水彩画と御城印で巡る 日本の名城 53 奥州南部を治めた戦国の城 ― 三春城、須賀川城、向羽黒山城

伊達政宗以前の有力勢力 ― 三春城・須賀川城・向羽黒山城をあるいてみた

戦国時代の奥州を語るとき、伊達政宗の存在はあまりにも大きい。
 
独眼竜と呼ばれた若き武将は、周囲の諸勢力を次々と破り、
奥州の覇者へ駆け上がっていった。
 
その鮮烈な活躍によって、
政宗以前の奥州にも多くの大名が割拠していたことを、
つい忘れがちである。
 
とくに、政宗が登場する前から、現在の福島県中通りから会津にかけては、
いくつもの有力勢力が領地を争っていた。
 
三春を本拠とした **田村氏。
須賀川を治めた **二階堂氏。
会津に一大勢力を築いた **蘆名氏。
 
三氏は互いに争い、ときに婚姻や人質を通じて結びつきながら、
**佐竹氏、**相馬氏、**伊達氏など周囲の大名との間で生き残りを図った。
 
今回訪ねるのは、**三春城、**須賀川城、**向羽黒山城。
 
三つの城を結んで歩くと、伊達政宗の華々しい勝利の陰で、
古くからこの地を治めてきた大名たちが、どのように領国を守り、
そして時代の波にのみ込まれていったのかが見えてくる。

三春城 ― 伊達と相馬の間で揺れた田村氏の城

三春城 北の相馬氏、西の伊達氏、南の佐竹氏や二階堂氏などと争った城(福島県田村郡三春町)

三春城は、戦国時代の初頭、
永正元年(1504年)に戦国大名の **田村義顕によって築かれた。

義顕が初めて城に入った朝、
城の上空を鶴が舞うように飛んでいたことから、
「**舞鶴城(ぶかくじょう)」とも呼ばれている。
 
だが、田村氏の領国は、北の**相馬氏、西の**伊達氏、
南の**佐竹氏や**二階堂氏などに囲まれていた。
大勢力のはざまで独立を保つためには、武力だけでなく、
婚姻による結びつきが欠かせなかった。
 
その対策として、**田村清顕は伊達氏と結び、
一人娘の **愛姫(めごひめ)を **伊達輝宗の嫡男・**政宗に嫁がせた。
 
愛姫は、のちに伊達政宗の正室として仙台藩の歴史に大きな役割を果たす。
この婚姻は単なる家同士の祝い事ではない。
田村氏が伊達氏との結びつきを強め、
周囲の敵に対抗しようとした、重要な外交戦略だった。
 
ところが、清顕には男子がなく、1586年に後継を定めないまま急死した。
 
三春城内では、清顕夫人の実家である相馬氏を頼ろうとする一派と、
伊達氏との関係を重視する一派が対立する。

しかし、田村氏は、愛姫の夫である **伊達政宗の勢力下へ入っていく。
 
1590年、**豊臣秀吉による **奥羽仕置によって田村氏は改易された。
しかし、三春城はその後も城として使われ、
寛永21年(1644年)に **秋田俊季が城主となって以降は、
明治維新まで **秋田氏が代々この地を治めた。
 
現在の城跡には、曲輪や土塁、石垣などが残り、
眼下には三春の町並みが広がる。
 
田村氏の栄光を伝える城であると同時に、
婚姻と後継者をめぐって大名家の運命が揺れた城――
ここは **三春城である。
 
2023年4月22日 
続日本100名城 No.110 三春城公式スタンプ取得

御城印は三春町歴史民俗資料館にて拝受

須賀川城 ― 伊達政宗の激しい猛攻にさらされた「須賀川城攻防戦」の舞台

須賀川城 炎の記憶を今に伝える二階堂氏の城(福島県須賀川市)

須賀川城は応永6年(1399年)、**二階堂為氏によって築かれた。

二階堂氏はもともと **鎌倉幕府の **御家人の家系で、
この地に入ってから約190年間にわたり須賀川周辺を支配した。
 
戦国時代の須賀川城主・**二階堂盛義は、会津の **蘆名氏と対立したのち、
1566年に和睦し、わずか6歳の次男・盛隆を人質として会津へ送った。
蘆名氏の当主・盛興が後継者を残さず死去すると、
盛隆は蘆名家の当主に迎えられる。
人質として会津へ渡った少年が、
大大名・蘆名氏を継ぐことになったのである。

これによって、二階堂氏と蘆名氏の関係は強まった。
 
やがて、**伊達政宗が南奥州へ急速に勢力を広げ始める。
 
1589年、政宗が **摺上原の戦いで蘆名氏を破り、**会津を手に入れると、
須賀川は伊達軍の圧力を直接受けることになった。

同年、須賀川城は伊達政宗に攻められて落城し、
長くこの地を治めた二階堂氏の時代は終わった。
 
須賀川では、この落城の記憶が
「**松明あかし」という火祭りに受け継がれている。
 
晩秋の夜、巨大な松明が赤々と燃え上がる光景は壮観である。
その炎には、須賀川城を守って戦った人々への鎮魂と、
故郷の歴史を忘れまいとする思いが込められている。
須賀川市は、この祭りを二階堂氏の霊を弔う伝統行事として紹介している。
 
多くの城跡は、土塁や堀、石垣によって歴史を伝える。
しかし須賀川城は、祭りの炎によって落城の記憶を伝えてきた。
 
現在は市街化が進み、往時の城郭を目に見える形でたどることは難しいが、
城址に建つ二階堂神社などが、その歴史を伝えている。
 
城郭の姿を失っても、町の記憶の中で今なお燃え続けている城――
ここは **須賀川城である。
 
2023年6月1日 
名城指定ないため公式スタンプなし

御城印は神炊館神社にて拝受

向羽黒山城 ― 蘆名盛氏が築いた東北最大級と謳われる巨大な山城

向羽黒山城 上杉謙信の春日山城を超える巨城(福島県大沼郡会津美里町)

向羽黒山城は、
戦国時代に会津を支配した **蘆名盛氏によって築かれた巨大山城である。

盛氏は永禄11年(1568年)から8年もの歳月をかけて築城したとされ、
会津だけでなく周辺地域にも大きな影響力を持った。
 
現在も一曲輪、二曲輪、九十九折の道、虎口、堀切、土塁など、
大規模な遺構が残る。
 
蘆名氏は、鎌倉時代以来、長く会津を治めた名族であった。
なかでも蘆名盛氏の時代に最盛期を迎え、
向羽黒山城は、その盛氏が晩年の居城として築いたとされる。
 
城は白鳳山の広大な山塊に築かれている。
 
山頂部の一曲輪を中心に、尾根上には大小の曲輪が連なり、
斜面には堀切や竪堀が設けられた。
近世城郭のように天守や高石垣で威容を示すのではなく、
山そのものを巨大な防御施設へ造り替えた城である。
 
現地を歩けば、その規模に圧倒される。
 
一つの曲輪を見ただけでは、城の全体像はつかめない。
尾根を進み、谷を見下ろし、曲がりくねった道をたどって
初めて、複数の峰と斜面が一体となった巨大城郭の姿が見えてくる。
 
しかし、蘆名氏の最盛期は長く続かなかった。
 
盛氏の死後、当主が相次いで早世し、家中は後継者をめぐって揺れた。
二階堂氏から蘆名家に入った盛隆が当主となったが、
1584年に家臣によって殺害される。
その後の蘆名氏は、**佐竹氏との結びつきながら伊達政宗に対抗した。
 
1589年、**伊達政宗と **蘆名義広は摺上原で激突する。
 
この戦いに敗れた蘆名氏は会津を失い、長く続いた支配は終わった。
政宗は会津へ進出し、南奥州の覇権をほぼ手中に収める。
 
向羽黒山城は、その後も重要な軍事拠点として利用された。
伊達政宗だけでなく、
**蒲生氏郷や **上杉景勝・**直江兼続の時代にも改修が加えられた。

会津を支配する者にとって、
この山城は看過できない要害だったのである。
 
三春城や須賀川城が城下町と密接に結びついた城であるのに対し、
向羽黒山城には、領国最後の砦を思わせる厳しさがある。
 
蘆名氏の繁栄と滅亡を今も山全体で物語る城――
ここは **向羽黒山城である。
 
2023年4月22日 
続日本100名城 No.111 向羽黒山城公式スタンプ取得

御城印は本郷インフォメーションセンターにて拝受

政宗の前に立ちはだかった大名たちの三つの城を巡って

**三春城、**須賀川城、**向羽黒山城。
 
歴史は、しばしば勝者を中心に語られる。
 
伊達政宗は奥州の覇者として、その生涯は今も多くの人を引きつける。
 
しかし、政宗が駆け上がった道の周囲には、
田村氏、**二階堂氏、**蘆名氏をはじめ、多くの大名たちの営みがあった。
 
彼らもまた、領民を治め、城を築き、家を次の世代へ残そうとしていた。
 
三春城には、**伊達と**相馬の間で揺れた**田村氏の記憶がある。
須賀川城には、炎とともに語り継がれる二階堂氏の最期がある。
向羽黒山城には、会津の覇者として栄えた蘆名氏の夢が残されている。
 
城跡を歩くことは、勝者の足跡をたどることだけではない。
 
歴史の表舞台から消えていった者たちの声に耳を澄ますことでもある。
 
三春から須賀川へ。
そして会津の向羽黒山へ。
 
奥州南部の三つの城を巡ると、伊達政宗の華やかな物語の裏に、
いくつもの名門が興り、結びつき、争い、滅びていった
戦国の風景が見えてくる。



いいなと思ったら応援しよう!