【100名城の旅、12城目『鹿児島城』】
鹿児島城
此度紹介致すは、薩摩国(鹿児島県鹿児島市)にある鹿児島城。
九州の戦国大名、島津家の居城であるこの城は後に徳川家を倒し日ノ本を纏め上げる薩摩藩の拠点としても知られておる。
鹿児島城の魅力は、
『名門・島津家がこだわった武家の伝統的な城造り』
である。
これまで紹介してきた城とは違った魅力が数多あるでな、早速見てまいろうではないか!
交通・行き方
・JR「鹿児島駅」より徒歩15分
・市電「市役所」より徒歩10分
・カゴシマシティビュー(バス)「薩摩義士碑前」すぐ
鹿児島はバスなる鉄籠が実に充実しておるから、楽に行くことが叶う。
鹿児島空港から参るものは、市内行きのバスに乗り「金生町」で降りて徒歩10分である!
鹿児島の中心地である天文館は多くの店が立ち並ぶ良きところであるから、楽しんでいくが良いぞ!!
鹿児島城の見所

この城1番の見どころはなんといっても、
近年再建された御楼門である!
城の玄関にあたるこの門は、二層二階建ての櫓門。
日ノ本最大規模を誇る城門である。
天守がなかったこの城にとっては象徴とも言える場所じゃな。
この門は一度、明治の時代に燃えてしもうたのじゃが、現世の民の強き志にて木造復元が叶ったのじゃ!
令和2年に完成したばかり故に、今しか見えぬ美しさもあろうな!
この門に使われる欅は岐阜の山中から切り出されたもの。
名古屋城の本丸御殿との繋がりも感じることができるわな!

御楼門他にも、雄大なる石垣も見えるわな。
鶴丸城の石垣の北東隅は見ての通り、
内向きの窪み、隅欠がなされておる。
これは鬼門、即ち北東の石垣の角を落とすことで厄災を遠ざけようとする意図があったのじゃ!
ここも他の城ではあまり見られぬ作り、確と見ていくが良いぞ!
斯様にして、鹿児島城は方形の整えられた形の城で、こうみると守りの備えが薄いように感じるやも知れぬ。
じゃがこれこそが此の城の伝統と格式を示しておるのじゃ!
島津家は鎌倉時代、源頼朝様とも関わり深い武家として実に格式の高い家柄、
此の四角の城は鎌倉時代から続く武家館の様式なのじゃ。
じゃが、鹿児島城はここだけにあらず、
此の館の後ろに聳える山には山城が構えられ、
平時は館で政務を執り行い、戦が起きると山城に登って敵を迎え撃つ。
これが武士の伝統的な戦い方であった。

山城部分は城山公園として整備されておって土産屋が並んでおる他、桜島を望める展望台もあるでな、余裕があるものは合わせて訪れるが良かろう!!

話は戻って平城部分。
堅固な枡形虎口の奥には、
篤姫殿(天璋院)の像がある、
幕末の日ノ本を支え、近年では大河ドラマの主役となったことで一躍人気の人となったわな。
他にも城外には西郷隆盛殿に大久保利通殿と、幕末の雄達の史跡も多くあると聞くで皆も訪れてみるが良いぞ!!
西南戦争で激しい戦闘があった場所。
城外の石垣には弾痕が残る壁の他、
西郷隆盛殿の最期の地も歩いて行ける場所にある。
我ら戦国の歴史と、幕末の歴史を共に味わえる誠に良きところであった。
鶴丸城の歴史
鶴丸城がある薩摩の地を治めておったは島津家である。
戦国最強の一家として名が知れておるわな。
日ノ本の中心から遠き場所にある故に、田舎大名と揶揄されたりもするのじゃが、
実のところ島津家は日ノ本有数の名家である。
源頼朝様の落胤を起源とする島津家は鎌倉時代から明治を迎えるまで九州南部を治め続けておったのじゃ。
鎌倉幕府から薩摩・大隈(鹿児島県)、日向(宮崎県)の三国を任される。
その後は南北朝の騒乱や応仁の乱を経て、国衆の台頭や島津家家中の内紛によって力を失うも、
戦国時代になると島津家は再びその領土を一気に拡大する。
その立役者が島津貴久殿とその子である島津四兄弟じゃ。
総大将の器を備えし長男・義久殿、
傑出した武勇を誇る次男・義弘殿、
智計に並ぶもののおらぬ三男・歳久殿、
軍法戦術に長じた四男・家久殿。
織田信長様と信勝様や、伊達政宗と小次郎殿が代表的であるが、
優秀な兄弟が揃うと次期当主の座を巡り家中が分裂することもしばしばあった戦国時代において、
優秀な四人の兄弟が共に協力して国を収めたのは珍しきことであるわな!
この兄弟の活躍によって日向伊東家を滅ぼし悲願の三州統一を成し遂げると、九州の覇者・大友家を耳川の戦いで打ち破り大きな打撃を与え、
代わりに勢力を伸ばしてきた龍造寺家を沖田畷の戦いで打ち破ると九州のほぼ全土を収めるに至った。
話此度訪れた鶴丸城を築城したのは島津忠恒殿。
忠恒殿は島津四兄弟の次男義弘殿の子であるが、長男義久殿の養子となり島津家当主を継ぐこととなった。
その折に、島津がかねてより本拠としておった内城からこの鶴丸城に移った次第である。
鶴丸城の大きな特徴として、天守閣がないことが挙げられる。
これは現世に残っておらぬのではなく、そもそも築かれなかったのじゃ!
何故築かなかったのか、
それは徳川家に睨まれぬようにするためであった。
関ヶ原の戦を思い返して欲しい、
あの戦にて、島津家は西軍に味方しておったわな。
然りながら戦の最中は傍観に徹し、西軍の負けが決まると義弘殿は軍を動かし迫り来る東軍を真っ二つに裂きながら敗走していったのじゃ!
世に言う島津の退き口である!
では戦後の島津はどうなったのか。
なんと、どうにもならなかったのじゃ!!
西軍に着いたにも関わらず、異例の本領安堵であった。
西軍に有利な働きはしなかったとはいえ、
日和見を決め込んだ大名家も改易や減封の憂き目にあったことを考えれば、寛大すぎる措置であるわな。
これには、
最南端の地を欲しがるものがいなかったと言う説、
島津が琉球との関わり深い他、勝手がわからぬものには治めにくい土地であったことも一因である。
じゃが当主義久殿の外交手腕によってなぁなぁに済んだといったほうが正しいであろう。
様々な経緯があり本領安堵が叶った島津家であるが、特別に見過ごされた過去がある以上、少しでも怪しい動きを見せれば改易の憂き目に遭うやも知れぬ。
それを恐れて、城の象徴で要でもある天守を作らなかったというわけじゃ。
徳川家の顔をたてたと言えるやもしれん。
これに加えて、先に申した通り源氏の名家として、旧来の城造りをしたことも理由の一つじゃな。
その後は何事もなく江戸時代を過ごしたのじゃが、
江戸末期、薩摩が英国と起こした戦、
薩英戦争にて、この城は舞台となるのじゃ。
港に停まった英国の船の砲弾がこの地に降り注いだと伝わっておる。
異国から攻められた城は日の本において唯一であろう!
なかなかおもしろき話であるな!
時代が変わりこの地は再び戦の舞台となる。
それが西南戦争。薩摩の英雄にして維新三傑の一人・西郷隆盛殿は初めは有利に戦を続けるも鉄壁なる熊本城に敗れ鹿児島の地に逃げ帰って参った。
そしてこの城には政府軍からの銃弾の雨が降り注いだのじゃ。
この弾痕は今も石垣に残っておる。
そしてこの攻撃によって日本最大級の門とも伝わる御楼門を含めた本丸の建築が失われたわけじゃな。
じゃが、御楼門は2020年に櫓門の木造復元の波の先駆者として復元が叶い、この天守なきこの城にとっての顔が戻って参ったのである。
蛇足
鹿児島城はいかがであったか!!
幕末においては日ノ本の主役として語られる薩摩藩。
じゃが幕末に負けず劣らず面白い、そして癖が強いのが戦国の薩摩と島津家じゃ!!
始めに申した通り荒くれ者とは伝わるけれども、どの戦国大名よりも歴史の深く伝統を大切にした家であるからこの両面を楽しんでほしいのう。
鹿児島城方は港が程近く、船に乗れば桜島にも行くことが叶う、
この船は民の生活にとって必需であるからと、名古屋の地下鉄・上飯田線くらいの本数が毎時出ておる!!
隙間時間に参るも良かろう!
100名城制覇まで残り八十八城。
これよりの城巡りの旅も楽しみにしておれ!!
さらばじゃ!!
是迄の城(ばっくなんばぁ)
