フーコーと権力の系譜学 ― 見えない力が私たちをつくる(ポストモダン思想入門 ― 知の転換からいまを読み解く#5)
前回までのおさらいと、今回のテーマ:見えない「権力」の網の目
こんにちは。東京大学の高橋真理子です。本連載「ポストモダン思想入門」、第5回をお届けします。
前回、第4回では、ジャック・デリダの「脱構築」思想に触れ、言葉やテクストにおける意味の複数性や不安定性、そして西洋哲学の伝統を支えてきた二項対立やロゴス中心主義がいかに問い直されるかを見てきました。デリダの思索は、私たちの「読む」という行為、そして「理解する」ということそのものにラディカルな問いを投げかけました。
さて今回は、ポストモダン思想のもう一人の巨人、ミシェル・フーコー(1926-1984)の登場です。デリダが言語やテクストの次元で西洋思想の根幹を揺るがしたとすれば、フーコーは、私たちの社会や歴史の具体的な実践のなかで、「知」と「権力」がいかに絡み合い、私たち自身、つまり「主体」を形作っているのかを鋭く分析しました。
「権力」と聞くと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか? 国王や独裁者、政府の強制力、法律による規制といった、上から押さえつけるようなイメージが強いかもしれません。しかし、フーコーが明らかにしたのは、もっと日常的で、目に見えにくく、そして私たちの内面にまで浸透してくるような、新しい権力のあり方でした。さあ、フーコーと共に、私たちを取り巻く「見えない力」の解読に挑戦しましょう。
1. 権力=抑圧という見方の転換
フーコーの権力論を理解する上で、まず重要なのは、彼が従来の権力観を大きく転換させたことです。
伝統的な権力観とその限界
伝統的に、権力は、主権者(王、国家など)が所有し、法や暴力といった手段を用いて臣民や市民を上から支配・抑圧するものとして考えられてきました。この見方では、権力は基本的にネガティブで、禁止したり、制限したりする力として捉えられます。例えば、「~してはならない」という法律は、この典型的な権力作用の現れです。フーコーの新しい権力観:生産的で遍在する力
フーコーは、このような権力観だけでは、近代社会における権力の働きを十分に捉えきれないと考えました。彼によれば、権力は単に抑圧するだけでなく、むしろ何かを「生産」する力です。それは、知識を生み出し、規範を作り出し、さらには私たち自身の「主体性」や「欲望」さえも形成するのです。
また、権力は特定の個人や機関が「所有」するものではなく、社会のあらゆる関係性のなかに、網の目のように張り巡らされて「働く」ものだとフーコーは言います。それは、国家や法といったマクロなレベルだけでなく、家族、学校、病院、工場、職場といったミクロな日常空間の隅々にまで浸透し、機能しているのです。権力は、どこか特定の中心から発せられるのではなく、いたるところから生じ、絶えず動き回るダイナミックな力として捉えられます。
2. 規律型権力、パノプティコン、自己監視
フーコーが特に注目したのは、17世紀後半から18世紀にかけてヨーロッパで登場し、近代社会を特徴づけるようになった新しいタイプの権力、すなわち「規律型権力(disciplinary power)」です。
規律型権力とは何か?
これは、人々の身体や行動を細かく管理し、訓練し、効率的で従順なものへと作り変えていく権力技術です。フーコーは、監獄、軍隊、工場、学校、病院といった施設が、この規律訓練の場として機能してきたことを明らかにしました。
例えば、学校における時間割、整列、反復練習、試験による評価といったシステムは、子どもたちの身体を規律化し、特定の知識や行動様式を内面化させるための装置です。同様に、工場における作業工程の細分化や監視は、労働者の身体を効率的な生産力へと変えます。
この権力は、かつての王権のような壮大なスペクタクル(公開処刑など)によって恐怖を与えるのではなく、むしろ目立たず、継続的で、個々人の身体に細かく働きかけることで効果を発揮します。パノプティコン:監視の理想型
この規律型権力の理想的な建築モデルとして、フーコーはイギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムが考案した「パノプティコン(Panopticon、一望監視施設)」に注目しました。
パノプティコンは、円環状の建物で、中央に監視塔があり、その周囲に独房が配置されています。監視塔からは全ての独房の内部を見通すことができますが、逆に独房からは監視塔の内部がよく見えません。そのため、独房にいる囚人は、自分が常に監視されている「かもしれない」という意識を持つことになります。実際に監視者が常にそこにいなくても、監視されている可能性だけで、囚人は自ら規律に従い、おとなしく振る舞うようになるのです。
フーコーは、このパノプティコンの原理が、監獄だけでなく、工場、学校、病院など、近代社会の様々な施設に応用され、人々の行動を効率的に管理するメカニズムとして機能していると指摘しました。自己監視の内面化
パノプティコンの最も巧妙な点は、外部からの物理的な強制力だけでなく、監視されているという意識を内面化させることによって、個人が自ら自分自身を監視し、規律化するようになる(=自己監視)という点です。
「見られているかもしれない」という他者の眼差しを内面に取り込むことで、私たちは自発的に規範に従い、「良い生徒」「勤勉な労働者」「健康な市民」であろうと努めるようになります。現代社会において、SNSでの「いいね」の数や他者の反応を常に気にしてしまう私たちの姿も、ある意味でこの自己監視の論理の延長線上にあると言えるかもしれません。
3. 知と権力の関係:主体はどのように形成されるか
フーコー思想のもう一つの重要な柱は、「知(knowledge)」と「権力(power)」の不可分な関係性の解明です。
「知=権力(Knowledge/Power)」
フーコーは、「知は権力である(Knowledge is power. フランシス・ベーコンの言葉)」というよりも、むしろ知と権力は互いに前提とし合い、相互に強化し合う一体不可分のもの(知=権力)として捉えました。ある特定の「知」が「真理」として認められ、社会的に流通するためには、それを支える権力関係が必要です。逆に、権力が行使される際には、それを正当化し、効率的に機能させるための「知」が動員されます。
例えば、フーコーは『狂気の歴史』で、かつては多様な存在として社会に受け入れられていた「狂人」が、近代以降、医学や精神医学という「知」によって「病気」として定義され、隔離・管理の対象(権力の実践)となっていった過程を明らかにしました。同様に、『監獄の誕生』では、犯罪者を罰するやり方が、身体への残虐な刑罰から、規律訓練による精神の改造へと変化していく過程で、犯罪学や心理学といった「知」がどのように権力と結びついていったかを描き出しています。主体は「主体化(subjectivation)」される
私たちは、こうした知=権力の網の目の中で、「主体」として形成されます。フーコーによれば、主体は、デカルトが考えたような自律的で普遍的な理性的存在としてあらかじめ存在するのではなく、歴史的・社会的なプロセスの中で「主体化」される、つまり「〜としてつくられる」存在なのです。
私たちは、医学的言説によって「健康な身体/病んだ身体」として、教育的言説によって「優秀な生徒/劣等な生徒」として、法的言説によって「遵法市民/犯罪者」として分類され、規定され、そして自己認識を形成していきます。つまり、私たちが「私」であるという感覚やアイデンティティもまた、知=権力の働きから自由ではありえないのです。
4. フーコー後期の「自己の統治(Government of the Self)」概念にも言及
権力による主体の形成という側面を強調してきたフーコーですが、その晩年には、権力に対する抵抗のあり方や、主体が自らをどのように形成し、倫理的に生きていくかという問題系、いわゆる「自己への配慮(care of the self)」や「自己の技法(techniques of the self)」といったテーマへと関心を移していきます。これは「自己の統治(government of the self)」とも呼ばれる問題系です。
単に権力に受動的に従属するだけでなく、あるいは権力を否定的に拒絶するだけでもなく、主体が自らの生をいかに能動的に形作り、自由を実践していくか。古代ギリシャ・ローマの哲学や倫理実践を再読しながら、フーコーは、自己を美的な作品のように創造していく倫理的な主体性の可能性を探求しました。
これは、ポストモダン思想がしばしば「ニヒリズム」や「政治的無力感」と批判されることに対する、フーコーなりの一つの応答であったとも言えるかもしれません。権力の分析を通して、新たな自由の実践と倫理の可能性を模索したのです。
おわりに:日常に潜む権力を見抜く視座
ミシェル・フーコーの思想は、私たちが当たり前だと思っている社会の仕組みや制度、そして私たち自身のあり方について、根源的な問いを投げかけます。彼の「権力」や「知」、「主体」についての分析は、現代社会の様々な問題(例えば、管理社会化、監視技術の進展、アイデンティティ・ポリティクスなど)を読み解く上で、今なお非常に有効な視座を提供してくれます。
フーコーの議論は、私たちがいかに巧妙な権力の網の目の中で生きているかを暴き出す一方で、その権力関係の中で、いかにして新たな自由の空間を切り開き、自己を創造的に形成していくかという、希望の問いをも含んでいます。
次回、第6回は「リオタールと大きな物語の終焉 ― 知の正当化は可能か?」と題し、ジャン=フランソワ・リオタールの思想を取り上げます。近代社会を支えてきた壮大な「物語」がその力を失ったとされる「ポストモダン的条件」とは何か、そしてその中で知のあり方はどう変わるのかを探ります。ポストモダン思想の核心にさらに迫っていきましょう。どうぞご期待ください。
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