水彩画と御城印で巡る 日本の名城 57 鎌倉、室町の時代から戦国へ ― 足利氏館、菅谷館、杉山城

武士の館は、どのように城へ変わったのか ― 足利氏館、菅谷館、杉山城をあるいてみた

関東には、天守や高い石垣を持たない城が数多く残っている。
 
土塁と堀に囲まれた方形の館。
川沿いの台地に築かれた城館。
山の地形を巧みに利用した戦国の山城。
 
それらを順に訪ねると、武士の住まいが、戦乱の広がりとともに堅固な城郭へ変わっていった過程が見えてくる。
 
今回は少し時代をさかのぼり、坂東武士の原点を伝える足利氏館と菅谷館、
そして戦国城郭の完成された姿を残す杉山城を訪ねる。
 
三城を結ぶものは、一人の城主や一つの合戦ではない。
 
そこに見えてくるのは、武士の館から戦国の城へと移り変わった、
関東の城郭の歴史である。

足利氏館 ― 鎌倉幕府の有力御家人であり後に室町幕府を開いた足利氏の発祥の地

足利氏館 室町幕府へつながった坂東武士の館(栃木県足利市)

足利氏館跡の内側には真言宗の寺院 **鑁阿寺(ばんなじ)が建っている。
そのため、城跡というより古刹を訪ねたように感じる人も多いだろう。
 
しかし、境内の周囲を歩くと、四方に幅約10mの水堀が巡り、
その内側には土塁が残っている。
 
一辺がおよそ二百メートルのほぼ方形の館で、
中世武士の居館の古い形をよく伝えている。
足利氏がこの地に館を構えたのは十二世紀後半とされ、
現在の鑁阿寺は、足利氏二代の義兼が館内に持仏堂を建てたことに始まると伝えられている。
 
足利氏は、**源義家の流れをくむ源氏の一族である。
 
鎌倉幕府の成立後は有力御家人として力を持ち、
やがて **足利尊氏が室町幕府を開いた。
 
のちに全国を治める将軍家へ成長した足利氏も、
その出発点は関東に根を張った坂東武士であった。
 
**足利氏館の構造は、後世の戦国山城と比べれば単純である。
 
四角い敷地を堀と土塁で囲み、その内部に居住や政治、信仰のための建物を置く。敵の大軍を長期間防ぐというより、
領主の生活と支配の中心としての役割が大きかった。
 
そして、この館の中に寺が築かれたことも興味深い。
 
武士にとって、戦いと信仰は切り離されたものではなかった。
館は暮らしの場であり、政治の場であり、
同時に一族の精神的な支えとなる場所でもあった。
 
現在の **鑁阿寺には、
鎌倉・室町時代以来の歴史を伝える建物や文化財が残る。
 
単なる歴史ある寺院にとどまらず、
武家屋敷の姿を今に残す城郭寺院としての稀有な歴史的価値を持っている。
 
堀に架かる橋を渡り、楼門をくぐると、
武士の館と寺院が一体となった独特の空間が広がる。
 
足利氏館は、華やかな城郭ではない。
しかし、この方形の館から、のちに室町幕府を開く一族が歩み始めたのである。
 
日本史の大きな流れにつながる重要な城館――
ここは **足利氏館である。
 
2022年11月6日 
日本100名城 No.15 足利氏館公式スタンプ取得

御城印は鑁阿寺本堂内寺務所にて拝受

菅谷館 ― 鎌倉時代の武将・畠山重忠の記憶を伝える城館

菅谷館 中世城郭の姿を極めて良好に留めた城(埼玉県比企郡嵐山町)

菅谷館は、武蔵国の有力武士の畠山重忠が居館を構えた地とされる。

畠山重忠は源頼朝に仕え、
源平の合戦や **鎌倉幕府の成立に活躍した武蔵武士である。
勇敢でありながら思慮深く、「武蔵武士の鑑」とたたえられてきた。
 
鎌倉幕府の **歴史書『吾妻鏡』には、
重忠が二俣川へ向かう際に「菅谷の館」を出発したことが記されている。
 
重忠は1205年、**北条時政らの策略によって謀反の疑いをかけられ、
わずかな兵とともに二俣川で討たれた。
 
武功を重ね、幕府の成立を支えた武将が、最後には幕府内部の権力争いによって滅ぼされる。
 
その悲劇的な生涯が、菅谷館を訪れる人々の心を引きつけている。
 
現在見られる菅谷館の堀や土塁は、
重忠が生きた鎌倉時代の姿がそのまま残ったものではない。
城郭遺構は約三百年後の戦国時代に整えられた菅谷城の姿であり、
発掘調査でも重忠の時代の館の明確な痕跡は確認されていない。
 
つまり菅谷館には、二つの時代が重なっている。
 
一つは、畠山重忠が生きた鎌倉武士の時代。
 
もう一つは、関東各地で争いが激しくなり、
館が本格的な城へ改修された戦国時代である。
 
菅谷館は、都幾川に面した台地上に築かれている。
 
南側は川に向かって切り立ち、東西には自然の谷がある。
内部には本郭、二ノ郭、三ノ郭などが配置され、
土塁と堀によって何重にも守られている。
虎口も直線的ではなく、曲がりや食い違いを設けて、
敵が簡単に進めないよう工夫されている。
 
**足利氏館が整った方形の居館であったのに対し、
**菅谷館には、自然の地形を取り込みながら防御力を高めた城郭の姿が見られる。
 
館から城へ。
 
その変化を実感できることが、**菅谷館の大きな魅力である。
 
城内には **畠山重忠の像が立つ。
 
重忠の確かな館跡がどこまで残っているのかは慎重に考える必要があるが、
この土地が長い間重忠をしのぶ場所として,
大切にされてきたことに変わりはない。
 
鎌倉武士の記憶と、戦国時代の城郭遺構が重なる、貴重な場所――
ここは **菅谷館である。
 
2022年11月6日 
続日本100名城 No.120 菅谷館公式スタンプ取得

御城印は埼玉県立嵐山史跡の博物館にて拝受

杉山城 ― 土だけで築かれた高度な防御機能を持つ戦国山城の傑作

杉山城 山内上杉氏の築城と推定される完成度の高い城郭遺構(埼玉県比企郡嵐山町)

 
菅谷館と同じ嵐山町に、杉山城がある。
二つの城は距離的には近いが、その姿は大きく異なる。
 
杉山城は、丘陵の尾根と斜面を利用して築かれた戦国時代の山城である。
 
城内には本郭を中心に、複数の郭、堀切、横堀、土塁、虎口が配置され、
城全体が一つの防御装置として巧みに組み合わされている。
 
登城路を進むと、道は何度も折れ曲がる。
 
正面へ進めるように見えても、堀や土塁に阻まれ、別の方向へ誘導される。
虎口へ近づけば、複数の郭から攻撃を受ける構造になっている。
 
しかも、杉山城には天守も高石垣もない。
 
土を掘って堀を造り、掘った土を盛って土塁を築く。
丘陵の高低差を利用し、敵の動きを制限する。
 
身近な土と地形だけで、これほど複雑で堅固な城を造ったことに驚かされる。
 
杉山城は保存状態がよく、その巧みな縄張りから
「城づくりの教科書」や「戦国山城の傑作」と評価されている。
2017年には続日本100名城に選ばれ、
菅谷館とともに多くの城好きが訪れるようになった。
 
一方で、誰が、いつ、何のために築いたのかについては、
長い間議論が続いてきた。
 
かつては、後北条氏の勢力下で築かれた城とする見方が広く知られていた。
しかし、発掘調査で見つかった遺物や城の構造などから、
十五世紀末から十六世紀前半、
山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った時期に築かれた可能性が指摘されている。
 
城主の名がはっきりしなくても、城そのものは多くを語る。
 
どこから敵が来るのか。
どの道へ誘い込むのか。
どの郭から攻撃するのか。
 
杉山城を歩くと、築城した人々が地形を読み、
敵の動きを考え抜いたことが伝わってくる。
 
足利氏館の単純な方形の堀から、
菅谷館の広大な土塁と郭、
そして杉山城の精巧な縄張りへ。
 
関東における土の城が到達した、一つの完成形といえる城――
ここは **杉山城である。
 
2022年11月6日 
続日本100名城 No.119 杉山城公式スタンプ取得

御城印は 嵐山町ステーションプラザ嵐なび にて拝受

館から城へ ―  足利氏館、菅谷館、杉山城を巡って

この三つの城は、同じ人物や一族によって結ばれているわけではない。
 
しかし、順に巡ることで、関東の武士と城館の変化が見えてくる。
 
**足利氏館は領主が暮らし、政治を行い、信仰を支えとした中世武士の館。
静かな寺院の周囲に残る水堀と土塁が、坂東武士の始まりを伝えている。
 
**菅谷館は、**畠山重忠の記憶を残しながら、
戦国時代に本格的な防御施設を備えた城へと変化した。
 
**杉山城は、複雑な堀や土塁、虎口を組み合わせ、
戦うことを第一に考えて造られた山城である。
土だけで築かれた複雑な縄張りが、戦国の緊張を今に伝えている。
 
武士の争いが限られた地域にとどまっていた時代には、
館を堀と土塁で囲むことで領主の拠点を守ることができた。
 
しかし、戦乱が広がり、より多くの兵が動くようになると、
城にはさらに強い防御が求められた。
 
自然の谷や川を利用し、郭を何重にも配置し、敵を狭い場所へ誘い込む。
 
城は、住まいから要塞へと変わっていったのである。
 
三城には、華やかな天守はない。
 
けれども、堀を渡り、土塁を見上げ、曲がりくねった虎口を歩くと、
武士たちが何を恐れ、何を守ろうとしたのかが見えてくる。
 
城の歴史は、石垣や天守だけに残るものではない。
関東の大地に刻まれた堀と土塁もまた、
武士の時代を静かに語り続けているのである。


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