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それ、信仰じゃなくて「教会文化」かも――そろそろ考えドキな5つのモヤモヤ

「昔からこうしているから」

教会で何かに違和感を口にした時、この言葉に出会った経験のある人は少なくないと思う。でも、その「昔から」は、いったいいつからなのだろう。

聖書に書いてあるのか。キリスト教の信仰にとって不可欠なのか。それとも、ある時代の日本社会の常識や家族観、組織運営の仕方が、そのまま教会の中に保存されているだけなのか。

2019年、キリスト教放送局・日本FEBCが始めた番組「FEBC Sprout!」の初回ゲストに招かれ、全5回にわたって「そろそろ考えドキ? モヤる“教会文化”」というテーマで話した。

あれから7年。社会はさらに変わった。

もちろん教会も変わっている。ここで挙げるような習慣をすでにやめた教会もあるし、当時よりずっと丁寧に来会者のプライバシーやジェンダー、多様な家族のあり方に配慮する教会も増えた。

一方で、今なお「それ、何のためにやっているんだっけ?」と聞かれると、誰もうまく説明できない慣習は残っている。そこで改めて、当時取り上げた5つの「モヤる教会文化」を振り返ってみたい。



1 「特別伝道礼拝」は誰にとっての「特別」なのか

かつて多くのプロテスタント教会でおなじみだったのが、「特別伝道礼拝」、略して「特伝」だ。有名な牧師や伝道者を招き、チラシを配り、「お友だちを誘いましょう」と教会員にも呼びかける。

目的はもちろん、普段教会に来ない人に福音を届けることだ。その善意に疑いはない。でも、教会に縁のない人の立場から「特別伝道礼拝」という6文字を眺めると、なかなかすごい。

逆の立場になって考えてみよう。「あなたを特別に伝道します」というイベントに、自分から行きたいだろうか。

一般社会の言葉に乱暴に翻訳すれば、「新規顧客獲得キャンペーン」に近い。しかも不思議なのは、「特別」な日だけ新しい人を歓迎しようと頑張ることだ。

本来、礼拝は毎週、初めて来る人に開かれているはずではなかったか。特伝が近づくと教会員が知人を誘い、有名講師を呼び、特別なプログラムを用意する。けれど翌週になれば、いつものメンバー、いつもの言葉遣い、いつもの内輪モードに戻る。

特伝の日に感動して「また来てみよう」と思った人が、翌週まったく違う雰囲気に出会ったらどう感じるだろう。少し意地悪に言えば、「先週と話が違う」となりかねない。

問題は特伝をやること自体ではない。「今年は誰を呼ぶ?」「秋になったからチラシを作る?」「毎年やっているから今年も」と、目的を問い直さないまま行事だけが残っていないか、ということだ。

伝道とは、年に1度のキャンペーンではない。新しい人を迎えたいなら、「特別な日」を豪華にするより、普段の日曜日を初めての人の目で見直す方が、よほど大切なのではないか。


2 教会の入口が「関所」になっていないか

初めて教会に入る。それだけでも、かなり勇気がいる。何をする場所なのか。どこに座ればいいのか。服装はこれで大丈夫か。献金はいくら出すのか。聖書を持っていなくてもいいのか。

そんな状態で入口に立った瞬間、「初めてですか?」「こちらにお名前とご住所をお願いします」と言われる。教会側には理由がある。礼状を送りたい。来会者数を把握したい。牧会的なフォローをしたい。だが、それは基本的に教会側の事情だ。

初めて入ったカフェで、いきなり住所と氏名を書かされたら、かなり警戒するだろう。教会だから許されるとは限らない。

以前、受付で記名するペンを男性と女性で色分けしていた教会もある。受付の担当者が目視で性別を判別し、勝手に数えているという教会も少なくない。そこに悪意があるとは思わない。ただ、「男性/女性」という区分を当然のものとして入口から管理する発想そのものが、今日の社会感覚とズレていないかは考えていい。

性的少数者に限らず、自分の性別や属性を他人に決められたり、必要以上に把握されたりすることに抵抗を覚える人はいる。

そもそも、教会に来たからといって、その人が自分の素性を明かす義務はない。名前を言わなくてもいい。住所を書かなくてもいい。どこから来たか説明しなくてもいい。次週は来なくてもいい。

これは冷たい話ではない。「ここでは、あなたが自分で決めていい」という安心感もまた、歓迎の一つだと思う。

受付は、教会の最初の顔である。だからこそ「誰が来たかを把握する場所」ではなく、「何も分からなくても安心して入れる場所」にできないだろうか。


3 その「歓迎」、初心者にはしんどいかも?

数多の関所をクリアし、ようやく礼拝を乗り切ったと思いきや、不意に司会者がこう発言する。「本日、初めての方がお見えです。どうぞお立ちください」……からの、拍手。場合によってはマイクを渡され「何かひと言」。

ここまでではないにせよ、滅多に来ることのない「新来者」は好奇の目にさらされ質問攻めにあう。「どこから来たの?」「何しに来たの?」「誰の紹介?」……

教会員にしてみれば、精いっぱいの歓迎だ。「私たちの教会はアットホームです」という自負もあるだろう。しかし、「アットホーム」と「排他的」は紙一重でもある。家族のような近さを心地よいと思う人もいれば、他人から距離を詰められること自体が苦痛な人もいる。

以前、教会の過剰な歓迎を「ガラガラの飲食店」に例えたことがある。客が1人入ってきた瞬間、暇を持て余していた複数の店員が一斉に寄ってきて、「初めてですよね!」「どこから来たんですか!」「何を注文しますか!」「次はいつ来ますか!」と囲んでくる。

怖い。たぶん、その店には二度と入らない。

教会でも似たことが起きる。もちろん全部、善意だ。だから余計に断りづらい。礼拝内で「平和のあいさつ」として互いに握手する習慣のある教会もあるが、身体的な接触を好まない人もいる。「歓迎すること」と「距離を詰めること」は同じではない。

むしろ必要なのは、放っておく優しさかもしれない。「来てくれてありがとう。でも、何も話さなくていいし、無理に次も来なくていい。また来たいと思ったら、いつでもどうぞ」。それくらいでいい。

自分の教会の「教勢」を伸ばすことより、その人自身が神とどう出会うかの方が大事なはずだ。極端に言えば、別の教会の方がその人に合っているなら、それでもいい。「うちの教会に定着させる」ことと「伝道」は、同じではない。


4 青年会、婦人会、壮年会――その区分、まだ必要?

青年会。婦人会。壮年会。

教会ではあまりにも見慣れた言葉なので、違和感すらなくなっている。しかし外から眺めると、かなり独特な分類だ。そもそも「青年」は何歳までなのか。結婚すると自動的に青年会を卒業して、壮年会や婦人会に移行するという教会もある。結婚しなかったら40代、50代になっても青年なのか。

さらに「婦人会」「壮年会」という名称の背後には、かつての標準的な家族像が透けて見える。男性は仕事。女性は家庭。結婚して子どもを育てるのが普通。

その感覚が、教会の役割分担にも残っている。テーブルを運ぶのは男性。台所仕事は女性。お茶を出すのも女性。力仕事を頼む時は若い男性。

料理好きな男性もいれば、DIYが得意な女性もいるのに、である。もちろん、同世代や同性だからこそ話せることもある。婦人会や青年会そのものを全部なくせ、という話ではない。

問題は、本人の希望より先にカテゴリーが用意されていることだ。「あなたは女性だからここ」「結婚したからこちら」「この年齢ならこのグループ」ではなく、聖書を読みたい人。子育てについて話したい人。映画が好きな人。料理をしたい人。地域活動に関わりたい人。そんな「有志」の集まりがいくつもあって、その時々で自由に参加できる方が自然ではないか。

教会は本来、社会の固定観念から人を自由にする場所だったはずだ。なのに教会の方が、昭和の町内会のような性別・年齢・婚姻状況による区分を保存していたら、少し悲しい。


5 「牧師夫人」という存在しない役職

そして最後に、最も根深いのが「牧師夫人」問題だ。牧師の配偶者(特に女性)であるだけで、一つの役職のように扱われる。礼拝の準備。教会の掃除。奏楽。婦人会のとりまとめ。お茶出し。来客対応。牧師不在時の留守番。教会員の相談相手。

しかし給与はない。雇用契約もない。職務規定もない。にもかかわらず、「牧師夫人なんだから」というひと言で、さまざまな役割が期待される。これは相当おかしな仕組みだと思う。

分かりやすいのは、牧師が女性の場合だ。女性牧師の夫が教会員だったとして、その人に対して、「牧師の旦那さんなんだから毎週トイレ掃除を」「牧師の旦那さんだから婦人会ならぬ壮年会を取り仕切って」「牧師の旦那さんなんだから教会員の相談に乗って」と期待する教会は、どれだけあるだろう。そう考えれば、「牧師夫人」に何が期待されてきたのかが見えやすい。

しかも問題は教会内の仕事だけではない。牧師家庭の子育てや進学、服装、家計、休日の過ごし方にまで教会員が口を出すことがある。牧師の家族だから、「模範的」であることを求められる。しかし牧師の配偶者は、牧師と結婚したのであって、教会と結婚したわけではない。牧師の子どもも、牧師の子どもとして生まれることを選んだわけではない。

聖書をどれだけ探しても、「牧師夫人」という教会役職は出てこない。ならば、そこに付随する期待も「信仰上当然のもの」ではない。誰かがやりたい奉仕を、自分の意思で担う。必要な労働には、必要なら対価を払う。

配偶者や子どもを「牧師の付属物」にしない。それだけの話ではないだろうか。


「昔から」を、一度疑ってみる

5つの話に共通するのは、どれも悪意から始まったわけではないということだ。伝道したい。歓迎したい。一人ひとりをケアしたい。交わりを深めたい。牧師を支えたい。出発点には、たいてい善意がある。

けれど、善意から始まった仕組みも、長く続けば「決まり」になる。決まりはやがて「伝統」になり、伝統はいつしか「これが教会というものだ」「これが信仰だ」と錯覚される。そこで息苦しさを感じた人が、「なぜ、こうしなければいけないんですか?」と尋ねると、「昔からこうだから」「どこの教会でもそうだから」「あなたはまだ信仰が分かっていない」と返される。

そして、問う側が教会を去っていく。もしそんなことが起きているなら、問い直すべきなのは去った人の「信仰の弱さ」だけではない。残った側の文化かもしれない。

教会をアップデートするというと、「世俗に迎合するのか」と警戒する人もいる。でも、変えてはいけないものと、変えなければならないものは別だ。福音を変える必要はない。イエス・キリストを変える必要もない。

変えるべきなのは、その周りに何十年もかけて積もった、「なんとなく昔からやっているもの」だ。そしてもしかすると、若い世代が教会に抱くモヤモヤは、信仰を否定するサインではない。むしろ、「本当に大切なものは何なのか」を問い直そうとする、かなりまっとうな信仰的感覚なのではないか。

2019年にラジオで話した時から7年。

今なら言葉を変える部分もあるし、すでに変わった教会もたくさんある。それでも、この問いだけはまだ有効だと思っている。次に教会で、「昔からこうだから」という言葉を聞いたら、一度だけ尋ねてみたい。

それって本当に必要ですか?

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