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第2話『雨音とタマゴサンド』


その日は、朝から細かい雨が降り続いていた。
路地裏のアスファルトは黒く沈み、軒先から落ちるしずくが、しとしとと絶え間ないリズムを刻んでいる。
会社帰り。
高橋美春(たかはし みはる)は、濡れた傘を畳んで『止まり木』の重い扉を押した。

チリン、と控えめな音が鳴る。
店内には先客はいなかった。
マスターが布巾でカウンターを拭く手をとめ、「いらっしゃいませ」と軽く会釈をする。 
美春は入り口近くの席に座ると、ほう、と白い息を吐いた。
コートの肩口が少し濡れていて、そこからじわじわと冷気が染みてくる。

テーブルに置いたスマートフォンは、沈黙したままだ。

『今日は会える?』

 昼休みに送ったメッセージに既読がついている。
 けれど、返信はない。
 いつものことだ。

 彼は家庭のある人で、週末や夜は連絡がつきにくくなる。
 わかっているのに、待ってしまう自分が惨めで、寒かった。

「ご注文は」
 お冷を持ってきたマスターに、美春はメニューも見ずに言った。
「……タマゴサンドを、お願いします。あと、ホットコーヒー」
 無性に、温かいものが食べたかった。
 コンビニの冷蔵ケースに並んだ、冷たいハムサンドでは駄目なのだ。

 ジュゥウウウ……。

 静かな店内に、食材が焼ける音が響き始めた。
 マスターがボウルで卵を溶き、熱したフライパンにバターを滑らせる。
 芳醇なバターの香りが、雨の匂いを上書きしていく。

 雨音と、卵が焼ける音。
 その二重奏を聞いていると、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩んだ。

「お待たせいたしました」
運ばれてきた皿を見て、美春は思わず目を見張った。
コンビニのそれとは全く違う。
分厚い食パンに挟まれているのは、湯気をもうもうと立てる、黄金色の厚焼き玉子だった。

パンの表面は軽くトーストされ、こんがりと狐色をしている。
断面からは、たっぷりのマヨネーズがとろりと溢れ出そうになっていた。
美春は両手でサンドイッチを持ち上げた。

熱い。

指先から伝わるその熱量が、生き物の体温のように
確かな実在感を放っている。

大きく口を開けて、かぶりつく。
 サクッ。
 ジュワッ。
香ばしいパンの食感のあと、ふわふわの卵から出汁の旨味と熱気が口いっぱいに広がった。

「ん……!」
熱い、けれど美味しい。
マヨネーズの濃厚な酸味と、卵の優しい甘み、そしてバターの塩気。
それらが渾然一体となって、空っぽだった胃袋に落ちていく。

ハフハフと息を漏らしながら咀嚼する。
身体の内側から、カッと火が灯るような感覚があった。

(……温かい)

二切れ目を手に取ったとき、スマホが短く振動した。
『ごめん、今日は無理』
たった一行のメッセージ。
いつもなら、ここで「わかった、無理しないでね」と
送り返していただろう。
都合のいい女を演じて、彼が戻ってくるのを待っていた。

でも、今は目の前に、こんなにも温かくて、確かな幸せがある。
手で触れられず、声も聞けず、ただこちらの心をすり減らすだけの冷たい関係。

それよりも、このタマゴサンドの方が、よほど今の私を優しく満たしてくれているではないか。
美春は最後の一切れを口に放り込み、コーヒーで流し込んだ。
満腹だ。
身体の芯まで温まっている。

彼女はスマホを手に取ると、迷わず彼の連絡先を表示し、
「ブロック」の文字をタップした。
さらに履歴ごと削除する。
画面の中から彼が消えても、何も困らない気がした。

「ごちそうさまでした。……すごく、美味しかったです」

会計を済ませると、マスターは眼鏡の奥で目を細めた。
「雨の日は冷えますから。しっかり食べて、温まるのが一番です」
「はい。おかげで、元気が出ました」

店を出ると、雨はまだしとしとと降り続いていた。
けれど、もう寒くはない。
美春は傘を開き、水たまりを避けるように軽やかに一歩を踏み出した。
胃袋にある確かな重みが、彼女の背中を支えていた。

(第2話 完)


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