水彩画と御城印で巡る 日本の名城 54 坂東太郎・佐竹義重と常陸の攻防 ― 太田城、小田城、土浦城

坂東太郎と常陸の不死鳥の城 ― 太田城、小田城、土浦城をあるいてみた

戦国時代の常陸には、対照的な二人の武将がいた。
 
一人は、北関東屈指の勇将として恐れられた **佐竹義重。
 
若くして佐竹氏の当主となり、常陸北部から勢力を広げ、
南奥州の **蘆名氏とも手を結びながら、**北条氏や **伊達氏に対抗した。
その勇猛さから、義重は「*鬼義重」、あるいは「**坂東太郎」と呼ばれた。
 
もう一人は、小田城主・**小田氏治である。
 
氏治は、上杉氏、佐竹氏、真壁氏など周囲の勢力に何度も敗れ、
小田城を繰り返し失った。
そのため、後世には「戦国最弱の大名」と評されることもある。
 
しかし、氏治は城を失っても諦めなかった。
 
土浦城へ退き、家臣たちに支えられながら、何度も小田城の奪還を試みた。
その姿から、現在では「常陸の不死鳥」と呼ばれている。
小田城の御城印にも、不死鳥を描いたものと、
氏治の肖像に描かれた猫をモチーフにした「愛猫版」が用意されている。
 
強大な佐竹義重と、敗れても立ち上がる小田氏治。
 
今回訪ねるのは、太田城、小田城、土浦城。
 
この三城を巡りながら、常陸の統一を目指した佐竹氏と、それに抵抗し続けた小田氏の攻防をたどってみたい。

太田城 ― 佐竹氏の長い歴史を育んだ「舞鶴城」とも呼ばれた本拠

太田城 佐竹氏が約470年の歴史を刻んだ城(茨城県常陸太田市)

太田城は、佐竹氏が約470年にわたって本拠とした城である。
佐竹氏は、**清和源氏の流れをくむ名門で、
平安時代末期から常陸に根を張った。
 
佐竹氏三代・隆義が入城した際、城の上空を鶴が舞ったことから、
太田城は「舞鶴城」とも呼ばれた。
 
戦国時代に当主となった義重は、
この太田城を足場に周辺勢力を従え、常陸統一への道を歩み始めた。
 
南には小田氏や江戸氏、西には結城氏や宇都宮氏、
さらに関東南部からは後北条氏が勢力を伸ばしていた。
北では **蘆名氏と **伊達氏が争い、
常陸は関東と南奥州の勢力がぶつかる境界でもあった。
 
義重は、単に合戦に強いだけの武将ではなかった。
 
周辺の国衆と同盟を結び、婚姻や養子縁組を用いながら、
佐竹一族をまとめていった。
蘆名氏とも深く結びつき、
第53回で取り上げた **向羽黒山城の歴史とも繋がっている。
 
蘆名氏が **伊達政宗に圧迫されると、
佐竹氏は南奥州への影響力を保つため、蘆名氏を支援した。
 
現在、城郭の姿は市街地の中に埋もれ、
高い石垣も、深い水堀も、目に見える形ではほとんど残っていない。
しかし、町を歩き、城跡碑や若宮八幡宮を訪ねると、
この一帯が長く佐竹氏の政治と軍事の中心であったことを感じる。
 
「坂東太郎」と呼ばれた武将が、常陸の統一へ向かって歩み始めた城――
ここは **太田城である。

2023年10月1日 
名城指定ないため公式スタンプなし

小田城 ― 9回以上落城しても奪還した愛猫家 小田氏治の城

小田城 「不死身の戦国武将」などと称された小田氏治の城(茨城県つくば市)

小田城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて常陸南部に勢力を持った
小田氏の本拠で、**鎌倉幕府の御家人 **八田知家を祖とする名門である。
 
広い平地に曲輪と堀を巡らせた平城で、
発掘調査の成果をもとに、土塁や堀、池などが復元されている。
 
**南北朝時代には、
北畠親房を小田城に迎えて南朝方を支えたことでも知られている。
長い歴史を持つ小田氏は、戦国時代でも常陸南部の有力勢力であったが
その最後の当主が、**小田氏治である。
 
氏治は、**後北条氏と結び、**上杉氏や **佐竹氏に対抗した。
しかし、1564年には上杉・佐竹方の攻撃を受けて小田城を失い、
その後も戦いのたびに城を奪われた。
 
通常、一度本拠を失った時点で大名家の命運は尽きる。
 
だが、氏治は違った。
 
小田城を奪われるたびに **土浦城へ退き、
機会を見ては兵を集め、再び小田城へ戻った。
つくば市の資料にも、氏治が小田城を失うたびに土浦城へ逃れ、
奪還を繰り返したことが記されている。
 
なぜ、氏治は何度も戻ることができたのだろう。
 
氏治自身の執念もあった。
しかし、それだけではない。
 
小田氏を支える家臣たちが、敗れても氏治を見放さなかったからである。
土浦城主の **菅谷氏をはじめ、小田氏に忠誠を尽くす武将たちが、
氏治の再起を支えた。
 
一度の勝利によって広い領土を得ても、家臣が離れればその力は失われる。
逆に、敗北を重ねても家臣が支え続けるなら、大名家は簡単には滅びない。
 
小田氏治は、決して強い武将ではなかったのかもしれない。
 
それでも、何度敗れても家臣たちが集まり、城へ戻ろうとした。そこに氏治の不思議な魅力があった。
 
1569年、氏治は手這坂の戦いで佐竹義重に敗れ、ついに小田城を失った。
その後、氏治が城を奪い返すことはできず、
小田城には佐竹方の武将が入った。
 
現在の小田城跡には、復元された堀や土塁が広がり、
その先には筑波山を望むことができる。
 
敗者の城でありながら「常陸の不死鳥」でもある城――
ここは、**小田城である。
 
2023年6月10日 
名城指定ないため公式スタンプなし

御城印は小田城跡歴史ひろば案内所にて拝受

土浦城 ― 小田氏治を陰で支え続けた水の城

土浦城 堀に浮かぶ姿から「亀城(きじょう)」と呼ばれた城(茨城県土浦市)

土浦城は、霞ヶ浦に近い低湿地に築かれた平城である。
幾重にも巡らされた堀に囲まれ、
水に浮かぶ亀のように見えたことから、「亀城」と呼ばれてきた。
 
現在は亀城公園として整備され、本丸跡には櫓門が残る。この櫓門は、現存する城郭建築として関東地方では貴重な存在であり、土浦城を象徴する景観となっている。
 
現在見られる土浦城の姿は、主に近世以降に整えられたものである。
 
戦国時代の土浦城には、小田氏治の苦難と再起の記憶が刻まれている。
 
16世紀初め、土浦城は小田氏の支配下に入り、
重臣の菅谷氏が城主となった。
小田城を失った氏治にとって、土浦城は単なる支城ではなかった。
 
再起を図るための避難所であり、兵を集める拠点であり、
小田氏の命脈をつなぐ城だった。
 
小田城が攻め落とされると、氏治は土浦城へ逃れた。
 
そして敵の隙を見て再び兵を挙げ、小田城を取り戻す。
 
小田氏治の物語は、小田城だけでは完結しない。
土浦城があったからこそ、
氏治は何度も立ち上がることができたのである。
 
しかし、佐竹義重の勢力は次第に常陸南部へ及んでいった。
 
1574年、土浦城は佐竹方の攻撃を受け、
城主の菅谷氏も佐竹氏に従うことになった。
氏治の再起を支え続けた土浦城も、ついに佐竹氏の勢力下へ入った。

何度敗れても戻ってきた氏治の姿は、
勝者とは異なる形で人々の記憶に残った。
 
堀の水面に櫓門と木々が映り、春ならば桜が淡く揺れる。
水と緑の中に城が静かに浮かぶ構図が素晴らしい。
 
その穏やかな風景の奥に、敗走してきた氏治と、
彼を迎え入れた菅谷氏の忠義の姿が美しい。
 
敗者を受け入れ、その再起を支えた城――
ここは **土浦城である。
 
2022年12月10日 
続日本100名城 No.113 土浦城公式スタンプ取得

御城印は土浦市立博物館にて拝受

強者と敗者が乱れた常陸の戦国史を巡って


太田城、小田城、土浦城。
 
この三城を巡ると、常陸の戦国時代が、
単純な勝者と敗者の物語ではなかったことがわかる。
 
**太田城の **佐竹義重は、強大な敵に囲まれつつ常陸の統一を目指した。
**小田城の **小田氏治は、何度敗れても本拠へ戻ろうとした。
**土浦城の **菅谷氏は、その氏治を支え、再起の場所を守り続けた。
 
佐竹は強かった。

時代は下り、義重の嫡男 **佐竹義宣は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣する。
 
1590年、義宣は水戸城の江戸氏を退け、常陸支配を大きく前進させた。
やがて義宣は、本拠を長く暮らした太田城から水戸城へ移した。
 
太田城から始まった佐竹氏の歩みは、
小田城や土浦城をめぐる長い攻防を経て、水戸城へたどり着いたのである。
 
しかし、その栄光も永遠には続かなかった。
 
1600年の関ヶ原の戦い後、佐竹氏は常陸から出羽秋田へ移される。
佐竹氏が約470年にわたり本拠とした太田城も、
秋田移封に伴って廃城となった。
 
義宣は新天地で **久保田城を築き、
佐竹氏は秋田藩主として新たな歴史を歩み始める。
 
太田城から水戸城へ。
そして、久保田城へ。
 
城をつないでいくと、常陸から出羽へ移った佐竹氏の長い旅が見えてくる。
 
勝ち続けた佐竹。
敗れても立ち上がった小田。
主君を支え続けた菅谷。
 
そのすべての記憶を包み込みながら、常陸の城跡は今も静かに残っている。

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