自由意志調和型コミュニティは、どうすれば生まれるのか――生きた対話との深いつながりを探る④
第4回 対話が死ぬとき、コミュニティも死んでいく
アズワン鈴鹿コミュニティでも、話し合いを大切に、と言い続けてきた。
それでも、ある時期からそれが変質していった。話し合いの形はあっても、生きていない場になっていってしまった。
人が黙っていく。言いたいことが言えなくなっていく。
あるミーティングのことが思い出される。
一人が、はっきりと自分の意見を言った。以前なら誰かが必ず、「それどうなの?」「えー、ちょっと変」と軽く返していた場面で、その日は皆、シーンとしていた。
言いたいことはあった。でも、それを言ったときに何が起きるかが、どこかで見えていた。
だから、誰も口を開かなかった。いや、開けなかった。
自分をごまかした。「やってみなければどうなるかわからないし」と自分を納得させて動いてしまった。
「自分の意思でやった」とは感じられない。そういう状態が、じわじわと広がっていった。
話し合いが死んでいくと、「自分で決めた」という感覚が薄れていく。すると人は、自分で考え、動くことをやめていく。
その状態が広がると、コミュニティは硬直化し、停滞し、やがて崩壊へと向かっていく。
なぜそうなるのか。
一つは、評価への恐れだ。
正しさが前面に出る場では、それに合わせた意見を言うようになる。外れたことを言うことが恐怖になる。
何を言っても受け止められる、という安心がない場では、人は思ったことを出さない。出しても安全だという確信がなければ、当たり障りのないことしか言わなくなる。
思ったことがそのまま出せる場では、人の中にあるものが自然に現れてくる。
組織として本当に願っている方向も、そこから自然に見えてくる。
もう一つは、情報の偏りだ。
話し合いがフェアに機能するには、場にいる人たちの間で情報が共有されている必要がある。情報を持っている側と持っていない側が同じテーブルについても、対等な探究にはなりにくい。
こうした状態が続くと、自分で考え、判断して動く機会そのものが減っていく。
逆に、何かをやろうとするたびに「まず相談して」「確認してから」が繰り返される場では、やがて人は自分で考えることをやめていく。判断する力が、使われないまま細り、主体性を失っていく。生き生きした状態が消えていく。
誰もが何でも言え、その意見を含めて運営されれば、組織全体が生きてくる。
たとえ自分の意見とは最終的に違う判断がなされても、「自分の意見も含まれて決まった」という納得があれば、人は主体的に動ける。それが本当の意味での自由意志による行動だ。
役職をなくすことや、すべてを話し合いで決めることが大事なのではない。
どの人も何でも出し合え、その意見を含めて運営していくことが大事になるのだと思う。
自由意志調和型コミュニティは、設計できない。
主体性が薄れた場でいくら「自律分散」を唱えても、形だけになる。それは、本心ではなく考えで動いている状態だ。
自由意志調和が実現されていくのは、一人ひとりが本心を出せる対話の質から、じわじわと育ってくる。
コミュニティの質は、話し合いの質として、そのまま現れてくる。
(第五回(最終回)に続く)
