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あんなに叱られたのに【一元観への進捗レポート】

子供の頃、自分にとって大人は
「叱るひと」「叱らないひと」
どちらかだった。

そして、私の周囲には
「叱らないひと」はほとんどいなくて

「叱るひと」「批判するひと」
そういう大人たちに囲まれていた。

そんなに叱りどころだらけの子供だったのかなあ…


子供は環境の中で関わる大人たちによって
さまざまな価値観を身につけて行く。
そして、たいてい「ジャッジ」という判断をもらう。

「正解」をもらうということ。

「叱る」とは正解を与えることだ。

子供はみんな一生懸命、正解して
「良い子」になる努力をする。

叱られたくない一心で
どうしたら叱られずにすむか、私は一生懸命だった。

それでも叱られた。

間違いだらけの私は、どうせ何やったって
叱られるんだと思っていた。

だから、叱られないと
「あれ?叱らなくていいのかな?」と不安を感じるようになった。

私はジャッジの星に生まれ落ちたのだ。

ジャッジ村のジャッジの沼で産湯を頂き、洗礼を受けた。

お風呂に入ると肩まで浸かって
熱かろうがのぼせようが、100まで数えさせられたみたいに
ジャッジの沼にも毎日、肩までどっぷり浸かった。

授業中にこっそり図書館で借りた本を読んだという思い出がある。

私はひと言も叱られていなくて、批判もされていない。
つまり、正解を教えられていない。
この二人の先生は「大人の義務」を淡々と遂行しただけ。

叱られることに慣れている私はどうしていいかわからなかった。

ジャッジ沼に住む私は
叱られることを愛情だと思い込んでいるので
放置されたような気持ちだった。

もしかすると
ホントに放置だった可能性も否めないけど。

「良い大人」になるために
正解を集めて、集めて、たくさん訓練をして
そうして大人になったけど
メディア、SNS、どこでもいつでも
正解がどれか、みんな不安そうにみえる。

メンターやインフルエンサーに
毎日つきることのない質問が集中している。

「彼らが話すことにきっと正解があるんだ」

私も彼らがどんな答えを話すのか知りたくて
つい、覗きたくなる。

私、あんなにたくさん叱られて
答えも一杯集めたのにこうしてまだ正解を教えてくれる人を探している。

スーパーでたまたま見かけた
一番後ろの商品を取ろうとして
手前の商品を乱す人に対しても、
仕事で何か判断を迫られる場面でも

日々、私はどんな些細なことも
正解を確かめたくて悩むし、苛立つし

そのために、自分へも他人へも常に天秤をかざしている。

その天秤のバランスを取ることに躍起になっている。

どっちが優れているか、人の天秤と比べたりしている。

でも、そもそもどうして私は
すべてに「正解」が必要なのだろう?



外でひぐらしの鳴くのが聞こえる。

今日もあれこれと思いを巡らして
日が暮れてしまった。
今年も夏が終わるのだ。




ららみぃたんさんの「一元観エピソード」を
夏休みの自由研究にしてみたのですが、


思いつくままに書いてみたら最後は
ーなぜ自分にはすべてに「正解」が必要なのか?ー
という疑問で終わってしまいました。

なので『進捗レポート』ってことでいいですか?

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