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【怖い話】聞き取れなかった神様の名前

 あれは小学四年生の夏のことだ。

 僕と健二は虫捕り網と虫かごを持って、山の中腹にある神社を目指していた。地元の子供たちの間では「奥の宮」と呼ばれていた小さな神社で、正式な名前は看板が古びてほとんど読めなくなっていた。鳥居をくぐると細長い坂道が続き、左右には背の高い杉の木がびっしりと並んでいる。その坂を登りきったところに、申し訳程度の社と、手水舎の残骸のような石組みがあるだけの、本当に小さな場所だった。

 昼間でも薄暗かった。林の木々が日光を遮るせいで、境内はいつも夕方みたいな空気が漂っていた。普通に考えれば子供が好んで行くような場所ではない。それでも僕たちが足繁く通っていたのは、あそこでしか見られない虫がいたからだ。街の公園や田んぼのあぜ道では絶対に出会えない、名前も知らない昆虫が、神社の周りの林の中にはいた。

 神社へ向かう道の途中、僕たちは一人のおばあさんとすれ違った。腰が少し曲がっていて、手に買い物袋を提げていた。見たことのない顔だったが、田舎では珍しくもない。

「あら、奥の宮かい」

 おばあさんは僕たちの虫かごを見て、にこりともせずに言った。

「うん」と健二が答えた。

「暗くなる前に帰りなよ。それと、境内で悪さするんじゃないよ」

「はーい」

 僕たちは適当に返事をして、そのまま歩き続けた。よくいるおせっかいなおばあさんだと思っていた。おばあさんが何か言い足したような気もしたが、もう気にしていなかった。


 神社に着くと、さっそく林の際を探し始めた。朽ちた丸太を一緒に引っ繰り返したり、木の根元の腐葉土を掘ったりしながら、一時間ほど夢中で遊んだ。健二がコクワガタを見つけて虫かごに入れた。僕はカブトムシのメスを一匹と、ハンミョウを捕まえた。ハンミョウは色が鮮やかで、追いかけるとちょっと飛んですぐ止まる、というのがかわいらしくて好きだった。

 ふと、その虹色の甲虫を眺めていたとき、道すがらのおばあさんのことを思い出した。

――『境内で悪さするんじゃないよ。』――

 虫を捕るのは悪さに入るだろうか。子供の理屈では入らないと思っていたが、なんとなく気になった。僕は虫かごを開けて、ハンミョウを逃がした。カブトムシのメスも続けて出してやった。虫はしばらく僕の手の甲に止まっていたが、やがて鳥居の方向へふわりと飛んでいった。

「もったいない」
と健二が言った。
「せっかく捕ったのに」

「なんかさ、ここの虫は持って帰っちゃいけない気がして」

「は? 意味わかんね」

 健二は自分の虫かごをしっかり持ち直して、社の前の石段に腰を下ろした。僕も隣に座った。


 夏の盛りなのに、境内はひんやりとしていた。木々の向こうに空は見えるのに、日差しが届かない。僕たちはしばらく黙って、水筒のお茶を飲んでいた。

 そのとき、視線を感じた。

 最初は気のせいだと思った。でも、首の後ろがざわつくような、あの感覚が消えない。

 サヤサヤサヤ……。木の葉が風でこすれる音だけが聞こえる。

 ゆっくり顔を上げると、健二も同じように辺りをきょろきょろしていた。

「なんか、見られてる気しない?」
と健二が言った。

「僕も今そう思ってた」

 境内を見回すと、鳥居の逆側、林との境目のあたりに何かが立っていた。

 日本人形だった。

 白い顔に黒い髪、赤い着物。ひざ下くらいの高さがあっただろうか。草の間に直接立っていた。ゆらりとも動かない。

「なんだ、あれ」と健二が囁いた。

「誰かが置いたのか……?」

 僕たちはしばらく動けなかった。人形は石像みたいに静止したまま、こちらを向いていた。いや、向いているというよりも、ただそこにある、という感じだった。

 どこから来たのか分からない笑い声が聞こえたのは、そのときだ。

 『フフフ』

 女の声だった。高くも低くもない、ひどく平坦な笑い声。どこから聞こえているのか、全然わからなかった。

 人形がゆっくりと後ろを向いた。

 そして、そのまま林の中へ滑るように消えた。

「え」と健二が立ち上がった。
「動いた。今動いたよな」

 人形が消えた方向をよく見ると、草と木の間に細い道があった。獣道だ。今まで一度も気づかなかった。

「追いかけてみる」

 口から出た言葉に、自分でも驚いた。なぜそう思ったのか、今でも説明できない。ただ、追わなければならないような気がした。引力みたいなものだった。

「やめろよ」
と健二が言った。顔が青くなっていた。
「絶対やめたほうがいい」

「すぐ戻る。ちょっとだけ」

「お、俺は行かない。先に帰るからな」

 健二は虫かごを抱えて、鳥居の方へ向かって歩き出した。僕は獣道に足を踏み入れた。


 人形はいた。

 十メートルほど先に、こちらを向いて立っていた。僕が近づくと、くるりと前を向いて、またすうっと進んでいく。止まる。こちらを見る。また進む。その繰り返しだった。怖かった。でも足が止まらなかった。

 どのくらい歩いただろう。木の角を曲がり、背の高い草をかき分けて抜けると、急に視界が開けた。

 見慣れた舗装道路だった。いつも自転車で通る、集落の外れの大きな道だ。

 人形はどこにもいなかった。

 頭の上から、『フフフ』という笑い声が降ってきた。見上げると、大きな古い木が一本、道沿いに立っていた。枝の間に何かが見えた気がしたが、まばたきした瞬間にはもう何もなかった。

 僕はそのまま家に帰った。


 夕飯を食べていると、電話が鳴った。母が出て、すぐに顔色が変わった。

 健二の家からだった。まだ帰ってきていない、という。

 神社からは僕より先に帰ったはずだ。どこかで道草でも食ってるんだろうか。その時はそんな程度に思っていた。

 翌朝、健二は神社へ続く坂道の途中で発見された。

 近くにある足跡、そして木に残った数本の毛から熊の仕業だと思われた。

 近くの山で熊の目撃情報が相次いでいたのは知っていた。でも、まさかあの道で、と誰もが思った。

 僕はずっと考えていた。あのとき、なぜ人形は僕を獣道に誘ったのか。なぜ健二ではなく僕だったのか。

 健二が持ち帰った虫が、関係していたとは思いたくない。でも、道端で会ったおばあさんのことを思うたびに、僕の頭の中にはあの言葉が繰り返し浮かぶのだ。

 おばあさんは最後に何と言っていたか。僕は聞き流してしまったが、確か――

『――様によろしくなぁ』

 神様の名前を、僕はとうとう聞き取れなかった。


 あれから二十年以上が経った。

 今年の盆、久しぶりに実家へ帰省した折、僕は奥の宮へ足を向けた。

 健二のことは、今でも苦い塊として胸の底にある。あの夏以来、この神社から遠ざかっていたのは、熊が怖かったからだけではない。どちらかというと、あの神社に近づくたびに健二のことを思い出してしまうのが辛かった。

 坂道の入り口に立つと、杉の木々は記憶よりもさらに背が高くなっていた。子供の頃は見上げていたはずなのに、今は見上げても天辺が見えない。それでも昼間なのに薄暗い空気は変わらなかった。

 境内に入ると、社はそのまま残っていた。誰かが管理しているのだろう、苔は生えているが、社は傾いてもいなかった。賽銭箱も古くなってはいたが、ちゃんとそこにあった。

 財布から小銭を取り出して入れた。手を合わせて、目を閉じた。

 何を祈るでもなく、ただ静かにそこにいた。

 目を開けると、社はいつもどおり薄暗い中にあった。笑い声は聞こえなかった。人形の姿もなかった。


 ふと思いついて、あの獣道を探してみた。人形が消えていったあの草木の隙間を、もう一度見てみたかった。

 しかし、二十年分の草木はすっかり伸びて、それらしい隙間はどこにも見当たらなかった。記憶の中の道が、最初から存在しなかったようにさえ感じた。

 そのとき、林の奥から視線を感じた。

 あの頃と同じ感覚だった。首の後ろがざわつく、あれだ。

 ハッとして振り向いた。

 木々の間の暗がりに、それはいた。

 熊だった。

 大人になった今もこのあたりでは目撃情報が絶えないとニュースで見ていた。それでも頭の中の知識と、実際に数メートル先で目が合うのとでは、まるで違う。体が石になったように動かなかった。

 熊はじっとこちらを見ていた。そして、ガフッ、ガフフッと、吼えるような、唸るような声を出した。

 逃げれば追いかけられる。そのことだけが頭の中にあった。

 何秒だったのか、何分だったのか。

 熊はやがて興味を失ったように、林の奥へ静かに消えていった。


 ――ッ。

 息をしていなかったことに気づいた。一気に空気を吸うと、膝から力が抜けて、僕はその場にしゃがみ込んだ。

 しばらく動けなかった。

 ようやく立ち上がって、坂道を下りた。鳥居をくぐったところで足が止まった。

 僕は振り返って、社の方へ深く頭を下げた。

 何も聞こえなかった。

 ただ、林の奥が、さっきよりも少しだけ暗くなったような気がした。

(終)

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