水彩画と御城印で巡る 日本の名城 59 北条早雲、駿河から戦国へ ― 小川城、石脇城、興国寺城
古い名族から新しい戦国の時代へ ― 小川城、石脇城、興国寺城をあるいてみた
前回は、真壁城・結城城・本佐倉城を巡った。
**真壁氏、**結城氏、**千葉氏はいずれも鎌倉時代以来、
関東に根を張ってきた名族である。
しかし十五世紀後半になると、室町幕府の力は弱まり、
関東や東海でもそれまでの秩序が大きく揺らぎ始めた。
そこで登場したのが後世「北条早雲」と呼ばれる **伊勢新九郎盛時である。
かつて早雲は、「一介の浪人から戦国大名へ成り上がった下克上の典型」
と語られることが多かった。
しかし現在では、京都で室町幕府に仕え、
駿河の守護今川氏とも深い関係を持った人物だったことが知られている。
早雲が歴史の表舞台へ出るきっかけは、今川家の家督争いであった。
今回は駿河へ舞台を移し、**小川城、**石脇城、**興国寺城を訪ねる。
三城をたどると、一人の武将の出世物語だけではなく、
守護大名の時代から戦国大名の時代へ移っていく、その境目が見えてくる。
小川城 ― 伊勢新九郎(後の北条早雲)の助力によって今川氏親を守った駿河の城

小川城は、現在の海岸線から約1キロ内陸にあり、
近くには海運の拠点であった小川湊があった。
陸路と海路の双方を押さえることのできる重要な場所だったのである。
現在は市街地となり、城らしい堀や土塁を見ることはほとんどできない。
しかし発掘調査によって、
かつてここにかなり大規模な城館が存在したことが分かっている。
十五世紀後半、この城を拠点としていたのが **長谷川正宣である。
正宣は「法永長者」と呼ばれたほどの有力者で、
駿河守護 **今川氏とも深い関係を持っていた。
1476年、**今川義忠が戦死すると、今川家では家督をめぐる争いが起こる。
義忠の嫡男 **龍王丸はまだ幼く、一族の **小鹿範満と後継争いになった。
この龍王丸を保護した人物の一人が、**小川城主の **長谷川正宣だった。
城内からは大規模な建物や倉庫跡も発見されている。
単なる戦いのための砦ではなく、
政治や生活を営む領主の館でもあったことが分かる。
**龍王丸(のちの **今川氏親)が将来の今川家当主となるために必要な武家の儀礼などを行える場として、小川城が機能した可能性もある。
重要なのは、小川城そのものが北条早雲の城だったわけではない。
龍王丸を支える勢力の中心に小川城があり、
その近くに、次章で述べる、早雲が拠点とする石脇城があった。
北条早雲の物語の「前章」ともいえる城――
ここは **小川城である。
2022年10月1日
名城指定ではないため公式スタンプなし

石脇城 ― 伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が戦国大名としてスタートした「旗揚げの城」

石脇城は高草山から続く丘陵の先端部を利用した山城で、平地の小川城とは性格が大きく異なる。
この城で注目すべき人物が、**伊勢新九郎盛時である。
のちに出家して早雲庵宗瑞と名乗り、後世「北条早雲」と呼ばれた。
ただし、本人が北条姓を名乗ったわけではない。
北条姓を用いるようになるのは、その子・氏綱の時代である。
盛時の姉 **北川殿は、**今川義忠の正室であり、龍王丸の母だった。
つまり盛時にとって、今川家の家督争いは他人事ではなかった。
小川城主・長谷川正宣が龍王丸を保護するなか、盛時はその勢力下にあった石脇城に入り、龍王丸派として活動したと伝えられている。
石脇城は、いくつかの曲輪を丘陵上に配置した比較的小規模な山城である。
巨大な城ではない。
しかし、平地にある小川城を支え、周辺を監視するには適した場所だった。
盛時は小鹿範満との争いを収め、龍王丸は今川家当主 **今川氏親となる。
この戦功によって、盛時は今川氏の中で重要な立場を占めるようになった。
一つの地方の山城にいた伊勢新九郎が、
やがて関東の歴史を大きく動かすことになる。
「北条早雲出世の城」と紹介される城――
ここは **石脇城である。
2022年10月1日
名城指定ではないため公式スタンプなし

興国寺城 ― 北条早雲(伊勢新九郎盛時)の「旗揚げの城」

愛鷹山の尾根の末端に築かれているのが **興国寺城である。
ここまで来ると、**小川城や **石脇城とは城の規模も立地も大きく変わる。
興国寺城の南側には、当時の重要な交通路であった根方街道が通り、
箱根や足柄方面へつながっていた。
つまり、駿河から伊豆・相模へ向かう交通を押さえる重要な場所だった。
**今川氏親の家督相続争いに助力する功績を挙げた盛時は、
1488年頃、富士郡下方十二郷を与えられ、
興国寺城主となったと伝えられている。
そのため興国寺城は、「**北条早雲旗揚げの城」として知られている。
城跡で最も印象的なのは、本丸背後を断ち切る巨大な空堀である。
本丸の北側には土塁が高く残り、その背後には深い堀が横たわる。
石垣や天守ではなく、
大量の土を掘り、盛ることによって守りを固めた戦国城郭である。
さらに北側には伝天守台があり、
城が後の時代にも繰り返し改修されたことを伝えている。
そして1493年、盛時はここからさらに東へ動く。
伊豆の堀越公方 **足利茶々丸を攻め、伊豆へ進出した。
駿河の今川氏を支えた伊勢新九郎は、
ここから自らの領国を持つ武将へと変わっていく。
まさにその転換点に立つ城であった。
関東支配の第一歩となった城――
ここは **興国寺城である。
2022年10月1日
続日本100名城 No.145 興国寺城公式スタンプ取得

戦国大名の祖、北条早雲に関連する三つの城をめぐって
小川城、石脇城、興国寺城。
三城を並べると、それぞれの役割が異なることに気づく。
**小川城は、海と陸の交通を押さえた有力者の居館。
**石脇城は、今川家の家督争いの中で伊勢新九郎盛時が活動した山城。
**興国寺城は、駿河東部を押さえ、伊豆・相模への軍事拠点。
そして三城の歴史を結ぶと、一人の武将の歩みだけではなく、
時代そのものの変化が見えてくる。
北条早雲は、何も持たない浪人が突然城を奪い取って大名になった人物ではない。
室町幕府や今川氏とのつながりを持ち、今川家の内紛に関わり、
そこで築いた立場を足掛かりとして、少しずつ自らの勢力を広げていった。
その原点が、小川城と石脇城である。
有名な小田原城だけを見ていては、
後北条氏がどこから始まったのかは見えてこない。
早雲は伊豆へ進み、小田原へ勢力を伸ばす。
その子 **氏綱、孫 **氏康、さらに **氏政、**氏直へ。
後北条氏は五代にわたって関東に巨大な領国を築いていく。
歴史に名を残す大勢力も、最初から大きかったわけではない。
一つの館、一つの山城、一つの境目の城。
そこから人と土地を結びながら、少しずつ勢力を広げていったのである。
この三つの城を巡る旅は、北条早雲の足跡をたどると同時に、
守護大名の時代から戦国大名の時代へ、
日本が大きく動き始めた瞬間を訪ねる旅でもある。
