昔々、あるところに。第六章 帰る場所
翌朝。
竜宮城は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
水面から差し込む柔らかな光は、城の廊下をゆっくりと揺れながら流れていく。
何も変わらない朝。
けれど乙姫だけは、一睡もできなかった。
幸せであればあるほど、終わりが近づいていることを思い知らされる。
そんな夜だった。
◇
朝食を終えたあと、太一郎は天と並んで城下町を歩いていた。
「もう、この景色ともお別れなんかな。」
思わず漏れた一言に、天の足が止まる。
「帰られるのですか。」
太一郎は少しだけ笑った。
「帰る場所もあるからね。」
少し間を置き、都を見渡す。
「でも、本当は帰りたくない。」
その言葉に、天は何も返せなかった。
自分も同じ気持ちだったからだ。
◇
夕暮れ。
竜宮桜の下で、乙姫は太一郎を待っていた。
花びらが静かに舞っている。
太一郎がゆっくりと歩いてくる。
「待たせた。」
「いいえ。」
二人は並んで桜を見上げた。
言葉はいらなかった。
同じ景色を眺めているだけで、心は満たされていく。
「太一郎様。」
乙姫は静かに口を開いた。
「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか。」
「もちろん。」
乙姫は少しだけ目を伏せる。
これが最後の勇気だった。
「あなたは……。」
震える声で問い掛ける。
「あなたは、一生、私を愛してくれますか。」
海の中は静かだった。
花びらだけが、二人の間をゆっくりと流れていく。
太一郎は乙姫を見つめた。
迷いはなかった。
「もちろん。」
その一言だけだった。
けれど、その一言に偽りはない。
「一生なんて短いくらいだ。」
「俺は、あなたと出会えたことを後悔しない。」
「これから先も、ずっと。」
乙姫は涙をこらえきれなかった。
長い年月を生きてきた。
何百年も。
けれど今ほど、人を愛おしいと思ったことはなかった。
「ありがとうございます……。」
その声は涙で震えていた。
◇
夜。
城の灯りは穏やかに揺れ、竜宮桜の花びらは静かに舞い続けていた。
乙姫は太一郎の部屋を訪れる。
戸を開けると、太一郎は静かに立ち上がった。
どちらからともなく歩み寄る。
言葉はない。
ただ、お互いの手をそっと重ねた。
「今日だけは……。」
乙姫は小さく微笑む。
「私の隣に、いてください。」
太一郎は優しく頷く。
その手を、静かに握り返した。
窓の外では竜宮桜が二人を祝福するように花びらを舞わせている。
長い孤独を生きてきた乙姫は、その夜初めて、未来を願った。
誰にも知られない、穏やかな夜だった。
◇
翌朝。
柔らかな光が部屋へ差し込む。
乙姫がゆっくりと目を開ける。
隣では太一郎が穏やかな寝顔で眠っていた。
やがて太一郎も目を覚ます。
目が合う。
二人は照れくさそうに笑い合った。
何も言わない。
それだけで十分だった。
◇
昼前。
乙姫は太一郎を自室へ招いた。
棚には二つの玉手箱が並んでいる。
一つは大きく。
もう一つは、掌に収まるほどの小さな箱だった。
乙姫は小さな玉手箱を両手で持ち上げ、太一郎へ差し出した。
「これは?」
「玉手箱です。」
太一郎は静かに受け取る。
想像していたより軽かった。
「どうか、お持ちください。」
「でも、こんな大切なもの……。」
乙姫は優しく首を振る。
「私が、お渡ししたいのです。」
太一郎は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「ありがとう。」
乙姫は、その笑顔を胸に刻むように見つめていた。
◇
その日の夕方。
太一郎は天を呼び止めた。
「天。」
「はい。」
太一郎は懐から小さな玉手箱を取り出した。
「これ。」
天は驚いたように目を丸くする。
「乙姫様からいただいた、大切な玉手箱では……。」
太一郎は笑った。
「俺の願いは叶った。」
そう言って、竜宮城を見渡す。
乙姫。
天。
海底に眠る都。
そのすべてが、胸の中にあった。
「だから、この箱は天が持っていてくれ。」
「えっ……。」
「また会う時に返してくれたら、それでいい。」
天は箱と太一郎の顔を何度も見比べる。
やがて、大切そうに玉手箱を胸へ抱いた。
「……はい。」
「必ず、お返しします。」
太一郎は満足そうに笑った。
その約束が、思いもよらぬ形で二人の未来をつなぐことになるとは、まだ誰も知らなかった。
