【短編小説】僕ら、ラムネの海を泳いでいた。
この後悔をどこから話せば良いだろうか。彼を認識した瞬間に体が硬直した。確かに今さっき僕の横を通り過ぎて行った彼と、僕は友達だったのだ。三年前まで、一緒にこうして屋台を巡っていたのだ。でも今は、それが嘘だったかと思われるほど、あたかも他人同士のように目も合わせずにすれ違ってしまった。誰かと話しながら雑踏の中に躊躇いもなく消えていった彼の後姿を、僕は見失ってしまった。もしあの時、違う行動を取っていたら、何かが変わっていたのだろうか。
事の始まりは五年前。人の少ないのどかな町に僕達家族は引っ越した。祖母の家がその町にあり、足腰が不自由になってきた祖母を一人暮らしさせるのは危ないと父が判断したからだった。第一印象は何もない田舎。海辺の町で、これといった立派な建物は見当たらず、こじんまりとした一軒家があちこちに点々と見えるだけだった。海はちょっとした観光地で、大人達は観光シーズンは観光業、それ以外の季節は車で30分程の所にある大きな街まで行って働いていた。そんな町にも小さな学校があって、僕はそこに通うことになった。一学年一クラスしかない空き教室だらけの学校で、いくつかの教室は教材置き場に使われていたがそれも大して場所をとってはいなかった。
「転校生が来てくれました。仲良くしてあげてくださいね」との紹介に十人ほどしかいないクラスメイトは口々に話し騒いだ。
「どこから来たの?」
「なんで引っ越してきたの?」一斉に声をかけられ、口下手な僕は金魚みたいに口をパクパクさせるしかなかった。息苦しい。
「はいはい、やめなさい。一気に話しかけられると緊張するし、彼も困ってるでしょ」僕の周りに群がるクラスメイトを担任の先生が優しげな口調で諭した。
「なーんだ。つまんないの」クラスメイトはバラバラと散った。やがて、僕の周りには誰もいなくなった。
新しいコミュニティに馴染めなかった僕にとって、友達は海だけになった。学校が終わったら海辺まで坂を転がるように駆け降りて、砂浜に打ち上げられたガラクタを集める。それが日課になった。砂に塗れている割れたガラス瓶、ピンポン球、壊れた籠、船の浮き、ビー玉。どんな物語を持って、ここまで辿り着いたのだろう。大人達が汚いと顔をしかめるガラクタの山が、僕の遊び場であり宝の山だった。色々な宝を集める中で、とりわけ僕のお気に入りは空色のビー玉。日光に透かすとキラキラしてとても綺麗なのだ。その日も僕は浜辺でお気に入りのビー玉を見ながらうずくまっていた。波と一緒に揺らぐビー玉の光を見ていると、不思議と心が安らいだ。その時だった、カラスが僕のお気に入りを狙いに来たのは。目の前にバサバサと音を立てて現れたソレに驚いて、手を滑らせる。ビー玉はポチャンと情けない音を立てて深い青に消えた。探さなきゃ。必死に海中の砂を探る。しかし、海水がただ濁っていく一方でビー玉が見つかる気配はなかった。僕は泥々の手を濯いでから、砂浜にうずくまった。もう太陽はかなり傾いていた。見つからないかもしれない。「お前、そこで何してんの?」気がつくと、隣に虫取り網を持った男の子が立っていた。
「お、落としちゃったの。海に」
「何を?」
「ビー玉……」彼は夕日を一瞥すると、頷いた。「分かった。一緒に探してやる」彼は迷いなく虫取り網で海から泥を掬い始めた。ビチャビチャと海水が音を立てる。どれくらい経っただろうか。白い網が黒くなりきった頃、彼は声を上げた。「あったぞ!お前のビー玉!」顔を上げてみると、彼の手には泥で燻んだ空色が握られていた。
それから彼とは放課後に遊ぶ仲になった。彼には友達が沢山いたが、僕と遊んでくれていた。どうも僕みたいなタイプの友達が今までいなかったから、僕と遊ぶのが面白いらしい。僕はお宝を組み合わせて何か作ったり、絵を描いたり、本を読んだりするのが好きだ。素敵な空想世界に想いを馳せられるから。対照的に彼は虫を捕まえたり、鬼ごっこをしたり、海で泳いだりするのが好きな人間だった。僕達は海で泳いだり、ガラクタを拾って遊んだ。何の偶然か生まれた僕達の友情は、中学生になっても続いた。
そんなある日、祖母が亡くなった。僕達家族がこの街にいる理由がなくなった。父は半年後に都会に引っ越すと宣言した。家族の決定権は父にある。僕は何も言うことができなかった。この町に未練はなかったが、気がかりなのは唯一の友人のことだった。このことをどうやって伝えよう。いつ伝えよう。伝えたらどういう反応をするだろう。半年後に自分はこの町からいなくなるという事実を抱えながら、言えずに時間は過ぎていった。
引越しまであと一カ月の夏の終わり。町は賑わっていた。数年ぶりに町の夏祭りが復活したのだ。僕は唯一の友人に誘われて人混みに足を踏み入れていた。町の人間だけではなく観光客も混ざって、普段からは想像できない活気ある空間が完成していた。
「何する?」ずらりと並ぶ屋台を見ながら人混みを通り抜ける。
「あ!あれが良い!」僕は声を上げた。一際目を引く屋台があった。綺麗な海をビー玉で瓶詰めした様なラムネ。おじさんが氷で瓶を冷やしながら売っていた。
「じゃあ、それにしよう」小銭を渡して、冷たい瓶を受け取る。
「俺、良い場所知ってんだ」と言う彼に着いて行き、人混みを外れて神社の階段に座り込んだ。ポンとビー玉を押し込み、カラカラ鳴らしながらシュワシュワを喉に流し込んだ。ラムネの波だ。「ここ、花火も綺麗に見えるし、人少ないし、気に入ってるんだよ。穴場だろ?」僕は頷いた。彼は笑った。
「来年も一緒にラムネ飲んだりしたいよなー。ずっと友達でいような!」彼の屈託のない笑顔が、僕には痛かった。結局何も言えなかった。
そして引越しの日になった。友達に何も言えず、裏切る様な形になりながら引っ越すことになってしまった。近所の人達が集まって送り出してくれる。その中に彼はいない様だった。安心が半分、不安が半分だった。僕は近所の人達に別れを告げて、車に乗り込もうとした。その時、気がついてしまった。少し離れたところに彼が立って、こちらを見ていることに。口を開きかけた僕は、彼の目を見て動きを止めた。冷たい目で僕を見ていた。僕は目を逸らして車に乗り込んだ。『最低』その言葉が繰り返し僕の頭の中で響いていた。
今日。夏休みも後半だというのに続いているうざったい暑さの中、町に帰ってきたのは、祖母の墓参りのため。見かけた、変わらないはずの彼の姿が何だか知らない人のように見えた。雑踏に消えていった彼を見失った僕は、そのまま歩き続けた。混み合う屋台。そこでは、あの頃と変わらぬ様子でおじさんがラムネを売っていた。
「ラムネ、一つ下さい」気づけば小銭を差し出していた。渡された瓶を受け取り、人混みを掻き分け進んだ。そして、人気のない神社の階段まで歩いて行って座り込んだ。ポンとビー玉を押し込み、薄ぼんやり屋台の灯りを反射するラムネ瓶を傾ける。カランと音が鳴った。爽やかな後味の後に残ったのは仄かな切なさだった。
