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【100名城の旅、13城目『飫肥城』】~名門と修羅が100年奪い合った城~

此度紹介致すのは飫肥城(おびじょう)、

日向国、すなわち現世の宮崎県にある城である!

かつてこの地は小京都と呼ばれるほどに栄えておった町、

信長様が活躍される少し前、戦国中期に栄華を誇ったこの城である。

飫肥城の魅力は『小京都の文化と盛者必衰の趣』である。

古き趣を持つこの城を早速見て参ろうではないか!

交通・行き方

JR日南線「飫肥駅」より歩いて20分。

飫肥城の歴史

九州の戦国大名といえば、先に鶴丸城で紹介した島津家が有名であろう。

じゃが!!

島津家が台頭したのは戦国の終わり頃で、それまでは多くの豪族がしのぎを削る群雄割拠の地であった。

此度紹介する飫肥のあたり、南日向を治めておったのは伊東氏と呼ばれるものたちであった。


そもそも伊東氏は鎌倉時代から続く家柄で、日本三大仇討とも言われる。『曽我兄弟の仇討ち』にて殺された工藤祐経の子孫である。

つまりは島津家に並び伝統ある家柄であると言えよう。

戦国初期は守護大名である島津家と争っていたが、家中での争いが続き政が安定しなかった島津家に替わり守護の仕事を幕府から任せられるなど地位を確かなものとしておった。

元々は伊東家は佐土原城が本拠、飫肥城は島津家の北の前線で島津家と伊東家の戦が始まると飫肥城を奪うべく伊東家が攻撃。これにより島津・伊東家による長きにわたる飫肥城攻防戦が開幕したのじゃ。


じゃが、ここで災難が続く、まず飫肥城攻めの最中に当主・祐尭殿が病死、
改めての侵攻となった次の飫肥城攻めにて、
初めは伊東家が有利に進めるものの新当主・祐国殿が討死、二代に渡って伊東家はこの地にて当主を失ったのじゃ!

故に、弔いのためもあってか伊東家は幾度も幾度も飫肥城に攻撃を仕掛けた。

その執念を恐れた島津家は何度も伊東家有利の和睦を講じ、一度は将軍足利義輝さまの仲裁もあり和睦が叶うのじゃが、

その後も攻撃を繰り返し、遂に飫肥城は伊東家のものとなったのじゃ!


勢いに乗る当主義祐殿を支えたのが武勇にも計略にも秀でた名軍師、山田匡徳殿である!

この後紹介致す『飫肥城歴史資料館』でも山田匡徳殿の展示が行われておるが故に足を運んだ折には忘れず見て行くと良いぞ!!

当主伊東義祐殿と名軍師山田匡徳殿により躍進した伊東家ではあったが、島津家が貴久殿と島津四兄弟の代になり、勢いづく島津家には抗うことができなかった。

飫肥城を含む領土を完全に失い北九州の大大名、大友氏の軍に加わり旧領回復を目指すこととなる。

じゃが島津家の勢いは凄まじく、今度は大友家が島津家に耳川の戦いにて大敗を喫してしまう。

この耳川の戦いは大友家が伊東家の旧領回復のために出陣した戦、

この大敗によって大友家内での居場所を無くした伊東氏は、四国を通って播磨に逃れ当時毛利攻めの最中だった織田家に使えることとなった!!

遠くでの出来事と思いきや我らにも縁があるものたちなんじゃな!

義祐殿の後を継いだ祐兵殿は山崎の戦いでも名をあげ、秀吉による九州征伐の折には案内役として先陣に加わり活躍、その功績によって旧領を秀吉から与えられ、飫肥城に入ることとなった!
これにより、100年以上続いた飫肥城を巡る島津と伊東の争いは伊東の勝利で幕を閉じたのじゃ!

その後には島津家が万が一攻め込んできたときのため、熊本城主である加藤清正と連携をとり備えをしておった。

じゃが、危惧しておった島津との戦は起こることなく、伊東家は江戸時代に入っても良き主君として幕末まで続くこととなったのじゃ!

因みに飫肥藩は最西南端から参勤交代をした藩でもあるぞ!

見所

まず見えるのは大手門、これは昭和後期復元されたものじゃが、当時としては珍しく木造にて復元されておる。近年多くの門が木造復元されるようになったがそのはしりとも言える存在であろう。

木造復元には良質で知られ、樹齢100年を超える飫肥杉が用いられておって実に豪華なものである。

飫肥は江戸時代から林業が盛んでこの材木が重要な収入源であったのじゃ。

故に早くに木造復元が叶ったのであろうな!

そして大手門を抜けると石垣作りの立派な枡形虎口じゃ!

中を進むと見えてくるのが史料館。
伊東家に支えた天才軍師・山田匡徳殿や伊東家の資料と甲冑が数多展示されておるぞ。


城も展示も満喫いたし大満足であったが、
飫肥城を見るに忘れてはならぬ場所がまだある。

それが飫肥城の旧本丸跡じゃ!!

苔蒸して趣ある石垣が迎えてくれるぞ!!

飫肥城は珍らかなシラス台地を活かした群郭式の城である。

シラス台地とは火山活動によって高く積み上がった丘から雨や川の影響でところどころが凹むように沈んでいく地形の頃じゃ。

現世ではカルデラとも申すそうじゃな。

小高い丘の隙間に川や谷ができることで小さな丘がいくつも並び、その間を天然の堀が囲う形になっておるわけじゃ。

まさに城作りにあつらえ向きじゃろう。

他の城が本丸を囲むように或いは一方向に、本丸→二の丸→三の丸と段々と広がるのに対し、

群郭式の城郭は独立した曲輪に橋をかけて一つの城としたのじゃ。

自由度の高い面白い作りであろう。

これが見られるのは薩摩や日向の一部の城のみ、珍かで美しい独特の城郭である。

蛇足

飫肥城は如何であったか!

文化人であった伊東家の城らしく、趣深い城であった!

雅と言っても良いであろう。

重ねてにはなるが、個々の資料館は中々力こもった面白き展示が多くあるでな、確と見ていってほしいわな。

日本史を学んでおっても、日ノ本の中央での出来事しか紹介されぬが、九州の歴史も誠に面白く重要なことが多くあるで、
飫肥城と共に知見を深めていくが良い!


では皆の衆、次の日記帳にて会おうではないか!

さらばじゃ!


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