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【エッセイ】やおよろずの神様

新しい仕事と併せて、何だかんだ書くことも続けていて、我ながら「頑張ってるなあ」と思うし、万事楽しめている今を日々嬉しく思う。

日常が慌ただしく動く中でも、ブレずに地に足つけて、自分の「したいこと」を見失わずにやっていきたい。

そんなことを思いながら、仕事終わりの気分転換にチェーンのカフェに寄り道をする。

稼いだお金を、その帰路にすぐ使っているような気がして、何だか無駄使いをしているのでは…と思う自分がいないわけではないけれど、まあたまにはいいのよ。

そんなふうに思えるようになったのも、ここ数年のことだ。

とりあえずお店に入ってホットコーヒーを頼み、ゆっくりと飲んでいく。

そのまま特に何も考えずにしばらくぼーっとしていたら、隣の空いた席に女子高校生が一人やってきた。

空いたその席の机に、そっとハンドタオルのようなものを置いて、注文をしにレジに向かう。

私はその光景を見てながら、「ああ、日本はやはり平和な国だなあ」と、勝手にしみじみする。

──こんなふうにして、コーヒーを飲みながら今日の思考は始まった。

いつも以上に、好きなことを好きなように書き散らかしています。お時間のあるときに、お付き合いください。

では、いざ。


「その場所を占有する証として、何か自分の所有物を置く」のは、私もたまにすることなのだけど、これが通用する国とそうでない国は、間違いなくある。

海の向こうでは、普通にそのものを動かして席を使う人もいるし、何ならその置いているものは「誰のものでもない」と判断し、さらには「自分のもの」であると認識する人もいる。

例えペン一本でも紙一枚でも、そこに実在する「もの」そのものに、その持ち主を紐付けて考えることは、異文化の人にはなかなか理解が難しいかもしれない。

「自分のもの」以外のものは、「誰かのもの」であるという価値観。
「もの」の向こうに、見えない「他者」を見る感覚。

日本の文化は、そういう感覚と仲が良い。

何しろ、米一粒には七人の神様がいると考える国ですからね!
我々、毎日てんこ盛りの神様食べてますからね!

それでいうと、日本人は「目に見えているもの以上の存在を、感じるプロフェッショナル」とも言えるかもしれない。


日本人は、「お地蔵さま」とされる石像を蹴ったり踏んだりすることに、大きな抵抗がある、というような話しをどこかで見かけたとき、確かにそうだなと思った。

石像だけでなく、近くに祠があったり、その石像が赤い前掛けのようなものをつけていたりすると、手を合わせることこそあれ、足蹴にする気には絶対にならない。

また、道の端にそんな石像があると、日本人の大半は「お地蔵さま」だと認識するだろう。

例えば風化して、もう石像にすら見えない、大きな石の塊になっていたとしても、石の向こうに、見えない神様を見ることができるのである。

そもそも、日本には「神様」とされる存在が多い。

基本的に無宗教を自認している私だが、年始には初詣に行くし厄除なんてものも意識する。

お腹が痛くて、お手洗いで「神様…!」と助けを乞うたこともあるし、好きなアーティストのライブ前に、「神様、良い席を当ててください」と祈ったことだってある。

そう思うと、神様って、私の中では結構ポップな存在だ。

お堅い面でいうなら、初宮参りに七五三、結婚式や地鎮祭など、日本の文化に「神様」の存在は深く関わっている。

まあ、八百万やおよろずの神様という言葉があるくらいですからね、「はっぴゃくまん」も神様がいたら、そりゃもうそこらじゅうに神様はいることになるわけです。

いつだったか、クリスマスあたりでいたずらをした友人が、その親御さんに「そんな悪さばっかりしてると、キリストさんに怒られるよ!」と叱られていた。

これって、ものすごく日本人らしい物言いだと思うんだよなあ。


ふと我にかえると、隣の席の女子高校生はとっくに注文を終え、持ってきたケーキを美味しそうに食べていた。

あのケーキのひとくちにも、きっと七人の神様が…!

…と思うことはさすがになかったけれど、私はこれからも、お米を一粒から美味しく食べるし、道でお地蔵さまを見かけたら、せめて心の中で手を合わせるくらいの余裕を持っていこうなんて、ちょっと高尚な気持ちになったのであった。

そんな、取り止めのないお話。

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