水彩画と御城印で巡る 日本の名城 58 関東の名族が築いた土の城 ― 真壁城、結城城、本佐倉城
土の城に刻まれた名族の城 ― 真壁城、結城城、本佐倉城をあるいてみた
関東の中世城郭には、天守や高い石垣がない城が多い。
その代わりに、大地を掘って造った空堀があり、
掘り上げた土を盛った土塁がある。
川や湿地、わずかな高低差まで防御に取り込み、
敵を容易に近づけない工夫が施されている。
今回は、常陸から下総へと進み、**真壁城、**結城城、**本佐倉城を訪ねる。
三城を築き、守った **真壁氏、**結城氏、**千葉氏は、
いずれも鎌倉時代以来、関東に根を張った名族である。
大勢力の陰に隠れがちな城ではあるが、堀と土塁を歩けば、
その土地を長く治めた一族の歴史が浮かび上がってくる。
真壁城 ― 鎌倉時代以来この地域に勢力を持った真壁氏の居城

真壁城は筑波山系から西へ延びる微高地に築かれた平城で、
広い田園の中に堀と土塁が残っている。
ここを本拠とした真壁氏は、平安時代末から戦国時代まで、
およそ四百年にわたってこの地域を治めた。
鎌倉幕府の成立以前から続く、常陸を代表する武士の一族である。
真壁城の大きな特徴は、
本丸を中心に何重もの堀と土塁を巡らせていることである。
城域は国指定部分だけでも約12.5ヘクタールに及び、
本丸を取り囲む四重の堀、土塁、土橋などが残っている。
高い山や断崖に頼らず、平地に大規模な防御線を築いた城であった。
城跡を歩くと、広い曲輪が堀によって区切られていることがわかる。
土を大きく掘り動かすことで守りを固めた、関東らしい平城である。
真壁氏は、南北朝時代には南朝方の北畠親房に従ったこともあり、
その後は関東の情勢に応じて佐竹氏や小田氏などと関係を結んだ。
戦国時代になると、常陸では佐竹氏が勢力を拡大する。
真壁氏もその影響を受け、
やがて佐竹氏の有力な家臣として行動するようになった。
豊臣秀吉の天下統一後も真壁氏は存続したが、
1602年に佐竹氏が秋田へ移されると、真壁氏も常陸を離れた。
長く一つの土地に根を張った一族の支配は、ここで終わったのである。
現在の真壁城跡には、建物は残っていない。
しかし、広い曲輪と深い堀をたどることで、
城全体の大きさと構造を実感できる。
また、真壁の町並みは、
真壁城の城下に形成された中世以来の町を起源としている。
城跡だけでなく、町そのものにも領主と城の歴史が受け継がれている。
四百年にわたって地域を治めた真壁氏と、
その暮らしを支えた城下町の記憶を伝える城――
ここは **真壁城である。
2022年11月6日
名城指定ではないため公式スタンプなし

結城城 ― 十八代、約四百年にわたってこの地を治めた結城氏の城

結城氏の祖 **結城朝光は、源頼朝に仕えて鎌倉幕府の成立を支えた。
朝光が結城に館を構えて以来、
結城氏は十八代、約四百年にわたってこの地を治めた。
現在、城跡の一部は城跡歴史公園となっている。
遺構は真壁城や本佐倉城ほど明瞭ではないものの、
曲輪、空堀、虎口など、中世城郭の痕跡が残されている。
結城城の歴史を語るうえで欠かせないのが、
1440年に始まった **結城合戦である。
鎌倉公方 **足利持氏が幕府との争いに敗れて自害すると、
その遺児たちを **結城氏朝が城へ迎え入れた。
これに対し、室町幕府は関東各地の武士を集めて結城城を包囲した。
結城城は、幕府軍を相手におよそ一年にわたって籠城を続けた。
城は北西から南東へ延びる長方形で、内部は複数の曲輪に分けられていた。
石垣を持たない土の城でありながら、
長期の籠城に耐えられる堅固な構造を備えていた。
しかし、結城城はついに落城し、氏朝は討たれた。
結城氏はいったん断絶する。
それでも一族の歴史は終わらなかった。
のちに結城氏は再興され、再びこの地を本拠として戦国時代を生き抜いた。
戦国末期の当主 **結城晴朝は、
**佐竹氏、**小田氏、**宇都宮氏、**小山氏など周辺の勢力と戦いながら、
本領である結城を守った。
さらに上杉氏と後北条氏が関東へ進出すると、
その間で立場を選びながら家名の存続を図った。
1590年、**豊臣秀吉の小田原攻めに従った晴朝は、
**徳川家康の次男 **秀康を養子に迎える。
**秀康は結城氏十八代当主となったが、1601年に越前へ移され、
結城氏による約四百年の支配は終わった。
その後、結城城はいったん破却されたが、
江戸時代中期に **水野氏によって再建され、
明治維新まで藩の城として使われた。
一年に及ぶ籠城戦、断絶からの再興を経験した城――
ここは **結城城である。
2022年7月4日
名城指定ではないため公式スタンプなし

本佐倉城 ― 戦国時代の千葉氏が本拠とした城

本佐倉城を居城とした **千葉氏もまた、
**源頼朝を支えて **鎌倉幕府の成立に貢献した、
関東を代表する名族であった。
**室町時代になると、一族内部の争いや関東の混乱によって、
千葉氏の勢力は大きく揺らぐ。
文明年間に **千葉輔胤が新たな本拠として築いたのが本佐倉城である。
城は印旛沼南岸の台地上にあり、現在は陸地が広がっているが、
かつて城の周囲には湿地が入り込み、
台地そのものが天然の要害となっていた。
城内は十の郭からなり、城山、奥ノ山、倉跡などが中心部だったとされる。
土塁や空堀の保存状態もよく、戦国期の大規模な土の城を今に伝えている。
城山は、城主の生活や政治の中心だった場所と考えられる。
奥ノ山には、儀式や接客に使われた建物があったとみられている。
さらに倉跡や家臣団の居住区域もあり、
本佐倉城が単なる戦闘のための要塞ではなく、
領国を治める政治都市でもあったことがわかる。
本佐倉城では、堀の深さと土塁の高さだけでなく、郭の配置にも工夫がある。
曲輪と曲輪の間は深い空堀で切り離され、虎口へ向かう道は折れ曲がる。
敵は進路を変えるたびに足を止められ、周囲から攻撃を受ける。
真壁城が平地に幾重もの防御線を築いた城なら、
本佐倉城は台地と谷、湿地を組み合わせて守りを固めた城である。
十六世紀前半には、後北条氏が千葉氏への影響を強め、
本佐倉城も大規模に改修された。
現在見られる城の形は、この時期にほぼ完成したと考えられている。
千葉氏は九代、約百年にわたって本佐倉城を本拠とした。
しかし1590年、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏が滅びると、千葉氏も所領を失い、本佐倉城は大きな役割を終えた。
長く下総・上総の政治、経済、文化の中心だった城は、
やがて静かな台地へ戻っていった。
現在も広い城域を歩けば、深い空堀と土塁が次々に現れる。
は戦国大名の本拠にふさわしい規模と機能を備えた下総を代表する城郭――
ここは **本佐倉城である。
2022年12月10日
続日本100名城 No.121 本佐倉城公式スタンプ取得

関東に古くから根を張った名族の三つの城を巡って
真壁城、結城城、本佐倉城。
三城はいずれも、関東に古くから根を張った名族の本拠だった。
**真壁氏は常陸の一地域を約四百年にわたって治めた。
**結城氏は落城と断絶を経験しながらも再興し、再び本領を守った。
**千葉氏は本佐倉城を中心に、戦国期の下総を支配した。
三城には、天守も華やかな御殿も残っていない。
それでも、堀の底を歩き、土塁を見上げ、曲輪から周囲の土地を眺めれば、なぜそこに城が築かれたのかが見えてくる。
城は領主の住まいであり、戦いの備えであり、地域を治める中心だった。
そして城主が去った後も、道や町並み、土地の呼び名の中に、その記憶は受け継がれている。
**真壁城、**結城城、**本佐倉城。
三つの土の城を巡ることは、関東に根を張った名族と、
その一族を支えた土地の歴史をたどる旅でもある。
石垣や天守だけが、名城の価値を決めるのではない。
大地に刻まれた堀と土塁もまた、長い時代を生きた人々の歩みを、
今に静かに伝えているのである。
