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思い通りにならないからこそ愛おしい

大阪女学院中学校・高等学校で保護者向けに講演した内容(2026.5.22)をもとに加筆修正しました。

子育てをしていると、「どうしてこんなに思い通りにならないんだろう」と感じることはありませんか? 息子は幼少期、小麦、卵、大豆をはじめ数多くの食物アレルギーにしばらく悩まされました。小学校に入学するころには、だいぶ普通の食事ができるようになりましたが、今度は整理整頓が苦手で忘れ物が多いことに苦労しました。幸い目立った反抗期はありませんでしたが、中学生になって以降は、学校のことも友人関係のことも自らは話さなくなり、大学に入った今でも提出物の期限は守られているのか、このまま果たして一人で生活できるのかと親の不安は尽きません。

子育てに正解はないと言われますが、すでに半ば父親業を“卒業”した身として、これだけははっきりと断言できます。

思い通りには育ちません!

改めて言うほどのことでもありませんが、多くの保護者が実感していることでしょう。しかし、それは決して“失敗”ではなく、むしろごく当たり前のことなのです。親は子を思うからこそ、元気でいてほしい、傷つかないでほしい、それなりに勉強してほしい、良い友人関係や恩師に恵まれてほしい、自分を大切にしてほしいと願います。その願いが、いつの間にか「こうなるはず」「こう育ってほしい」「なぜ分かってくれないの…」という期待と願望の押し付けにすり替わってしまうことがあります。すると当然、親の側が苦しくなります。腹が立ったり、落ち込んだり、自分の育て方が悪かったのではないかと責めたりもする。そこで今一度、大前提に立ち返りましょう。

親子といえども他人です。

冷たく聞こえるかもしれませんが、確かな動かしがたい事実です。子どもを自分の分身や作品のように“所有”し、コントロールするのではなく、ひとりの人格として尊重するための根拠にもなる考えです。たとえ親子であっても、感じ方や考え方は異なります。怖いものも、嬉しいことも、笑いのツボも、傷つくポイントも違います。まして思春期になれば、親から見えている子どもの姿と、子どもが内側で生きている現実との間には、かなりの乖離が生じます。「こんなに大事にしているのに」「あれだけ言ったのに」と思っても、ほぼほぼ伝わらない。これは愛情が足りないからでも、関係が壊れているからでもありません。

そもそも人は誰かの思い通りになんかならない存在です。その前提に立ち、「思い通りにならなさ」を前向きに受け止めるだけで、子どもに対する見方も、自身の取るべきスタンスも変わってきます。思い通りにならないからこそ、ひとりの自律した人格として尊いのです。もし子どもが親の期待に100%応え、親の望むタイミングで、望む言葉を発し、望む進路を選ぶなら、一見ラクかもしれませんが、そこには思わぬ出会いも、驚きも、発見も、向き合って関係をつくり直す営みも起こり得ません。子育てのたいへんさは、相手が「自分とは違うひとりの人間」であることから生まれます。そして、そのどうにもならないもどかしさこそが、子育ての醍醐味でもあるのです。

まったく同じことが夫婦にも言えます。育ってきた環境が違うので、日常のルーティンもマイルールも衛生概念も金銭感覚も、ことごとく異なります。結婚して最初の共同作業は、「ケーキ入刀」ではなく「すり合わせ」です。ある程度、同じような価値観でフィーリングも合うから…という理由で結婚したとえはいえ、20年以上たった今でも新たな発見があります。「実はその具材、好きじゃなかった…」「あえて言うほどじゃないと思ってたけど、やっぱそれ無理だわ」などなど。逆に、いつまでも新鮮と言えば新鮮。無理やりどちらかに合わせようとすると軋轢が生じます。それもそのはず。

夫婦といえども他人だから、です。

今日、親たちは過酷な時代を生きています。特に多くの共働き家庭では、仕事をしながら家のことを回し、子どもの予定を把握し、学校とのやり取りをこなさなければなりません。しかも、時にワンオペで。かつての「イクメン」ブームを経てもなお、その負担が母親だけに偏重しがちな現実がいまだにあります。

一方、子どもたちもまた親世代とはまた質の異なる過酷な環境に置かれています。放課後もInstagramやLINE、BeReal(ビーリアル)でつながり続け、気づけばスマホにまつわるトラブルに否応なしに巻き込まれてしまう。

だからこそ、親がすべて管理して規制するのでもなく、理解したふりをするのでもなく、分からない別世界として切り捨てないことが必要です。頭ごなしに否定したり、正論だけを押し通したりするのではなく、困ったときに相談できるような関係を保てるかが問われています。

キリスト教主義学校の価値観は、子育てを「成功か失敗か」で見る視点から、私たちを少しだけ自由にしてくれます。人間の価値は、成績や偏差値、内申点や年収、生産性、フォロワー数では決められないと考えるからです。

誰もが存在しているだけで尊い。

これは、キリスト教の根源的な教えのひとつです。信者か否かにかかわらず、数字や“成果”で人が簡単に値踏みされる時代だからこそ、意識して持つべき視点かもしれません。子どもが思い通りの結果を出せないとき、このままで大丈夫だろうか、将来困るのではないか、もっとがんばらせた方が子どものためになるのではないか……と焦りばかりが募ります。しかし、親が焦ったところでその子の尊さには何の影響もない。この視点があるかどうかで、親の言葉の質は大きく変わるはずです。

努力次第で何もかも思い通りにできるはず、という誤った思い込みが、すべてを自己責任とする風潮に拍車をかけています。むしろ、思い通りにならない不自由さを体験するのが学校の役割でもあります。友だちも、先生も、自分に都合のいいものばかりではない。努力しても評価されないことがある。正しさだけでは通らないこともある。その不自由さのなかで、人は自分以外の他者と生きることを学んでいきます。

キリスト教主義学校の良さは、そうした不自由や葛藤を、人が人として育つための経験として受け止められる土台を持っていることだと思います。もちろん、信仰を持てば悩みが消えるわけではありません。キリスト教に触れていれば子育てがラクになる、学校に通っていれば安心、そんな単純な話でもないことは言うまでもありません。

実際、洗礼を受けてクリスチャンになって、神を信じようと決意してからも悩みは尽きません。時には腹も立ちます。迷います。しかし、「思い通りにならないこと」を、ただの不運や黒歴史として片づけるのではなく、別の意味を持つ経験として見直す視点が与えられる。人生は思い通りにならない「ガチャ」だらけですが、だからこそ思いもよらない「伏線回収」に希望を託せるのです。時には意味が分からないことも、後から振り返ると、あの出来事があったから今があると思えることがあります。

思春期の子どもを育てていると、親として無力感を覚えることがあります。「あのころはあんなにかわいかったのに…」と、昔の写真や動画に癒やしを求めてしまう瞬間もあります。でも、思い通りに変えることはできなくても、信じて待つことはできます。世間の「ものさし」に追い立てられるのではなく、存在を受け止めることはできます。答えを急がせるのではなく、安心して悩める場所を残すことはできます。子どもに必要なのは、完璧な親ではありません。思い通りに育てられる親でもありません。「あなたはあなたで大丈夫だ」と、揺れながらでも伝え続ける大人の存在です。

繰り返します。思い通りには育ちません。かといって無責任に放任するのも違います。思い通りに育たないからこそ、子どもは親の期待の中で消えてしまわずに、その子自身として生きることができます。そして親もまた、「思い通りにしなければ」という重荷から解放されて、ひとりの人間として子どもに向き合い直すことができます。自分とは違う存在と出会い直し続ける営みです。その不自由さのなかにこそ、愛も、祈りも、希望もある。

同時に気づかされることは、もしかすると神自身もまた、思い通りにならない人間を前にして、ハラハラしながら、なおも深く愛おしんでいるのではないかということ。親が思春期の子どもを前に、何を考えているのか分からない、放ってもおけない、近づけばぶつかる、それでも見捨てることはできない、と感じるその複雑な思いは、神の人類に対するまなざしそのものかもしれません。人間は何度でも迷い、遠回りをし、期待から外れます。それでも神は、価値を取り消さない。急かしすぎず、それでいて放置せず、なお関わろうとする。もしそうだとしたら、「思い通りにならない」という現実は、愛の失敗ではなく、むしろ真の愛を体得する鍵なのかもしれません。


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