「沖縄出身」を早口で名乗る僕
「名前と暑苦しい顔からお察しかもしれませんが、沖縄の出身なんです」
研修講師を生業としている僕は、冒頭の自己紹介で必ずこう言い添えることにしている。
僕の顔を眺めて、「たしかに」と参加者は顔をゆるめる。休憩時間にわざわざ沖縄愛を語りにくる参加者もいる。「沖縄出身ネタ」は、相手との距離を縮めるのにとても効き目がある。
ただ、「沖縄出身」を名乗るとき、僕は少し早口になる。
実を言うと、僕が沖縄に住んでいたのは小学四年生までのほんの数年間だけだ。だから、参加者がお金と時間をかけて味わってきた沖縄のほとんどを、僕は知らない。オリオンビールの工場も、カチャーシーも、方言も。
そんな自己紹介エピソードを、妻や子どもに話したことがある。笑って軽く流してくれることを期待していたけれど、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「パパ、ビジネス沖縄人じゃん」
一瞬息が止まりそうになったけど、「おい!」って軽くつっこんでから、急いで次の話題を探した。
そんなことない。
そんなことない、はず。
僕の祖母も両親も沖縄の人で、僕の体にもその成分が流れている。天然パーマ、茶色に近い肌の色、頻繁に間違えられる苗字、どれをとっても沖縄由来のものばかり。
小さな頃は、自分の見た目や名前を恨んだ時期もあったけれど、それでも沖縄が僕の故郷だと思っていたし、そこには親族がいて、通学路には思い出があって、まとわりつくような湿気にいつも安心した。
だけど本当は、いつも疑っている。僕は「沖縄出身」を名乗っていいのだろうかって。
だって僕は二度も、祖母を黙らせてしまったことがあるから。
◇ ◇ ◇
「おばあちゃーん、きたよー」
あれは小学四年生のときだった。僕はいつものように、祖母の家を訪れていた。国際通りを折れて五分ほど歩いた場所に祖母は住んでいて、チャイムを押すと、祖母はゆったりとした笑顔で迎え入れてくれた。
「いらっしゃい」
その温かい声を背中に受けながら駆け足で冷蔵庫に向かうのが、僕と兄弟たちのルーティーンだった。
薄みどり色の分厚い扉を開けると、兄弟全員が二本ずつ飲めるようにキンキンに冷えたヤクルトが並べられていた。一気に飲むのがもったいなくて、爪楊枝でフタに穴を開け、チュバチュバ飲んだ。時間をかけて、大事に飲んだ。
祖母の家の食卓ではいつもコーヒーメーカーが動いていて、淹れたての一杯を、祖母は大事そうに飲んでいた。
祖母はよく、にんじんを細く削って卵と和えた炒め物を作ってくれた。
「おばあちゃんは料理が下手さー」
そう言っていたけれど、僕らは何度もおかわりした。大人になって沖縄料理屋のメニュー表にそれと似た料理を見つけて、注文してみたけれど期待外れで、祖母の味を思ったりした。
食卓のイスに座って僕らを眺める祖母の目は、メガネの奥でいつも細く緩んでいた。
祖母はいつも食卓に新聞を広げて、隅々まで目を通していた。世の中の動きに敏感で、リビングのテレビには、いつもニュースが流れていた。本当はアニメに変えたかったけれど、真剣に、心配そうにテレビを見つめる祖母に、少しだけ遠慮した。
祖母は、ひめゆり学徒隊の生き残りだ。
戦後、ひめゆり平和記念資料館の設立に関わり、失った仲間たちの名前と、戦争が奪い去ったものを、この世に残すことに人生をかけた。
子どもや孫が何よりの宝で、皆が元気でいることが自分の幸せなのだと、祖母はいつも言っていた。
「戦争だけはいけないよ」
「何よりも平和が一番だよ」
僕に会うたび、祖母は何度も口にした。僕の目をまっすぐに見ながら、刻み込むように繰り返した。
「うん。そうだよね」
僕もずっとそんなふうに返してきた。祖母を疑ったことなんて一度もなかったし、もらった言葉はちゃんと半ズボンのポケットにしまってきた。
だけど一度だけ、いつもの「いらっしゃい」を聞けない日があった。
あの日僕は、買ったばかりの迷彩柄の帽子をかぶっていた。国際通りのお土産屋さんで一目惚れして手に入れたものだった。店の入り口の銀色のカゴにセール品と一緒に詰め込まれていて、僕がそこから助け出した。値段は1000円程度。小学生のお年玉でも手が届いて、何だか運命を感じた。
玄関を開け、いつものように冷蔵庫を目指す僕。
玄関を開け、言葉を失う祖母。
いつもより細くなった目は、まっすぐ僕の頭に向いていた。祖母は頬をこわばらせ、少し口を開けたまま、僕の帽子を見つめていた。
一瞬で勘づいた。何かとんでもないことをやらかしてしまったって。
だから僕は、いつもより速く冷蔵庫に走った。だって外が暑かったから。早くヤクルトが飲みたかったから。
その日を最後に、祖母の前ではあの帽子をかぶらなかった。だけど運命のそいつを手放す気になれなくて、こっそりかぶり続けて、最後は擦り切れて捨ててしまった。今はもう、迷彩なんて身につけない。たとえ祖母に見られていなくても。
祖母は、僕の帽子に何を見ていたのだろう。
いつもの「いらっしゃい」を、あの日は聞けなかった。
◇ ◇ ◇
まだ、ほんの17歳だった。
生き残った「ひめゆり学徒隊」の中に、17歳の祖母がいた。沖縄陥落後も糸満の海岸を逃げ続けたけれど、最後は迷彩帽をかぶった米兵に捕らえられた。
あれから、80年以上が経った。青空の下を歩くたび、美味しいものを食べるたび、祖母は痛みを感じるという。
「あの子たちにも食べさせてあげたかったさぁ」
そんな言葉を何度も聞いてきた。祖母の戦争の記憶は、今日もまだ続いている。
大学生の夏、僕は一人で沖縄の祖母を訪れた。半分大人になった自分には沖縄がどう映るのか、祖母と二人でどんな話ができるのかが、楽しみでならなかった。
ある一日をかけて、僕は祖母と二人で沖縄の南部を回ることにした。
最初に訪れたのは、「ひめゆり平和記念資料館」。
薄暗い展示室を小股でゆっくり歩きながら、昨日のことのように当時を語る祖母。教師を夢見て一人で石垣島から沖縄本島にやってきたこと、セーラー服のリボンの結び方が可愛くて女学校の同級生がそれを真似たこと、敬愛する先生のこと、学徒動員の日、そして解散命令。
祖母のモノクロの青春が、そこには詰まっていた。
その後タクシーに乗り込み、目的地である「平和の礎」を目指した。
タクシーを降りると、そこには刻銘碑が並んでいて、国籍も、敵味方も関係なく、戦死者の名前が隙間なく刻まれていた。その名前に指で触れながら、祖母の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。
外国映画で見る墓地のように静まり返っていて、蝉の鳴き声だけが響いていた。
刻銘碑を過ぎた先に、断崖絶壁と定規で引いたような水平線、そして青すぎる空が見えた。
そこで立ち止まり、言葉を交わさず、二人でしばらく空を見つめた。海からの風が、汗のにじんだ体を通り抜けた。二人でそのまま、空を見つめた。
すると突然、何かが切り替わったように感じた。
かつて祖母は、これと同じ空を見ていたんじゃないか。これと同じ色を見ていたんじゃないか。
僕の中にある祖母の沖縄は、すべてがモノクロだった。爆撃機も、艦隊も、女学生も、そして空の色も。自分が今いる場所とは違う、別の世界のように感じていた。
だけど僕の隣には、小さな小さな祖母がいた。静かに水平線のあたりを見つめていた。きっと80年前のあのときも、祖母は同じように見ていたはずだ。
僕の沖縄戦に、初めて色がついたような気がした。
祖母と平和の礎を歩いてから何年も経って、社会人になり、親になった僕は、家族を連れて祖母の家を訪れていた。
リビングには一族が集まっていて、ショッピングモールのフードコートのように騒がしかった。テーブルの周りをぐるぐる走り回るひ孫たち。祖母はソファに座って、それを味わうかのように、目を細めて眺めていた。
祖母と、あと何年くらい一緒にいられるかわからない。元気なうちに、たくさん話しておこうと思った。かつては理解できなかった平和の尊さも、家族の意味も、今ならわかる。そう思っていた。
「ねえ、おばあちゃん」
僕は祖母の足元にすり寄って話し始めた。世の中の不安定な状況について、今後起きうる紛争について、早口で懸念を披露した。
そして、祖母に問いをぶつけた。
「戦争がダメだとしたら、最終的に何が解決策になるんだろう?」
大人になるにつれ、真剣に考えるようになった。話し合いで解決できない場合には、最後はどうしたらいいんだろうって。「戦争は絶対にダメ」の先には、何があるのだろうって。
祖母なら、答えを知っていると思っていた。正しい答えをくれるのは、平和を叫び続けてきた祖母しかいないと。
だから、祖母の反応には戸惑った。
祖母が思いがけず、困った顔を見せたから。祖母は少し口を開けたまま、頬をこわばらせていた。
あんな帽子、とっくの昔に捨てたはずなのに。
祖母は細い目で僕を見て、それから目を逸らし、床から足を浮かせてソファに深く沈んだ。何か言いかけて、言わないままうつむいて、それからすっかり黙り込んだ。膝の上で、指をソワソワと動かしながら。
机の周りでは、相変わらずひ孫たちがぐるぐる駆け回っていた。笑いと叫びと泣き声で、互いの話さえまともに聞こえなかった。誰にも相手にされないテレビの音が、隙間を埋めるように漂っていた。
数十秒ほど経った。沈黙が流れても、結局祖母は口を開かなかった。
全然わからなかった。僕は、悲しませたのか、怯えさせたのか、呆れさせてしまったのか、それとも。
僕はぐるぐると新しい話題を探した。一秒でも早く祖母の口を開かせたくて。だけど気の利いた話題なんて見つけられなかった。
僕は立ち上がって冷蔵庫に向かった。だって、喉が渇いていたから。そこにはもう、冷えたヤクルトなんてなかったけれど。
あの日の玄関から、何十年も経ったのに。成長してもう一度ここにやってきたのに。賢くなった結果が、これなのか。
確かにあの日、祖母の隣であの空を見たはずなのに。
あれから何年も、祖母の沈黙のわけを僕はずっと考えてきた。まだ答えは、出せていない。
◇ ◇ ◇
もうすぐ100歳になる祖母は、ときどき沖縄から電話をかけてきてくれる。
僕の両親と一緒にデパートに買い物に行って美味しそうな惣菜を買ったこと、送った動画を何度も見返していること、毎朝仏壇に向かって孫やひ孫の名前を挙げてお祈りしていることを、一つ一つゆっくりと話してくれる。僕や妻や子どもたちの名前を、何度も繰り返し口にする。忘れずに刻み込むように。
「この歳まで生きて、孫やひ孫の成長が見られて、こんなに幸せなことはないさぁ」
これが、祖母の沖縄で、祖母の人生。
僕は今でも、揺れている。聞けなかった「いらっしゃい」に、祖母と二人で見上げた青すぎる空に、そしてリビングでの沈黙に、今でも心を乱される。
それが、僕の沖縄だ。
明日も研修が待っている。朝9時、自己紹介が始まって僕は言う。
「名前と暑苦しい顔からお察しかもしれませんが、沖縄の出身なんです」
参加者が顔をゆるめるその瞬間、僕の口はもう次のセリフを探している。
