【100名城の旅、10城目】霧に包まれし日本一の山城と女城主の悲劇、岩村城
前田又左衛門利家である。
日ノ本には三万を超える城郭が築かれてきた。
その中でも遺構の多さや歴史的文化的価値が高い猛者たちは
100名城と称されておる。
儂はこの時代に甦りて皆に日ノ本の城郭、そして歴史の面白さを広めるべく、名城を巡る旅を致し、三年で100名城を制覇致した。
これよりは自ら赴いた名城の皆に伝えて参ろうぞ。
この”のおと”にて儂が巡った順に城の解説と儂の日記を届けてまいる。
記念すべき十城目は日本一高い場所に築かれた岩村城。
それでは早速100名城の旅解説編。いざ参らん!
岩村城
此度紹介致すのは岩村城、
日本三大山城の一つで、最も高いところに築かれたのがこの城郭である!!
岩村城の魅力は、
『山中に佇む高石垣と最高峰の城下町』
である。
日ノ本有数の現存状態の城下町と高くに築かれた城郭、時間が穏やかに流れる唯一無二の此の城を早速見て参ろうではないか!!
交通 行き方

JR『恵那駅』にて明知鉄道に乗り換え一本、
岩村駅にて下車。

明知鉄道は実に美しい列車で東濃の自然を堪能しながら進めば、あっという間に岩村である。

岩村駅を出て少し進むとすぐに岩村城下町、
食べ歩きも叶うし商人屋敷も現存する見所沢山となっておるぞ!!
岩村城の見どころ
霧に守られた城

岩村城は別名、霧ヶ城と呼ばれておる。
岩村城が攻められた折、城内の井戸へ蛇骨を投げ入れたらたちまち霧が立ち込め、城を覆い隠したという逸話からだそうじゃ。
(純粋に高所で霧が出やすいから名付けられたのだとは思うが)
儂が訪れた折にもどえらい霧でな、五里霧中の進軍であった。
じゃが、此の岩村城は実に登山道が整えられておって安全に進むことができる。
苔に彩られた石垣
林の中を進むと突如現れるのが石垣である。

見ての通り苔むした様が実に美しかろう!
100名城を制覇した儂からしても指折りの美しい石垣であった。

これよりは広範囲にわたる石垣建築が広がっておって、山の石垣をじっくりと楽しむことができる。

その途上には霧ヶ城の逸話の井戸があるぞ!!
此の井戸は築かれて幾百年経つにも関わらず、未だに水を湛えておる。
雛人形不在の石垣
して、此の城一番人気の名所がここ六段壁である!!

その名の通り、ひな壇が如く六段積み上げられた高石垣は此の城ならではの特徴である。
斯様に幾つかの段で構成される石垣は2種類あってな、
一つが高石垣の技術がなかった時代に石垣を高く積むために低い石垣を築き、その内側にもう一つ低い石垣を築くいわば拡張型の高石垣。
もう一つが高石垣を築き、その石垣が崩れぬように支えの石垣を周りに築く補強型の石垣、これをはばき石垣と申す。
岩村城の六段壁は後者にあたり、六段壁の側面の石垣は段数が少なくなっておるのじゃ!!
六段壁を越えるといよいよ本丸に入って参る。
高いはすごい、日本一高い城からの眺め【写真なし】
先にも触れたが岩村城の標高は713m、日本で最も高いところに建つ城である。
これは江戸時代に藩庁として用いられた城として日本一、それより前の時代に用いられた城はもっと高くに建つ城もあるのじゃが、
ここまで高くに確と石垣作り城を築き江戸時代の武士が過ごしたのは他にはなかろう。
故にこの城の本丸から見る景色は実に美しい!!

と言いたいところであったが、儂が訪れた日は濃霧であったから、
晴れた日の美しい景色は皆が自ら確かめるがよかろう。
じゃが、濃霧の城も中々風情があるじゃろう!!
江戸の景色が残る水の街

そして忘れてはならぬのが岩村城下町。
岩村城下町は風情と趣があるだけではなく、重要な現存建築が残っておる。
先ずは此の地を流れる水路である。
此の『天正疏水』は織田家重臣・河尻秀隆殿が此の地を治めた折に敷いたもの、実に長い歴史を持つものじゃ。
そして此の整った水道施設によって発達したのが染め物の文化である。
岩村城下には長い歴史を持つ染め物屋が今も残っておる。

他にも現存の商家がいくつも残るほか、町と城を守るための門跡も見ることが叶う。
山城と麓の城下町を一度に楽しめる名所である。
岩村城の歴史
城郭界現役日本最年長記録保持者
岩村城の始まりは鎌倉時代にまで遡る。
源頼朝様の重臣・加藤景廉様がこの地の地頭としてこの地にはいりて築かれて以来700年以上現役の城郭として用いられた稀有な城である。
加藤家は岩村城がある遠山の地を治めたことから名を改めて遠山家として南北朝の時代や室町時代を越え戦国時代まで長きに渡り治めることとなる。
して、戦国時代における東濃は大勢力の狭間の地、
此の岩村城は織田家と武田家の境界に立ち、織田家東方の要の城であった!
戦国後期に当主となった遠山景任殿が病没すると信長様の五男・御坊丸様が遠山家の養子となり、実質の城主は御坊丸様の信長様の叔母上で景任殿の妻であるおつやの方様であった。
信長様が自らの子を当主としたことからも重要な拠点であったことがわかるじゃろう。
女城主の悲劇
じゃが!!念を押しての采配だったにも関わらず、信長様は武田家に奪われることとなった。
これは武田家による西上作戦の折の出来事で、徳川殿が三方原の戦いで惨敗したのと同じ頃のことである。
しかもただ落とされただけにあらず、実質の城主であったおつやの方様は武田家に降伏したばかりか、武田家重臣の秋山虎繁殿の妻となったのじゃ!
御坊丸様は人質として甲府に送られ、後年織田家との関係修復を狙った武田勝頼殿に送り返されるまで長く人質生活を送ることとなった。
岩村城は長篠の戦いの後に織田家が奪還し、反転対武田の最前線の拠点となる。
此の時、降伏したおつやの方様は秋山虎繁殿と磔刑に処されておる。
そんな岩村城を任せられたのが織田家の副将・河尻秀隆殿である。
河尻秀隆殿は黒母衣衆出身の信長様の腹心で、信長様の嫡男・信忠様の後見も務めたお方じゃな。
そして武田家を滅ぼした甲州征伐の折には信長様が入城され、武田家滅亡の報を受けたのも此の岩村城である。
武田家滅亡後に河尻秀隆殿が甲斐国を任されると、変わって団忠正殿が城主となったが間も無く本能寺の変にて討死、変わって入った森長可殿が入るも小牧長久手の戦いで討死。
長可殿の弟・忠政によって近世城郭へ改修され今に続いておる。
江戸時代最高の城
秀吉の死後森家に変わって入った田丸家は関ヶ原の戦いにて西軍に属するも、関ヶ原の決戦の後に東軍に攻められ開城。
江戸時代には大給松平家や、丹羽家(長秀様ではなく岩崎城主の方じゃ)、再び大給松平家(分家)が入って明治維新まで岩村藩の本城として続いておる。
元は山上にあった城主の館が山麓におろされるも城郭部も本城として続いておって、先にも申したが岩村城が三大山城と呼ばれておるのは、江戸時代に居城として使われた城郭としては最も高所に位置しておるからじゃ!
明治維新の後の廃城令によって解体されるも石垣は残り、今に至る。麓の城主の館は残されたが火事で焼失、平成の世になってから門や櫓も復元されておるぞ!
先に紹介した城下町は重要伝統建造物群保存地区に指定されておる。
蛇足
岩村城はいかがであったか!!
食べ歩きも楽しい城下町に登りやすい山道、迫力のある石垣と山城初心者にもおすすめの城である。
明知鉄道での旅も穏やかで、儂好みの鉄道じゃ。
名古屋からも程近く、かなり行きやすい城じゃからな!!
気分転換の日帰り旅にもあつらえ向きじゃ!
そしてこれは儂の好みの話であるが、山道を登ると急に石垣が見える様が実に気に入っておってな、
好きな石垣番付の5本の指に入る城である。
皆も一度は足を運ぶが良いぞ!!
100名城制覇まで残り九十城。
これよりの城巡りの旅も楽しみにしておれ!!
さらばじゃ!!
