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自由意志調和型コミュニティは、どうすれば生まれるのか――生きた対話との深いつながりを探る①

本心のままに生きながら、調和していくコミュニティは、本当に成り立つのだろうか?
「自由意志調和型コミュニティ」と呼んでみると、何となくイメージはできる。でも、どうすればそれが実現されるのかは、簡単には答えが出ない。
アズワン鈴鹿コミュニティに関わって26年目。その前も含めると、45年にわたって、その可能性を感じながら、試みながら、失敗しながら、また試みてきた。
その中で、最近、少しずつ見えてきたことがある。
対話の質が変わると、コミュニティが変わる。
生きた対話があると、一人ひとりが自由意志で生きられるコミュニティが現れてくる。逆に、対話が死ぬと、コミュニティも死んでいく。
この関係を、もう少し丁寧に探ってみたい。全5回で書いてみようと思う。

●人は一人では生きられない——だから対話の質が問われる
人は一人では生きられない。
これは、よく言われることだ。でも、少し立ち止まって考えてみると、これはかなり根本的なことだと思う。
人は個体として生まれ、それぞれの身体を持ち、それぞれの感覚で世界を生きている。その意味では、確かに一人ひとりは独立した存在だ。だから、自由意志で動きたいという欲求も生じる。
でも同時に、食べるものも、着るものも、言葉も、考え方も、人は他の人や自然との関わりの中でしか生きていけない。社会動物と言われるゆえんだ。
自分の自由と、他者や社会や自然との調和——この、ともすれば異なる二つの方向性の中で、話し合いの必要性が生まれてきたのかもしれない。

しかし、話し合いをしているのに、どこか通じ合わない。
決まっても気乗りせず、やがて言いたいことが言えなくなっていく。
そして気づけば、「話し合う」ことよりも「決まったことに従う」ことが優先されていく。
——こういう経験をしている人は多いと思う。
実際、自由意志で調和するコミュニティを目指してきた私たちの中でも、同じことが何度も起きてきた。

話し合いを大事にしようとしても、何も動かない場がある。場の空気が固くなり、誰かが黙り始める場もある。
逆に、少人数で、ほんの短い時間でも、何かが本当に通じ合い、その場にいた全員の心の中に何かが残るような、そういう対話の場がある。話し合うことで、心が寄り、次々といいアイデアが湧き、どんどんコミュニティも変化し、豊かになっていくような対話もある。
この違いはどこから来るのか?
自由意志調和型コミュニティの可能性を考えるとき、この問いが出発点になると思っている。話し合いの有無ではなく、その質が問われている。
話し合いの質により、人は窮屈になったり、自由に豊かになる。

では、その「質」とは何なのか?
次回から、そこを一緒に探っていきたい。

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