見出し画像

蚊の卵【エッセイ】

子どもをつくるという行為は、単に命の数を増やすことではなく、「人間」をこの世界に送り出すことだと、私は思っている。

人間は高い知能と知覚を持ち、言語を操り、未来を想像し、自分の存在そのものに疑問を抱き、その疑問によって苦しむことができてしまう。そうした存在を生み出すという行為には、どうしても重い責任が伴う。できることなら、生まれてから死ぬまで、祝福だけを受け取る人生を送ってほしいと願ってしまう。しかし、それが不可能であることもまた、わかっている。だからこそ、自分自身の子どもを残すことには、慎重にならざるを得ない。

この考えが、責任から逃れたいというあまりにも自己中心的な感情に根ざしていることは自覚している。それでも、人として生を受け、子どもを残せる年齢まで生きてきた一個体として、この感覚だけはどうしても覆せない。

一方で、生まれてしまった命は仕方がない、とも思っている。起きてしまった出来事から目を逸らすよりも、引き受けるしかない。新しく生み出すことよりも、すでに存在してしまった生を世話し、見届けることのほうが、自分の感覚にはしっくりくる。私が動物の飼育を好むのも、きっとこの感覚に基づいているのだろう。

私は動物が好きだ。とりわけ心を引かれるのは、身近な虫である。人間の生活圏のすぐ隣にいて、身体や住環境と否応なく交差する、名もなき小さな生き物たち。幼いころから生き物を観察するのが好きで、最も身近な存在として虫を見続けてきた。

カブトムシを何世代にもわたって繁殖させたことがある。卵から幼虫へ、蛹を経て成虫になる過程を繰り返し見てきたが、そこに「自分の子どもを残している」という感覚はなかった。生から死まで責任をもって飼育しなければならない、という意識は確かにあったが、それは人間に対して感じる責任とはまったく別のものだった。結局のところ、自分とは血縁的にも何の関係もなく、知恵も知覚も持たない虫けらに過ぎない、というどこか侮蔑的な心理が、そう感じさせていたのだと思う。繁殖行動を可能にする環境を自分で整えておきながら、そう思ってしまうのだ。

この感覚は飼育の経験自体はないが、家畜に対しても同じだ。鶏、馬、豚、牛―主要な家畜は比較的高い知能を持っているが、人間ほどではない。明瞭な自己認識や、文明的な苦悩を抱える知覚はない。生まれ、消費されることを悲しいとは思っても、それは必要で、仕方のないこととして受け入れられる自分がいる。そこには、人間とそれ以外の動物のあいだに、覆すことのできない明確な差があると信じているからだ。

それが人間という立場に立つことの驕りであるのは、間違いない。それでも事実として、人間とそれ以外の動物のあいだには、知能と文明の決定的な差がある。一人の人間を原野に放り出せば、他の動物と大差ない生活を送り、野垂れ死ぬことも理解している。それでも、世代を超えて高度な文明を積み上げてきた動物は、人間だけだ。

しばらく前に、スズメのヒナを許可を得て保護し、飼育したことがある。


落ちていたヒナ。私を親と勘違いしてか、餌を求めて大口を開ける。

実家の庭に裸のヒナが落ちていた。カラスなどの天敵にさらわれたのか、巣は近くになく、親が探す様子もなかった。届け出を出し、それを私は引き取ると、新聞紙等をちぎって作った簡易的な巣にヒナを入れ、ペットボトルにお湯を入れたものを底に敷き、保温した。このままヒナが死んでいく様を黙って見ているわけにはいかないと感じたのだ。この行動は、先ほど述べた私の思想がそうさせたか、もっと根源的な感情でそう動いたのかは、今ではよくわからない。

保護してからは大変で、保温も続けたまま、ドロドロに溶かしたパウダー状のエサを一日に三度も四度も給餌器を使って与え続けなければならない。フンで汚れた新聞紙も毎日取り換えなくてはならない。

そんな生活を一か月ほど続け、ある程度成長したら、ヒナが野生で一羽でも生きられるように、ミルワームや外で捕まえた虫を与え、生きた虫を食べられるよう訓練し、部屋の中を飛ばせて飛行訓練も行い、外に出して自然を味あわせたりもした。

最初のうちは私の周りから離れなかったが、保護してから三か月ほど経った頃、私から離れて飛び立ち、ついには帰ってこなかった。

ヒナ、巣立ち前の最後の姿

今思えば、この経験は簡易的な子育てだったように思える。この経験にどこか達成感を覚えた自分もいるし、巣立つヒナにもの悲しさを覚えた自分もいる。そんな経験を経てもなお、この思想が覆らないのだとすれば、それは一生のものなのだろう。あるいはよりこの思想を強めたか。

だから本来、人間以外の生物の繁殖に特別な感情を抱く理由など、どこにもないはずだった。

それなのに、蚊だけは少し違った。

蚊は他の生物の血液を吸わなければ、自分の子孫を残すことすらできない。そのうえ、吸血の過程で痒みや感染症をばら撒く、多くの人間にとって不快極まりない生物だし、私としても不完全で、進化の袋小路にいる哀れな生き物だと思っている。高い知能も、明瞭な知覚もなく、本能だけで生きている、まさしく虫けらだ。

ある夏の夜、私は枕元に赤ちゃん用の鼻水吸い器を置いて寝ていた。本来の用途のためではない。自分の血を吸った蚊を、潰さず、傷つけずに回収するための、簡易的な吸虫管として使うためだ。

↑鼻水吸い器を転用した簡易吸虫管。虫に吸虫部(画像左下)を当て、吸い口(画像左上)を吸うと、間の容器部(画像右)に虫がトラップされるというしくみ。

昔から生き物を観察するためなら手段にはあまりこだわらなかった。今回もただ、血を吸った蚊を観察したいと思っただけだった。

刺された。慌てず、刺された箇所にそのまま張り付いて吸血を続けている蚊に吸虫管の先を当て、血を吸い終えたのを確認すると、私も吸い口を吸って蚊を吸い取る。さながらフラクタルである。そうして容器部にトラップされた蚊を、試験管に移す。逃がさず、殺さず、ただ観察する。

赤く膨れた腹を光に透かすと、それはルビーのように輝いた。ほんの少し前まで、自分の体内を巡っていた血だ。

自分の血が蚊の腹へと移動し、赤く膨れ上がっていく様子を見ると、性的興奮とも少し似たような感覚を覚える。自分の一部が、目に見える形で他者の身体に収まっていく過程。その赤が宝石のように美しく見えてしまうことに、自分でも戸惑う。

やがて数日が経ち、腹は縮み、その内部で別のものが形づくられていく。血液は分解され、アミノ酸や脂質に還元され、卵になる。自分のゲノムも、染色体も、DNAの一片も、そこには残らないことは理解している。

それでも、自分の血が起点になっているという事実だけは、消えない。

しばらく飼育し、卵が形成されていく様子を観察したあと、水を張る。蚊は迷いなく水面の縁に卵を並べていく。その瞬間を、私は最初から最後まで見届ける。

卵を前にすると、それが自分の血液が別の形へと変換されたもののように、強く感じてしまう。理屈では、完全に無関係な生命だとわかっている。それでも、ほんのわずか、自分の子どものように思えてしまう。

そのとき、責任のような感情が立ち上がる。人間を生み出すことに感じる責任とは、比べものにならないほど軽い。それでも、自分の身体を通過しなければ成立しなかった生命の段階を見届けてしまったという事実が、感情を切り離すことを許さない。

自分が関与して生まれてしまった蚊の卵に、妙な責任感を覚える。そして、その責任を回収するために、それを自分の内側に「戻そう」と考えてしまう自分がいる。その考えが歪んでいることも、よくわかっている。

それでも、生まれてしまった命は仕方がない。起きてしまった因果から、目を逸らすことはできない。

これは倫理でも、論理でもない。ただ、生き物が好きで、特に身近な虫に惹かれ、人間とそれ以外の生き物を知能や文明によって線引きしてきたはずの人間が、その線を一瞬だけ踏み越えてしまう感覚だ。

蚊は虫けらだ。人間と同じ重さを与える理由など、どこにもない。それでも、たかだか自分の血を吸って卵を産んだだけの蚊の卵を、完全に無関係な他者として切り捨てることができない。

ルビーのように輝いた血は、もう戻らない。行き先を持ってしまった以上、それをなかったことにはできない。

それが、私という人間の、どうしようもない感情の形なのだ。


いいなと思ったら応援しよう!

マドガイ カネタスギザホシス