水彩画と御城印で巡る 日本の名城15 九州戦国武将 大友宗麟
南蛮の風 大友宗麟ゆかりの城ーー大分府内城・岡城・臼杵城をあるいてみた
戦国時代の九州で、ひときわ独特の存在感を放った大名がいた。
豊後の国を本拠とした 大友宗麟 である。
大友氏は鎌倉時代以来、九州に勢力を持つ名門で、
室町時代には九州探題として広い地域を支配した家柄であった。
その伝統を受け継ぎながら、
宗麟の時代には九州北部から豊前・筑後、
さらには肥後の一部にまで勢力を広げ、
九州屈指の戦国大名へと成長する。
宗麟の時代を特徴づけるのは、戦国の争いだけではない。
16世紀半ば、ポルトガル人が日本に来航すると、
鉄砲やキリスト教、そして南蛮文化が九州にもたらされた。
宗麟はそれらを積極的に受け入れ、
自らも洗礼を受けたキリシタン大名として知られるようになる。
豊後の府内には南蛮船が訪れ、宣教師が往来し、教会が建てられた。
こうして府内は、戦国の日本の中でも
特に国際色豊かな城下町として栄えていく。
しかし一方で、九州の勢力図は大きく動き始めていた。
北では 龍造寺隆信 が勢力を広げ、
南では 島津義久 を中心とする島津氏が台頭してくる。
こうした激しい戦国の争いの中で、宗麟は豊後の国を治めながら、文化と外交、そして軍事の拠点となる城を築いていった。
南蛮文化の中心となった 府内城、
豊後南部を守る要害 岡城、
そして宗麟が築いた海の城 臼杵城。
三つの城を巡ると、
山と海に広がる豊後の領国と、宗麟の歩んだ戦国の時代が見えてくる。
府内城――海を通じて世界と交流していた城

豊後国の中心、府内の町に築かれた 府内城 は、
大友氏の本拠として知られる城である。
現在の大分市の中心部に位置し、
海に近い平地に築かれた平城で、
瀬戸内海へと続く府内湾に面していたことから、
海上交通とも深く結びついた城であった。
戦国期、この地を治めたのが 大友宗麟 である。
宗麟の時代、大友氏は九州北部に広い勢力を持ち、
九州有数の戦国大名として知られていた。
府内の町は、単なる城下町ではなかった。
16世紀半ば、ポルトガル人が来航すると、
豊後は南蛮貿易の重要な拠点となる。
鉄砲や海外の品々がもたらされ、キリスト教の宣教師も訪れた。
宗麟自身も洗礼を受け、キリシタン大名として知られるようになる。
府内の町には教会が建てられ、南蛮文化が広がっていった。
こうして府内は、当時の日本でも珍しい国際都市として栄える。
戦国の城下町でありながら、
異国の文化が行き交う独特の空気を持っていたのである。
城そのものは後の時代に整備された部分も多いが、
戦国期の府内は、大友氏の政治・軍事・外交の中心であった。
府内城は、戦国の争いの中で揺れ動く九州の中心にあった。
現在の府内城跡に立つと、
かつてこの地に南蛮船が訪れ、異国の文化が行き交った時代の面影を感じることができる。
戦国日本が海を通じて世界とつながっていたことを物語る城――
ここは**府内城**である。
2022年9月25日
日本100名城 No.94. 大分府内城公式スタンプ取得

岡城――阿蘇火砕流目台地に築かれた難攻不落の山城

豊後国の山あい、深い谷に囲まれた断崖の上に築かれた 岡城 は、
九州を代表する山城の一つである。
三方を断崖に守られた天然の要害で、
巨大な石垣と曲輪が連なるその姿から、
古くから「難攻不落の城」として知られてきた。
この城は源義経を迎えるために築かれたという伝承も残る古い城であるが、
戦国時代には豊後の戦略拠点として重要な役割を担うようになる。
この城を支配していたのが、
豊後の戦国大名 大友宗麟 の家臣である志賀氏であった。
岡城は豊後南部を守る要衝として、大友氏の防衛を支える城でもあった。
16世紀後半になると、九州では勢力争いが激しくなる。
特に島津氏は九州南部から北へと勢力を拡大し、
大友領にも迫るようになる。
こうした緊張の中で、
岡城は豊後を守る重要な拠点として位置づけられていた。
断崖の上に築かれた岡城は、攻める者に険しい登城を強いる。
谷を越え、石垣を越え、
曲輪を進まなければ本丸にたどり着くことはできない。
島津軍の猛攻を三度撃退し、「難攻不落」の名を確立したという。
その堅固さは後世にも語り継がれ、
この城跡はのちに作曲家 滝廉太郎 が
名曲「荒城の月」を生み出す舞台ともなった。
静かな山上の城跡に立つと、
柵のない断崖絶壁の石垣が続き、
「石垣の芸術」と呼ぶべき壮大さに圧倒され、
九重連山・阿蘇山を望む大パノラマに魅了される。
かつてここが戦国の九州を守る要害であったことが実感できる。
豊後を守る最後の砦として、大友氏の歴史を今に伝えている城――
ここは**岡城**である。
2023年3月5日
日本100名城 No.95. 岡城公式スタンプ取得

臼杵城――港と一体となった城

豊後国の臼杵湾に面した小島、丹生島に築かれた 臼杵城 は、
海に囲まれた独特の構造を持つ城である。
周囲を海が取り囲み、干潮時には陸とつながるこの立地は、
戦国期には天然の堀となる防御を備えていた。
こうした特徴から、臼杵城は典型的な海城として知られている。
この城を築いたのが、豊後の戦国大名 **大友宗麟 である。
宗麟は1562年頃、海上交通の要衝である臼杵の地に城を築き、
本拠を府内から移したとされる。
海に囲まれた丹生島に築かれた城は、防御に優れていただけでなく、
港と一体となった城でもあった。
宗麟にとって臼杵城は、軍事拠点であると同時に、海を通じた外交や交易の拠点でもあったのである。
やがて九州では勢力争いが激しくなり、
豊後の大友氏もまた大きな戦乱の中に巻き込まれていく。
その中で、臼杵城は、大友宗麟の晩年を支える重要な城となる。
現在の臼杵城跡には、石垣や櫓が残り、往時の姿を今に伝えている。
かつて海に囲まれていた城跡に立つと、
戦国の海とともに生きた城の姿を感じることができる。
戦国の九州において海とともに築かれた城――
ここは**臼杵城**である。
2023年3月5日
続日本100名城 No.193. 臼杵城公式スタンプ取得

大友宗麟ゆかりの三城を巡って
豊後の地に勢力を築いた 大友宗麟 の歩みは、三つの城を巡ることでよく理解できる。
まず政治と文化の中心となったのが 府内城 である。
府内の町には南蛮船が訪れ、宣教師が往来し、教会が建てられた。
戦国の城下町でありながら、海外の文化が行き交う国際都市が生まれた。
一方、山あいの要害として豊後南部を守ったのが 岡城 である。
断崖と深い谷に囲まれたこの山城は、豊後を守る堅固な防衛拠点として大友領を支えていた。
そして海に浮かぶ城、臼杵城。
宗麟が築いたこの海城は、海上交通と港町を背景にした戦略の城であり、宗麟の晩年の拠点ともなった。
三つの城を巡ると、大友宗麟の領国の役割が見えてくる。
