「サトゥルヌスの子ら」について

 この作品を、物語的な作品だと感じた。
 まずタイトルのサトゥルヌスからして、神話伝承からの引用だし、結末も父殺しの物語のようにも読める。ピアノの演奏をすると、自分の手が作曲家の手に変わってしまう場面では、超絶技巧の持ち主は指が十二本あったとか、腕を交差させる演奏を多用する作曲家は腕が長かったとか、AだからBという因果を強調する語りが語られて、それが特に物語的だという印象を強めた。

 例えば、ブンゲイファイトクラブの応募要項にはこう書いてある。

ジャンルはなんでもかまいません。俳句、川柳、短歌、歌詞、詩、回文、エッセイ、旅行記、戯曲、小説、批評、評論、論文など。

ブンゲイファイトクラブ4(BFC4)応募要項

 物語は文芸に含まれないのだろうか。
 その昔、文芸が自らを純文学と名乗り、物語と切り離すまで、物語と文芸は近い関係にあった。いまや、物語は漫画というメディアによって、広く人口に膾炙しており、今なお多くの人をひきつけ続けている。以前、その役割は文芸に、あるいは語り部たちにあった。物語は文芸の一ジャンルではなく、文芸が物語の一ジャンルなのだろう、とぼくは思う。
 その意味で、「サトゥルヌスの子ら」には物語を文芸へ引用しようという意思を感じる。物語は因果を叙述するその性質上、長大さを伴うため、六枚というBFCの規定は物語に不利に働く。それをものともせず、「サトゥルヌスの子ら」は物語というブンゲイを書ききっている、と感じられた。その点、もう少し詳細に読んでいきたいと思う。

 まずはあらすじから。
 四十年ほどピアノ演奏家として活躍していた佳寿子のもとに、引退で手放してしまったピアノが帰ってくる。それを機に、ピアノの演奏を再開した佳寿子は、曲に合わせて、自分の手が変化していることに気付く。ほかの曲も演奏していくうちに、それは作曲家たちの手なのだということに気付いた佳寿子は、父と向かい合うため、父が作曲した曲を演奏することを決心する。しかし、父の曲と思われていたものの中には、母や、夭折した姉の手があらわれ、佳寿子の父への不信はゆるぎないものに変わる。佳寿子はフレーズを繰り返し演奏し、姉を取り戻そうとする。佳寿子の脳裏にはサトゥルヌスの神話が浮かんでいた。

 先に述べたように、佳寿子は作曲家たちの手のかたちが、曲のかたちに影響を与えていると考える。腕の長い作曲家は腕を交差させる演奏を、指の多い作曲家は超絶技巧(と本人は思っていないが)を、という風に。そこで、彼女は父の曲を弾いてみたいと思う。虐待に近いものを受けていたと示唆されている佳寿子と父の関係は、それによって決定的な断絶を迎える。父の曲の中に、母や姉の手があらわれ、佳寿子はそれを恐らくは盗作と考える。そして、それをサトゥルヌスの神話と重ねてしまうのは、佳寿子が過去に受けた父からの仕打ちによるものなのだろう。

 あらすじの内容を繰り返したのには訳がある。いや、ただ繰り返したわけではない。ここで強調しておきたいのは、あくまで、これは佳寿子の視点に基づいたときの読解だということだ。
 そう書かれているということと、そのように読めることの間には絶対的な差がある。
 今作は、佳寿子の視点に徹底的に密着するように書かれている。そのため、父は絶対的な悪として、姉は天恵を授かった天使として読めるように書かれている。たとえば、ぼくは初読のさい、父があまりに悪として書かれていることに違和感を覚えた。サトゥルヌスの悲劇は「親に食われる子の悲劇」という側面と「子を食らう親の悲劇」の側面があると考えたからだ。
 だが、そういった作品を相対化する視点すら、この作品の中に内包されている。

 まず、因果の話から。
 作曲家の手が曲を左右するという因果に基づいた場合、父の曲に対する佳寿子の読解は、その因果から反れている。父の曲を理解するのに、父の手のかたちは参照されず、佳寿子の心情が曲の印象を左右してしまっている。父の手を見た瞬間、曲のことは忘れられ、手に紐づいた佳寿子の怯え・動悸についての文章が書かれる。父の「黒く肉厚な手」が父の曲にどのように影響したのかは書かれていない。父の「黒く肉厚な手」が佳寿子にどのような影響を与えたかが書かれてしまう。
 ここで、文章はこれまで前提とした因果から離れ、信用ならない語り手としての佳寿子に接近する。これは文章が、一人称に限りなく近い三人称で書かれている点からも説明できる。文中、佳寿子と書かれている部分を私と置き換えてしまえる、とぼくは思う。そこに、作者の作為があると考えるからだ。
 この作品の文章が一人称ではなく、三人称で書かれたのは、私を佳寿子と書き換えることによって得られる客観性に依拠しているためだ。言い換えよう。それは「私(佳寿子)」の妄想ではないのか、という疑問の入る余地を打ち消すために、文章は視点主からわずかな距離を取っている。つまり、三人称の文章そのものが、佳寿子の主観に過ぎないものに説得力を与えている。

 一度、整理しよう。
 「サトゥルヌスの子ら」で書かれているのは、徹頭徹尾、佳寿子の視点に基づいた出来事であること。そのため、父の盗作疑惑や、男の腹を裂く老女の姿など(果ては、自分の手が作曲家たちの手に変わることも)佳寿子が主観的に眺めたものにすぎない。絶対的な悪としての父や、無垢なるものとしての姉がゆるぎなく存在しているのは、佳寿子がそのように感じてるからであり、また、統制された文章がそれを真実かのように見せかけているからだ。
 そう書かれているということと、そのように読めることの間には絶対的な差がある。と書いたのは、その意味においてだ。
 ぼくが初読のさいに感じた違和感は、佳寿子と父の関係や、作曲家としての父の立場について、もっと多面的な見方があるのではない、という疑問だった。同時に、それはぼくが作品に求める規範でもあった。たとえば、悪人であってもいい人としての面があるはずで、よい作品というのはそこを描くものだ、というような。
 ぼくがそう感じたのは、作品にそう読まされていたからではないか。

 この前提に立って、もう一度、作品を読み返してみたい。

 冒頭、デビュー四十周年の演奏会でめまいに襲われたことを佳寿子は独言する。そこに続く文章で、父が登場し、佳寿子の歪んだ視点が私たちにも伝染する。父の激怒・姉を引き合いに出す、などの言動はミスリードとしても機能する。父の「おまえにあいつの才能が少しでもあれば」という言は、佳寿子に真剣に向き合っていたのなら出ない言葉ではあるだろうが、一方で、姉に対しては、本当に姉の才能に固執していたともとれるし、姉を失った悲しみがそれほど大きいという風にもとれる。
 これは終盤、父の曲を演奏した際に、母と姉の手が出てくる場面をどう解釈するかという問題と同じだろう。
 作曲家たちの手と曲の関係を考えたとき、父の「黒く肉厚な手」が「華やかな音」「こんな音楽(つまり手とは似つかわしくない音楽?)」とどう結びつくのか。作品は、佳寿子に寄り添うことを優先したため、作曲家と曲の因果から離れてしまい、父と曲の関係が盗作とみなされてしまう。
 だが、もう一度、手と曲の因果に忠実になるならば、父の作ったはずの曲が、母や姉の手へとつながるのは、母や姉の手が引きやすい曲を父が作っていたから、と解釈することはできないだろうか。
 ここに至って、因果が逆転してしまう。いや、逆転などしていない。手のかたちが曲のかたちを規定するという考えはぼくの読み違いだ。「サトゥルヌスの子ら」には曲のかたちにあわせて、手のかたちが変わると書いてあったのではないか。

 最後に、物語としての「サトゥルヌスの子ら」について。
 ぼくが言っている物語とは、一つの視点に基づいた因果のお話、と思っている(ここまで書いておいて申し訳ないけれど、まだ十分に説明できるほど定義が定まってない)。具体的に書こう。
 近親者から盗作することで地位と名誉を得た父から、子どもたち(≒作品たち)を解放するお話、として今作は読める。この場合、視点は子どもたちを解放する佳寿子に定まっていて、因果(原因と結果)が記されているから、作品は一意的になる、はずだ。それを書き切りつつ、解釈可能性を残した点を、ぼくは物語というブンゲイと称した。
 物語だけでもなく、ブンゲイだけでもない。それはぼくが理想と思う小説のひとつの姿でした。

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