ!」
若き軍人たちが、鋭いサーベルをガチャつかせながら大蔵省に乗り込んでくる。
是清の前に立ち塞がったのは、かつて薩長藩閥が振り回したどんぶり勘定など生温いと言えるほどの、武力による「数字の暴走」であった。
だるまの盾は、日本を恐慌から救い出した。だが今度は、その自らが創り出した無限の数字の罠と、牙を剥いた軍部という怪物に対し、己の命そのものを賭した「最後の防波堤」として立ちはだからねばならない運命が、是清を待ち受けていた。
(第34話 完)
第35話「軍部の暴走と数字の防波堤」
一九三五年(昭和十年)。
東京の桜が散り、初夏の汗ばむ風が吹く頃、大蔵大臣・高橋是清は、満八十一歳を迎えていた。
すっかり小さくなった背中を丸め、老眼鏡越しに予算編成の分厚い帳簿を睨みつける是清の姿は、大蔵省の官僚たちにとって、畏怖すべき「最後の防波堤」そのものであった。
是清が断行した「日本銀行の国債直接引き受け」という劇薬は、日本を世界で最も早く世界大恐慌から立ち直らせた。
だが、その劇薬によってもたらされた莫大な資金を、無限の打ち出の小槌と勘違いした陸海軍の「軍部」は、歯止めの利かぬ予算拡大を要求し続けていた。
「高橋蔵相! 昭和十一年度予算において、陸海軍の軍事費は十億三千万円を下回ることは断じて認められん! 満州の治安維持と、対米、対露への備えのため、これ以上の予算削減は統帥権の干犯に等しい!」
陸軍の大佐や中佐といった若き将校たちが、軍刀を腰に響かせながら、大蔵大臣執務室に怒涛の如く押し寄せていた。彼らの眼光は狂気を帯びており、国家財政の論理など端から聞く耳を持っていなかった。
しかし、是清は机の上の算盤から視線を上げることすらなく、静かに、だが執務室の窓ガラスを震わせるほどの重みのある声を響かせた。
「お前たちの言う『統帥』とやらは、この国の民を飢え死にさせ、国家の金蔵を完全に破綻させることなのか」
「何だと!」
若き将校の一人が、軍刀の柄に手をかけた。
是清は、ゆっくりと眼鏡を外し、八十一歳の深く刻まれた皺の奥にある双眸を、真っ直ぐに将校たちに向けた。そこには、かつてアメリカの綿花畑で、横浜の銀行で、そしてロンドン・シティの冷酷な交渉の場で、あらゆる死線をくぐり抜けてきた男だけが持つ、凄まじい「知性の威圧」があった。
「お前たちが要求する十億三千万という数字は、我が国の一般会計歳入の『四割以上』に達する。これ以上の国債を増発し、日銀に直接引き受けさせ続ければ、劇薬であったはずの信用は一瞬にして毒薬へと変わり、猛烈なインフレーションを招く。通貨の価値が失われれば、お前たちが買う軍艦も、大砲も、ただの屑鉄となるのだ。数字の天秤が崩れれば、国は戦う前に、内側から自滅する」
是清は立ち上がり、机の上に置かれた一通の手紙に触れた。
それは、かつて自らの生涯の恩人であり、守り役であった富田鉄之助が遺した、あの「八千二百万ポンド(八億二千万円)の外債証書」の控えであった。
「我々が日露戦争で世界の銀行家から借り入れたあの莫大な借金は、いまも未来の国民が血の滲むような思いで返し続けているのだ。お上であろうが、軍部であろうが、一国の財布を私物化して、その重い金鎖を次代の若者に増やしてはならん。来年度予算において、軍事費は断じて削減する。これ以上の国債増発は認めん」
「高橋、お前は我が国の栄光の進撃を阻む国賊だ! 英米の金融資本に魂を売った奴隷め!」
若き軍人たちは、口々に是清を罵り、床を軍靴で激しく踏み鳴らして去っていった。
彼らが去った後、是清は静かに椅子へと腰掛け、小さく息を吐いた。
その背中を、夕暮れの大蔵省の赤い陽光が寂しげに照らし出していた。
是清は分かっていた。
軍事予算の漸減を断行すれば、軍部の激しい憎悪が、己のこの「老いさらばえた命」に向くことは火を見るより明らかであった。同僚の政治家や官僚からも、「高橋さん、もう妥協してください。このままではあなたの命が危ない」と、泣きながら説得を試みられた。
だが、是清の心中には、かつて鉄之助が最期に遺した「お上に媚びるな、国家の財布を守り抜け」という言葉が、不退転の火柱となって燃え盛っていた。
「……旦那。俺は、少しも怖くはありませんよ」
是清は、机の上に置かれた『国富論』の古い翻訳本を手に取り、独りごとのように呟いた。
「俺はかつて、新橋で太鼓持ちをし、神田の豚小屋で糞まみれになって働いていた男だ。あの時、喜代ばあちゃんや、おやじさん(勝海舟)、そして旦那に拾ってもらわなければ、とうに死んでいた命。この老骨、国家の金蔵の最後の防波堤となるために、捧げるには十分すぎるほど長生きをさせてもらいました」
是清は不敵に笑い、再びペンを執って、軍事予算の削減を冷徹に書き入れた。
国家の財布を、軍部の暴走という怪物の牙から守り抜くための死闘。
是清が自らの命そのものを人柱として、日本の崩壊を堰き止めようとした、その最後の冬が、一歩、また一歩と、白く冷たい雪の足音と共に近づいていた。
(第35話 完)
第36話「嵐の予感:最後の新年」
一九三六年(昭和十一年)一月一日。
どんよりとした曇り空から、時折、乾いた雪の粉が舞い散る元旦。東京・赤坂表町の高橋邸の庭は、凍てつく静寂に包まれていた。
八十一歳となった大蔵大臣・高橋是清は、暖かい火鉢の前に座り、静かに新年を迎えていた。
だるまのような丸い身体を縮め、湯気を立てるお茶をすするその姿は、一見すると隠居した好々爺そのものであったが、その双眸だけは、昭和の暗雲を見透かすかのように深く、澄んでいた。
そこへ、一人の客が新年の挨拶を兼ねて、密かに高橋邸を訪ねてきた。
現・日本銀行総裁、深井英五、六十四歳。
深井は、かつて日露戦争の外債募集の際、日銀の若き随員として是清の鞄持ちを務め、ロンドンやニューヨークの死線を共にくぐり抜けた、是清の最も信頼する愛弟子であった。
「閣下。新年おめでとうございます」
深井は、火鉢の前に端坐し、深く頭を下げた。
「おう、深井か。まあ掛けろ。新しい年になったが、外は冷えるな」
是清は、穏やかな笑みを浮かべてお茶を勧めた。
しかし、深井の表情は曇っていた。現在の「信用の城(日銀)」を守る総裁として、彼が肌で感じている危機は、破滅的な領域に達していた。
「閣下。単刀直入に申し上げます。昨年末、あなたが陸海軍の予算査定において、彼らの要求を断固として拒絶し、国債の減額を決定したことに対し、軍部、特に陸軍の若手将校たちの間で、あなたに対する激しい憎悪が渦巻いております。大蔵省や憲兵隊からの極秘情報によれば、あなたを『国賊』と呼び、武力を用いて『財政の防波堤』を物理的に排除しようとする不穏な動きが、極めて具体化しているとのこと。どうか、警備を強化なさってください。しばらくは、大蔵省への登院もお控えいただき……」
深井の必死の懇願を、是清は片手を軽く挙げて遮った。
「深井よ。心配は要らん。私の命など、八十一年の歳月を生き抜いてきたのだ。いつ散っても、少しも惜しくはない。だがな、お前たちがこれから守らねばならぬのは、私の首ではない。この国の『信用』だ」
是清は、火鉢の炭を静かに火箸でつついた。
「日本銀行の国債直接引き受けは、あの世界大恐慌という凍りついた病を治すための一時的な『劇薬』だった。だが、お上が、軍部が、その打ち出の小槌の甘い蜜を覚え、無限に金を刷れと刃を突きつけてきている。もし、ここで財布の口を閉めねば、日本はハイパーインフレーションの地獄に落ち、民は植民地の奴隷の如く困窮する。お前は私に続いて日銀の鍵を預かる者だ。いかなる銃弾が突きつけられようとも、あの金蔵の独立性と規律だけは、一歩も譲るなよ」
「……閣下。お言葉、この身のすべてを以て、刻み込んでおります」
深井は、声を震わせ、畳の上に深く頭を下げた。
是清は、総裁室に飾られていた、あの「富田鉄之助の遺した日露外債証書の控え」の入った書類入れに目を落とした。
「深井。お前も一緒にロンドンで闘ったから分かるだろう。我々がジェイコブ・シフやロンドンの銀行家たちと交わした、あの『八千二百万ポンド(八億二千万円)』という巨額の外債。あれは日本が生き残るための盾であったが、同時に未来の国民が背負い続けねばならぬ重い鎖だ。いま、大東亜へ、満州へと暴走する若き軍人どもは、あの信用の重みを、一厘も知らん」
是清の表情から、いつもの不敵な笑みが消え、厳格な武士の骨が浮かび上がった。
「どれほど戦火が広がり、どのような最悪の時代が来ようとも、あの外債だけは、最後の一円、一厘にいたるまで、我が国は完済しなければならん。どんなに国が破綻しかけようとも、異国に対して『誠実』であり続けること。それこそが、鉄之助の旦那が命をかけて日銀に植え付け、我々が世界に示した、日本の不屈の信用の証なのだからな。これだけは、何があっても踏み倒させてはならんぞ」
「はい……! 必ず、必ず守り抜きます!」
深井の目から、大粒の涙が畳へとこぼれ落ちた。
是清は窓の外を見つめた。
庭の松の枝に、白い雪が静かに、だが重く積もっていく。
嵐の前の、あまりにも静かで、あまりにも美しい冬の光景。
「春が来れば、この冷たい雪も溶けて、少しは暖かくなるかね……」
是清のその呟きは、わずか一ヶ月半後に迫る、昭和史最大の悲劇――赤坂の自宅を真っ赤な血で染めることになる「二・二六事件」への、静かなる、そして覚悟に満ちた別れの言葉であった。
(第36話 完)
第37話「二・二六事件:龍の逝く朝」
一九三六年(昭和十一年)二月二十六日、未明。
東京は、三十年ぶりとも言われる記録的な大雪に見舞われていた。音もなく降り積もる白い雪は、帝都の街並みを厚く、冷たく覆い尽くし、すべての雑音を吸い込んでいた。
午前五時。赤坂表町の高橋邸の静寂が、突如として激しい足音と軍靴の響きによって破られた。
「踏み込め! 裏門へ回れ!」
近衛歩兵第三連隊の中尉・中橋基明、および歩兵第三連隊の少尉らが率いる、武装した約百二十名の反乱軍兵士たちが、高橋邸の門を強引に押し開けて乱入したのだ。彼らは「昭和維新」の狂信的なスローガンを掲げ、国家財政の最高権威である高橋是清を「国賊」として暗殺すべく、殺気を放って突入してきた。
「何事でございますか! お下がりください!」
騒ぎに気づいた女中たちが廊下へ飛び出し、必死に兵士たちの前に立ち塞がったが、銃剣を突きつけられ、力任せに押し退けられた。
中橋中尉らは、軍刀を抜いて階段を駆け上がり、二階にある是清の寝室の襖を乱暴に蹴破った。
薄暗い室内。
八十一歳の是清は、布団の中で静かに眠っていた。襖の壊れる凄まじい音と、押し寄せる兵士たちの殺気によって、是清はゆっくりと目を開けた。
「何だ、騒々しい。……お前たちは、何者だ」
是清は、身体を起こし、枕元に立つ中橋中尉らをじっと見据えた。
その白髪頭のだるまのような老人から放たれる、かつて幾多の修羅場を越えてきた者だけが持つ圧倒的な眼力に、引き金を引こうとした若き兵士たちの指が一瞬、凍りついた。
中橋中尉は、自らの恐怖をかき消すかのように、狂気じみた声を張り上げた。
「高橋是清! お前は軍事予算を削減し、国防を危うくした国賊だ! 昭和維新の不条理な障壁として、天誅を下す!」
中橋が布団を乱暴にはぎ取った。
是清は、突きつけられた黒い銃口と、青白く光る軍刀の刃を見つめた。だが、その顔に怯えの影は一厘もなかった。彼は、かつて新橋で太鼓持ちをし、豚小屋の糞尿を掻き出し、アメリカで奴隷にされた男である。死など、とうの昔に隣り合わせの友であった。
是清は姿勢を正し、反乱軍の青年将校たちに向けて、腹の底から響く怒号を叩きつけた。
「馬鹿者!」
その、国家の信用の防波堤を守り抜いた老巨頭の最後の一喝は、寝室の空気を激しく切り裂いた。
だが、理性を失った青年将校たちに、その言葉が届くことはなかった。
「撃てッ!」
中橋の叫びと同時に、何発もの拳銃の銃声が狭い寝室に轟いた。乾いた破裂音が雪の朝の静寂を切り裂き、是清の身体を無残に貫いた。
さらに、抜かれた軍刀の刃が、無抵抗の老人の身体へと容赦なく振り下ろされた。
「う……」
是清は、シーツを真っ赤な鮮血で染めながら、ゆっくりと横たわった。
薄れゆく意識の中で、是清の耳には、かつてボストンのガス灯の下で鉄之助が語りかけてくれた、懐かしい声が聞こえるような気がした。
(是清。よくぞ最後まで、国家の財布を守り抜いたな)
(ええ、旦那。俺は一歩も譲りませんでしたよ。あの日銀の金蔵の規律も、日露戦争で借りたあの『八千二百万ポンド』という重い金鎖も、すべて、未来の若者たちへ確かに繋ぎました……)
是清の深く刻まれた目尻から、静かに一筋の涙がこぼれ、やがてその呼吸は完全に停止した。
享年八十一。
泥の中から這い上がり、世界の金融界を驚愕させた「世界の怪物・高橋是清」の、壮絶極まりない最期の瞬間であった。
窓の外では、東京の街を白く染める雪が、なおも静かに降り続いていた。
その雪は、まるで非業の死を遂げた龍の亡骸を、優しく、そして哀しげに弔うかのように、赤坂の庭を静かに白く包み込んでいった。
日本の富を守るための、最大の防波堤が、ここに崩壊した。
しかし、是清がその命を賭して残した「不屈の誠実さと信用の規律」は、彼が死んでもなお、滅びゆく帝国の瓦礫の底で、静かに生き続けるのである。
(第37話 完)
第38話「国蔵の瓦解:戦火への傾斜」
一九三六年(昭和十一年)二月二十六日、高橋是清が暗殺されたあの日を境に、日本の国富を守り続けてきた最後の「数字の防波堤」は、音を立てて瓦解した。
大蔵省と日本銀行の金蔵に残されたのは、八十一歳の老蔵相の鮮血が染み込んだ予算書と、主のいなくなった大蔵大臣の椅子だけであった。
是清の志を継ぎ、荒れ狂う時代の中で日本銀行の舵取りを任されたのは、第八代日銀総裁・深井英五であった。かつて日露外債募集において是清の鞄持ちを務めた深井は、恩師の遺志を胸に、軍部の暴挙に立ち向かおうと固く心に誓っていた。
しかし、二・二六事件という武力による脅迫に味を占めた軍部は、もはやいかなる財政規律も、経済の論理も受け入れなかった。
「深井総裁、陸軍は大陸での軍事作戦(日中戦争)を遂行するため、さらなる国債増発と、日銀の無制限なる直接引き受けを要求する。これ以上の抵抗は、統帥権に対する明白な反逆とみなすぞ」
軍服を着た新しい大蔵大臣や軍幹部たちが、日銀総裁室に乗り込み、深井に対して紙幣の増発を迫った。
是清が「世界大恐慌という凍りついた病を治すための一時的な劇薬」として処方した「日銀の国債直接引き受け」。それは、軍部という制御不能の怪物によって、国家の血液を薄め続ける「常備薬」へと変えられてしまった。
深井は、恩師の教えを守るため、一歩も引かずに日銀直接引き受けの制限を主張し続けたが、政府と軍部の圧倒的な狂気の前に、その抵抗は虚しく打ち砕かれた。絶望の中、深井は精神的、肉体的に追い詰められ、一九三七年(昭和十二年)に総裁の座を退くこととなる。
「閣下……。申し訳ありません。私には、あなたの残した城を守り抜くことができませんでした」
深井の流した涙は、焼け石に水のように、戦火の熱に消えていった。
一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本はついにハワイ・真珠湾を急襲し、アメリカ、イギリスを相手とする「太平洋戦争(大東亜戦争)」へと突入した。
国力において十数倍、いや数十倍の差がある巨大な超大国との全面戦争。
戦費は日中戦争から太平洋戦争にかけて、実に「七千五百億円(当時の国家歳入の数百倍)」という、想像を絶する天文学的な数字へと膨れ上がった。
日銀の印刷局は昼夜を問わず紙幣を刷り続け、市場には実体のない数字だけが溢れ返った。かつて是清が恐れていた、通貨の信用の死、すなわち猛烈なハイパーインフレーションの足音が、帝都の闇の中で確実に忍び寄っていた。
さらに、太平洋戦争の勃発に伴い、日銀の金蔵を揺るがす「ある重大な危機」が発生した。
それは、かつて一九〇四年から一九〇五年にかけて、高橋是清がジェイコブ・シフやロンドンの銀行家たちと血の滲むような交渉の末に交わした、あの「八千二百万ポンド(八億二千万円)の日露戦争外債」の存在であった。
敵国となったイギリスやアメリカに対し、この外債の元利(元金と利息)をどのように扱うべきか。
「敵国への債務など、今すぐ踏み倒せばよい! 我々は生死を賭けて戦っているのだ。毛唐の銀行家どもに一銭の利息も払う必要はない!」
軍部や政府の強硬派は、日露外債の不履行(踏み倒し)を叫んで息巻いた。
しかし、大蔵省と日本銀行の片隅で、焼け野原に叩き落とされながらも帳簿を抱え続けた、是清の教えを受け継ぐ若き財政官僚たちは、命がけでこの暴挙を拒絶した。
「断じて不履行にしてはなりません!」
彼らは、軍部からの不敬のそしりを受けながらも、涙ながらに反論した。
「あの外債は、かつて高橋・富田両閣下が、我が国が滅亡の淵にある時、日本国民全員の『決して契約を裏切らぬ誠実さ』を担保にして、世界から借り受けた救国の盾です。もし国交が途絶え、物理的な利払いが戦火によって一時的に滞ろうとも、我々はこの帳簿の数字を、一厘たりとも消し去ってはならない。この信用の規律こそ、日本がどれほど焦土と化そうとも、再び世界の舞台へと這い上がるための『最後の生命線』なのです」
戦火は日増しに激しくなり、東京は大空襲によって瓦礫と化した。日本銀行の本店も、一部が炎に包まれ、周囲は灰燼に帰した。
だが、その防空壕の奥深くで、財政官僚たちは懐に日露外債の償還帳簿を抱きしめ、戦火の熱から死守し続けた。
一九四五年(昭和二十年)八月十五日。
日本は無条件降伏し、敗戦を迎えた。
国土は焦土と化し、かつての軍事大国は完全に崩壊した。
しかし、焼け残った日本銀行本店の金蔵の地下深く。あの「一千万ポンドの約束から始まった、八千二百万ポンドの日露戦争外債」の帳簿は、一度たりとも破棄されることなく、一円の狂いもなく、そこに静かに遺されていた。
富田鉄之助が創り、高橋是清が自らの命を賭して守り抜いた「不屈の誠実さと信用の規律」。
国が亡び、すべてを失った焼け跡の底から、日本という国が再び立ち上がるための「真の復興の旅路」が、この帳簿の数字を巡って、戦後の動乱の中で静かに始まろうとしていた。
(第38話 完)
第39話「復興の天秤:焼け跡の数字」
一九四五年(昭和二十年)八月。
終戦を迎えた日本を待っていたのは、かつて高橋是清が最も恐れていた、国家の信用の死――すなわち、猛烈なハイパーインフレーションの地獄であった。
戦時中の無計画な国債乱発と、日本銀行による無制限の直接引き受けによって、市場には物資がないにもかかわらず、刷り増しされた紙幣だけが虚しく溢れ返っていた。一晩で物価が数倍に跳ね上がり、民は再び飢餓と闇市の混迷へと叩き落とされた。
翌一九四六年(昭和二十一年)二月、政府はこれ以上の通貨価値暴落を防ぐため、預金の払い出しを強制的に制限する「預金封鎖」と、旧紙幣を無効化する「新円切り替え」という、文字通り骨を断つ過酷な荒療治を断行した。
この、国家の財政が臨死状態にある最中、日本銀行本店の総裁室には、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の金融官僚たちが、横柄な態度で乗り込んできた。
「本日より、日本銀行のすべての資金運用、および通貨発行は、我々GHQの直接の監視下に置かれる。敗戦国日本に、独自の財政権など存在しない」
GHQの将校たちが突きつけた統制の書類を前に、第十八代日本銀行総裁・一万田尚登(いちまだひさと)は、静かに、だが揺るぎない眼光をたたえて対峙していた。
一万田は、大分県出身の、旧大分藩士の血を引く男であった。彼は日銀に入行して以来、高橋是清が残した「日銀の独立性」という思想を、その背中から骨の髄まで学んできた最後の世代であった。
「司令官。我が国が敗戦国である事実は受け入れます」
一万田は、毅然とした態度で、英語で語りかけた。
「しかし、日本銀行は政府の僕(しもべ)でもなければ、占領軍の私金庫でもありません。いかなる統制下にあろうとも、我々は独自の『信用の天秤』を守り、通貨の規律を維持せねばならぬ。それが、明治の創立者たちがこの城に植え付けた、我が国の最後の誇りだからです」
その、かつての富田鉄之助を思わせる頑強な態度に、GHQの将校たちも、一目置かざるを得なかった。一万田は戦後の混乱期において、GHQの不当な介入を拒絶し続け、のちに「法王」と呼ばれるほどの絶大なる指導力を以て、日銀の独立を死守していくこととなる。
しかし、財政の再建と、日本が国際社会へ復帰するにあたって、避けて通れぬ「最大の関門」が立ちはだかっていた。
一九五一年(昭和二十六年)、サンフランシスコ平和条約の締結を前に、アメリカやイギリスをはじめとする連合国から、日本政府に対して極めて冷酷な問いが投げかけられた。
「日本は、第二次世界大戦によって国家が破綻した。ならば、戦前に海外の投資家から募った『外債(国債)』を、すべて踏み倒す(デフォルトにする)つもりかね? もし借金を踏み倒す国であるなら、我が国際社会は、日本との平和条約締結も、今後の国際市場への復帰も、一切認めない」
これこそが、かつて日露戦争の際に、高橋是清がジェイコブ・シフらと交わした、あの「八千二百万ポンド(八億二千万円)の外債」を含む、戦前外債の処理問題であった。
日本は焦土と化し、手元に一ドルの正貨も残っていない。国内の復興資金すら足りない状況で、戦前の莫大な借金を返済することなど、常識的には不可能に思われた。大蔵省や政府の内部でも、「一度、破産宣告をして、全ての負債を帳消しにしてもらうべきだ」という声が、多数を占めていた。
だが、一万田総裁をはじめとする日銀の獅子たち、そして大蔵省の若き官僚たちは、立ち上がった。
「不履行など、断じてしてはならない。国が滅びかけ、焦土と化そうとも、我々はあの一銭、一厘の規律を汚してはならん」
彼らの脳裏には、かつて富田元総裁が説いた「不屈の誠実さ」の教え、そして是清がシフの目の前で「日本人の辞書に不義理という言葉はない。最後の一厘にいたるまで働いて返済する」と言って深く頭を下げた、あの歴史的な誓いが、生々しく息づいていたのだ。
一九五二年(昭和二十七年)、ニューヨークにおいて「戦前対外債務処理会議」が開催された。
世界各国の投資家や銀行家たちが並ぶ席で、日本代表団は、ボロボロのスーツを着ながらも、背筋を正して座った。
彼らが机の上に提示したのは、あの戦火を生き延び、一円の狂いもなく記帳され続けた「日露戦争外債の償還帳簿」であった。
「日本政府は、戦前のすべての外債を、約束通り、最後の一セント、一ペニーに至るまで、利息を含めて完済することを、ここに誓約いたします」
日本側のこの驚くべき、敗戦国とは思えぬ「誠実な合意」に、ニューヨークとロンドンの金融界は、息を呑み、そして割れんばかりの拍手を送った。
「日本は、戦争には敗れた。だが、その信用の規律においては、世界で最も気高い国だ」
この「戦前外債の誠実な返済合意」こそが、のちに日本が世界銀行などの国際機関から莫大な復興資金を借り入れ、奇跡の「高度経済成長」を遂げて、世界第二位の経済大国へと駆け上がるための、最大の推進力(パスポート)となったのである。
焼け跡の数字から、再び日本の「不屈の誠実さ」を以て、世界の門をこじ開けた日銀の獅子たち。
富田鉄之助が創り、高橋是清がその命を賭して守り抜いた「信用の天秤」は、焦土の底から立ち上がり、新たなる時代への大いなる復興の扉を、いま美しく開き始めていた。
(第39話 完)
第40話「高度成長の機関車:昭和の獅子たち」
一九六〇年代。
東京の空は、高度経済成長という名の巨大な機関車が吐き出す、黒い煤煙と活気に満ち満ちていた。
一九六四年(昭和三十九年)の東京オリンピック開催を控え、東海道新幹線が開通し、東京タワーがそびえ立つ。池田勇人内閣が掲げた「国民所得倍増計画」の掛け声のもと、日本は戦後の焦土から奇跡の如く立ち上がり、世界が目を見張る経済大国への道を猛烈な速度で突き進んでいた。
この空前の高度成長の心臓部として、昼夜を問わず資金の血液を送り出し続けていたのが、日本橋本石町の日本銀行本店であった。
「総裁。今月の主要銀行への貸出枠の査定がまとまりました。各行とも、鉄鋼や自動車、家電の設備投資のために、預金総額を遥かに超える融資要求を出してきております」
日銀本館の重厚な総裁室。
若き局員たちが、分厚い融資規程の帳簿を抱え、総裁の前に進み出た。
当時、日本銀行が採用していたのは、のちに「窓口指導」と呼ばれる、市中銀行の貸出額を直接コントロールする金融システムであり、同時に、銀行が自らの預金額を超えて企業に融資し、その不足分を日本銀行が融資で直接補填するという、極めて大胆な「過剰貸出し(オーバーボローイング)」体制であった。
これは、西洋の硬直的な金融理論から見れば、あまりにも危険な信用膨張であり、通貨の暴落を招きかねない「暴挙」とみなされかねなかった。
しかし、日銀の若き獅子たちは、かつて高橋是清が残した「富の循環(経済)」の思想を、この戦後の平和産業の育成において、見事に昇華させていた。
「これは、かつて高橋閣下が日露戦争期に『軍事公債を担保とする日銀融資』で成し遂げた、あの信用の創造と同じ構造なのだ」
日銀の調査局の幹部が、黒板に資金の流れを描きながら語った。
「お金がないからと言って融資を絞れば、産業の芽は干からびてしまう。だが、日本銀行が一時的に信用を先払いして資金を融通し、企業がそれによって巨大な製鉄所や工場を建設すれば、それは実体のある『生産力(富)』へと転化する。生産力が向上すれば、製品が海外へ輸出されて外貨を稼ぎ、それはやがて本物の『預金(信用)』となって銀行へと還流してくる。この、設備投資が新たな信用を創造する『動的な富の循環』こそが、我が国の高度成長を支える最大のエンジンなのだ」
若き官僚たちの目には、かつて是清が泥の中で、そして鉄之助が孤独な総裁室で磨き上げた「信用の規律」が、確かに息づいていた。
だが、この怒涛の信用創造を可能にし、世界の金融界が日本の急成長に対して莫大な低利資金を提供し続けているのには、もう一つ、目に見えぬ「世界的な根拠」があった。
それは、日本がどれほど焦土と化そうとも、敗戦のどん底に叩き落とされようとも、一度たりとも裏切ることのなかった、あの「約束」の重みであった。
一九六〇年代の半ば。ロンドンのシティ、あるいはニューヨークのウォール街の金融市場において、日本の存在感は日々増していた。
「日本政府は、一九〇四年(明治三十七年)に発行された『日露戦争外債』の元利払いを、今期も一ペニー、一セントの滞りもなく、誠実に支払い終えました」
世界の銀行家たちは、日本から届く年次償還の報告書を前に、畏敬の念を禁じ得なかった。
日露戦争から半世紀以上。日本は二つの大戦を経て、国交断絶の荒波を越え、一度は国が滅びるほどの敗戦を経験した。にもかかわらず、戦後の貧しい時代から今日に至るまで、あの「明治の借金」を、まるで国家の背骨のように大切に、誠実に支払い続けているのだ。
「日本という国は、どんな最悪の事態に直面しても、世界との約束を絶対に踏み倒さない。これほど気高い、信用の規律を持った国は他にはない。日本の未来に金を貸すことに、何の不安があろうか」
この、世界の金融界に根付いた「不屈の誠実さ」こそが、高度経済成長期において、日本企業が海外から巨額の資金調達を極めて低い金利で行うことを可能にする、無二のパスポート(信用の盾)であった。
是清と富田元総裁が、かつて世界の怪物たちを相手に、自らの「命と不屈の魂」を担保にして勝ち取ったあの一千万ポンドの契約。
その重い金鎖は、昭和の時代において、日本を世界の経済大国へと牽引する、最も強固な「信用の絆」へと、美しくその姿を変えていた。
日本橋の日本銀行本店。
かつて是清が辰野金吾と共に、川田総裁を説得して創り上げた、関東大震災の炎をも耐え抜いたあの堅牢な本館の回廊を、昭和の獅子たちが忙しそうに走り回っている。
その重厚な石造りの建物の柱には、鉄之助が命を賭して守り抜いた「中央銀行の独立」と、是清がその身を捧げて残した「民のための財布」の精神が、大正、昭和の煤煙を乗り越え、不滅の灯火となって、いまも静かに、だが力強く輝き続けていた。
(第40話 完)
第41話「金本位制の崩壊とニクソンショック」
一九七一年(昭和四十六年)八月十五日。
米国大統領リチャード・ニクソンが、テレビの緊急放送を通じて世界に放った一言は、国際金融界に未曾有の衝撃波(ニクソンショック)を走らせた。
「本日をもって、米ドルと金(ゴールド)の兌換を一時的に停止する」
それは、戦後の世界経済を支えてきた「ブレトンウッズ体制」の事実上の崩壊、すなわち大英帝国の金本位制から引き継がれ、米ドルが約束してきた「お札と金を交換する」という世界共通の『信用の大前提』を、米国が自らの都合で一方的に破棄した瞬間であった。
ドルと円の固定相場(一ドル=三百六十円)は瓦解し、円高の津波が日本の輸出産業を直撃する。
大蔵省と日本銀行の幹部たちが、激変する為替相場を前に青ざめ、怒号を散らす中、当時、佐藤内閣の外務大臣を務めていた六十六歳の福田赳夫は、赤坂の執務室の窓から、土砂降りの雨を見つめていた。
福田の耳には、紙幣の価値が暴落し、世界の信用が砂上の楼閣の如く揺らいでいく音の中で、かつて、自分がまだ二十七歳の大蔵省の若手官僚であった昭和七年(一九三二年)の、あの身の毛もよだつ「死の一幕」が蘇っていた。
当時、大蔵大臣であった高橋是清の命を受け、福田は海外駐箚(ちゅうさつ)財務官である上司・津島寿一のお供をして、フランス・パリのロスチャイルド邸を訪問したのだ。
用件は、間もなく償還(返済)期限を迎える「日露戦争外債」のうち、フラン建ての国債についての通告であった。
前年の一九三〇年、フランス政府はフランの大幅な切り下げを断行し、金本位制に復帰していた。そのため、日本政府(大蔵省)は、実質的な値切り交渉として、**「フランス政府がフランを切り下げたのだから、我が国も切り下げ後の『安くなった新フラン』で借金を返還する」**と、通告しに行ったのである。
ロスチャイルド邸の豪華な応接室。
フランス・ロスチャイルド家の当主は、最初は東洋の若き大蔵官僚である福田たちを温かく迎え、高橋是清の懐かしい噂話をして友好的に談笑していた。
しかし、津島寿一が「新フラン建てでの値切り償還」を通告した、その瞬間であった。
友好的だったロスチャイルド当主の顔が、一瞬にして、氷のように、いや、獣の如く険しく一変した。
「……何だと。日本は、フランが下がったことを利用し、我がロスチャイルドが貸した金の価値を削って返そうというのか。あの高橋が、そのような『不誠実』を我が一族に突きつけるというのかね」
当主の激昂と共に、豪奢な扉が開き、応接室の背後から、プロレスラーのように大柄で屈強な体格の男たちが、ずらりと姿を現した。その手には、まるで棍棒のような重い棒が握られているように見え、男たちは無言で福田たちを包囲した。
(……もう、生きてこの屋敷から出ることはできない)
若き福田の背中を、凄まじい死の恐怖の冷や汗が流れた。
ロスチャイルド当主は、動けなくなった福田たちを見下し、冷酷極まりない声を響かせた。
「ミスター・フクダ。君たちは国家の『信用』というものが、どれほど恐ろしい、妥協なき規律であるかを知らんようだ。ロスチャイルドの帳簿に記された数字は絶対だ。もし日本がこれをごまかし、一ペニー、一フランでも値切ろうとするならば――我々は、お前たちを世界の金融市場から永久に締め出す。日本という国は、世界から資金を二度と調達できぬ二流の植民地に成り下がるが、それでも良いかね」
その、一歩も引かぬ「不屈の誠実さと信用の規律」の凄まじい威圧の前に、日本側は値切り交渉を完全に断念せざるを得なかった。日本政府は、不当な利益を得ることを恥とし、約束通りの誠実な条件で、外債の返済を全額、継続することを誓約したのである。
「あの時、私は思い知らされたのだ」
福田赳夫は、雨の窓ガラスを指先でなぞりながら、大蔵省の後輩たちに静かに語りかけた。
「国家の面目や安っぽい矜持など、世界の冷酷な信用の前には一銭の価値もない。借りたものは、どのような不条理が来ようとも、最後の一厘にいたるまで完璧に、誠実に返し抜く。それだけが、我々が世界の中で発言権を持ち、生き残るための唯一の盾なのだ。アメリカが自らドルの金を止めて信用を裏切ろうとも、我々日本は、あの富田元総裁と高橋閣下が残した『不屈の誠実さ』の規律を、一歩も崩してはならん」
福田の回想を聞いた日銀と大蔵省の若き獅子たちは、深く、息を呑んで頷いた。
ニクソンショックという、戦後最大の信用の荒波。
世界中が自らの利益のために契約を破棄し、通貨の価値を乱高下させる混沌の中で、日本はロスチャイルドの教え、そして是清の残した「信用の規律」を頑固なまでに守り抜き、あの一九〇四年に借りた日露戦争外債の返済を、年一回、変わらぬ誠実さでロンドンへと支払い続け、絶対の信用格付けを維持し続けた。
世界が揺らごうとも、日本の「不屈の誠実さ」という防波堤は、一歩も揺るがない。
その、福田赳夫が若き日にロスチャイルド邸の死の恐怖から学び取った信用の教えは、日本経済を新たなる為替の荒波から救い出し、完済の結末へと向かって、さらに固く、強固に引き継がれていくのである。
(第41話 完)
第42話「オイルショックと『経済の福田』」
一九七三年(昭和四十八年)秋。
日本経済は、再び制御不能の巨大な「数字の暴走」に直面していた。
第四次中東戦争の勃発に伴い、産油国が原油価格を四倍に引き上げた「第一次オイルショック(石油危機)」が発生。資源を百パーセント海外に依存していた日本は、直撃を受けた。
さらに運悪く、当時の田中角栄首相が進めた「日本列島改造」による猛烈な信用膨張(過剰な資金供給)が重なり、日本国内には「狂乱物価」と呼ばれる物価暴騰のパニックが吹き荒れた。
「トイレットペーパーや洗剤がなくなるぞ!」
主婦たちが商店の前に列をなし、棚を空っぽにする騒動が連日報道される。卸売物価は前年比で三割以上も暴騰し、円の価値は日々溶けていく。
高度成長に沸いていた日本は、一瞬にしてインフレの地獄絵図へと叩き落とされたのだ。
そんな国難の最中の十一月二十三日、愛知揆一大蔵大臣が急死。
田中首相は、国家の財政破綻を防ぐため、自らの政敵であり、財政規律を最も重んじる「安定成長派」の福田赳夫を大蔵大臣に任命する。当時六十八歳。
大蔵大臣の椅子に座った福田は、目の前に積まれた田中内閣の超積極的な予算書を睨みつけ、固く唇を結んだ。
「これより、我が国の予算編成を『総需要抑制』――すなわち、完全な緊縮財政へとシフトさせる。列島改造の公共事業はすべて凍結し、金利を引き上げ、市場の過剰な資金を力ずくで吸い上げるのだ」
「大臣、お待ちください!」
大蔵省の財政官僚や、田中派の政治家たちが色めき立った。
「公共事業を一気に凍結し、金融を引き締めれば、これまで高度成長を支えてきた企業が次々と連鎖倒産し、深刻な不況が日本を襲いますぞ!」
福田は、老眼鏡を外し、冷徹な眼光を官僚たちに向けた。
「不況を恐れて資金を垂れ流し続ければ、待っているのはインフレによる『信用の死』、すなわち国家の自滅だ。お前たちは、まだ分からんのか」
福田の脳裏には、かつて自分が二十七歳の大蔵省の若き官僚であった頃、大蔵大臣として自らの前にそびえ立っていた、あの高橋閣下の姿が息づいていた。
高橋閣下は、日本を世界大恐慌から救い出すために「日銀の国債直接引き受け」という劇薬を用いた。しかし、病が治りかけた昭和十年に、「今こそ劇薬を止め、国家の財布の口を閉めねばならん」と、軍部の猛烈な脅迫(インフレ要求)をたった一人で堰き止め、最終的には自らの命を人柱にしてその規律を死守したのだ。
「かつて高橋閣下がその命を賭して守り抜こうとした、国家の『信用の防波堤』。今度は、私がこの昭和の狂乱を堰き止める人柱となって、財布の口を閉めてみせる」
福田は不退転の覚悟を以て、金利の引き上げと徹底的な緊縮財政を断行した。
この、企業を血まみれにするほどの「総需要抑制政策」は、激しい痛みを伴った。倒産する企業が相次ぎ、日本経済は戦後初めての「マイナス成長」を記録した。
しかし、福田が「昭和の是清」の如く、いかなる批判をも退けて貫いたこの不退転の規律によって、わずか一年で日本の狂乱物価は沈静化へと向かい、日本経済はインフレの深淵から奇跡的に生還することに成功した。
さらに、この激動の戦いの中でも、日本銀行本店の金蔵からは、あの一九〇四年に富田元総裁と高橋閣下がロンドンで交わした「日露戦争外債」の返済が、一銭の滞りもなく、誠実に世界に向けて支払われ続けていた。
「日本は、オイルショックでマイナス成長に陥りながらも、あの明治時代の外債の支払いを一度たりとも滞らせなかった。この国が示す『不屈の誠実さ』こそが、我々が日本に対する投資を再開する、何よりの根拠だ」
世界の金融界は、福田の不退転の緊縮財政と、日本が守り続ける「鉄の信用」に対し、惜しみない賛辞と信頼を送り続けた。
オイルショックを克服した日本は、かつての資源を浪費する高度成長から、世界で最もエネルギーを効率的に使う「安定成長」へと産業構造をシフトさせ、名実ともに、世界をリードする超・経済大国へと脱皮を遂げたのである。
赤坂の夕暮れを見つめながら、福田赳夫は、かつてパリのロスチャイルド邸で、そして高橋閣下の背中から学んだ信用の重みを、改めて噛み締めていた。
「閣下……。あなたの残した防波堤は、今も確かに、この国の富を守り抜いていますよ」
日本の信用の灯火は、どのような激動の嵐の中でも、一度も消えることはなかった。そして、明治から八十年の歳月をかけて紡がれてきたあの「救国の外債」の償還帳簿は、いよいよ、すべての負債を返し抜く、究極の結末(完済)の瞬間へと、一歩ずつ確実に近づいていた。
(第42話 完)
第43話「円の覇権とバブルの序曲」
一九八五年(昭和六十年)九月二十二日。
米国ニューヨークの「プラザホテル」において、世界経済の潮流を決定的に変える歴史的な合意が交わされた。
日、米、英、独、仏の五カ国(G5)の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、米ドルの独歩高を是正するための協調介入に合意した「プラザ合意」である。
日本を代表して署名したのは、竹下登大蔵大臣と澄田智(すみたさとし)日本銀行総裁であった。
この署名の瞬間から、為替市場は猛烈な勢いで「円高」へと傾斜し始めた。
合意前は一ドル=二百四十円前後であった為替レートは、僅か一年で一ドル=百五十円台にまで急騰。日本の通貨「円」の価値は一気に跳ね上がり、日本は図らずも「世界の富の支配者」の如き地位へと押し上げられることとなった。
円高による輸出不況を和らげるため、日本銀行は金利を史上最低水準へと引き下げ、市場には空前の過剰資金が溢れ返った。
のちに「バブル経済」と呼ばれる、土地と株の狂乱的な暴騰。東京の地価ですべてのアメリカの土地が買えると言われ、銀座の夜が札束で飾られる、かつてない浮かれた豊かさが日本を包み込もうとしていた。
その熱狂と狂乱の影で。
日本橋本石町の日本銀行本店の最奥、冷たい鉄扉に守られた古い金蔵の地下室では、きらびやかな世相とは全く無縁の、極めて静かで厳かな「実務」が、淡々と進められていた。
「……澄田総裁。いよいよ、あの帳簿の最後の一頁を開く時が参りました」
日銀の国債局長が、一冊の分厚い、黄ばんだ帳簿を総裁室の机の上に置いた。
それは、一九〇四年(明治三十七年)五月、高橋閣下がロンドンでジェイコブ・シフと交わした「一千万ポンドの救国外債」に始まり、計四回にわたって発行された、あの**「総額八千二百万ポンド(八億二千万円)の日露戦争外債」**の償還帳簿であった。
帳簿の表紙には、長年の手擦れによって消えかかった大蔵省の古い刻印と、かつて焼け野原の防空壕の中でこの帳簿を抱きしめて死守した、歴代の財政官僚たちの汗と油の染みが、無数の星のように残っていた。
澄田総裁は、その黄ばんだ頁を、一枚一枚、愛おしむようにめくった。
頁には、明治、大正、昭和の激動の歳月の中で、ロンドンやニューヨークに向けて支払われ続けた、膨大な償還金と金利の数字が、一銭の狂いもなく、完璧に、誠実に記帳され続けていた。
「明治三十七年から、足掛け八十二年……。我が国は本当に、あの時の『約束』を、今日この日まで守り抜いてきたのだな」
澄田の声には、深い畏敬の念が宿っていた。
日露戦争での辛勝、第一次大戦の好況、関東大震災、世界大恐慌、そしてあの二・二六事件の悲劇。さらには第二次大戦での敗戦と焦土。日本は国が滅びかけ、国交が断絶するほどの破滅を経験してもなお、この「日露戦争外債」の帳簿を一度たりとも破棄せず、不履行にすることなく、毎年誠実に返済し続けてきたのだ。
「富田元総裁が『中央銀行の独立性』を説いてこの城に植え付け、高橋閣下が自らの命を人柱にして守り抜いた『不屈の誠実さと信用の規律』。それがなければ、我が国はとっくにデフォルト(債務不履行)を起こし、戦後の奇跡の復興も、今日の円の覇権も存在しなかったでしょう」
国債局長が、静かに語りかけた。
「ええ、その通りだ。この帳簿に刻まれた数字こそが、我が国の真の『骨組み』、すなわち世界が日本を信じるための最後の防波堤であったのだ」
澄田総裁は、帳簿の最終頁を見つめた。
そこには、一九八六年(昭和六十一年)に償還予定となっている、日露外債の「最後の一円(最後の一ポンド)」の償還予定額が、静かに刻まれていた。
日本の富が世界の頂点に達し、街がバブルの狂乱へと滑り出そうとするその傍らで。
明治の元勲たちから引き継がれてきた八十二年に及ぶ「救国の外債」の旅路は、いま、すべての負債を返し抜く、究極の完済の瞬間を迎えようとしていた。
(第43話 完)
第44話「昭和六十一年(一九八六年):最後の一円」
一九八六年(昭和六十一年)。
東京の街は、地価の暴騰と株価の急上昇によって、狂乱的な「バブル経済」の絶頂期を迎えつつあった。きらびやかなネオンの下、人々は札束を握りしめて贅沢を競い合い、日本は世界第一位の債権国として、国際経済の主役にのし上がったかのように錯覚していた。
だが、その浮かれた喧騒から完全に遮断された、日本橋本石町の日本銀行本店。
かつて高橋元総裁が辰野金吾と共に、川田総裁を説得して創り上げた、一八九六年(明治二十九年)竣工の重厚な石貼煉瓦造の本館地下金蔵。
その静まり返った一室で、大蔵省の国債課長と日銀の国債局幹部が、一冊の、古びて黄ばんだ帳簿の前に立ち尽くしていた。
一九〇四年(明治三十七年)から一九〇七年(明治四十年)にかけて、高橋元総裁がロンドンやニューヨークを奔走して発行した、あの**「総額八千二百万ポンド(八億二千万円)の日露戦争外債」**。
その返済を、日本人は八十二年間、どのような最悪の国難に直面しても、一度たりとも滞らせることなく支払い続けてきた。
大正の大不況、関東大震災の瓦解、そして昭和のあの敗戦の焦土。国庫が完全に底をつき、国が滅びかけたあの日々にあっても、歴代の財政官僚たちはこの帳簿を抱きしめて死守し、世界との約束を誠実に履行し続けた。
そして、ついに。
今日、一九八六年(昭和六十一年)のこの日、最終の償還(返済)期限を迎えたのである。
「国債局長。ロンドン、およびニューヨークの決済銀行から、最終回分の利息と元金の引き落とし、完了の電文を受領いたしました」
若い局員の、少し震える声が、地下室の厚い壁に跳ね返った。
「そうか……。ついに、終わったのだな」
局長は、静かに、だが深く息を吐き出した。
机の上に広げられた黄ばんだ帳簿の最終頁。そこには、明治三十七年から八十二年間にわたり、毎年、毎期、一銭、一ペニーの狂いもなく記帳され続けた、あの「救国の重い金鎖」の、最後の償還金額が記されていた。
局長は、傍らに置かれた朱肉の印泥(いんでい)を開き、重厚な決済用の「完済」の判を手に取った。
判を押し当てる指先が、その歴史の重みに、かすかに震える。
カツン、と。
静寂に包まれた金蔵の中で、判を捺す冷たい音が、厳かに響いた。
朱色の「完済」の文字が、黄ばんだ和紙の最終頁に鮮やかに、そして誇り高く捺された。
この瞬間、明治の戦火の中で極東の小国が世界を相手に「信用の創造」を試みた、あの八十二年にわたる壮絶な「信用の戦い」は、ここに一厘の未払いも、一日の一時停止もなく、完全に、完璧に、完結したのである。[1][2]
局長は、かつて敗戦直後の焼け野原の中で、GHQの不当な介入を撥ね退け、この帳簿を守り抜いた先達たちの背中を思い浮かべていた。
彼らが何を守ろうとしたのか。それは、安っぽい面目でも、お上の権威でもない。ただ一つ、世界に対して日本人が示した「決して約束を裏切らない、不屈の誠実さ」という、目に見えぬ無二の盾であった。
「我々が今、このバブルの空前の繁栄を謳歌できているのは、すべて、この『最後の一円』を守り抜いた先達たちの、血の滲むような規律があったからこそなのだ……」
局長は、完済の判が捺された古い帳簿を、恭しく抱きしめた。
その帳簿の奥から、かつてボストンのガス灯の下で国富論を貪った富田元総裁の、そして神田の豚小屋の泥水から這い上がり、世界の金融家を屈服させた高橋元総裁の、不敵にして頑固な魂が、優しく、安堵の息を吹きかけるかのように感じられた。
明治から、大正、昭和。
太平洋をまたいだ二人の天才が創り、守り抜いた「信用の防波堤」は、そのすべての使命を果たし終えたのだ。
しかし、物語はいよいよ、この二人の龍の魂が、天へと還っていく最終回(第45話)へと引き継がれる。日本の富の歩みが、ここに大いなる完結の時を迎えようとしていた。
(第44話 完)
第45話・最終回「泥の中の龍、天へ登る」
一九八六年(昭和六十一年)秋。
夜の静寂が、日本橋本石町の日本銀行本店を包み込んでいた。
昭和元禄とも呼ばれるバブルの狂乱的な熱気が、川向こうの兜町や銀座の街をきらびやかに彩る中、明治二十九年竣工の本館は、月光を浴びて静かに、そして超然とそびえ立っていた。かつて高橋是清と辰野金吾が、川田小一郎総裁を説得して創り上げた、あの「石貼煉瓦造(穴あき煉瓦)」の城。関東大震災の劫火を耐え抜き、東京大空襲の戦火をも退けたこの堅牢な防波堤は、今も一厘の狂いもなく、この国の「富の心臓」として鼓動を続けていた。
地下の金蔵。
日露戦争外債の償還帳簿に、朱色の「完済」の判が捺され、澄田総裁らによって静かにその表紙が閉じられた。
明治三十七年のあの一千万ポンドの発行から、足掛け八十二年。
日本という国が、敗戦の焦土、国交の途絶、ハイパーインフレーションという幾多の破滅を経験しながらも、一度として世界との約束を裏切ることなく、誠実に支払い続けてきた最後の一円、最後の一ペニーの決済が、ここにすべて完了したのだ。
その瞬間。
日銀本館二階、かつて富田鉄之助が、そして高橋是清が座り、国家の財布を守るために巨大な権力と闘い抜いた、あの総裁室。
窓から差し込む秋の澄み切った月光の中に、二人の「影」が静かに現れた。
一人は、白髪を蓄え、陸奥国二千石の誇りをたたえた、五十四歳の富田鉄之助。その瞳には、ボストンの冷たい夜に、自らの「未来の信用」を担保に深く頭を下げ、アダム・スミスの国富論を貪ったあの不屈の意地が、今も宿っていた。
もう一人は、だるまのような丸い身体を縮め、不敵な笑みを浮かべた高橋是清。指先には大蔵省の帳簿をめくり続けたインクの染みが、生々しく残っていた。
二人は並び立ち、窓の向こうに広がる、光り輝く東京の夜景を静かに見つめた。
「是清。やり遂げたな」
鉄之助が、穏やかな、だが深く響く声で語りかけた。
「ええ、旦那」
是清は、かつての少年の日のように、不敵に笑って見せた。
「最後の一円、最後の一厘まで、綺麗さっぱり返し抜いてやりましたよ。日本人の辞書に不義理という言葉はない。これであのロンドンやウォール街の銀行家どもに、我が国の意地を完璧に示せました。だるまの痩せ我慢も、なかなか大したものだったでしょう」
「ああ、見事だ」
鉄之助は、是清の逞しい肩を優しく叩いた。
「国を富ませるものは、大砲や軍艦そのものではない。決して裏切らぬ『不屈の誠実さ』という、目に見えぬ信用の力なのだ。お前がロンドンで、そして昭和の恐慌で示し続けたその信用の防波堤が、この国の奇跡の復興を、そして今日の繁栄を支える、最も頑強な背骨となった」
二人の影は、互いの歩んできた百二十年に及ぶ「信用の戦い」を讃え合うように、深く、静かに頷き合った。
すると、総裁室の窓から吹き込んできた夜風が、二人の影を優しく包み込んだ。
その風の中には、かつて鉄之助に「俺を不義理の主に仕立てるな」と言って刀を置かせた勝小鹿の、そして是清に「お前が死んだら誰が日銀の城を守るんだ」と巾着を差し出した勝海舟の、さらには「国の役に立ちなさい」と孫を看取った祖母・喜代の、そして横浜の銀行で複式簿記の基礎を叩き込んだアラン・シャンドの、懐かしい面影と温かい温もりが、確かに混じり合っていた。
「……旦那、行きましょうか」
「ああ、行こう」
二人の影は、月光に溶けるようにして、一頭の巨大な「龍」へとその姿を変えた。
泥の中から生まれ、信用の炎を吐き、国家の富を守る防波堤として生涯を捧げた二人の魂は、一頭の光り輝く龍となり、日銀本館の屋根を越えて、澄み切った東京の夜空へと、静かに、そして気高く登り詰めていった。
太平洋をまたぎ、幕末の混沌から明治、大正、昭和の激動を、泥水をすすりながら駆け抜けた二人の天才。
彼らが残した「独自の信用の盾」と「富の循環の理」は、日本という国家が存在する限り、これからもこの日本橋の重厚な石の城の中で息づき、民の財布を、そして国家の未来を、静かに守り続けていくのである。
(『鉄之助と是清』 完結)
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とてもチップなどいただけるような記事を書いているとは思っておりませんが
もし、応援してもいいなとお思いの方がいらっしゃったら、
次回の記事へのモチベーションにもなりますので是非よろしくお願い致します!!