昔々、あるところに。第五章 代償
竜宮城での日々は、驚くほど穏やかだった。
朝になれば天が迎えに来る。
乙姫は笑顔で城内を案内し、昼には三人で都を歩く。
夜になれば、竜宮桜の下で他愛もない話をする。
いつしか太一郎は、日が何度昇り、何度沈んだのか数えなくなっていた。
竜宮城には季節の移ろいがない。
だからこそ、一日一日を大切にしたくなった。
◇
「太一郎さん。」
城下町を歩いていると、天が立ち止まった。
「どうした?」
「今日は、私のお気に入りの場所へ案内します。」
天の後をついていく。
都を抜け、小さな坂道を登る。
その先には、海底から湧き出る透き通った泉があった。
無数の泡が絶え間なく浮かび上がり、天井へ向かって消えていく。
「綺麗だ……。」
太一郎は泉のほとりへ腰を下ろした。
泡が頬をかすめる。
ひんやりと心地よい。
「ここは子どもの頃、よく遊んだ場所なんです。」
天は懐かしそうに泉を見つめた。
「昔は仲間もたくさんいました。」
「そうか。」
太一郎はそれ以上聞かなかった。
失ったものを思い出させたくなかったからだ。
代わりに、小さく笑った。
「ありがとう。」
天が首を傾げる。
「何がですか?」
「ここへ連れてきてくれたこと。」
天は照れくさそうに笑う。
「私の夢も、一つ叶いました。」
「空を飛ぶ夢?」
「いいえ。」
天はゆっくり首を振る。
「太一郎さんが笑ってくださることです。」
太一郎は思わず吹き出した。
「それ、夢だったのか。」
「はい。」
二人の笑い声が泉へ響いた。
◇
夕暮れ。
今日も竜宮桜の下には、太一郎と乙姫の姿があった。
花びらは静かに舞い続けている。
「不思議ですね。」
乙姫が桜を見上げる。
「毎日同じ景色なのに、飽きない。」
太一郎も空を見上げた。
「同じじゃないよ。」
「え?」
「今日は今日だけだから。」
乙姫は少し驚いたように太一郎を見る。
「桜も、魚も、光も。」
「全部少しずつ違う。」
太一郎は微笑む。
「だから毎日見ても飽きない。」
乙姫は何も言えなかった。
年を取らない自分には分からなかった感覚だった。
終わりがあるからこそ、今日が愛おしい。
その当たり前を、自分はもう何百年も忘れていた。
◇
その夜。
太一郎は眠れず、廊下を歩いていた。
城は静まり返っている。
ふと、一つの部屋の障子が少しだけ開いていることに気付いた。
漏れた灯りに誘われるように視線を向ける。
部屋の棚には、二つの美しい箱が並んでいた。
一つは小さく。
もう一つは、一回り大きい。
漆黒の箱に金色の細工。
吸い込まれそうなほど美しい。
「眠れませんか。」
振り返ると、乙姫が立っていた。
「あ、ごめん。」
太一郎は慌てて頭を下げる。
「覗くつもりじゃなかったんだ。」
乙姫は穏やかに首を振る。
「構いません。」
ゆっくりと部屋へ入り、二つの箱を見つめる。
「その箱が気になりましたか。」
「綺麗だったから。」
乙姫は箱へそっと手を添えた。
「私にとって、とても大切なものです。」
それ以上は語らなかった。
太一郎も尋ねなかった。
聞いてはいけない気がしたからだ。
二人は並んで廊下を歩く。
言葉はない。
それでも、不思議と心地よかった。
廊下の先で足を止める。
海の向こうを見つめながら、太一郎はぽつりと呟いた。
「ここへ来てから、不思議なんだ。」
「何がですか。」
「初めて来た場所なのに。」
少し照れくさそうに笑う。
「ずっと昔から、この景色を知っていた気がする。」
乙姫は太一郎を見つめた。
その言葉が嬉しくて、苦しかった。
「それはきっと……。」
――この都が、あなたを待っていたから。
喉まで出かかった言葉を、静かに飲み込む。
「どうしました?」
太一郎が首を傾げる。
乙姫は小さく微笑んだ。
「……なんでもありません。」
◇
一人部屋へ戻った乙姫は、棚に置かれた二つの箱を見つめていた。
静かに大きな箱へ手を伸ばす。
あと少しで触れられる、その時。
――ゴォォォ……
城の奥深くから、低く唸るような音が響く。
乙姫の笑顔が消えた。
約束の日は、もうすぐそこまで来ていた。
