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昔々、あるところに。第六章 帰る場所



 翌朝。

 竜宮城は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

 水面から差し込む柔らかな光は、城の廊下をゆっくりと揺れながら流れていく。

 何も変わらない朝。

 けれど乙姫だけは、一睡もできなかった。

 幸せであればあるほど、終わりが近づいていることを思い知らされる。

 そんな夜だった。



 朝食を終えたあと、太一郎は天と並んで城下町を歩いていた。

「もう、この景色ともお別れなんかな。」

 思わず漏れた一言に、天の足が止まる。

「帰られるのですか。」

 太一郎は少しだけ笑った。

「帰る場所もあるからね。」

 少し間を置き、都を見渡す。

「でも、本当は帰りたくない。」

 その言葉に、天は何も返せなかった。

 自分も同じ気持ちだったからだ。



 夕暮れ。

 竜宮桜の下で、乙姫は太一郎を待っていた。

 花びらが静かに舞っている。

 太一郎がゆっくりと歩いてくる。

「待たせた。」

「いいえ。」

 二人は並んで桜を見上げた。

 言葉はいらなかった。

 同じ景色を眺めているだけで、心は満たされていく。

「太一郎様。」

 乙姫は静かに口を開いた。

「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか。」

「もちろん。」

 乙姫は少しだけ目を伏せる。

 これが最後の勇気だった。

「あなたは……。」

 震える声で問い掛ける。

「あなたは、一生、私を愛してくれますか。」

 海の中は静かだった。

 花びらだけが、二人の間をゆっくりと流れていく。

 太一郎は乙姫を見つめた。

 迷いはなかった。

「もちろん。」

 その一言だけだった。

 けれど、その一言に偽りはない。

「一生なんて短いくらいだ。」

「俺は、あなたと出会えたことを後悔しない。」

「これから先も、ずっと。」

 乙姫は涙をこらえきれなかった。

 長い年月を生きてきた。

 何百年も。

 けれど今ほど、人を愛おしいと思ったことはなかった。

「ありがとうございます……。」

 その声は涙で震えていた。



 夜。

 城の灯りは穏やかに揺れ、竜宮桜の花びらは静かに舞い続けていた。

 乙姫は太一郎の部屋を訪れる。

 戸を開けると、太一郎は静かに立ち上がった。

 どちらからともなく歩み寄る。

 言葉はない。

 ただ、お互いの手をそっと重ねた。

「今日だけは……。」

 乙姫は小さく微笑む。

「私の隣に、いてください。」

 太一郎は優しく頷く。

 その手を、静かに握り返した。

 窓の外では竜宮桜が二人を祝福するように花びらを舞わせている。

 長い孤独を生きてきた乙姫は、その夜初めて、未来を願った。

 誰にも知られない、穏やかな夜だった。



 翌朝。

 柔らかな光が部屋へ差し込む。

 乙姫がゆっくりと目を開ける。

 隣では太一郎が穏やかな寝顔で眠っていた。

 やがて太一郎も目を覚ます。

 目が合う。

 二人は照れくさそうに笑い合った。

 何も言わない。

 それだけで十分だった。



 昼前。

 乙姫は太一郎を自室へ招いた。

 棚には二つの玉手箱が並んでいる。

 一つは大きく。

 もう一つは、掌に収まるほどの小さな箱だった。

 乙姫は小さな玉手箱を両手で持ち上げ、太一郎へ差し出した。

「これは?」

「玉手箱です。」

 太一郎は静かに受け取る。

 想像していたより軽かった。

「どうか、お持ちください。」

「でも、こんな大切なもの……。」

 乙姫は優しく首を振る。

「私が、お渡ししたいのです。」

 太一郎は少し迷ったあと、小さく頷いた。

「ありがとう。」

 乙姫は、その笑顔を胸に刻むように見つめていた。



 その日の夕方。

 太一郎は天を呼び止めた。

「天。」

「はい。」

 太一郎は懐から小さな玉手箱を取り出した。

「これ。」

 天は驚いたように目を丸くする。

「乙姫様からいただいた、大切な玉手箱では……。」

 太一郎は笑った。

「俺の願いは叶った。」

 そう言って、竜宮城を見渡す。

 乙姫。

 天。

 海底に眠る都。

 そのすべてが、胸の中にあった。

「だから、この箱は天が持っていてくれ。」

「えっ……。」

「また会う時に返してくれたら、それでいい。」

 天は箱と太一郎の顔を何度も見比べる。

 やがて、大切そうに玉手箱を胸へ抱いた。

「……はい。」

「必ず、お返しします。」

 太一郎は満足そうに笑った。

 その約束が、思いもよらぬ形で二人の未来をつなぐことになるとは、まだ誰も知らなかった。

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