水彩画と御城印で巡る 日本の名城16 九州戦国武将 龍造寺隆信
肥前の熊 龍造寺隆信ゆかりの城――佐賀城、水之江城、柳川城をあるいてみた
戦国時代の九州で、「肥前の熊」と恐れられた武将がいた。
肥前を本拠とした **龍造寺隆信 である。
龍造寺氏はもともと肥前の有力国人で、
その古い拠点は 杵島城 にあった。
有明海沿岸と佐賀平野を結ぶこの地を足がかりに勢力を築いたが、
戦国の混乱の中で一時は家勢を大きく失ってしまう。
その家を再び立て直したのが隆信であった。
隆信は佐賀平野の **佐賀城(当時の**村中城)を拠点に勢力を回復し、
周辺の国衆を従えて肥前一国を掌握していく。
さらに本拠を **水ヶ江城 に移し、
ここを政治と軍事の中心として九州北部へ勢力を広げた。
その勢いは筑後にも及び、
重要拠点である **柳川城 をめぐる戦いへとつながっていく。
こうして龍造寺氏は、九州北部を代表する戦国大名へと成長した。
しかし戦国の勢力争いは常に大きな転機を伴う。
隆信の勢力が最も広がったとき、南九州から強大な勢力が北上してくる。
薩摩の **島津義久 を中心とする島津氏である。
1584年、肥前の**沖田畷。
この戦いは、龍造寺氏の運命を大きく変えることになる。
村中城、水ヶ江城、柳川城。
三つの城を巡ると、
龍造寺家が再興から最盛期へと駆け上がり、
そして大きな転機へ向かう戦国の歩みが見えてくる。
それは、肥前の大地に刻まれた
一つの戦国大名の興亡の物語である。
佐賀城(村中城)――肥前の覇者への出発点となった城

肥前国の中央、広い佐賀平野に築かれた 佐賀城 は、
江戸時代には鍋島藩の居城として知られる城である。
しかしその前身は、
戦国期に龍造寺氏が本拠とした 村中城(村中館) であった。
この地を拠点として勢力を回復したのが、
肥前の戦国大名 龍造寺隆信 である。
龍造寺氏はもともと肥前の有力国人であったが、
戦国の争いの中で一時は勢力を失い、家は大きく衰えていた。
隆信はその家を再び立て直し、
村中城を拠点に周辺の国衆を次々と従えていく。
佐賀平野は筑後川の水に恵まれた肥沃な土地であり、
豊かな農地は兵力を支える重要な基盤となった。
この地を掌握したことが、龍造寺氏の勢力拡大の出発点となる。
やがて隆信は肥前各地を制圧し、
九州北部でも有力な戦国大名へと成長していく。
その勇猛さから、隆信は「肥前の熊」と呼ばれるようになった。
のちの佐賀城は江戸時代に整備された城であるが、その地は戦国期から龍造寺氏の政治と軍事の中心であった。
広い平野の中央に築かれたこの城は、肥前支配の拠点として重要な役割を果たしたのである。
衰退していた龍造寺家を再び立ち上がらせ、
隆信が肥前の覇者へと成長していく出発点となった城――
ここは**村中城である。
2022年10月10日
日本100名城 No.89. 佐賀城公式スタンプ取得

水之江城――龍造寺政権の中心となった城

佐賀平野の中心部、
現在の佐賀市水ヶ江周辺に築かれていた **水ヶ江城 は、
戦国期に龍造寺氏の政治と軍事の中心となった城である。
地形は平野の低地に位置し、
有明海へと続く水路や川に近い交通の要衝であった。
この城を本拠としたのが、肥前の戦国大名 **龍造寺隆信 である。
隆信は村中城を拠点として勢力を回復し、
肥前各地の国衆を従えることで勢力を急速に拡大していった。
その勢力拡大の中で、政治と軍事の中心として
整備されたのが水ヶ江城であった。
水ヶ江の地は佐賀平野の中央に位置し、
周辺の交通や物資の集積を掌握しやすい場所である。
ここを拠点とすることで、隆信は肥前の統治体制を整え、
家臣団を統率する龍造寺政権を築いていく。
この頃、龍造寺氏の勢力は肥前を越えて広がり、
筑後や肥後の一部にまで影響力を及ぼすようになる。
その勢いから隆信は「肥前の熊」と呼ばれ、
九州北部でも有力な戦国大名として知られるようになった。
水ヶ江城は、その最盛期を支えた城である。
村中城が龍造寺再興の出発点であったなら、
水ヶ江城は龍造寺政権の中心として、
隆信の勢力拡大を支えた城であった。
佐賀平野に広がる現在の町並みの中に、城の遺構は多く残っていない。
しかしこの地は、
戦国の九州で龍造寺氏が最も力を持っていた時代の中心であった。
龍造寺隆信が九州北部の覇者へと成長した最盛期を象徴する城――
ここは**水ヶ江城**である。
2022年10月10日 訪城
日本100名城、続100名城ではないため公式スタンプなし
御城印も現地での頒布なし
柳川城 ― 龍造寺勢力拡大の最前線

筑後国南部、水路が網の目のように広がる低地に築かれた **柳川城 は、
九州でも有名な水城の一つである。
城の周囲には堀と水路が張り巡らされ、
川と湿地を利用した防御を備えた城郭であった。
戦国期、この城は筑後を支配した **蒲池氏の本拠であったが、
やがて肥前の戦国大名 龍造寺隆信 の勢力拡大の中で重要な拠点となる。
隆信は肥前を掌握した後、勢力を筑後方面へと広げ、
九州北部の覇権を目指すようになる。
筑後の要衝であった柳川城は、
その最前線に位置する城であった。
柳川の地は筑後川の水系と有明海に近く、
水路を利用した交通と防御に優れていた。
城の周囲には堀が巡り、低地の水郷地帯と一体となった城郭は
攻める者にとって容易に近づける場所ではなかった。
この地をめぐる争いは、九州北部の勢力図を大きく動かす。
龍造寺氏の勢力が筑後へ広がると、
やがて九州南部から勢力を伸ばしてきた島津氏との緊張も高まっていく。
こうして九州の戦国は大きな転機へ向かう。
1584年、肥前の **沖田畷の戦い である。
この戦いで隆信は失墜し、龍造寺氏の勢力は大きく揺らぐことになる。
村中城が龍造寺再興の城であり、
水ヶ江城がその最盛期を支えた城であったなら、
柳川城は勢力拡大の最前線にあった城であった。
水郷の城下町に残る水路を眺めると、
かつてこの地が九州の覇権をめぐる戦国の最前線であった実感を持つ。
龍造寺隆信の勢力が拡大した時代を象徴する城――。
ここは **柳川城である。
日本100名城、続100名城ではないため公式スタンプなし

龍造寺隆信ゆかりの三城を巡って
肥前の戦国大名 **龍造寺隆信 の歩みは、
三つの城を巡ることでその姿がはっきりと浮かび上がってくる。
衰退していた龍造寺家を立て直し、
肥前の国衆を従えて勢力を回復したのは
佐賀城(戦国期の村中城)であった。
龍造寺政権の中心となったのが 水ヶ江城 である。
ここを拠点に肥前の統治体制を整え、
勢力を筑後や肥後へと広げていった。
「肥前の熊」と呼ばれた隆信の最も強かった時代である。
そして筑後の要衝 柳川城。
水郷の地に築かれたこの城は、龍造寺氏の勢力が
肥前を越えて九州北部へ拡大したことを象徴する城であった。
しかし、その先には、1584年の **沖田畷の戦い での最期が待っている。
龍造寺隆信の城を巡る旅は、
肥前の国人から九州北部の覇者へと成長した
一人の戦国大名の
興亡をたどる旅でもあった。
